2 甘いお菓子のおねだりですか? その1


張宇ちょうう、少しよいか?」


 一日中、馬車に乗り、進めるところまで進んだ町で見つけた高級宿の一室。

 夕食の後、宿の湯殿でひと風呂浴びてきた龍翔は、留守番の張宇に声をかけた。


 ちらりと視線を向けた先は、ぴったりと閉められた内扉だ。向こうから、明珠がかんぬきをかけているに違いない。もし、万が一かけていなかったら説教しなくては。


 扉の向こうでは、明珠がたらいに汲んできた湯を使っているはずだ。


 高級な宿ならば、内湯を備えている宿も多い。龍翔も先ほど季白きはく達と入ってきたところだ。


 明珠も女湯に入れてやりたいが……男装している明珠を女湯にやるわけにはいかない。

 そのため、たらいに湯を汲んだものを部屋に運ばせているが、明順はあれこれと不便や苦労をかけてばかりだ。申し訳ない気持ちになる。


 龍翔は張宇を廊下へ呼び出した。

 部屋を無人にはしたくないが、すぐに一緒に風呂へ行った季白達が戻ってくるだろう。


 季白に張宇との密談を知られると面倒だ。


「どうかなさったのですか?」

 素直に龍翔の指示に従い、張宇が廊下へ出てくる。


 思えば、こうして張宇と二人きりで話すのは久しぶりだ。

 乾晶けんしょうで、明珠に心臓が潰れそうなほどの心配を味あわされてからというもの、龍翔はできる限り、明珠のそばを離れないようにしている。


 常に龍翔がそばにいられたらよいのだが、さすがに無理な時もあるため、風呂の時など、龍翔がそばにいられない時には、張宇に、くれぐれも明珠から目を離すなと厳命している。


 あのお人好し娘は、自分以外の者のためにどんな無茶をしでかすのか、まったく予想がつかない。


 もう、全身が凍えるようなあんな想いを味わうのは、二度と御免だ。


 明珠を一人にしたくないという想いを曲げてまで、張宇を密かに呼び出した理由は。


「……張宇。お前も、ここ数日、明順の元気がないのに気づいていたか?」


「はい……。日中、俺は御者台におりますので、なんとなくですが……」

 張宇の穏やかな顔が、気遣わしげにひそめられる。


「龍翔様は、明順が元気のない理由を、ご存知でいらっしゃるのですか?」


 張宇が心配そうに問う。

 もし、明珠の憂いを晴らす方法があるのなら、すぐに動き出しそうだ。

 気持ちはすっかり明珠の兄代わりらしい。だからこそ、龍翔も相談の相手に張宇を選んだのだが。


「張宇。一つ、頼みがある」



 ◇ ◇ ◇


「明珠お嬢様。こんな時刻に申し訳ございません。少しよろしいでしょうか?」


 ひそやかに内扉を叩かれ、ちょうど夜着の帯を締めていた明珠は驚いた。


「は、はい! ちょっとお待ちください」

 扉の向こうへ、あわてて声をかける。


 声の主は、最近、一行に加わった周康しゅうこうだ。明珠を「お嬢様」などと呼ぶ人物は、周康しかいない。


 明珠がいくら固辞しても、周康は明珠や龍翔達しかいないところでは、かたくなに明珠のことを「お嬢様」と呼ぶ。明珠としては、居心地が悪いこと、この上ない。


 明珠は周康の師であり、術師を統べる名家・蚕家さんけの当主・遼淵りょうえんの娘だが、正妻の子どもではない。つい三ヶ月ほど前までは、遼淵に存在すら認知されていなかった隠し子だ。


 そのため、自分は決してお嬢様などではないと、何度も周康に説明しているのだが。


「いいえ。遼淵様は、明珠お嬢様のことを、娘と認めてらっしゃいます。遼淵様を師と仰ぐわたくしが、どうして明珠お嬢様を無下に扱うことができましょう?」


 整った顔を哀しげにしかめて、「ご迷惑ですか?」と問われては、明珠も「困ります!」と強硬に反対できない。

 内心では、本当に心の底から遠慮したいのだが。


 安理あんりなどは、けらけらと明るく笑って、


「せっかくお嬢様扱いしてくれるっていうんなら、甘えたらいーじゃん。周康サンって、実力は確かみたいだしさ。有望株じゃん? 親しくしといて、損はないと思うよ~?」


 なとど気楽に言うのだが。


 明珠にしてみれば、そんな立派な人が明珠などに気を遣うなんて、逆に申し訳ない気持ちになる。


 それにしても、夕食も食べ、風呂にも入り、後は寝るばかりというのに、いったい何の用だろう。


「今、開けますから」


 帯を締めて内扉へ歩きかけ――仕立てがしっかりしているとはいえ、さすがに夜着は失礼だろうと気づく。

 が、今から着替えては待たせ過ぎる。仕方なく、さっきまで着ていたお仕着せの上衣を羽織る。これなら、人前に出れないこともないだろう。


「すみません、お待たせしました」


 湯を使う時は絶対に、しっかり掛けろと龍翔に厳命されているかんぬきを外し、内扉を開ける。


 他の者はまだ内湯から帰ってきていないらしい。いたのは周康一人だった。珍しく、いつも隣室で控えている張宇の姿もない。


「申し訳ありません。こんな時間に」

 周康が丁寧に頭を下げる。


「いえ、かまいませんけれど……。どうかなさったんですか?」

 小首を傾げると、周康が、


「入らせていただいても?」

 と遠慮がちに問う。もちろんです、と頷き、明珠は一歩退いた。

 入ってきた周康が、ぱたりと内扉を閉める。


「何かあったんですか? あの、龍翔様でしたら、まだお風呂から戻ってらっしゃいませんが……?」


 部屋の中ほどにある卓へと招きながら尋ねると、苦笑が返ってきた。


「いいえ。わたしがお話ししたいのは、明珠お嬢様です」

 周康の整った顔に心配そうな表情が浮かぶ。


「明珠お嬢様。最近、何かお悩みではありませんか?」

「えっ⁉」


 予想していなかったことを問われ、絶句する。

 会って間もない周康に心配されるほど、ここ最近の明珠は、あからさまに沈んでいたのだろうか。


 なんと答えればよいか悩んでいると、周康が一歩踏み出した。


 卓には座らず、立ったままの周康の両手が、立ちすくんだ明珠の右手を、そっと取る。


「お嬢様。わたしは、龍翔殿下に仕えるよう、遼淵様に遣わされた身ですが、その際に、お嬢様のことも申しつけられております。龍翔殿下にお仕えする中で、もしお嬢様に困ったことがあれば、力添えをするように、と……」


 周康が、明珠の手を握った指先に、力をこめる。


「まだ会ったばかりのわたしに、お悩みをこぼすのは難しいと、重々承知しております。ですが、わたしはお父上からお嬢様のことを託されているのです。どうか、お嬢様のお心の一端なりとも、わたしにお教えくださいませんか?」


 真摯しんしな声。熱意をこめたまなざしに、じっとのぞきこまれ、明珠は戸惑う。


「そ、その。ご当主様が、私などを気にかけてくださっているのは、本当にありがたいです……」

 当惑しながら呟く。


 強引な性格をしていたが、遼淵は悪い人には見えなかった。周康に明珠のことまで気を遣うように言ってくれたなんて、やっぱりいい方だと思う。けれど。


「で、でも、周康さんにご迷惑をかけるわけには……」


 そ、っと左手で周康の両手を外そうとすると、逆に左手も掴まれた。


「何をおっしゃいます」

 周康が視線を明珠に合わせ、ゆっくりとかぶりを振る。


「わたしに遠慮などいりません。そもそも」

 周康が、柔らかに微笑む。


「これは、わたしなりの恩返しでもあるのです。ずっと昔……。まだわたしが幼かった頃、麗珠れいしゅ様には、大変お世話になったのです」


「母さんにですか……?」


 五年前に病死した明珠の母・麗珠は、蚕家に所属する優秀な術師だったらしいが、明珠を身ごもった時に、蚕家の家督争いから逃れるために、出奔している。

 出奔してのちも、術師として困った人々のために働き、明珠の術の師でもある母親は、明珠の憧れの存在でもある。


 驚く明珠に、周康は柔らかな笑顔で頷く。


「ええ。麗珠様は、誰にでもお優しい方でしたが、特に子どもには優しく、可愛がっていただいたものです。よくお菓子などをくださって……」


「お菓子……」


「ええ。麗珠様は甘いものがお好きでいらっしゃいましたから。明珠お嬢様も、お好きでいらっしゃいますか?」


 周康が楽しげに尋ねる。


「は、はい! 大好きです! あまり食べられる機会はありませんけれど……」

 こくこくと頷くと、周康が破顔した。


「お嬢様は、お優しいところやお美しいところだけではなく、お可愛らしいところまで、麗珠様に似てらっしゃるのですね」


「ふえっ⁉」


 あまりに予想外のことを言われ、すっとんきょうな声が出る。周康が笑みを深くした。


「お嬢様がお好きなのでしたら、菓子など、いくらでもお贈りしましょう。麗珠さまのお好きだった菓子を食しつつ、思い出話に花を咲かせるのも、楽しいに違いありません」


 周康がさりげない動作で、握ったままの明珠の手を持ち上げる。


 長身をかがめ、恭しく手の甲にくちづけようとし――。


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