第15話 太平洋戦争 後半

アメリカの工業力の強大さを知る山本五十六司令長官が言った。


 「アメリカと戦争しろというなら長期戦は絶対無理です。しかしどうしてもやれというならせいぜい半年間は暴れて見せます」


という言葉が現実のものになったのです。


 これは野球で例えるなら2回の裏でアメリカが満塁ホームランを出して同点に追いついたようなものです。


 その後日本は毎回ヒットが出ずに0点が続きアメリカは毎回得点を重ねて最後の9回の裏に2発の原爆を投下して駄目押しの満塁ホームランを出したようなものです。


 しかし国民にはこのスコアは発表されず新聞やラジオでうその報道を流して終戦まで最初の4点のリードが続いているものだと信じ込まされていました。


 今のようにインターネットや携帯電話のない時代でしたので正確な情報を取るすべのない国民はわからずじまいでしたがそれでも戦争終盤になるとB29という大型の爆撃機が日本の主要都市を次々と爆撃するようになると

 「日本は本当は負けているんだ」

 「海軍は全滅したらしい」

 「おれたちは軍部にだまされている」

と誰もがうすうすは感じていましたが憲兵の取締りが厳しいこの時代では決して大きい声では言えない風潮がありました。


 私は、この戦争中3度、乗っていた艦を沈められた経験があります。


 1回目は昭和17年(1942年)10月11日、古鷹という巡洋艦に乗っていたときガダルカナル島沖の海戦で撃沈されました。


 このときアメリカ軍は開発直後の電信探査機というレーダーの初期版でこちらを狙って正確な射撃をしかけたのです。


 その結果、戦闘がはじまってからわずか10分くらいの間に敵艦からの砲弾が正確に雨あられのように飛んできました。


 約80発の砲弾は私の働いていた艦橋をはじめ、あらゆる大切な部署に命中して航行不能になり、その後沈没したのです。


 このとき沈む艦から脱出した私は漂流しているところを味方の駆逐艦に発見されて九死に一生を得ました。


 2回目は昭和19年(1944年)2月17日、私が次に乗艦していた那珂という巡洋艦が、トラック島に停泊している時に、敵の飛行機によって爆弾を投下されて撃沈されました。


 前回と違ってこのときはは島に停泊していたので沈没した艦から海に飛び込んだ私は泳いで近くの陸地までたどり着き助かったのです。


 3回目が名取という巡洋艦で、フィリピンの首都マニラから南洋諸島のパラオに輸送任務についている途中をアメリカの潜水艦によって魚雷攻撃を受けて沈没したのです。

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