雛鶴は 千両にする つもりの名(三)

「あとのことは、覚えてないの。気付いたら、見世のはりから荒縄で吊し上げられてた」

 湯飲みに視線を落としたまま、すずめは続けた。

「足抜けが露見すれば、見せしめのため大々的に仕置きをするのが決まり。だけどわっちは身請けが決まってたから、楼主だんさんは最初から極秘で弥助さんだけを始末するつもりだったの。でも、わっちが乱心して大暴れしたから、吉原ちょう内に噂が広まってしまった」

「じゃあ、身請け話は……」

「もちろんご破算よ。桂屋の旦那が欲しかったのは、全盛の花魁〝八角屋雛鶴〟だもの。足抜けに失敗して物狂いに陥った女郎なんぞ、なんの価値もないからね」

 そうして用なしとなった雛鶴は、ぼろきれのように羅生門河岸へ捨てられたという。

 すっかり冷めてしまった白湯をすすり、おまつはため息をついた。

「そんなことがあったなんて……。全然知らなかった」

 このあたりには吉原雀も近づかないため、おまつをはじめとする河岸女郎は噂には縁遠かった。

 客のほうも、張見世をしない呼出しの顔なぞそうそう拝む機会もないため、すずめの素性には気付かなかったに違いない。

「かまわないよ。萬字屋の内儀さんもわっちの昔を売りにはしなかったし、むしろ気が楽だった」

 あの業突く張りの婆ァなら、元花魁を全面に出してあこぎな売り方をするはずなのに、と思い訊ねてみると、八角屋からは「上玉をただ同然でくれてやる代わりに、雛鶴の過去を暴露するような商売をするな。もし漏らしたら、見世ごと潰す」と脅されていたという。内儀からすれば、疫病神を押しつけられたも同然だった。

 すずめは湯飲みを置き、まつげを伏せた。

「わっちはいいのよ。河岸に堕とされても生きてるんだから。でも……弥助さんは殺されてしまった。わっちが足抜けをせがんだから……」

 最後まで言わないうちに目尻に涙があふれ、次々と流れ落ちてゆく。

「ごめんなさい、弥助さん。わっちのせいで……」

 しゃくりあげて泣き続けるすずめを、おまつは黙って見つめた。三畳に満たない狭い室内に、低い嗚咽だけが響く。

 ふたりは、どれほど好き合っていたのだろう。

 おまつも女郎の端くれ、かつては間夫と呼べる男も何人かいた。

 たいていは女の床と懐に潜り込むしかできないろくでなしだったが、言い交わしている間は辛い勤めも忘れられた。だがそれでも、ともに死のうと思ってもいいほどの男はいなかったし、逃げようと言ってくれる男もいなかった。

 だから、命を賭して恋人を逃がそうとした弥助の男気に心を打たれ、そんな男を間夫に持ったすずめが少しばかりうらやましくもあった。

 それにしても──どうして計画がバレたのだろう。

 弥助との落ち合い場所をあらかじめ押さえられていたということは、足抜けの算段についてしたためた文の内容が楼主に漏れたということだ。しかし、肝心の文は偽名の『黒亀』を符牒ふちょうとして使っていたという。

 秘密の符牒だったはずの『黒亀』が、なぜか楼主に漏れていた。誰かが符牒を見抜き、文を楼主へ持ち込んだということだ。

 それができるのは、ふたりしかいない。

「ねえすずめ。さっきあんた、見世の若い者に足抜けについて書いた文を渡したって言ってたよね」

 おまつの問いに、衝動が落ち着いたらしいすずめが顔を上げた。泣き腫らした目をしばたかせ、

「ええ……さっきの男よ。蓑吉という男で、八角屋の若い者なの。若いのに気が利くってんで、朋輩からよく文使いへの使い走りを頼まれてた」

 文は、雛鶴から蓑吉へ、さらに文使いへと渡っていった。

 ということは──。

「蓑吉か、文使いか。このどっちかが符牒を見抜いたってこったね」

 おまつの言葉に、すずめは眉間を険しくした

「文使いは違うと思うわ。わっちが懇意にしてたのは勘六って人だけど、この人の仕事は安心できるって女郎衆の間でも評判の人よ」

 たしかに、文使いは機転が利き、女郎衆から信頼される者が多いという。

 たとえ宛名の違う手紙を何通も預かっても、決して間違い配達などしないし、秘密を漏らすようなこともしない。預かった文を勝手に持ち出すなんてことは、絶対にないはず。

 ということは、雛鶴からいったん預かり、文使いの勘六に渡す間を取り持った蓑吉か。

「蓑吉は朋輩には重宝がられてたけど、わっちは苦手だった。床入りの様子をいちいち聞いてきたり、わざわざ不寝番ねずのばんと交代して油を差しに来たこともあるのよ。ほんに嫌なやつだったわ」

 不寝番ねずのばんは、夜中に各部屋の行灯に油を差しに回る役目だ。もちろん、客と遊女が交合の真っ最中であろうとお構いなしである。おそらく、雛鶴の床具合を覗き見していたのだろう。

「なるほどね。その蓑吉ってやつは、前からあんたのことを狙ってたんだろうよ。で、あんたが別の見世に鞍替えしたから、いそいそと買いに来たってわけだ」

 吉原で働く男は、同じ見世の遊女に手を出してはいけないという不文律がある。しかし、見世が変わればその限りではない。

「たぶん、そうだと思う。ああでも、いくら商売でもあいつと床を付けるのは勘弁してほしいわ」

 あからさまに顔を歪ませ、すずめは吐き捨てる。

「ふうむ……」

 蓑吉には、符牒を見抜いて楼主に告げ口した可能性があるということか──。

 なにやら考え込むおまつの様子に、

「どうしたの姐さん? 急に黙っちゃって……」

と、すずめは不安そうな表情を浮かべた。

 しばらく思案したのち、おまつは切り出した。

「ちょっと、やってみたいことがあるんだけど」

「やってみたいこと……?」

「ああ。あたしにまかせてくれるかい?」

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