第3話 聖地

互いに求めるものなんてso tiny

小さくても互いにとってso treasure

価値観なんて言葉はかなぐり捨てるもの

ただ向かい合うだけで言葉は自然と交わせるはず

ただ一杯の美味いコーヒーと一本のギターが

あればそれだけで「素敵な時間」はforever young


1988年4月

桜の花びら舞い始める並木通り、移りゆく季節の変化に間に合わなかった長袖のシャツを腕捲り、ゆるい木漏れ日と小鳥の輪唱が、練習で疲れた体をゆっくり回復させてくれる。空腹を少しでも満たそうと噛んだガムの味もそろそろ消えかかる頃、お目当ての店が見えてくる。自由が丘、駅前の喧騒から少し奥に入り、住宅地に近づいた辺りに並ぶ三軒のレストランが立ち並ぶ一角にその店はある。入口扉の横にある原色のネオン管で彩られた「OPEN」の文字はまだ電気が通っていない。点灯している時の煌びやかで華やかな様相とは相反する、無機質でモノトーンな色はシュールでどこか寂しげにも思える。店内を覗き込むが真っ暗で人の気配は全くない。おもむろに日に焼けた左手に巻き付いた腕時計を見ると15:00を少し回った辺りを針が差している。


「ちょっと早かった。。」


店のオープンは「だいたい」15:00〜15:30、オーナーの気分でこの程度の誤差は茶飯事だがあまり気にならない。とびっきり美味いものを食べられる期待感は、このくらいの待ち時間など問題はなくむしろ楽しみを増幅させてくれるいい時間になる。

市川栄一、20歳甲南大学に通うこの春3回生になった学生…と言うよりもテニスプレーヤー。大学の授業は学友の協力でほとんど出席したことがないものの進級はいつも無事に通過出来るのは、学長自ら栄一をテニスで推薦して特待生として入学させたこともあり、テニスさえしていれば安泰といった環境にいられる。大学生とはなんとも気楽な稼業と嘆くなかれ、栄一はテニスで学生大会のみならずプロの大会でも既に名を馳せる実力の持ち主、推薦で取った学長の鼻高々な存在であることは間違いない。


栄一は週に2〜3度ここに足を運ぶ。それが練習の後であったり、試合の後であったり。多少の遠方からでも満たされたい衝動が止まないのは1年ほど前から。

店の前に大きなラケットバックを置き、その横に腰を下ろす。バックからプレーヤーとヘッドフォンを取り出しスイッチを入れる。選曲はフィリップ・ベイリーのアルバム。高音とファンキーなリズムを少しボリュームを大きめにして聴くと自然と体が反応してリズムを踏む。一切の生活音を遮った世界に浸る心地よさは、これもまた少しだけ空腹感を緩和してくれる良い手段となる。横顔に西陽が当たり眩しいけど気分は悪くない。温かな南風が、袖を捲り日に焼けた腕の産毛に微かに感じる。


アルバムの3曲目が終わった頃、店の前にダッジのステーションワゴンが低く重厚なエンジン音を響かせて横付けされる。エンジン音が止まると同時に降りてきた少し小柄で人の良さそうな笑顔が栄一に向けて話しかける。


「ごめん、ごめん、今開けるからね。」


バターフィールドのオーナー、巧さんである。色褪せたデニムに無垢な白いTシャツ、首元に控えめなチェーンが西陽に照らされてキラキラしている。シンプルだが彼の雰囲気にとてもマッチしているイデタチだ。

入り口の取っ手にかけられた鎖の南京錠に鍵を差し込み、ジャラジャラと音を立てて鎖を抜き取る。店の中に入りながら栄一にも入るように促す。照明のスイッチが入り、ダウンライトに照らされた床の模様が幾何学的でダンスフロアを思わせなんだかワクワクする。

店の外観は50's〜60's、アメリカのバーやドライブインでよく見られる大きなロゴで描かれたアルファベットの店名のネオン管が点灯する様が派手に目立ち、ライトアップされた入り口の扉が夢の空間への入り口を想わせている。7分丈のスリムパンツにボウリングシャツ、ポニーテールの女の子がスタイリッシュに登場しそうな雰囲気が素敵だ。内装はタイル張りの壁と天井で回るプロペラのように大きな扇風機、店の中央に置かれた電話ボックスは何かの映画にでも出てきそうなシチュエーション。あちこちの壁に飾られたアメリカナイズされた写真やステッカー、そして小さめのDJブースにはターンテーブルが置かれその横にはざっと300枚くらいはあろうかとレコード盤が所狭しと詰め込まれている。グリースでカッチリまとめたヘアースタイルに半袖シャツの袖を折り返して咥えタバコのちょっとやんちゃな男の子が次にかけるレコードを眺めている光景が目に浮かぶ。


「今準備するから座ってて。コーヒーでいい?」


カウンターの中に入った巧さんはそう言いながらコーヒーメーカーにフィルターをセットしている。


「はい。ちょっと早く来すぎちゃって。でも早くホットドックとピザ食べたいです。もう腹ぺこぺこです。」


栄一が素直に本音を言うと、相変わらずの優しい笑顔で応える巧さんは、


「栄一、レコードかけて。」


栄一は会釈でそれに応えブースに入った。無数にも思えるレコードの列を眺めながら、少し目立ったジャケットを1枚取り出す。アル・ジャロウのアルバムだった。丁寧にレコードを取り出しターンテーブルに置きオーディオのスイッチを入れる。人差し指でレコード針を持ち上げると自動的にターンテーブルが回り出し、ライトに照らされたレコード盤の表面にはキズ一つないことに感心した。レコードに顔を近づけて慎重に針を置く。少し指先が震えてしまったがこの緊張の瞬間は嫌いじゃない。少しのノイズが聴こえた後に軽快なテンポの前奏が始まった。


「モーニン。」


ミルに細かく砕かれたコーヒー豆から漂う香りと、アル・ジャロウの鼻に抜ける声が店中に広がり至福の世界に誘う。人が生きて行く人生で音楽と香りは重要な位置付けにあると思う。それは感情的になった自分の心の棘を丁寧に撫で下ろしてくれたり、疲弊した体に染み込み癒してくれる。モチベーションにカンフル剤を打ち込む効果も十分にある。特にコーヒーは「麻薬」、栄一の人生にコーヒーを欠いてしまう訳には行かないほど部類のコーヒー好きである。心身の疲れや浮き沈みにも即効性のある特効薬なのだから中毒になっても仕方ない。そしてそれらは、時間が経った時に「思い出」として記憶を呼び戻す引き金となってくれるいいアイテムの一つになることは間違いない。


栄一はこの店の全てが気に入っている。店内の装飾や調度品の趣味からなるコンセプト、アメリカのドライブインにあるようなメニューは、高カロリー高タンパクで、ざっくりとした無骨さも思わせるが、量も多く食べ応えはいつも嬉しい悲鳴を上げさせてくれる。ピザ、スペアリブ、ホットドッグ、サンドウィッチを筆頭にこれらをビールで流し込み、サラダやデザートもバリエーション豊富で、揚げたてのドーナツにアイスクリームを乗せメープルシロップの海に溺れさせると天国の食べ物へと進化し、栄一の大好物が出来上がる。

そして巧さんはじめ、奥さんのみち子さんやコックのスーさん、アルバイトの学生たちの中には個性派も多く愉快な仲間たちがラインナップされていて、ここに来ると胃袋も心も満たしてくれる。


カウンター越しに巧さんが淹れたてのコーヒーを渡してくれる。真っ白なカップに注がれた「麻薬」は見事なまでに美しい漆黒に輝いて見える。巧さんの淹れたコーヒー、一口目は特に見事な味だ。

栄一は礼を言いながら、


「美味いです。空腹にしみます。」

その言葉の最後に重ねるように巧さんが、

「ホットドックとピザだよね。」

「はい。ホットドックはダブルで、ピザはアンチョビのLサイズ。」

栄一は少し語気を強めているが、空腹で早く食べたい気持ちと、それが何よりも美味いモノであることをアピールするかのような口調であった。巧さんが続けて、


「分かったよ、分かったよ。」

と返しながら冷蔵庫の中を覗き込み30センチはあるソーセージを一本とアンチョビの入ったタッパー、ピザ生地とピザソースを一度に取り出し、両手と顎で支えながら右肩で扉を閉める。すでにコンロの上の鍋の湯はグツグツと煮え上がり、ソーセージにとっては熱めの湯加減だが、この際ソーセージの気持ちは無視することになる。やがてパンパンに張った皮に包まれた最高の仕上がりになるには適温なのだから。

銀盤の上に小麦粉をぶちまけピザ生地を伸ばし始めた。ソフトボール大の生地がみるみるうちに伸ばされてテーブルを覆い尽くす様はとても美しい。ある程度伸ばしたところでピザ皿に油を塗り始めるがこれまた素早い動きで20枚ほどの準備が完了、再び生地を麺棒で伸ばしテーブルいっぱいに広がったところでペティー片手に皿のサイズに合わせて切り込んでいく。切られた生地をパパッと皿に貼り付けこれまた完了。見ているだけでも楽しいほど手際が良く感心してしまう。


「僕の試合中のフットワークより速いかも。」

腕組みをしてそんな感想を言う栄一に、

「じゃあ、俺が栄一に勝てる?」

少しおどけて巧さん、

「可能性はあります…若干。。」

栄一も声のトーンを少し上げて。

巧さんは吹き出すように笑った。テンポのいい会話のキャッチボールが2人の仲の良さと、時を楽しくしてくれる遊び道具になっているが、巧さんの調理する手と足は止まらずスピーディーな作業中にも関わらず相変わらず笑顔が素敵である。

巧さんもテニスをする…、嗜む程度だが栄一とも幾度とコートに立ち、相手をすると言うよりも「レッスン」になってしまうが栄一も悪い気は全くなく日頃の感謝と共に面白おかしく指導を楽しんでいるようだ。

ピザ皿にソースを塗り、アンチョビを散りばめる。その上に山盛りのチーズを乗せてオーブンに放り込む。ホットドックのバンズに包丁で切込みを入れてこれもオーブンに放り込む。鍋のソーセージを指でつまんで弾力を見るとちょうどいい感じに張りだしてきたことを確認し頷きながら火を止めた。冷蔵庫に戻り大きなバターケースを取り出してキッチンテーブルの上に無造作に置き、同時に体を反転させてオーブンを開け、先ほどのバンズを取り出す。表面が少し濃くなったキツネ色のバンズからは焼きたてのパンの香りが漂う。バターナイフで一掬いしたバターをバンズの中に塗り込みレタスとオニオンのスライスを少し強引に押し込む。少し怒られているかのように扱われたバンズは口を開けて最終段階のソーセージ着床をただ待つだけ。そう、栄一もただ待つだけ。湯気を纏ったソーセージが湯船から吊るし上げられてバンズにゆっくりと左右バランスよく置かれ棚から白無垢の、ホットドッグよりも一回り大きい皿を取り出し、まな板から滑らせるように出来立てのホットドッグを移す。一掴みのポテトチップスと小ぶりのピクルスを2本添えればバターフィールド特製ダブルホットドッグの完成である。


「お待たせ。」

厨房を覗き込んでいた栄一に手渡しするときも笑顔である。バンズからはみ出すほど長いソーセージから立ち上がる湯気がまるでキラキラと輝いているよう。その香りを楽しむ間もなく出番を待っていたケチャップとマスタードの赤黄のボトルに手を伸ばし、素早く彩りよくコーディネートすれば待ち侘びた至福の瞬間まであと1秒。大きく開けた口に運ばれた素敵な食べものは三分の一ほど侵入して一気に断ち切られ噛み砕かれてコーヒーと一緒に飲み込まれる。栄一の笑顔で指についたケチャップを舐めながら、


「美味い!マジ美味い!」

独り言のように、それでいて巧さんに感謝も込めて。厨房の奥から巧さんが栄一に親指を立てて笑顔を向ける。二口目を頬張るとレタスとオニオンのシャキシャキした食感がまた歯にも美味しい。まるで子供のように口の中を食べものでいっぱいして食べることが好きな栄一、まだ飲み込めていないうちにポテトチップスとピクルスも放り込む。ここのピクルスは最高のピクルスだといつも思う。あまり酸味を好まない栄一でも美味しいと思う浅い酢漬け具合が脂っぽい食事によく合っている。自家製ではないが言うまでもなく「アメリカ製」である。

奥から焼き上がったピザを持って拓さんが栄一の横に座る。顔が「お待ち」と声を出さない言葉で言っている。

ここのピザは特徴的で、四角くで超薄く焼き上げている。ピザ生地は餃子の皮程度、その上に具材とチーズが乗っているのでほとんど生地感はないが、その分チーズとお好みの具材が堪能出来る仕上がりになっている。ビールに合うこと間違いなし。そんな仕様なのでカッターで9分割されているもののナイフとフォークでいただくことが望ましい。ピザに手を出す前に、


「拓さん、クアーズプリーズ。」

拓さんは言葉を出さずに冷蔵庫からビールのボトルを取り出し栄一に渡しながら、


「東京オープンはどうだった?」

1週間前にあった試合のことだった。

栄一はちょっとデリケートなところを突っつかれたようにピンッと顔を上げて拓さんに顔を向けた。口元にケチャップが付いたまま、


「準決勝で大川にやられました。」

拓さんが自分の口を指差して事態を知らせる。

大川とは同い年のジュニア時代からのライバルの1人で主だった大会ではもう何度も対戦し一喜一憂する正真正銘の好敵手である。栄一とは対照的なパワーテニスが売りで持ち前の足の速さから繰り出されるショットの威力は驚異的、だがミスも多い。ミスが少ない日は全日本のトップクラスでさえ畳み込まれるほどだが、乱高下するプレーに安定感はなく調子の上がらない試合では第1ラウンド敗退もそう珍しいことではない。


「アイツ、妙にミスが少なかった。らしくないテニスで調子狂いました。まっ、言い訳です。」

眉を吊り上げ頷きながら栄一が答える。

「大川くん、最近来ないな。。」

一仕事を終えた拓さんがウインストンの赤いパッケージから一本の煙草を取り出して口に運ぶ。デニムのポケットから銀色のジッポーを取り出しカチンと乾いた音を立てて火を点けると、スターリングシルバーの燻された銀色が働く男の手のひらによく似合っている。

「あいつも言ってました。バター行ってないって。行きたいって。」

ピザを二枚重ねて口いっぱいに頬張る栄一の食べ方はいかにもピザが美味そうに見える。CMに起用されればいい画になりそうだ。


「今度一緒に来ます。東京オープンで負けてやったんだから奢らせないと気が済まないんで。」

拓さんが含み笑いと一緒に人差し指と親指で挟んでいた煙草を口から離す。栄一は天井から吊るされたペンダントライトに向かって、ゆっくりと立ち上がる煙草の煙を目で追いながらビールのボトルを仰いで、口の中のピザを一気に流し込むと満足気な表情と徐々に満たされ始めた胃の感触も味わいながら、試合での経緯や大川のプレーで特にフォアハンドが物凄く当たりまくっていたこと、大川は決勝で年配のプロに負けたことを残されたピザとビールを平らげながら気丈に話す姿を拓さんは腕組みしながら聞いていた。


気がつけばレコードが最後の曲を終えて店内には栄一と拓さんの気配しかなく、カウンターからDJブースに出て来た拓さんがレコードを選んでいる。

2度ほどレコードを出してはしまいを繰り返し3度目に手にしたレコードをジャケットから取り出しターンテーブルへ。僅かなノイズの後に始まったイントロでこれもまた栄一の好きなアーティストのアルバムであることを知った栄一は軽く頷いて拓さんに目で合図を送る。


「これでいい?」

ちょっと申し訳なさそうな表情で栄一にお伺いするように。栄一はホットドッグを口に運んだ時と同じように右手の親指を立てて拓さんにgoodのアピール。

「ホール&オーツ好きです。これ聴くと元気出ます。」

栄一の、リズムに合わせて軽くヘッドバンディングと共にカウンターの張りを使って打楽器を催すパフォーマンスもこの店の雰囲気によく似合う。

拓さんがカウンター越しにコーヒーサーバー差し出してコーヒーを継ぎ足してくれる。食後のコーヒーは新しく入れ変えた熱いコーヒーを飲むことを拓さんが栄一に教えてくれたので、何も言わないが拓さんの計らいである。


「拓さん、相談が…。」

熱いコーヒーを一啜りしてから栄一が切り出す。

「ん?あらたまったな。」

優しい笑顔でそれに応える拓さんは次の煙草を取り出した。

「バイトさせて欲しいんです。ここで。」

少しだけちゃんとした口調を心がけた。

「えっ?それ本気で言ってるの?」

火の着いていない煙草が唇から落ちそうで落ちない。

「本気ですよ。バイトしないと厳しい…、親の脛もそろそろあてにしないでやってみようって。」

栄一もテニスでは他の学生より2つくらい頭が飛び出しているが、所詮学生であり親の世話にならなければやっていけない。大学は特待生扱いなので入学金も授業料も免除と親の負担をゼロにした親孝行者だが、本来ならば学業で大学に進んでもらいたかった親心を払いのけてのテニス推薦、生活の面倒は見てくれているが、テニスにかかる費用はラケットやシューズ代からストリングスの張り替え、試合のエントリー費や遠征費などはそろそろ自力で稼ぐことを考えていたところ。


「栄一がここ手伝ってくれるなんてもったいないくらい嬉しい、渡りに船だよ。ホントにここでいいのか?」

少し声が大きくなった拓さんの本音はwelcomeなのは決まっている。

「テニススクールでコーチのバイトした方がお金もいいんじゃない?栄一だったら高給取りになれそう。」

少し茶化す口調になったのは嫌味ではなくこれもまた拓さんの本音である。


「ここがいいんです。ここが好きなんです。」


栄一も本音である。

「出来れば週3くらい、夜は時間空いてるんで。」

ホール&オーツの「wait for me」がフェイドアウトするタイミングだったので栄一はレコードを変えに立ち上がりながら話した。

「俺は栄一が入ってくれるんだったら週に何日だって嬉しいから、栄一の都合で大丈夫だよ。ただし、大学や試合に影響させないようにしてね。」

拓さん、ホッとしたのか着火を待つくわえ煙草にやっと火が着く瞬間でもあった。

「それはもちろんです。」

次にターンテーブルに乗ったアーティストはTOTOベスト盤のオープニングは「パメラ」、出だしのベースがリズムよく体を自然に動かしてくれる。

「それとここはバイト代はそんなに高くないから期待は禁物、そのかわりバイトの日はメニュー食べ放題は保証するから。」

少し申し訳なさそうに話す拓さんに、

「マジですか?ホントに食べ放題?」

ここは栄一の声が1オクターブ上がったのは無理もない。

「きっと栄一はバイト代よりもたくさん食べるんだろうな。」

こんなことを言う拓さんは、コーヒーカップと煙草を同じ右手で器用に持ちながらとても嬉しそうである。

「じゃ契約成立で。ホールと中(厨房)どっちがいい?」

「う〜ん、料理作るの好きだから中ぎいいです。バターのレシピ覚えたいし。」

「good!お酒の作り方も覚えてね、教えるから。」

「はい。スッゲー楽しみ。」

曲が2曲目の「99」が始まる頃、入り口の扉が開いて美智子さんが入ってきた。拓さんの奥さんである。真っ赤なデニムパンツと黄色いスニーカーが似合っている。こちらもニコニコしながら右手をちょこんと上げて栄一に、

「こんちは。」

すかさず拓さんは、

「栄一バイト入ってくれるって!」

まるで子供が親に得意げに話すような口調が拓さんらしい。

「マジで、マジっすか!」

まん丸の目が倍くらいに大きくなって驚いている美智子さんは、いい意味で男っぽい性格でありいつもシンプルなところが分かりやすくて付き合いやすい。

「先ほど厳正なる抽選と面接の結果、拓さんから合格をいただきました。」

右手で敬礼をしながら栄一がおどけて挨拶をすると、

「よし!私がビシバシ鍛えてやっから覚悟しとけ!」

美智子さんらしい返しと表現が様になっている。

「はい!隊長!よろしくお願いします。」

栄一も乗りに合わせて声を大きく返す。こんなやりとりが栄一の心を癒していることもあって、ここバターフィールドは栄一にとって「帰る場所」の一つになっている。練習や試合で疲れきって真っ直ぐ家に帰らずにここにやって来る理由は、社会的欲求でや承認欲求のようなものなのかもしれない。テニスの一面は華々しく輝きを増す場面が多いにせよ、もともと群れずに一匹狼的な性格ゆえ、性格が暗くとられているところもあるが話せば直ぐに社交的なタイプであることも理解される。バターの雰囲気とそこに集まる人間たちは栄一が自然と交わることの出来る環境でもあった。

これからは一人の客のみならずバターの一スタッフとして新しい関係が始まることにも胸を膨らませていた。

「栄ちゃん、バイトの女の子に手出したら引っ叩くからね!」

笑いながら言う美智子さん、冗談もあからさまで愉快。

「女の子が僕に手を出してきたらOKですか?」

同じ調子で応えると美智子さんはニヤニヤしながら、

「それなら仕方ないよねぇ、据え膳食わぬはなんとやらってか。」

「どんなに腹減ってても、食いたくないものは食いませんよ。」

「好き嫌いはいかん!なんでも食べないと。来るものは拒まずってね。」

「ミッチー言ってることがめちゃくちゃだから。」

漫才のような会話も栄一には特別な時間と空間、いつものことだが素顔の自分を惜しみなくさらけ出せるここが大好きなのだ。

この後、3人でシフトの予定と仕事の内容を打ち合わせ、栄一目当てに大学生が増えそうだの、美智子さんはもう少し休みを増やせるだのと、2人にとっても期待感で話に花を咲かせた。


週に3日程度のシフトながらも、常に忙しいこの店では4〜5時間があっという間に過ぎてしまう。拓さんは親切丁寧に栄一に仕事を教えてくれる。基本的には厨房でオーダーメニューを作ることがメインで、もともと一人暮らしの環境から包丁やフライパンの使い方にも慣れている栄一なのでレシピさえ覚えてしまえば、ことはスムーズに運ぶ。知的好奇心に満ちた栄一の取り組み(ヤル気)は日に日に作業も効率よくさばけるようになり、かつ調理そのものもクオリティを上げ手早く丁寧な仕事は几帳面な栄一らしい。そんな栄一も拓さんや美智子さんは気に入っていて、あまり手のかからないことは大いに助かるに違いない。

栄一の大学やテニス仲間がこぞってバターに通うようになり以前以上に賑わいを増し、夜もたけなわ21:00を回れば満席の時間が長く店の前では空席を待つ客が絶えない日が続いた。栄一のシフトは翌日に試合がある日を除けば22:00で仕事を終えることで始まったものの、店の繁盛具合から定時に上がるには心苦しい空気もあって日が変わる頃までピザとスペアリブを焼き、ぶっといソーセージをボイルして、ドーナツの上に特大のアイスクリームを盛り付ける作業が続くが、栄一にとってこの忙しさは実は心地よさの一つでもあった。


「達成感」

時間を忘れるくらいにオーダーを調理し続ける中で、客は自分と同じようにこの店の美味いモノを食いに来ている。時には店に入るまでに1時間近くも寒空で待たされていることもあるが、店に入り軋むテーブルと椅子に座った瞬間からバターでの楽しくて美味しい時間が始まると一切のことを忘れてくれるくらいにここでの時間は有意義なものになる。きっとその価値観は栄一と同じものを持つ客も多いはずだ。

そんな客の気持ちを共感すればこそ、少しでも早く「美味いモノ」をしっかり調理して提供してあげたいとの思いはA型気質も相まって、たとえオーダー表が壁に収まらないほど並び、水を飲む時間すらなく2〜3時間ぶっ通しで動き回っても、むしろそんな時間があればあるほど栄一は張り切れるのである。手際よく、効率よくこなすことでの達成感、1分1秒たりとも無駄な動きのない、困窮と言うよりもむしろそのペースを楽しんでいるかのような充実感こそ。そんな栄一の性格が、後に「人生の指針」となったことは必然なものだったのかもしれない。


「この山が過ぎれば…」

そして一段落した時の最高のご褒美が「1杯のコーヒー」。その美味さを教えてくれたのも拓さんである。普段からコーヒー好きな栄一、目覚めのコーヒー、食後のコーヒー、練習や試合の後の一杯、デスクワークには欠かせないコーヒー…。どんな時にもコーヒーが気持ちを落ち着かせて疲れを癒してくれ、息も出来ないほど動いた後のコーヒーは一段と格別なもの。少し細かく挽いた濃いめのコーヒーが体に染み渡る時は、喉で感じる美味さを超越し快楽にまで栄一を誘う。栄一のイニシアチブは客の満足した顔と淹れたての香り漂う一杯のコーヒーさえあればいい。


「疲弊は快楽へのお膳立て」

一杯のコーヒーが苦痛や悲恋、憤怒や戒め全てを解決してくれることもある。栄一も幾度とドラマティックなシーンでコーヒーの魔力に救われたことを感謝している。


昼間テニスコートで汗を流し、夕方からバターでラケットから包丁とフライパンに持ち替えた時間は、栄一にとって心身共に充実する時間。調理や接客も楽しく、同じバイトの学生たちも気さくで打ち解けやすく、過ごす時間が長く感じたことは一度も無かったほど。バイトに入ってから2か月も経った頃には厨房からカウンターに移りカクテル作りにシェーカーを振っているほどサクサクと仕事を覚えた。常連客とのコミュも多種多様な会話がまた栄一にとって関心深いことばかりで、いろいろ社会勉強もさせてもらっている。その代わりに栄一も現状のテニス事情など一般目線では見えないところをそっと話したり、テニスをするという客との会話では上達や勝利についてアドバイスを求められるものの、押し付けにならない程度に一言程度の指導を挟んでみたり。そんなヤリトリは疲れを全く忘れさせてくれるほどに楽しんでいる。


「栄ちゃん、もう仕事全部覚えちゃったね。もう栄ちゃんにお店任せようかな〜」

オーダーのミモザを作るべく背の高いカクテルグラスを入念にナプキンで磨き始めた時、みち子さんが軽く栄一をからかう。手際よく冷えたシャンパンのコルクを抜き取りグラスの半分まで静かに注ぎ、残りの半分をよく冷えたオレンジジュースで満たせば完成、キュートな女の子に飲んでいただきたい。


「はい、栄一スペシャル。」

さきほどのみち子さんの言葉には答えず、どんな可愛い子のオーダーだったのかが気になり、みち子さんが運ぶ先を目で追いテーブルに着く直前で期待を打ち消した栄一だった。


ミッチーがカウンターに座りコーヒーカップ片手にニコニコしながら栄一を見つめる。もう片方の手で白いパッケージの煙草の箱をもて遊んでいる。

「仕事楽しいです。」

オーダーも少し落ち着いたので栄一もカップにコーヒーを注ぎながら答えた。

「テニスとどっちが楽しい?」

愚問と思ったが…、少し美智子さんを見つめコーヒーを一啜りしてから、

「足の骨を折ってしまったらここに就職させてください。」

「嘘ばっかり。でもテニスプレーヤーでやってけなかったらいつでも面倒みてあげる…、いや逆だ、老後の私たち面倒みてくださいな。」

セーラムの煙草を一本取り出してカウンターにトントンと突きながら横目で栄一を見る目が可愛い。

栄一が答えたこの回答は半ば本望でもあった。栄一はそれでもいい、それがいいとも本気で考えられるほどバターが心底気に入っていた。楽しんで時を過ごすこと、それはテニスと同じ、それが仕事の時間であればそれに越したことはないのだがそんなに上手い話なのだろうか。。


ちょうどレコードが終わったタイミングだったのでブースに入り、選曲しようと棚を見上げカセットテープを手に取る。いろいろなアーティストの曲が入ったオムニバスをかけてみた。流れて来たのはスローなペットの乾いた前奏からルイ・アームストロングの「what a wonderful world」

「なんて素晴らしい世界なんだ」とはよく言ったものだ。栄一が今この場で思いを言葉にすればこの言葉がなによりも的確な表現になるだろう。毎日テニスコートで練習と試合で本気になり、決まってこのバターに訪れ仕事であるはずが心地良い空間の中で時を過ごし、あっという間に時間が過ぎてしまうほどの充実感、今の自分には他に何が必要なのか思いを馳せるが、これと言ったものがイメージ出来ないのは幸せなことなのかどうか。。少し冷静になって考えれば自分にはテニスでの目標があって然り、もう少し結果が出せればプロフェッショナルのライセンス登録をして日本の大会のみならず海外でATP格付けの大会にも出場したい、現在トップランカーに勝てるくらい強くなりたいと我に帰る。そんなことは分かっている、これもまた愚問だと自分に言い聞かせる。されど、ここの時間は栄一にとって心惹かれるものであることは間違いない。


「テニスコートは完璧な場所」

そこは一切余計なものが存在しない場所。定められた範囲を白線が囲み、歪みや裂傷の無い直線的にコートを遮るネットが毅然と鎮座している場所、そこは妥協を許さずテニスの技術レベルはもとより男女・年齢・学歴・国籍、社会的地位すら一切隔たりや優遇処置など認められず、全ての人間がニュートラルに画一化されて戦う「聖地」、走って止まってまた走り、打ち込んで拾ってまた打ち込むことのみがテーマとなる。この場所に選手以外一つだけ許される存在はベンチだろう。にくいことに一定のインターバルで休む場所を用意してくれている。それは体と精神を休め次の闘いに向け整える場所。ここで過ごす時間が好きだ。勝っていても負けていても何処にも逃げることは出来ない。間もなく始まる試合の続きに、時はカウントダウンを始めている緊張感を鼻で笑ってやる時間が大好きだ。

人もテニスコートのようにシンプルで必要なものしか身に纏わない生活が送れることは出来ないのだろうか。。

テニスコートに無駄なものがあるとすれば、それはそこでプレーするマナーを守れない人間たちである。


栄一は許される範囲でずっと長くバターに居られるように、近い将来インターバルが開くかもしれないが少しでも巧さんたちと一緒に過ごせるように、この店が無くなるまでは死ぬまでずっと通いたいと思っていた。スピーカーがチャック・マンジョーネのペットを奏でる。「feel so good」音色がとても綺麗な曲だ。


僕が僕らしく過ごせる場所

僕を必要としてくれる場所

ここは僕の「聖地」

第二のテニスコート

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