スケッチブック



 中に入ると、開放感のある空間が広がっている。窓まで近づくとパノラマ写真のような光景に眼を見張った。夕陽に映える高層ビル群が遠くに霞みがかってみえたのだ。まもなく訪れる夕闇に、米粒ほどの灯火が見えかくれしている。

 ベランダには、プランターと鉢植えが整然と並べられちょっとした空中庭園に彩られていた。

 谷成行たになりゆきは感嘆の声をあげずにはいられなかった。

 高層階ということもあり、広さは4LDKはあるのではないかと、推測した。

「お前に言ってなかったな。今、姉貴と暮らしてるんだ。まぁ、正確にはこの部屋は、本来姉貴の住まいなんだけどな」

 成行は、芦山孝道あしやまたかみちの家に連休を利用して招待されていた。彼によれば、今住んでいるマンションの一室を姉の収入で賄っているという。

 お姉さんはいったい何の仕事に就いてるのだろうか。家賃だけでも車が一台買えるほどの金額かもしれない、と成行は想像をめぐらせた。


「すげぇな、おまえん家って」

「こんなところ一時的だよ。姉貴が海外出張、おおいし、親は二十歳過ぎれば自立できると思ってるようだし」

「いや、それだって俺にしてみれば」

 次の言葉に成行は詰まった。

「そうは言っても、結構大変なんだぜ。自由に使っていい代わりに、姉貴から部屋は絶えずきれいにしろ、散らかすなって、お達しの条件付きだからさ」

 口を持て余していたらしく芦山は、ここぞとばかりに姉への文句を言い放った。

「こんなでかい部屋、常に掃除ばかりしてたら、時間がいくらあっても足りねぇしさ。掃除バカになりそうだよ」

 物はいいようだな、と成行は思った。

「それで? その当事者はいつ頃ご帰国予定なんだ? 時間があったら挨拶ぐらいしたいと思うんだけど」

「ああ、そういや最近、国際電話で近々帰ってくるようなことを言ってたが」

「俺が部屋に入っちまったけど、いいのか?」

「気にすんなって。どうせ、いつ帰ってくるかわからねぇし、姉貴は男気が強いからバレやしねぇよ」

 と、強気の口調を芦山は吐き捨てた。

 芦山は、エプロンを着込むと冷蔵庫とキッチンを行ったり来たりしている。日頃から料理をしているようで、どこに何があるかをすべて把握している様子である。

「俺も何か手伝おうか?」

 忙しなく動く芦山を遠目から眺めていた成行は、何かできないものかと声をかけた。

「ああ、そうだな……」

 と、成行の気持ちを配慮している。


「最近、どうだ? うまくいってないのか?」

 野菜を切りながら、芦山は問いかけてきた。

「あいつ、のことか?」

 呟くも芦山が、

「そうじゃなくて、コンクールに出展する絵の仕上がりだ」

 なんだ、そっちの話か、とひどく焦っていた。

「下絵の候補はいくつか描いてきたんだが」

「マジか!?」

 デイバッグからA4サイズのスケッチブックを取り出した。



 自慢げにスケッチブックを一枚ずつめくっていく。どれも、池や川、緑豊かな景色の風景画ばかりだった。しかも、細かい描写で色鉛筆で丁寧に仕上げている。

 三枚目にして正面に東京タワーを描いた建築画がでてくる。その後数枚にわたり、様々な角度から描いた東京タワーの絵がでてきた。六枚目にスカイツリーを中心にした絵があらわれた。

「すげえな、風景画だけど、東京タワーとスカイツリーも描いたのか」

 芦山にとっては成行が誇れる存在だった。

「東京タワーとかスカイツリーは、建造物だから、比較的骨格がしっかりしてるし描きやすかったな」

 さまざまな角度の絵を描いてはいたが、どれもある程度の高さから描いたものばかりだった。成行の絵の特徴は、ある程度の標高や高さからの俯瞰図ふかんずだったのだ。

「お前、俺がここに住んでいることで、この高さから街の風景を描きたいと思っただろ! まあ、俺がスケッチブック持ってこいって言った手前、引き下がれねぇけどな」

「夜景をかけるのはお前のおかげだな」

「感謝しろよな! 5年のブランクがあっても、お前の心理が読めねぇほど落ちぶれちゃいねぇさ!」

「じゃあ、風景画を描かせるためにここに呼んだのか?」

「お前、画の製作中に邪魔が入るのはイヤだろ! 初美を呼ぶわけにもいかねぇし」

「初美ちゃんを呼ばないなんておかしいだろ!」

「そうは言ってもよぉ。なんつうか、その」

 少々恥ずかしがり、芦山は頭を掻いている。同性ならまだしも、姉以外の異性を部屋に入れることには、抵抗があるようだった。

「俺が電話してやるよ!」

 ん? 食材を準備してキッチンスペースにいた芦山が、訝しく成行の方をみた。

「お、おい勝手なことを」

 すでに成行は芦山のスマホを操作し電話している。芦山が近づいた時には、コール音がなりひびき始めている。

『もしもし、孝道? どうかしたの?』

 はっきりした口調の声が聴こえてきた。香坂初美こうさかはつみの声だった。

 芦山は、成行からスマホを奪い取ると狼狽の顔で、

「あ、いや、初美。今、どこにいるんだ?」

 と、少し上ずった声で応えた。

『家にいるけど、どうして?』

 疑いがあるような声が聴こえてきた。

 よこ入りして、成行が、

「もしもし、久しぶり。谷だけど、元気してた?」

 電話口でびっくりしているのか、成行のいきなりの声にわずかながら、隣にいる誰かと話しているようだった。

 応答がない香坂の電話口に痺れを切らしたのか、成行が

「もし、もーし。初美ちゃーん?」

 電話口で何かもめているようだった。

『もしもし……』

 明らかに香坂ではない落ち着いた声に、成行はドキリと胸の高鳴りを感じた。聞き覚えがある声だったのだ。

(エリ? なんで、初美ちゃんのところに?)

 芦山がふたたび引ったくり、もしもし、と呼びかけた。

「ん? 須賀すがか?」

 やはり、須賀エリだったんだ、と成行は思った。

 芦山は成行の呆然とする顔を見つつ

「ああ、成行なら隣にいるぜ。代わろうか?」

 成行は首を横に強く振った。浮かない顔をしている。まさか、エリが出るとは思わなかったのだ。

「どうだい? 俺んちに来ないか? これから鍋をするんだけど、エリちゃんも連れて一緒にどう?」

『いいわね、これからエリと食事をするところだったんだけど、お邪魔しちゃおうかな?』

 香坂の反応に芦山が眼を細めつつ親指を立て、うまくいった、という合図を成行にみせた。

 成行は浮かない顔を浮かべながらも、薄笑いの表情になる。

「場所、わかるよな? え? わからない? なら駅まで迎えにいくから」

 芦山は電話を切り、一息はいた。

 なぜか、成行がデイバッグを担ぎ、帰り支度をしている。足早に玄関へと向かっていた。

「お、おい、成行。帰っちまうのか? そりゃねぇだろ! これから初美たちを迎えに行かなきゃならないんだから」

「孝道には悪いが、今、エリと顔を合わせたくないんだ!」

 成行は蔑んだ顔で芦山を見ていた。

「なぁ頼むよ。俺ひとりじゃ初美とエリちゃんの二人の相手なんてできねぇよ」

 両腕で成行の腕をつかみ、懇願して引きとめようと芦山が必死に拝んでくる。

「それに、姉貴が帰ってきたらここからの風景画なんて描くこと出来ないだろ!」

「……」

 成行はすこし上目で考えていた。たしかに芦山の言うとおり、高層階からの風景画なんてそう滅多に描けることはないだろう。

「今日しかチャンスがねぇのに、無駄にする気かよ!」

 芦山は真剣な双眸で訴えかけてくる。高校時代以来の必死さだった。

「コンクールだって近いんだろ!」

 成行があきらめの表情になった。

「わかった。おまえの熱意には頭が下がるわ」

 そうと分かると、芦山が成行を部屋へと連れ戻した。

 ベランダに通じる窓を開け、外用のライトを灯し、夜景を描けるような準備をはじめる。9階という高所なためか、強風で耐えられるようにワイヤーで固定されたものがあちらこちらに見える。

「初美たちが来るまで、下絵を描いててくれ。夜景は綺麗だが、風邪ひかないようにな。いるものがあったら教えてくれ」

 窓を半分ほど閉めると、

「待ってろ、ブランケットを取ってくる」

 と、言って奥へと消えた。


 奥からダウンコートやらブランケット、ニット帽、手袋まで携えた芦山が戻ってきた。

「初美ちゃんたちを迎えにいってすぐ帰ってこいよな。俺はお前の客なんだから!」

「んなこと、わかってるよ」

 ふざけた顔のまま、軽い口調で成行に言い放った。

「じゃ、ひとっぱしり行ってくるから」

 芦山が玄関を出ることを確認し、ため息を洩らす。防寒装備を着込み成行はベランダへと歩き出した。

 強風が吹き荒れる中、成行はスケッチブックのキャンパスに色鉛筆で街の稜線と空の境目を描き始める。

 成行は夜景を描くのは得意ではなかった。スケッチブックに描く絵は、どれもが昼間の風景だったからだ。ただ、彼には感覚というものが備わっていたため、初めて描く夜景でも自分の見たままに描けるという自信があった。

 常に吹き荒ぶ強風だったが、ダウンコートとニット帽、ブランケットが彼を包み込み、寒さに震えることはなかった。時折、くしゃみは出るものの、描くことに夢中になる。


 ベランダに出てから三時間が経過した。夜風が、体の熱を奪っていくほど冷たい風になり成行の肌を刺激した

「おーい、成行! お地蔵さん」

 声がした。笑い声も聴こえてきた。

「お地蔵さま」

 振り返り様に叫んだ。あきらかに馬鹿にした言い方だ。

「誰が、地蔵さまだ!」

 いつの間にか、芦山の笑い声が部屋中にこだましていた。帰ってきたようだった。

「だって、ニット帽かぶってブランケットに包まれてて、じっとしてるんだもん。遠くから見たらお地蔵さまみたいで」

 香坂初美だった。赤いニット帽にマフラーとピンク色のダウンジャケットを着込んでいた。

「久しぶりだね。孝道が何度も呼びかけたのに返事がないんだもん」

「初美ちゃんか」

「寒い中で、描いてたんでしょ? 休憩して中、入ろうよ」

 すたすたと中へ香坂は入っていく。部屋の中は、暖房が効いているらしく温かい。ぐつぐつと野菜の煮える音が、成行の腹の虫を目覚めさせたようだった。

 奥から笑い声が聴こえてきた。棚に置かれた置き時計は、既に九時半を回っている。

「おお、成行、やっと現実に戻ってきたか」

「久しぶりに現実に目覚めた感想は?」

 エリがにこやかに成行をみつめる。

「極寒の地から生還した気分だ」

 後ろから香坂が、ぼやかない、ぼやかない! と、声をあげる。須賀エリがクスクスと微笑みをこぼした。


「鍋の準備もできたし、食べるか?」

 すでにテーブルには、卓上コンロが用意され火がついている。

 芦山のおんどで鍋パーティーが始まった。香坂はお酒が入ったことで、日頃のうっぷんを芦山や成行に言いまくっていた。

 須賀エリはアルコール類が苦手らしく紅茶やジュースなどで喉を潤していた。

 しばらくするとベランダへと逃げた。やりかけの下絵が成行には気になった。

 香坂の相手は芦山がするだろうと、見越したのだ。途中になっていた夜景の下絵を完成させたいと、アルコールの抜け切らないうちに仕上げようと急ぐ。

「谷くん、スケッチの下絵、できた?」

 寒さを堪えつつ、須賀が成行に寄ってきた。

「エリ、もうすぐ完成する」

 須賀が寄り添うようにブランケットの中へと入ってくる。

「俺のこと、怒ってないか?」

 平静そうな顔で須賀が成行をながめている。

「どうして? 成行の性格は私が一番知っているつもりなのに、今更どうしようもないもん」

「そっか、やっぱエリだな」

「でも、浮気は今回限りだよ」

 須賀は人差し指を成行の頬に押し込む。その顔には、微笑みの中に僅かながら女性の妖艶さがあった。成行は覚悟の見える顔になっていた。

「今度、ふたりで温泉に行かないか?」

「成行にそんな余裕、あるの?」

「もちろん、今はない。コンクール終わったら、ってことで」

「はい、はい。考えておくわ」

 夜が更け、いつのまにか会話が止んでいた。



「おい、成行! なりゆきっ! おきろっ!」

 怒鳴り声とともに成行は目を覚ました。こめかみを抑え、痛みに耐えている。どうやら二日酔いらしい。

 既に陽は昇りはじめていた。

「どうしたっていうんだよ! 孝道」

「姉貴が今日帰ってくるんだよ!」

「ああん?」

「姉貴の抜き打ちだ! 悪いがすぐ帰ってくれ!」

 部屋の中では、香坂と須賀が忙しく動き回っていた。

「成行、また連絡する」

 芦山が成行を玄関へと連れ出した。

 頭の痛みの残る中、エレベーターホールへと歩んでいく。朦朧もうろうとしていた。何かを忘れているのでは、と思うも浮かんでこない。


 自動ドアを出るとき、旅行用のカバンのスーツケースを引いている女性とすれちがった。スラリとした体型に、顔はサングラスをかけ目元がわからない。

 朦朧とした姿のまま坂を下っていく。突然、スマホの着信がなり響き始めた。芦山だった。

『成行、おまえ忘れもんしなかったか?』

「えっ!?」

 呆然とする中、スマホを落としそうになる。ハッとなり気づいた。

 背後から近づいてくる女性がいた。須賀エリだった。

「なりゆきぃ、忘れ物届けにきたよ! もう、相変わらず忘れ物が多いんだから」

 須賀の手にはスケッチブックを持っていた。

「あっ! スケッチブック」

「これ、あんたのだよね? 間に合ってよかった」

「わりぃ、わりぃ。わざわざ持ってきてもらって」

「大事にしなさいよね! あのベランダで描くことなんてもうないかもしれないんだから。さっき、芦山くんのお姉さんが帰ってきたみたいだし」

「マジか!?」

 須賀が首肯した。

「ねぇ、駅まで行くんでしょ? ちょっとどっかに寄らない? あんたの描いた夜景のスケッチみたいし」

「まだ、下絵だから人にみせられるもんじゃ」

「なによ。忘れ物を届けにきたんだから、それぐらいいじゃない。じゃあ、他の風景画ならいいのね?」

 しかたないという諦め顔で、うん、と成行はこたえた。

 ふたりは駅へとむかっていった。


   完

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