第10話 小さなライバル

時を戻せるならば…


「きっとやり直せる。」


そう思うこと、生きていれば何度もあるだろう。

振り返れば、いつも「成長と進歩」は失敗、困窮、五里霧中…、苦悩あってこその収穫だった。。


あの日、あの場所で「右」に曲がった自分が今ここにいる。「左」に曲がっていたらどんな自分になっていたのかとふと思いに耽るけど、頭の中に広がる幾つかの「虚像」は、いつも決まってグラスの中の泡のように細かく砕けて消えて行く。それでいい。。


人との出会いは人生に厚みをもたらす。ただ、その時に「自分」を持っていないと流され遠回りが過ぎることになる。


この「人」と出会うために別れがあった。。

この「人」と出会うためにこの地に来た。。

この「人」と出会うために生かされてきた。。


人生で経験して来たことには全て意味があると言うが、どうやらそれは「正解」だと気が付いたのは幾つになった頃からだろうか。。

全てのことの最終結果は「成功」しかないことを学んだ。

たとえ失敗したとしてもそれは「過程」に過ぎず、その過程を繰り返すことで学習し、より正しく大きな「成功」に至る。

もし「失敗」があるとすれば、それは残念ながら目標を諦め、失敗を「結果」として受け入れてしまった時の審判だと知ることが、ようやく出来る歳になった自分がここにいる。


子供の頃、上手くいかないと悲しさや苦しさに覆われてモチベーションも奈落の底まで落とされてしまった。上手くいくことが筋で、そのデフォルトから学ぶ前に落胆という感情に支配されてしまう。

歳を重ねたせいか、壁にぶつかることが必然だと理解し、特にステップアップや「新しい扉」を開く時にはその壁を素直に受け入れられ、障害を乗り越えることで得られる「回答」の達成感が嬉しくて楽しい。努力は必要だが、苦労とはあまり付き合わないほうが自分らしくいられる。



1993年9月

元号が昭和から平成に変わり三年があっという間に過ぎたこの年、試合中に起きた不慮の怪我から復帰した栄一の新たな選手としてのスタートはワイルドカードと言う徳寿で出場する大舞台であった。


彩との甘く刺激的、そして感傷的な出来事がまだ昨日のことのように、手のひらを見るたびに彩の温もりの実感が蘇る今日、されど二週間も時間が経ったことを不思議に思う。そして栄一は本来の一番「栄一らしい」姿と場所に立つ。

彩の顔がいつも頭の中にあることを栄一は心強く思っている。


(彩、今日の俺はどう?)


国内チャレンジャー大会『慶應チャレンジャー国際テニストーナメント本戦』。

ドロー会議では「幸か不幸か」初戦が第2シードの冴島真吾プロとの対戦に組まれたこの大会、緊張や怖じ気付きなど微塵もなく栄一のとって清々しいほど意気揚々と挑んだ復帰第一戦。

冴島の実力は、3年ほど前には「冴島無双」とまで日本のプロテニス選手たちに言わしめるほど、全日本、全日本室内を筆頭に各都道府県のツアートーナメント、フューチャーズ大会、ATP250への出場も幾度と果たし上位入賞、国内大会では敵無しの圧倒的な強さを知らしめ堂々たる姿と結果で君臨していた。

今でこそ追随する選手たちに追いつき追い越された感があるものの、長身から繰り出されるキレキレのスライスサーブや、まるでスマッシュで叩き込まれたかと錯覚するほどのフォアハンド、コートのどの位置からでもエースが狙えるアグレッシブなショットの強靭さとクオリティー、攻めているサイドが一瞬で切り替わる多彩なショット選択、国内で日本人選手だけの対戦経験しかない選手では対戦してみると次元の違いすら感じさせられるほどの「大差」のものだと評される。。だが、メンタルが下がらずとも肉体は正直なところ、今年31歳になった冴島の筋力の衰えは、瞬発力や持久力を著しく低下させていると自他共に認めざるを得ない。ここ数年で冴島のパフォーマンスは、有識者でなくとも全盛期に比べて「一流」には陰りが隠しきれないレベルに落ちていると聞く。されど、現状の実力はまだまだ栄一よりも格段上なのだろう。


「百戦錬磨」経験こそ時間とキャリアの賜物である。


栄一は試合中に起きた不慮の事故からのブランクでも緊張などほとんど無く、むしろ久しぶりの大会に胸を躍らせているようだ。

昨今の冴島のゲームを録画で見る機会があり、参考までに一部拝見したがまだまだどうして、ショットのパワーとキレ、そして俊敏なパフォーマンスは、やはり日本のトップクラスに相当するものを感じると栄一は腕組みをしながら考えた。目線の遠く先にはしなやかに歩くスタイリッシュな女性が連れているゴールデンレトリバー、お行儀良く並走しているのはお互いが信頼し合っている様に見える。


(まともにぶつかりあってはコーチとジュニアくらいの差…かな。)


ならば「頭脳プレー」と考えたいところだが、栄一の性格上相手の実力やタイプは後回し、先ずは自身の得意なショットやプレーをお披露目、それが冴島プロをどこまで「本気」にさせられるか…。


(俺の実力が大将にどこまで通用するのかな。でもイメージは出来てる。骨を折られるくらいは覚悟しないと。でもイメージ通りに行けば楽しい試合になりそうだ…。)


自分よりも大柄な愛犬を連れた女性がリードを両手で掴んで散歩している。綺麗にブラッシングされたゴールデンの毛なみは歩く度にその金色のブロンドがなびき、太陽に反射して眩しいくらいだ。


栄一は彩の存在で心情が大きく変化している。心強さの中に使命感すら覚える感情。。これが後に後ろ盾となるか否かは、今の栄一には知る由すらなかった。


(下克上なるかな。。でもね、負けて失うものなど何一つないってことが最強ってこと。)


天候はよく晴れて風もなく、日差しが強く相変わらずジメッとした湿度の高い日だった。ここ慶應義塾大学日吉キャンパス内の蝮谷テニスコートを各選手の取り巻きや応援団、通信機器を担いだメディアの一陣、スーツに身を包んだ各スポンサーの役職たちが試合の開始を待ち会場内は活気に満ちている。もちろん、栄一の応援にいつものジュニア時代からの先輩や後輩、そして指導からは身を引いたがいつも練習の相手をしてくれる馴染みのコーチ達、武蔵野テニスクラブの同僚、秋元の顔も早々に確認出来ていた。きっと彼らは今日の試合で栄一が「大金星」を上げてくれることを期待しているに違いない。

肝心の彩の存在は今のところ見えない。彩のスケジュールは午前中どうしても外せない大学の授業があるため、終わり次第日吉に向かうとのことだった。

ウィンブルドンの本戦クラスならば、授業をサボってでも応援に来てくれることを期待したいが、今日のステージではまだまだ本業の学業を優先していただきたいのが栄一の本音でもある。

それでも栄一は心なしか彩の到着を待ちわびているものの、今は冴島プロに対するプレーの攻略方法を出来るだけ鮮明にイメージすることが勝っているようだ。


栄一の精悍でいて少しはにかむような笑顔は女性ファンを増やし、その中には「にわかファン」が栄一見たさに訪れていると耳に入り、センターコートに集まった観客の年齢層を見れば分かるほどだった。スポーツ誌のみならずファッション誌や情報誌までもがこぞって取り上げたほどだった。実力があってビジュアルが良ければ、申し分なく画になる。『久しぶりにテニス界からヒーロー誕生!』、こんな見出しさえ出す出版社もあったほどだ。


センターコートの第1試合に用意された大一番、冴島にとっては「市川栄一」と言う新鋭の噂を聞きはするものの、推薦枠入りの実力を堪能するくらいに思っている程度だろうか。。かと言って、栄一が冴島に対して臆することもなく、後の展開がそれを証明し冴島の思惑に誤算があることになる。


栄一はエントリー時間の1時間前に慶應大学に入り、エクササイズをはじめ一通りのワークアウトをこなす。軽く体を動かしただけでも全身から汗が吹き出し、試合開始前にシャツから下着まで全てを着替える必要があった。

今日の栄一は、ウェアカラーを上下共「白」に統一している。普段からウェアはモノトーンを好み「黒」を着ることがほとんどなのだが、今日は晴れ舞台をイメージし白装束にまとめてみたが、これにはスポンサーの要望もあってのことだった。

Tシャツ、短パン、ソックス、シューズ、全て白地にメーカーマークのワンポイント、まるでウインブルドンに出場したかの正装のよう、褐色に焼けた肌に白が映える。耳にイヤフォンを付けて試合前のルーティーン、お気に入りのビートで気分を盛り上げる。エミネムのラップが栄一の闘志に油を注ぎ、リングに上がる最後のブラッシュアップに持ってこいのチョイスだ。音量を上げてコートに向かう表情は明るく、軽くリズムを踏んでいる。


そんなイデタチでコートに入ってきた栄一、夏の強い日差しに照らされて褐色の肌の生毛が金色に輝いている。


画になる男だ。


マスコミも過敏に反応しテレビカメラと記者たちのカメラが一斉に栄一のあとを追い、目まぐるしいほどのフラッシュの連続はまるで映画スターのようだ。はにかむ栄一の微笑みには、実力や結果を出す前にこんなに盛り上がってしまうことへの照れもあるようだ。

観客たちが拍手と共に歓声を上げる。口笛や指笛を吹く級友たちに、一部ではあるが見ず知らずの女性たちや制服を着た女子学生たちも、まるでアイドルの登場のようにはしゃいでいる。

そんな派手な登場の後から地味にコートに入った冴島は少し苦笑いを浮かべながら栄一に向け口元だけ微笑む。


(最後に笑うのは誰かな…?)


そんなことを考えているような表情にも見える。

ただ、人気というタイトルでは確実に冴島に圧倒的な大差をつけて栄一が高々とトロフィーを掲げていることには疑うものもいないだろう。


コートサイドのベンチにラケットバックとサイドバックを無造作に置き、聴いていた曲の最後のフレーズ…


you can do anything you set your mind to.man

(決心すればなんだって出来るんだ)


その台詞を聞いてイヤフォンを外す。


(なんだって出来るんだ)


栄一は小さく二度頷いた。

ジッパーを開けて丁寧に畳まれたタオルとバンダナを取り出した。栄一は試合では必ずバンダナを額に巻く。丁寧に折りたたみ、スウォッシユマークが額の真ん中に来るように。頭の後ろで縛るとこの作業でスイッチオン、瞳孔が開き少し髪の毛が逆立ったように見え、完全なる戦闘モードに突入する。ラケットをバッグからおもむろに2本掴み取り、ラケット同士で軽くストリングを叩くと今のフィーリングに合った高音の方を選んだ。足早にコートに出ると、ラケット面に赤く書かれた「W」のマークが何か特別なモノに見える。それはとても神聖なマークのようでいて、栄一の真の力を発揮するために必要なシンボルにも思える。

冴島はベンチで残った水のボトルの底が空に向くほどの勢いで飲み干し、タオルとラケットを片手にベンチを立った。


(さあ、行くよ。楽しい時間の始まり。)


いつもの言葉が栄一の頭の中で聴こえて来る。それは「もう一人」の栄一が目覚めるタイミングだ。シングルスの試合はオンコートでたった一人で戦わなければならない。試合中は誰にも話しかけられない、話しかけられることもオトガメがある。誰からのアドバイスも受け取れない、自分で全てを判断し決定し実行する。右に進むのも左に進むのも…。

迷っている時間はなく、瞬時に次の行動を決定しなければ一瞬で矢が空を切って首筋に突き刺さり致命傷を負うことになるだろう。

栄一には何故か試合が始まると「もう一人」の自分が現れる。もう一人の自分に、心の中で話しかけると「いい答え」を返してくれるのだ。


栄一ともう一人の『栄一』


(一人じゃない。いつも二人で戦っている。それに今日は彩もいる。心と手のひらの中に。)


少し前の記憶が蘇り栄一の口元に薄っすらと笑みが溢れる…

青山通りを歩く彩の横顔が空間に鮮明に映し出される。微かな風に舞う髪の毛は真夏の日差しに照らされて、淡く黒から茶へのコントラストがとても綺麗に映った彩は少し微笑を含んでいた。既に愛しい存在となった彩が選手としての栄一に追い風となることが望ましい。


その思いに続いてふと洋平の顔が浮かんだ…


(洋平、もう試合始まったかな。。)


同じ日の同じ時間、京王井の頭線久我山駅に隣接するテニスの聖地、朝日生命久我山テニスセンターでは「全国選抜ジュニアテニス選手権本戦」が開催されていた。空は栄一のいる場所と同じ色、絵に描いたような青だ。

12歳以下予選1回戦から勝ち上がった洋平は4回戦の予選決勝で過去3回公式戦で対戦し一度も勝利を挙げられていない、強豪クラブに在籍する橘佑哉(光が丘テニスアカデミー所属)を逆転の末、接戦勝利で本戦に初出場した。

今までに経験したことのない土俵に立ち、本戦だけにどの選手も実力はお墨付きであること間違いない。もちろん、その場所にいる洋平も力を付け実力を発揮できる選手に成長したからこそここに立っているのである。

初戦の相手は本戦にストレートインしている全国ランキングでも洋平より上の選手、須藤大樹(神奈川テニスカレッジ所属)。高身長で左利き、バックハンドがシングルハンドと小学生にしては珍しいものの、甘いボールは高い打点から打ち下ろすように叩き込んでくる。

それに比べて洋平は中肉中背、フォアハンドは自他共に自信と高評価に見合った輝きを放つがバックハンドはミスを犯さない分、安定域は広いものの破壊力が劣る。相手のレベルが上であればこそ、まともにぶつかり合うことだけでは分が悪いことは必至、だからこそ自身のパワーポイントと相手のウイークポイントを掛け合わせる頭脳プレー、栄一から叩き込まれた自身の技量を何倍にも膨らませるスーパータクティクスを持ってして今日の対戦に挑む、その士気は栄一以上、吐き出す吐息には今にも火が着きそうなほどだ。


栄一同様に、試合前に体を温めるエクササイズをこなしている洋平、昨晩は早くに布団に入ったものの緊張と興奮で今日の試合のイメージばかりが走馬灯のように頭の中を駆け巡り、ほとんど寝ることも出来なかった。お陰で具体的なシチュエーションが頭の中の引き出しに豊富にストック出来たこと、それらはきっとこれから始まる試合に役立つことだろう。

結局ほとんど寝られず朝を迎え、早朝からロードワークで体を起こし戦闘態勢を整えてきた。言うまでもないが栄一ほどの余裕は今の洋平にはなく、かと言って臆することもなく、士気は栄一同等までに昇りつめてきているのは紛れもなく「栄一の愛弟子」であるからこそ。



「洋平、飲み物は麦茶でいいの?」

タッパーに卵焼きを丁寧な箸遣いで収めながら母が聞く。

「うん。でも自分でやるからいいよ。」

母の水色のエプロンにはイルカが3頭水面から飛び跳ねている。

ジャグの蓋をくるくる回して製氷機から大きめの氷を幾つも放り込みスレスレまで麦茶を注ぐ。

「オニギリは2つ?3つ?」

卵焼きの横にソーセージとプチトマトを並べる配置を考える箸先が泳いでいる。

「梅1、鮭1、おかか1の黄金比でお願いします!」

右手を額に当て敬礼しながら洋平が戯けると、母は眉を吊り上げて、

「お安い御用で!」

朝から息のあった仲のいい親子の会話であった。

「お父さん来るかな…?」

タオルをバッグに入れながら洋平が、先程の会話より少しだけトーンの下がった声色で呟く。

その声に振り返りながら、母親の顔色も少しだけ陰りを見せ、

「出来るだけ頑張るって…。洋平の晴れ舞台だから仕事片付けられたらかっ飛んで行くって。」

母は箸を置き両手をエプロンで拭きながら洋平の肩に手を置いた。

「大丈夫だよ。もう慣れてるし。来てくれなくてもきっと応援してくれてるからさ。」

その声に張りがないことが親として辛かった。

「でも今日は僕が勝つよ!お父さんは僕がテニスするために仕事頑張ってくれてるんだから。お父さんのために頑張る良い息子です!」

この声にはしっかりと力が込められていたことに母も安心と喜びを感じて思わず洋平を抱きしめた。

「うん!きっと今日の洋平は久我山コートで一番強いジュニアだよ!」

抱きしめる手に力が入り洋平の顔が歪む。

「ちょっとちょっと、試合の前に死んじゃうよ〜」

2人の笑い声から幸せがたくさん溢れ出していた。



洋平はラケットバックのジッパーを勢いよく一気に押し下げ、2本のラケットと一冊のノートを同時に取り出した。

お互いのラケットのストリングを軽く掌で叩き張り具合を確認すると、スロートの内側に貼り付けられた薄汚れたテープの端切れのようなものを見つめて指でなぞり栄一のことを思い浮かべた。


ある日のレッスンが終わる頃…

「実力は明日の朝目が覚めた時に、いきなり強くなっていることはないんだ。コツコツ、コツコツ日々の地道な積み重ねこそ成果に繋がる。だから、レッスン以外にも自分で出来ることは積極的に取り組むように。」

レッスン後の締めの言葉を言いながら栄一は右手首に巻いていたテーピングをぐるぐると剥がした。

ジュニア時代の古傷が今でも影響するが、致命的なものではなく補強程度の準備に過ぎない。

その動作と、解かれて次々と伸びていくテーピングに目が釘付けになっている洋平…


「選抜、予選組は次のレッスンまでに申し込み用紙提出すること!ちゃんと自分で書くんだぞ。」

玉の汗を顔中にたくさん噴き出させながら子供たちは大きな声で返事をし挨拶を続けてコートから出て行く。そのタイミングで洋平が栄一に駆け寄ってきた。


「コーチ、お願いがあります。」

今だに洋平の目はまだ剥がし切っていない栄一の右手首からぶら下がったくたびれて今日の役割を終えたテーピングに釘付け。


「洋平、どうした?」

そう言いながら栄一はテーピングを剥がそうとしたその時、


「それください!」

洋平が栄一に飛びかかり、よじれかかってゴミのようになったテーピングを掴んでいる。

栄一は目を丸くし、速い瞬きを数回くりかえしたが、何が起きたのか理解出来ないところに、


「これ、お守りにしたいんです。このテープを自分のラケットに貼ってたら試合に勝てる気がして、なんか特別な力が湧いてくるような、だからこれください!」

洋平の言葉に栄一はすべを理解し、巻解いた使いふるしのテーピングの捩れを戻し洋平に渡した。

「これで洋平の気持ちが強くなれるんだったらいくらでもあげるよ。でもね、洋平はこんなものに頼らなくたってもうすでに結構強いぜ。」

栄一は人差し指で洋平の眉毛についた汗を払う。洋平の頬を伝う汗は、緩んだ表情をなぞるように最後にはコート上に静かに落ちて行った。


刺すような太陽からの攻撃を首筋に感じると同時に、先にコートに入った対戦相手の須藤を確認して、ベンチの傍らに置いたノートに目をやりながらジャグの蓋を取り冷えた母親お手製の麦茶を一気に喉に流し込む。ノートを一度手に取り、


"あるのは「瞬間」だけ。直ぐに次の瞬間がやって来る。その瞬間に立ち止まるな。その瞬間を自分の時間にしろ。"


ノートを開かずとも栄一の言葉を思い出し、一度瞳を閉じると少しだけ強面になった栄一の顔が目蓋に浮かぶ。


(瞳を閉じればいつも大好きなコーチがいる…)


再びラケットに貼られたテーピングを見ながら…

(コーチ、ありがとう。僕はずいぶんと強くなれたと思う。そして今日の試合も自分らしいテニスが出来る気がします。勝てる気満々です。)


青く澄んだ空を見上げると、飛行機と燕が同じ大きさで飛んでいる。その競争はツバメの方が速く飛んで勝ちのようだ。


(夏の匂いがする。。大好きな夏の匂いだ。)


ラケットとタオルを手にベンチから走り出しウォーミングアップが始まる。ウォーミングアップとはいえ洋平の動きは既に本番さながらにアグレッシブなパフォーマンスを繰り返す。一瞬たりとも止まることがなく、どんなボールでも的確に掴み打ち返す。

先に須藤がネットに出てきてボレーを打つ。大柄で高身長の須藤だが、ボレーのスイングはコンパクトながら、こちらもラケット面の壁に的確にヒットしベースライン深くに刺さるボールは、落ちてから滑る質の高いショットだ。洋平もショートバウンドで捉えるため面を合わせる程度のスイングになり振り切ることも厳しそうだ。

間もなく須藤がラケットで空を指しロブを要求する。数球軽く合わせる程度のスマッシュを洋平に返球を繰り返した後、角度をつけて叩き込んだ。体格から考えて「上」は得意なエリアだろう。

引き続き洋平がネットに出る。洋平も小学生にしてはネットプレーに長けた選手であるのは、もちろん栄一伝授のプレースタイルがオールラウンドであり、積極的なネットダッシュからボレーやスマッシュでのポイント奪取率は他のジュニアよりも明らかに多い。一般的な12歳以下のプレースタイルではサーブ力もまだ頼りなさがあり、ベースラインからのラリーメインでの攻防が勝る中、栄一に憧れている洋平は誰よりも先にネットプレーに取り組み自分のプレースタイルを確立してきた。パワーのみに頼らずとも相手を振り回し、余裕のないポジションに追い込みチャンスを作る、もしくは無理をさせて打てる可能性を限界まで下げる「合理的」な戦略は攻撃の基本であり栄一から教わった真骨頂、小学生にして理詰めのスタイルである。


「タイム!」

審判台に座った大学生が試合開始を促す。主審を含めアンパイアやレフェリーは学生がバイトで招集されている。日に焼けて眼鏡をかけた仏頂面な主審もきっと大学体育会系なのだろうと洋平は思った。

トスに勝った洋平はサーブを選択、須藤は何も言わずにベンチに戻ったのでエンドはそのままのコートでいいようだ。


(本気スタートか?あえてギアを上げないか?)

ボールパーソンから真新しいボールを2球受け取りそのままベースラインにつく。ボールを眺めながらまた栄一を思い出す。


(僕はテニスが大好きだ!誰よりもカッコいいテニスが大好きなんだ!)


アドレスに入りボールを3回突き顔を上げると須藤がしゃがみこんでいるかのように低い姿勢で構えている。まるで今にも獲物に飛びかかる獣のように。その瞳は鋭く澄み切っている、まるでエアーブラシで絵に描いたような本物の眼差しが洋平を捕らえている。

洋平は大きく息を吸い込みゆっくりと吐き出す。微かに潮の香りがしたかと思うと、なぜか少し心が軽くなった気がした。


(さあいくよ!)


左手から離れたボールは高く放り出され、後から追いかけてきたラケットに命を注ぎ込まれる。エネルギーの塊となった洋平の「魂」は須藤のコート目掛けて一気に飛び込んで行く。リズムよくステップを踏んだ須藤はそれを確かめるようにボールから目を離さずに上手く面を作って丁寧なブロックリターン…、だが、


(えっ!?)


須藤の瞳孔が一気に開く。既に洋平はネット目前に。サーブ&ボレー。正面に帰ってきた力のないボールをバックボレーでサービスラインコーナーに突き刺す。初っ端から意表を突かれた須藤は最後までボールを追わなかった。洋平は無表情ながら心の中では改新の策に満足であった。

サーブのスピードとコース、ネットダッシュの敏捷性、さらにボレーへの詰め、そしてキレのあるバックボレー、小学生のクオリティーにしては出来過ぎくらいのプレーに観客からもため息と拍手が同時に起こる。


「パーフェクト!」


観客から聞こえた言葉、誰が言ったのかは分からないが洋平の心に響いた。栄一から教わったサーブ&ボレー。まだ未熟な、身長も決して高い方ではない洋平にとってサーブ力が至らない分、どのタイミングで使うかがその効果を大きく左右するからと「ヒント」を教わった。今のポイントにはその教えの全てが集約され、小学生らしからぬ完成度の高いプレーだった。


「15-0」


予想以上に思い通りのプレーが出来たことに洋平も満足ではあったが、まだまだ試合は入り口に入ったばかり、


「今のプレーで相手も策を講じるはず。それで良い。考えさせることが圧力の第一歩。相手の頭の先を行け。」


栄一の言葉がドラマを見ているように頭に浮かぶ。そのセリフを聞いた場所の空気、匂いまで蘇る。


(次はステイ。)


洋平は定められていることをこなすように次の動作に進む。そしてその表情が柔らかく穏やかなのは平常心が保たれている証拠であった。

以前の洋平は小さい体ながらも闘志剥き出しに猛然と立ち向かうタイプだった。試合開始時には自身の顔を両手でバチンバチンと大きな音が周りに聞こえるほど叩き気合いを入れる。ポイントを取った時にはまるで天下を取ったほどの勢いで雄叫びを張り上げ、逆に取られたりミスをした時の絶望感溢れた佇まいは、並の舞台俳優の何倍も臨場感に満ちていた。

普段はおとなしいタイプのジュニアであっても勝利への意気込みはとても感情表現が豊かな…、いや感情の起伏が激しいため乗っている時と落ちている時の差が著しく大きい。

そんな洋平に栄一はメンタル強化の指導も優先的にアドバイスしてきた。


〜「洋平、普段練習時に出来ることが本番の試合になると確率が下がってしまう理由ってなんだ?」

「ちゃんと答えた方がいいですか?」

少し戸惑う表情の栄一に、

「だってコーチ当たり前のこと聞くから…」

少し戯けた洋平の表情に、

「じゃ、その答えに俺が笑わなかったら今日のレッスン後にランニング50周な!」

洋平は首を横に何度も振りながら、

「試合では緊張するから普段通りのパフォーマンスがスムーズに出来ずミスが多くなります。」

さっきの戯けた洋平の表情は既になく、真面目に栄一の目を見ながら、その棒読みはまるで学芸会のセリフのように思えた。

「そうだな。その通りだ。でもね、だったら試合の時にも普段通りに余計なことを考えないで打てばいいんじゃん?」

当たり前のような回答に洋平は顔を綻ばせる。

「それは理屈であって、それが簡単に出来るんだったら僕は既に全国大会のトップクラス、いやITFの大会にも出場してますから。」

少しだけ態度が大きくなった洋平…

「ん?」

栄一は洋平の顔に自分の顔がくっつくほど近づけて、

「今言ったことは本当か?」

「えっ?」

洋平は、まるでドラマの中のような分かりやすい表情で目をまん丸にし口は半開きになっている。

「洋平にとって、全国大会や国際大会に出るレベルのジュニアたちは皆んな普段の練習通りにあまり考え過ぎないで打ってるってこと?」

思いもよらない振りに戸惑う洋平、今度は目が左右に泳いでいる。

「だったら洋平の課題はそれだな。いつもの自分で試合が出来るようにすること。たとえば、練習のラリーで相手がミスした時に握り拳を高々と挙げて雄叫びを轟かせますか?一つ一つの結果に派手に感情を露にしますか?」

「それはそうだけど…」

「いつも『平常心』でいることをトレーニングするんだ。練習の時も試合の時も同じ感情の温度でいられるように。熱くなることが必ずしもベストの自分を出せるとは限らないんだぜ。いつもの自分で相手と勝負するんだ。そうしたらきっと、ずいぶんと強い自分がいることになるよ。」

洋平のつぶらな瞳が戸惑いと期待が入り混じって落ち着かないよう。

「そろそろ気がつけよ。いつも最大の敵は自分の中にいるってことなんだから。」

この言葉を聞いて洋平はハッと目が見開いた。

子役としてデビューさせたらいい演者になる表情だ。〜


サイドを変えてアドレスに入る洋平に、須藤は先ほどのポジションよりもベースラインから少し下がりスタンスを大きく開いて腰を落とし戦闘態勢を作る。その目は2度と獲物を逃すまいと鋭く光る。

そのポジションを見た洋平、小さく頷く。まるで次の戦略通りであるかのようにスムーズに動作が続いて行く。ラリーを意図する分、無理な強打はせずに今度はあえて薄めのスライスでリターンに備えると、須藤も予想が外れたのか少しタイミングのズレた動作でセンターに打ち返してきた。そのリターンを見て十分に時間の作れていた洋平、ラリーのつもりでいたが一瞬でプラン変更、フォアに回り込み逆クロスへ一気に攻め込む。これまた逆を突かれた須藤は手を伸ばして合わせただけの返球は甘いチャンスボールとなりネットに詰めた洋平は練習レベルのモーションでスマッシュをクロスに叩き込む。


「30-0」


当然なまでのプレーに表情も変えずベースラインに戻る洋平と、まだ2ポイントの経過であるがパンチの効いた相手ペースの失点に微かに自責の表情が現れる須藤。トップシード選手だけにプライドも高そうだ。

この2ポイント連取は洋平のモチベーションを大きく上げ、かつ緊張感をほぐす絶好のスタートとなれた。須藤の本領はまだまだこれからだと考えるにしても、開始から自分のテニスが出来ていることでメンタルでもアドバンテージが取れている気分になれる。出来るだけ先手を繰り返し須藤に自身の持ち味を出させないプレーに努めよう。


(たとえ負けても失うものなど何一つない。ディフェンシブな自分にさようなら。)


フォアサイドに立ち、須藤に一度目をやってからボールを3度つく。その動作から既にサーブのモーションは始まっている。しなやかに空に向けてゆっくりと伸び上がる左手から、まるで飛び立つ鳥のように放たれるボールへ、一気に命を吹き込むラケットスイング。洋平の身長とパワーから度肝を抜くほどの速球ではないものの、キレと伸びのあるスライスサーブはワイドに広がりスプリットステップを取った須藤からどんどん逃げて行く。このサーブが武器になれたのも栄一の影響である。栄一は特にこれに特化して指導したこともなく、基本的な打点や面の作り方と手首の使い方程度のインストラクションを洋平に施した程度…


〜「洋平、スライスサーブ良くなったな!」

「ありがとうございます!」

栄一に褒められた洋平は照れながら、少し笑みを含んでラケットのガットをいじっている。

「急にどうした?何か練習したのか?」

「コーチのサーブ見てて『手首』の形を真似たら結構良くなったと思います。」〜


それは、サーブの基本的なことなのだが必ずしも誰にとっても必要不可欠なポイントではなく、向き不向きもあるようなこと。手首を内側に曲げる(コックする)形を保ったままテイクバックし、可能なところまでこの手首の形を維持してスイングすることで内旋の可動域が大きくなり、ヘッドスピードがより速くなるポイントである。洋平のような身長があまり高くない選手にとって、より高い打点から叩き込むフラット系を求めるよりも、スピードが足らない分回転を多くかけて変化球の質を上げる方が的確な攻撃性を得られる算段だ。

洋平は「教わる」ことのみならず「盗む」ことを覚えたようだ。選手として成長する過程で必要な「興味と観察力」が既に幼少期から洋平には芽生えているようだ〜


(コーチ、サーブの切れは調子いいよ!)


強い選手になるためには「一つ」必ず武器がある。そしてさらに一流の選手にはその武器が「二つ」ある。

洋平にとって一発で仕留められるほどの武器と呼べるショットは明確ではないものの、その兆しが相手に脅威を与えるレベルに至る武器になりつつあるようだ。

「武器」とは必ずしも目に見えるものばかりではない。姿、形がはっきり見えれば攻略の方法も見つけやすいが、何か大きな暗い影のようなもの、言ってみれば「不安」を思わせることも攻撃の手段であり。いわゆる「戦術」をどう作り相手の弱みにつけ込むか、相手の得意不得意と予測の逆をどう組み立ていくか。これには強い選手こそ持ち合わせる空気のようなものもとても大切なスパイスになる。

試合開始からまだ2ポイントではあるものの、現状で須藤は洋平の意外なプレーから警戒し始めていた。次のポイントは須藤の緊張か読み過ぎなのか、そこを上手く読んだ洋平の薄い当たりのサーブにタイミングを外しレシーブミス。


(40-0)


ボールが、ネットにかかったとほぼ同時に首を項垂れる須藤。だが、直ぐに顔を上げて洋平とため息をついた観客を睨みつける。既に額に一筋の汗がゆっくりと流れ、鼻先に来ると一気に地面に向けて飛び込んでいった。

洋平はサイドを変わりながら栄一の言葉を思い出す。

(相手が予想もしない、出来ないタイミングで打つショットやプレーをいつも一つポケットに入れておけ!それを使えばまずポイントが取れるってやつをな!だから無駄遣いは禁物、ここだって思う時のためにね!)


洋平の頭の中にはその「一つ」が既に用意されている。とっておきの秘密兵器を。


(まだ使わないよ。)


ポジションに入ったと同時に須藤を確認、ボールを3回つくいつものルーティーンから翼を大きく広げたかのようなトスアップとテイクバックは両腕を大きく左右に開いて小柄な洋平が大きく見える。深く曲げた膝にパワーを蓄積させると一気に放出、地面を蹴り上げて空中にある黄色い無機物に生命を吹き込むかの如くラケットで叩き込むと同時にその体は発射されたラケットのようにネットに駆け込む。センターを読んでいた須藤、命を注ぎ込まれた黄金のボールは真正面に、まるでスナイパーに心臓を狙撃されたように須藤に食い込む。これには対応出来ずフレームショットでボールはコートの真横に吹っ飛んでいった。


「ゲーム 1-0 立花リード」


口を尖らせ悔しそうな須藤の顔をみてさらに自信を持つ洋平。その表情にいつものあどけなさは無く、どこか栄一の面影さえ想起させる。


(コーチ、こっちはいい感じだよ!)


空を見上げれば、絵の具の青だけで塗りつぶされたキャンバスのように、洋平は栄一もこの青の下でカッコいい試合をしているに違いないと、額から流れ落ちる汗を一度首を振り払った。


コートに落ちた回転するコインを見つめながら、栄一はふと我に帰る。いつもはトスの選択に拘りのない栄一、その時の気分で決定している。

しかし今日は、最初からギアを上げて行くことを決めていたのでトスに勝てばサーブをチョイスすることに。相手が冴島プロである以上、様子見やスロースタートなどしてられないし、先手を取りやすいサービスゲームでリードスタートを目論む。

ウォーミングアップで初めて冴島プロのボールを受けたが特に違和感や球威は感じなかった。もちろん、アップ程度のラリーでレベルなど分かるものではない。

そんなことよりも栄一は、怪我から一線を退かざるを得ない状況から、今この場所に戻ってきたことに体の奥底から込み上げる感情を実感していた。ワクワクするような、ドキドキするようなとても心地の良い緊張感に口角が上がっていた。

栄一は「自分らしい」プレーをしっかりこなすことに意識を向けた。


(いつも通りに。)


観客席にいる仲間たちの声が先ほどよりも少し遠くに感じる、集中域に入ってきたのだろう。だが風の流れを繊細に肌が感じている。微かな風が産毛をなぞっていく程度でも。

チェアアンパイアが二人それぞれに、はにかむ笑顔で視線を送り試合開始のタイミングを確認しコールすると、場内のザワツキが直ぐに収まり静寂がセンターコート全てを覆いこむ。栄一のボールを突く音だけがリズミカルに、そして無邪気に響き渡った。

栄一は心の中でささやく…


(ready go!様子を見るなど考えは毛頭なく、最初からギアはトップに入っている。どのシーンでオーバートップに入れるかだけだ。)


とはいうものの栄一のプレーの本質が斬新なまでの「緩急」であり、巧みなギアチェンジはF1ドライバーが高速からのコーナリングで絶妙なシフトダウンを極限までスピードを落とさず行うように滑らかでスタイリッシュにまとめ上げる。敵からのショットが速かろうが遅かろうが、ある時はテイクバックさえ間に合わないほどのスピードとシャープさで打ち込まれ、ある時は磁石に金属がくっついたかのようにボールがラケットからこぼれ落ちる。予測不能とさえ相手に思わせるテンポの操作性、このテクニックには栄一よりもランキング上位にある選手たちもクダを巻き、その「魔術師」のような華麗さを妬む選手さえいるほど。

さてさて、今日の復帰戦でもそんな栄一の「美しさ」見たさに観客は期待に胸を躍らせているのであろう。


リラックスしたアドレスからゆっくりとした柔らかい動作、高々と挙げられた左手の先から空に向かって放たれる黄色いボール、その直後にピカッと光った鞭の先端のような一閃。キレのある1stサーブをワイドに叩き込む。僅かに左に切れてフォルトだったが、冴島プロは読みが当たり十分な態勢から打ち込んで来た。


(なるほど。。)


タイミングは合っているようだ。あまり時間を空けずに2ndサーブを打ち込む、同じワイドに。予測が外れたか、予測をしていなかったか、冴島はやっとの態勢でラケットに当てたが、ボールは浮き栄一の後方に飛んで行った。そのボールの行方を最後まで目で追う必要もないほどに。。


15-0


観客席からパラパラと拍手が鳴る。

栄一は次のサーブに入る前に少しだけ観客席を見回した。もちろん一つの顔を探して。お目当ての輝かしいまでの美しいビジュアルは見つからなかったがさほど気にしていない。

次のポイントの1stもサイド、冴島のバックを狙う。よく切れたスピン系だったので、無難にスライスで合わせて来た。だが栄一はそのボールを空いたフォアサイドに打ち込むと、冴島は最初から追うこともしなかった。ベースラインに戻る栄一の額に薄っすらと汗が滲んで光出す。


30-0


先ほどの拍手よりは少し多めの拍手が鳴り始める。

次のポイント、1stをセンターへ。読まれていてもここはあえてバックに集める。厚い当たりが1センターラインに突き刺さり、冴島は抑えが効かず弾かれたボールは再びアウトへ。直後に首を傾げながら苦笑い。


40-0


「仕上げだ。」


イメージ通りならば次のサーブでこのゲームは完了すると頭で復唱しながら、栄一はまた観客席に目を移す。あまり期待のない「確認」だったが、小さな子供が立ったまま手を振る姿を見て一瞬動作が止まる。


(応援ありがとう。ちゃんと見てくれてありがとう。)


冴島プロのレベルならば次のサーブは読んでいるはず。まともなボールではむしろ切り返しもあり得る。と言って、あまり手の内を最初からさらけ出すと後で困るから、ここは正攻法でいくことに頷く。タイミングが合った時のボールだけは仕方ないと割り切る。先ほどまでバックに集めていたコースをフォア(センター)にスライス系で打つ。やはり冴島は読んでいたらしく反応が早い。しかし、ここは栄一の僅かに薄く当てたショットのキレが良く、冴島のタイミングが少しだけ早くなり、ラケットのトップ部に当たったボールは真横に飛び、審判台に当たってあらぬ方向に跳ねていった。あえてエースやパワーショットを狙わず、微妙なタッチの緩急でヒッティングをずらしミスを誘発させるスタイルも栄一の持ち味だ。相手からすれば厄介でやり難い相手とも思える。


「ゲーム ゲームカウント1-0市川」


ラリーも無くサービスサイド順当なポイントでタイムデュレーションは3分に満たないほどあっという間に1ゲーム目が終わった。

年配のチェアーアンパイアの、凛とした無感情な表情は少し機嫌が悪いようにも見え、低音の効いた重量感のある声がコートに広がる。観客席からも拍手と掛け声が栄一の耳に届く。


「市川プロ、nice game!」


見上げれば応援席に立つ武蔵野テニスクラブのコーチ陣が手を振っていた。普段は寡黙な横山コーチまでもリアクションが大きく、それには栄一も思わず見とれてしまったほどに。

ベンチに戻って立ったまま水を一口含み、軽く口の中で回してから飲み込む。そしてもう一口、今度は一気に飲み込むと全身の隅々までに冷水が駆け廻る感覚を味わう。

耳を澄ますとたくさんの声が聞こえて来る…

観客の他愛もない世間話であったり、子供の場違いな大声でさえ耳心地も悪くない。そんな「音」が聞こえている時の栄一の状態は良好だ。焦りや力みがある時にはあえて周りの「音」を聴くようにすると緊張感も和らぐ。

空を見上げると、彩の顔と彩のお母さんの顔が同時に現れた。2人の優しく笑みを含んでいる表情に癒される。栄一はいい意味での緊張感を背中に感じた。


(彩、まだ来てないのかな…)


観客席をぐるっと見回したがお目当ての素敵な笑顔は今回も見つからなかった。。


(その頃、多摩川大学第一校舎第二講堂では…)

「だいたいこの授業を受けることの将来への必要性って何??」

彩の高校からの同級生で一番仲のいい友人、遥(はるか)が教科書も開かず眉間に皺を寄せ彩に食ってかかる。

「私も激しく同意。英語って話せて聞けて読めて書ければいいと思うんだけど。。『教育制度と経営』って私たちに何か役に立つのかなぁ。。」

多摩川大学文学部英米文学科に在籍する彩と遙、授業数の少ない科目であり欠席は後々面倒くさいことになるので、今日栄一の試合と分かっていても出席を余儀なくされたところであった。

興味のない授業と、か細い教授の声はせっかくのマイク音量であれ何も耳に入らず、それぞれがこの後の予定に向け心は走っていた。

「遥、デート?」

「うん。ダーリンと渋谷で待ち合わせ。彩は?」

「あっ、うん…」

少し照れ臭そうに顔を赤らめながらの返事に、

「なになになに!なにかあるな〜!」

「うん。知り合いのテニスの試合を見に行くの。」

彩は、栄一とのことをまだ日も浅いこともあり遥に話してはいなかった。

「えっ?誰と誰と?」

身を乗り出して興味津々な様子の遥かに、

「1人で行くんだよ。」

これまた照れ臭そうに。

「あれ〜彩ってそんなにテニスにハマっちゃってた?」

少し目を細めて見つめるその瞳は紛れもなく彩への疑いの眼差しである。彩は少しうつむき気味から、

「実はね…、遥には話してなかったんだけど…、彼氏が…、出来たみたい…」

それは小さな小さな声での告白だった…が、

「えーーーー!」

その声は講堂に響き渡り、教授はじめ全ての学生の目線が一気に2人に集中した。きっとこの声くらい大きければ教授の授業も皆んなが注目するだろうと思えるほどに。。

「声大きいから!」

遥は席を立ち、周りに向け何度も何度も頭を下げている。

「ホントに?それホントなの?誰?」

今度は適度な音量である。

「うん…。通ってるテニススクールのコーチ…」

別に悪いことでもないのにうつむき気味に話す彩。

「おっと!それはまた興味深い!」

音量は小さいが、教授がチラッと2人に視線を送る。ボストンタイプの眼鏡が年齢に似合わずお洒落に見える。

「今日はそのコーチ…、いやプロの試合…、なの…」

小さな声と控えめなトーンだったが、それを聞いた遥の目と口が一段と大きくなったので彩は慌てて遥の口を塞いだ。彩に口を塞がれた遥の目が普段の2倍くらい大きくなり、それを見た彩が可笑しくなって吹き出し慌てて2人して、

「シーシーシー」

振り返った教授は2人を見ながら小さく咳払いして人差し指を唇に立てる仕草。

「彩、やったじゃん!今度紹介してね!」

「うん!コーチに話とくね。」

彩の少し紅潮した表情には少しだけホッとしたニュアンスも可愛いく見える。

やがて興味のない経営論の講義から開放された2人は、学生の誰よりも早く講堂から出て急ぎ足で校舎を後にする。

「彩、じゃーね。コーチ…、プロによろしく!」

微笑む彩。

「遥、また金曜日ね!」

校門の手前で別々の方向に分かれた2人。すると

遥はすぐ立ち止まり、何かを思うように目が泳ぐ。そしてそれを思い出して目線を彩に。

「あっ、そうだった!」バックの中に手を突っ込んで財布を取り出すと千円札を2枚取り出し、

「剥き出し、それと利息は無しで許せ!この前借りてたお金、ありがとう。」

急ぐ彩はそのお金を受け取りながら、

「今度でいいのに…」

「ごめん、ごめん。じゃーねー。」

彩は急いでいたので千円札を財布にしまわずデニムの後ポケットにねじ込みながら駅に向かって体を反転させた。

彩は左手に巻いた時計に目を落とすとハッとする。

(試合もう始まってる。。間に合わないかな…)

線路沿いの駅へ向かう道を小走りしていると、途中で一台の真っ赤な車に寄りかかる学生から声をかけられる。いかにもチャラい佇まい。

「よっ!」

同じ学部学年の島村亮だった。テニスサークルに所属していることは友達から聞いている。

父親が大手ゼネコンの重役であり、大学内では御曹司として名を馳せるものの実態は「ボンボン」、そしてかなりの遊び人として有名な学生である。

「あっ、島村くん」

「堀内、どうこれからお茶でも?」

真っ赤なスポーツタイプの車はイタリアフィアット社124スパイダー。1980年最後に生産されたモデル、世界的に人気のある車ゆえに大学生が乗り回せば如何にも金持ちと言うステイタス臭が匂い立ちそうな逸品である。

「ごめん、急いでるから。」

きっぱり言い切る彩。そして歩みを止めない。

「じゃ送るよ!」

その言葉に立ち止まり踵を返すと、

「一つ聞いてもいい?ここから慶應大学日吉キャンパスまでってどのくらい時間かかるか分かる?」

別に下心はなかった。純粋に所用時間が知りたかっただけだった。

「えっ、慶應に行きたいの?…って何故?」

サークルとはいえジュニア時代にテニスを英才教育レベルで勤しんでいた島村、全国大会出場経験もあり、現在でも大会出場や試合観戦には関心もあるだけに、この時期このタイミングで「慶應日吉キャンパス」と聞けば慶應チャレンジャー開催中と繋がることは自然なことだった。

「知り合いが試合に出てて応援に行くの。」

駅に向かう学生が2人をチラチラ見ていることに気がついた彩はちょっとだけ恥ずかしさすら覚える。

「堀内に慶應チャレンジャーに出る知り合いがいたなんてちょっとびっくり…。電車だとずいぶん遠回りな場所だよ。1時間半てとこかな。」

再び腕時計に目を落とす彩。

「俺の車に乗れば30〜40分後には日吉キャンパス前到着だぜ!」

彩の表情が一瞬で明るくなる。それを聞き思考を巡らせ目が泳ぐ。既にコーチの試合の開始時間は過ぎている事実。少し悩む、そして迷う。。

自分に言い聞かせるように心で唱える彩。

「理由は聞かないけど方法は決まったと思うよ。乗りなよ!」

その言葉が終わる時には既に助手席のドアを開けているほど動きはスマート、だがキザったらしいと彩は思う。

強引な回答も受け入れ難く躊躇はあったが是が非でもいち早く着きたい気持ちが勝る事実。


「あ、ありがとう。」

「お安い御用で。」


シートに腰を下ろすと、まるで地面にそのまま座ったように思えるほど低いポジションだった。カセットデッキのプレーボタンを押すとa-haの軽快なリズムが流れ出す。


take on me


彩は耳心地よくてリズムに乗れそうな曲って、そう思ったと同時に真っ赤なスポーツカーは小田急線沿いの道を駆け出した。

彩が隣でハンドルを握る島村の横顔を少し斜めから見た時に「何か」を感じた。その何かはよく分からないが、あまり気持ちの良いものではなかった。普段助手席に座る時は左側であることが当たり前で、左ハンドルのイタリア車だけにポジションが逆であることの違和感とはまた違った空気、極々些細な「何か」。。気にしなければ何でもないようなほんの少しの違和感。彩は島村とは面識がある程度の距離だけに、初めて彼の運転する車の隣に座ることの距離感への不自然さだと思うことにした。


(ただ送ってもらうだけだよ…ただそれだけ…)


「きっと国道は混んでるから裏道を通るので交差点が多いと思うよ。」

彩を見ずに左手のハンドルと右手のシフトレバーを器用に交互に動かしながら。

「カッコいい車ね。」

社交辞令を言ってみた。なので言葉は軽く感情が入っていない。

「堀内は車に興味あったり?」

僅かな隙間で車線を変更するところは案外運転が上手いようだ。

「えっ、あっ、残念ながら車は国産車か外車の2種類しかないと思ってる程度の知識。。」

丙午生まれの彩らしく凛と答える。

「ははっ。女子は車に関心ある子先ずいないから。堀内くらい可愛かったら誰でも助手席に座らせたいって思うだろうし。」

にやけて彩に顔を向けるが彩はあえて顔を合わせずに、

「車に乗せる子皆んなにそう言ってるんでしょ!」

表情に感情の無い塩対応である。

「おいおい、俺がそんな女好きみたいなこと言わないでくれよ。つれないな〜。こう見えても結構一途なんだぜ。」

あら、そうなの?とでも言いそうな顔色で今度は島村を見つめる。

「それは素晴らしいことね。きっとその一途さを彼女は気に入っているんでしょ!?」

今度は彩が少しにやけて言ってみる。島村は慌てて顔を向けて、

「残念ながら今彼女はいないよ。募集中なんだ。どうだい、一途で、イタリア車に乗ってる、テニスが上手い彼氏って。」

絵に描いたようないやらしい顔が隣にある。


(馬鹿じゃないの!)


そう素直に声に出して言いたかった。その3点を売りにして惹かれる女の子ってきっといるんだろうな〜って。私は違うけど。

「一途でいてくれることはとても嬉しいけど。自転車に2人乗りして、仲良く下手くそなテニスで笑い合える彼氏の方がいいかも。」

島村のアピールポイントが大学生になってもまだ小学生低学年レベルであるように思えて、逆になんだか可愛らしくさえ思えた。

彩は栄一とレッスンではないテニスコートにいることを想像してみた。レッスンではなくても、きっとレッスンみたいになっちゃうことは当然なんだろうな。。私みたいなテニス相手に本気になってボールを打つことは間違ってもないだろうし、私が全エネルギーと全財産と、一生分の運を使っても栄一に試合で勝つことはあり得ないんだろうなと。。そんなこと想像してると何故か楽しくなってきた。


車は住宅街を抜けて県道139号線に出た。マクドナルドの大きなシンボルマークの「M」が左側で大きく回っている。ハンバーガーとポテトのモニュメント、戯けたピエロの赤と黄色が色鮮やかだ。

すみよし台から青葉台に向けて法定速度に目隠しをしながらアクセルを踏む。

「試合に出てる知り合いって誰なの?」

県道102号線に右折しながら、一瞬だけ彩を見ながら島村が聞いた。

「あっ…」

彩は躊躇した。ここで栄一…、市川プロの名前を出していいかどうか…。

「でも…、あまり強くなくて名前も知らない人だから…」

やはり嘘がつけない彩らしく、うつむき言葉がか細くなっている。

「でもいいな〜。堀内が風雲急を知らせるほど応援しに来てくれるんだから。その選手が羨ましいよ。雑誌のモデルレベルのイケメンか!?」

ドキッとして顔が熱くなる彩。

「そんなことないから。。」

あまり深掘りしないように乾いた言葉とイントネーションでかわし、話の方向性を変えようと考える。。

「今どの辺りを走ってるの?」

もともと土地勘も無ければ、道も知らず、免許はまだ取っていない彩にとって方角や時間の概念がゼロと言ってもいいほど感覚がない。

「このペースで走ればあと15分くらいで到着。でも俺はもう少しドライブしていたいけど。」

もちろん彩の顔を見ず、シフトレバーとクラッチ操作が滑らかなまでに車を操作している。

「島村くん、運転好きなんだね。」

それは島村が期待していた返事とは到底似つかわしくない言葉を乾いた無感情な口調。彩には島村の真意がまだ理解できていないようだった。

東急東横線の陸橋を越えた辺りから車が多くなった。この辺りは交差点も多く渋滞回避はまともに県道を走っていては埒があかない。

島村は信号のない細い道にハンドルを右に切った。2台がすれ違うことは出来ない狭さだが、対向車が来る前にすり抜ける。その先をまた右に。わざと大回りして住宅街に出ると一度車を止めて、ダッシュボードから地図を取り出し睨めっこ。地図を動く人差し指と一定の間隔で頷く島村を見つめる彩。程なく作戦会議は終わりサイドブレーキを外した。かなりシリアスな空気もあってか彩は声すらかけられなかった。

「ごめんなさい。私のせいで…」

これは本当の気持ちから出た彩の言葉だった。

「全然。学園から慶應日吉は練習試合でしょっちゅう走ってるから、だから自信あったんだけど、ちょっと道の選択間違えたかな〜って。」

やがてセンターラインの引いてある道路に出ると車は流れていた。

神奈川県に入りまもなく溝の口近辺、第三京浜と立体交差する手前。島村は躊躇している。次の交差点を直進するのが彩の目的地へのルートであり、右に曲がることが自分の欲求を満たす選択になることを。

(右に曲がれば湘南に行ける…)

信号の赤をじっと見つめながら、ハンドルを握る手に少し力が入る。

「どうしたの?」

空気を感じた彩、だけどとても軽い口調で聞いてみた。

「ううん、何でもないよ。頭の中で道を考えてた。」

交差する側の歩道信号が点滅を始める。島村の鼓動が少し速くなる。隣に並ぶトヨタクラウンのドライバーが舐めるようにスパイダーを羨ましそうに眺めている。信号が青に変わりブレーキから足を離しアクセルペダルに移すと軽く踏み込んだ。やがて次の信号に近づき、島村はウインカーを右に出し一番奥の車線に滑るように入っていった。彩にはこの選択の意味は全く分かっていなかった。右折すると第三京浜と並行して走る。島村の鼓動はまだ高鳴っているが、この鼓動も彩には届いていない。島村は高揚した感情を楽しんでいるのか、それとも罪悪感を必死に堪えているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、はっきりしていることは、今この彩との時間をもっと長く引き伸ばしたいと思う下心だった。

「友達、今日の試合勝つといいね。」

声が不自然にならないよう慎重に話した。

「そうね…」

彩は適当な声色で返しながら、運転席と助手席の間に置いてある地図を取り何気なく開いてみた。

「話を聞かない男 地図が読めない女って本、知ってる?」

地図を開きながら女である彩がいう言葉としては滑稽でもある。

「知らないけどナイスタイトルだね。」

左手の袖を少しめくり、手首に巻きついた無骨な時計をわざとらしくアピールしているように見える。

車は第三京浜都筑ICに近づいていた。

「男の人が話を聞かないからどうかはあまり分からないけど、女が皆んな地図が読めないって決めつけられるのは納得行かないかな〜」

彩は周りをキョロキョロしながら地図と交互に見始めた。

「えっと、この高速道路は第三京浜?」

島村に少しだけ焦る気持ちが湧き上がってきた。

「そうだよ。ちょっと混んでそうだから高速に乗ろうと思って。」

本来、このルートで高速道路を使うことはあり得ない道程だが、現在地すら分かっていない彩にしてみれば必然なことと受け止めていた。

ただ、何かかんじる。何か違和感のようなものを。。

「慶應大学、慶應大学…、あった!あった!」

地図上に目的地を見つけ、その上に人差し指を置いて島村に笑顔を向ける彩。

「今はこの辺りだから…」

今度は地図と進行方向を交互に顔を動かす彩。

窓の外には無機質で大きな倉庫が幾つも並び、その壁には白く大きな文字で会社名が威張るように書き込まれている。

顔が幾度と上下を繰り返し辺りを見回す。何かを確認しようと、何か不自然さの理由を探している。。そして、

「これ、逆走ってない?」

彩が、まだあまりよく分かってない段階であったことに気がついていれば、何かと口実を作り彩を説得出来たものを早とちりしてしまった島村はカセットデッキのスイッチを操作して曲を探している。何曲目かに流れてきたのはwam!


careless whisper


「ちょっと気分が変わった。もっと堀内と一緒に居たいから目的地を湘南に変更するね!」

そう言い放つ様は威風堂々、口調は自分本位であり彩の立場など微塵も気にしていない。

さすがにこの言葉で彩も事の異変に気がついたものの、

「冗談はまた今度大学ででも聞くから。」

その言葉を信じたくない、受け入れたくない、この後に島村が戯けて笑うことを強く期待している。

「冗談じゃないよ。試合観戦よりももっともっと楽しくて刺激的な時間を堀内と過ごすために。」

「いやいや、今日は試合の応援なので慶應大学へお願いします。」

既に少し怯えているまのの優しい笑顔でいうその言葉だった。だが、それが島村の感情を逆撫でてしまった。

「いいから今日は俺と一緒に楽しもうよ!先ずは横浜港で食事から。俺のこときっと気にいるはずだよ!」

徐々に島村の言葉の温度や感情、真意が伝わり、彩の笑顔が固い表情に変わり始める。

「ダメ、無理です!車を止めて!」

彩の声が少し震えて上擦っている。この言葉の後に島村はアクセルを少し強く踏みつける。幸か不幸か道に車はまばらだった。彩はその加速で島村の本気を嫌でも思い知らされることとなる。

「止めて!止めて!」


涙声は大きくなく切ないほどのものだった。次の交差点の信号が黄色に変わった。この距離では通り抜けるには無理がある。島村は一瞬躊躇もあったがハンドルを切りレーンを変える。ギアチェンジからアクセルペダルを床まで踏み込むと彩の背中がシートに押しつけられ、衝撃は誰かに背中をバットで叩かれたほどに思えた。口元に含みを持たせた表情の島村と目が合う。みるみる交差点が視界に近くなると同時に信号は赤に変わった。彩の瞳から流れた涙に、頭上に果てしなく羅列した街灯が綺麗に写り込み宝石のように輝いている。


(コーチ…)


シートベルトを強く握り締める彩、原宿で栄一と繋いだ時の手の温もりを感じた。。

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