終章  ─仲の町 植える栄華の 夢見草─

 階下へ降りると、朋輩女郎や新造、禿、若い者などの廓者がずらりと揃っていた。

 この見世で御職を張る住吉すみよしもおり、鳳と常磐の姿を認めると、ついと寄ってきた。

「鳳さん、ようお気張りなんし」

「おありがとうおざんす、住吉姐さん」

 殊勝に頭を下げる鳳に、住吉はわずかに眉をひそめた。先輩とはいえど住吉はまだ十八歳、五つも年上の女郎に『姐さん』呼ばわりされて面白くないのも無理はない。

「呼出しになれたのも、ぬしの日々の精進が実を結んだのでありんしょう。これぞまっこと『時節を待ちて、また取るべし』だわいな」

 羅生門において渡辺綱に腕を斬られた鬼が、最後に吐いた捨て台詞。

 もがれた腕を、時期を見て取り戻してやる。

 吉原一の花魁から河岸女郎に転落しても、必ずや這い上がってやる──。

 わざわざあてつけてくる住吉の嫌味さに、常磐は呆れるばかりだったが、それを受けた鳳は、

「アイ。わっちの執念深さは筋金入りでおざんすよ。ソレこうしてもがれた腕も取り戻したこと、これからは高砂屋の名に恥じぬよう、きっちり勤めを果たしんす」

と、からりと笑って己の左腕をたたいて見せた。

 投げつけた嫌味を交わされて、唇を噛む住吉の眼前を、鳳は悠々と横切った。すでに支度を終えて待っていた、ひのでときりのに優しくほほえみかける。ふたりは姉女郎とお揃いの柄が入った振袖を着て、守刀まもりがたなと人形とをそれぞれ胸に抱えている。

 鳳は手にしていた二枚の櫛をふたりに見せ、

「これはふたつでひとつの櫛でおざんす。おまえたち、仲良うお勤めなんしよ」

と、島田に結った髪に一枚ずつ挿してやった。

「おありがとうおざんす、おいらん」

 異口同音で答えた禿ふたりを、常磐は微笑ましく見つめた。

 ふたりの髪には、二枚でひとつの絵になる二枚櫛がそれぞれ飾られていた。

 絵柄は松葉に鶴。

 この見世に来て、はじめて鳳があつらえた櫛だった。

 ふと、鳳が肩を寄せてきた。笹紅ささべに色に彩られた唇が耳許へ近づき、

「ありがとう、姐さん」

と、廓言葉を崩した。道中の準備は佳境に入っており、誰も花魁の口調をとがめる者はいなかった。

「あのときの茶飯がなければ、わっちは局で死んでいた。ここまでこれたのは、姐さんのおかげよ」

「おいらん……」

 自暴自棄になっていたすずめに食べさせた、ひと匙の茶飯。

 身体も、矜持も、命をも。

 絶望のあまりすべてを投げだそうとしていたすずめをつなぎ止めた、たったひとつの真心じつ

 あれが、ふたりのはじまりだった。

「今日という日は、わっちのためじゃない。姐さんのための日よ」

 そうつぶやくすずめの両の瞳に、自分が映っている。

 希望も、家族も、あらゆるものをうしなった女が。

 常磐はふっと口許をほころばせ、

「……ありがとよ」

と、ささやき返した。

「あたしはなんにもしてないよ。ただ……」

「ただ?」

 小首をかしげるところは、羅生門河岸にいたころと変わりない。

 どこかあどけなく、幼子を思わせる仕草。

「あんたが〝鬼〟に喰われないよう、見守ってただけさ。実際にあそこから這い上がったのは、あんた自身だ。今日の道中は自分で勝ち取ったものなんだから、堂々と胸を張りな──すずめ」

 かつての名を呼ぶと、すずめはわずかに瞠目したが、すぐに微笑んでうなずいた。




 やがて、すべての準備が整った。

「おいらん、よろしいですか」

 羽織袴で正装した楼主が、鳳に向かいうやうやしく頭を下げる。

 うなずいた鳳は、禿たちと同じくお揃いの振袖を身につけた彩鳥の手を借り、黒塗り三枚歯の高下駄に足を通した。

 すらりと背を伸ばし、胸を張ったその姿は、まさしく鳳凰のごとき美しさと力強さとを秘めていた。

 ──掃き溜めの鶴が雀になり、鳳凰へと舞い上がった──。

「さあ、行こう。──おまつ姐さん」

 傍らで見守る常磐を振り返り、鳳は笑った。

 かつて「むき身切り干しが食べたいなあ」と話していたときと、同じ笑顔で。

 その笑みを受け、常磐は強くうなずいた。

 暖簾をくぐり、一行は総籬そうまがきを横目に往来へと進み出る。黄昏時の京町一丁目の通りには、新しき花魁の門出を一目見ようと野次馬が垣を作っていた。

 高砂松の定紋の入った箱提灯を持つ見世番を先頭に、道中はゆったりと進んでゆく。見世番の後を振袖新造が付き、続いて左右に禿を従えた鳳が、若い者の肩を借りつつ悠々と八文字を踏んだ。

 最後尾でその光景を眺めていた常磐は、あの日にかえったような気がした。

 夢のように美しい、あの日。あの光景。

 もう一度、この目で見られるなんて──。

 ──もう、あのにはあたしがついてなくても大丈夫だ

 常磐は、そっと嘆息した。

 夢にまで見た花魁道中。もう、心残りはない。

 明日にでも、楼主と内儀にいとま乞いを申し出るつもりだった。

 暇乞いといっても、帰る家はない。だが、吉原ここに残るのもそろそろ限界だろう。

 ずきん、と背中が痛んだが、披露目の場で腰を曲げるわけにはいかない。常磐はせいいっぱい背筋を伸ばした。

 この四年、誰よりもすずめを、鳳を近くで見てきた。

 そして確信した。

 あのは大丈夫。

 あたしと違い、かさ──すなわち梅毒には、感染かかっていない。

 羅生門河岸あんなとこにいつまでもいたら、あたしのように瘡かきになってしまう。

 だから、あのは出してやらねばならない。

 あのには、高みを目指してんでゆける、立派な翼があるのだから。

 常磐はもう一度、深く息を吐いた。

 羅生門河岸で客を取るようになって間もなく、股の付け根が腫れた。その後胸や背中、足裏などに発疹が出た。

 女郎ならばいつ罹患してもおかしくない病だが、それでも朋輩に知られたくなくて、わざと遠い湯屋へ通うことにした。

 あれから四年。

 発疹はいつの間にか消え、それからは目に見える症状は出ていなかったが、最近になって体にしこりが出て、全身が痛みはじめた。

 そう遠くないうちに鼻は落ち、目は潰れ、頭はいかれてしまうだろう。

 そんな状態で、鳳のそばにいるわけにはいかない。

 あのは、吉原一の花魁に返り咲くのだから。

 常磐木落葉ときわぎおちばのごとく、人知れずひっそりと姿を消すべきだ。

 ゆっくりとまばたきしてから、常磐はまだものを映せる目を見開いた。

 道中を取り囲み、喝采する群衆を。

 大輪の花のように開いた長柄傘ながえがさを。

 愛らしい双子のような禿たちを。

 娘盛りで初々しい振袖新造を。

 そしてなにより、見事な八文字を踏む、華やかな鳳を。

 二度と見ることができないこの美しい光景を、両の目の奥にしっかりと焼き付けた。

 一行が京町一丁目の木戸門をくぐると、仲ノ町は桜で満たされていた。



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