第31話 悼みし春に


春の日差しの中、


三角のいなり寿司の様な耳をピンピンと動かしながら眩しそうに瞼を細めるので。


胸元の毛をやんわりと梳いてやると黒い鼻をひくつかせて。


「オトウサン、気持ち好いよ気持ち好いよ」とドロボウ顔を近づけるので…… 。


ずっとこれから先もこんな風に、毎年毎年暖かな日差しの中、


換毛期のブラッシングの煩わしさを嘆きながら、


おまえののんびりとした仕草に癒されながら、


おまえもオレもまだまだ愉しい時間を過ごしてゆけると疑いもしなかったのに…穏やかな春なのに……


ああ、その日だけは雨。空も空気も地面も滲んで肌寒い日におまえは旅立った。


お別れのコトバは何一つ浮かばずに名前だけを何度も繰り返し花を手向けた後もずっと撫でていたい背中。


冷たく固まったその背中の感触が断ち切るんだよと伝えているのに。


今、もう直ぐあの伸びをしてこちらを振り向いて「オトウサン、お腹空いた」と耳を掻きながら鼻面を向けてくるんじゃないかと両手を差し伸べたい気持ちで溢れてしまった……。


でも、だけど、おまえを載せた飾り気のない匣は暗がりの奥へと静かに消えて行ってしまった。


少しの間、おれはその暗がりを見つめて佇んだ。手品の様にドラムが鳴るんじゃないかと。ショーの出し物の様にスポットライトに照らされて、おまえが走って現れるんじゃないかと…そう、すべては悪い夢じゃないかと……。



今日、空は青く高く、緩やかな風にセンダンの木の葉は戯れ、カラスが騒ぎ庭をネコが行き過ぎる。


それはおまえが好きだった風景。耳も鼻も人なんかよりたくさんの季節の営みを感じてたんだろう。


「オトウサンは鈍いからね、ワタシがおしえてあげるの」


のっそりと歩きながら振り向く。


「あ、ほら今、オトウサン今ねアソコ‥つぼみ開いたからオトウサンあの花好きでしょ」得意気な顔を揺らす。


春の花、夏の草、畑の散歩道、干物の臭い、白いソファー、ほどけた編み込み玩具、子ども達の汗やよだれ。


おまえの好きだった音や匂い。


おまえがいない以外何も変わらない日常。


おまえがいない以外何も変わらない日常の

その寂寞感。


おまえは おまえはあの高い塔の穴から微かな揺らぎとなって何処へ行ったんだ。

家を探しているのかい。

走り回っていても突然立ち止まっては辺りを見回していたね。

ここだよ、みんなここ。大丈夫、置いていかないよ。ちゃんとつれて帰るから。

 

おまえの白い骨をつまんだ時の、

サクサクとカサコソと余りにも軽い音が、

心にはあまりにもずっしりと重く、

短かった三年に満たない日々を、

おまえを抱えた時の重さを想いおこさせる。


 

病院へ行く時はいつも後ろのラゲッヂで硬直する恐がりのおまえが、「早く降ろして」と脚をこわばらせ足を地につけた途端に吠えて抗議する。


車に弱く三キロも走れば必ずもどした。


マンガのキャラクターの様にどんよりとしてアゴをおとして上目使いに、「やだよやだよ…車嫌い」と瞳を潤ませていた。


「大きな柴犬」と揶揄されて、秋田犬にしては小柄な体躯をネコの様に丸めて、「なんでこんなの乗るの?オトウサンのバカ」

初めて来た日もしょげていた。

気持ち悪かったんだな。


先住犬はシーズー爺さんとプードル姉ちゃん。


ナッツ姉ちゃんとは毎日怒られていたね。

直ぐに顔を近づけていつもの上目使いで、「オトウサン聞いて。ワタシ遊んでもらいたいだけなの」と一声嘆く。

プードルの姉ちゃんはまったり屋だけど怒るとコワい。体は大きいけどお姉ちゃんには負ける。


袋の音にはふたりとも敏感。隣の部屋にいても聞きつける。


「きっとこの音はアソコにあったアレを開ける音」


「煮干し好きだけど、お腹ヨワいからたまにしかもらえないの」


散歩コースはショート、ライト、レギュラー、ミディアム、ロングの五種類。


「もっと散歩にいきたいな〜」

帰り道では家の前をスルーする。


「オトウサン好き。舐めてあげる。靴履かせてくれるから。栗のイガ嫌い。側溝の網蓋痛い。ガラスいつまでも痛いよ。ワタシもしもやけなるんだよ」


「雪は楽しいね。ほらほら飛び散るよ。埋もれるよ。オトウサンこっちへおいでよ。楽しいよ。でもなんでこんなに冷たいの」


夜はコタツから出てこない。


夜9時には就寝モード。寝床の部屋を消灯しないと露骨に嫌な顔をする。


帰り道に色々と思い出す。



テーブルの上にコトッとおまえを置いた。帰ってきたよ。お家だよ。


カーテンと窓をを開けて空気を入れ換えようか。


クルミ、ごらんよ。

シャクナゲもクレマチスも咲いたよ。ほらモッコウバラは満開だよ。隣りのネコが通り過ぎるよ。暖かいね。おまえの散歩道はトラクターが大忙しさ。


「オトウサン、ワタシ知ってる だって一緒に見てるから」


ふんわりとおまえの尻尾が右腕を撫でた。



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