第一章「朝日と白夜」

 瞼の向こうに薄明りを感じて、フランは眼を開けた。

 茶色い板張りの天井が視界に入る。

 一瞬、自宅で寝ているのだと錯覚した。それならこのまま眠っていれば母が起こしに来るはずだった。先に朝食を作ってくれているかもしれない。まだなら手伝わなければいけないが、どうしようか、けれどまだ眠っていたい――

 ぼんやりとした意識のまま視線を横に動かすと、左側にカーテンのない窓が見えた。見覚えのない窓だった。冬の朝の弱い陽射しを室内に取り込んでいる。

 フランは現実に引き戻された。

 我が家ではなかった。そこは知らない場所だった。

(あぁ……そうか……)

 違う。あの部屋ではない。母と暮らしていたあの家には、あの人生にはもう二度と戻ることはできない。生死の境の中で忘れていた現実を再認識し、フランは絶望した。

 失われていた身体の感覚が徐々に戻ってくる。

 脇腹の傷。およそ七時間ぶりにこの刺し傷を痛いと感じた。逃亡のために必死に手足を動かしていた間は、痛みを感じる余裕すらなかった。死線に追い詰められた肉体と精神が、強制的に無視させていた。

 認識した瞬間から、その感覚は鋭さを増していく。どくん、という心臓の鼓動と血流に合わせて、神経が危険を訴えてくる。

(う……)

 小さく呻く。

 耳も聞こえる。嗅いだ事のない匂いがする。土の不快な冷たさは感じない。指を動かすと、布の感触がした。地面の上ではない、重く暖かい布団の肌触りを感じる。まだ生きていることを確認したらしいフランの肉体は、意識と共に五感を再起動させて状況を把握しようとしていた。

 ゆっくりと深呼吸をして、痛みに刺激されて際限なく早まっていこうとする鼓動をなんとか抑えた。

(僕は……)

 昨晩のことを思い出そうとする。怪我をして、無我夢中で逃走していた時の視覚情報が細切れに浮かんできた。よく覚えていないが、疲労感からすると相当な距離を走ったのだろうと予想した。

 横になったまま室内を見渡し、少しでも状況を把握できそうなものを探す。

 質素な部屋だった。ベッドの隣には簡単な作りの机があり、水が入った瓶とグラスが置いてある。窓の反対側、フランの右には扉と飾りっ気のない小さな箪笥、その他の家具は見えない。壁には何もかかっていない。装飾しようという意思が皆無であり、どこか寂れた雰囲気すら感じさせる。

 そこはやはり初めて見る場所で、見知らぬベッドに眠っていた。

 手足を軽く動かしてみる。節々の動きが鈍く打撲もあるようだが、脇腹より大きな痛みは感じなかった。傷を刺激しないよう注意を払いながら、慎重に身体を起こした。腕を突っ張り、腹筋には仕事をさせないように気をつける。

 視点を上げたことによって、自分と家具以外のもうひとつの存在をみつけた。

 一人の少女がいた。

 十代前半くらいの、数歳年下に見える小柄な女の子だった。ベッドの脇に腕を枕にして突っ伏している。床板に直に座っており、フランの腰の辺り、ベッドの右側にしがみつくような格好でもたれかかっている。

 フランは、腕と髪に半分隠された少女の顔を覗いた。

(…………)

 静かに寝息を立てる少女。立ち上がれば肩より長そうな髪を顔とシーツの上に散らし、うすい瞼を閉じている。小さな唇にかかる髪の毛が息を吐くたびに揺れていた。

 艶やかな黒髪は朝日を反射して、乾いた空気の中できらきらと輝いている。素朴な室内にあって、それは唯一の装飾として光を受けていた。

 フランは幼い寝顔をじっと見つめた。見つめ続けた。

(…………?)

 奇妙な感覚がある。

 目覚めた時と同じような、もう戻れない遠い過去の錯覚にも似ていた。

 知らない女の子だ、しかしずっと昔に会ったことがあり、なんだか懐かしいような――それでいていつも心の中に感じているような、それは不思議な感覚だった。

 心臓の鼓動が落ち着いていく。少女の寝顔を見つめていると傷の痛みすら和らぐ気がした。

(誰だ、この子は……いや、それより――)

 起きた時と同じく慎重に腕を折り、再び身体を横たえた。傍らに寝息を感じながら、最も重要な問題に思考を戻す。

(ここは――どこだろう)

 フランは弱々しい陽光に包まれながら、茫漠として答えの出ない問いに占められた意識をもてあましていた。

 ……静かな時が流れて行く。


 部屋の扉が開く気配で眼が覚めた。

「気がついたのね」

 気配が口を利いた。扉を開け部屋に入ってきた女性の声だった。眼が合うと、女性は安堵の表情を浮かべ、

「良かった……本当に。でも、まだ寝ていた方がいいわね。ひどい傷だったのだから」

「ここは、どこですか……?」

「私の家よ」

 フランが視線を下げると、先程の少女はまだそこに眠っていた。

「この子は――」

「娘よ。あなたが無事だったのはその子のおかげね。自分の部屋で寝なさいと言ったのだけれど、しょうがない子」

 言いながら、少女の身体に毛布をかける。

 少女に視線を向けたまま、フランは女性の言葉を反芻した。この子は夜通し見守っていてくれたのだろうか。なんのために――

 フランは身体を起こした。

「まだ安静にしていなきゃ」

「いえ、もう――痛みもだいぶいいようです。ちょっと日の光に当たりたいんです」

「そう。――長らく使ってないベッドだったから、寝心地は悪かったかもしれない。ごめんなさいね」

 ベッドから足を降ろす。布団がめくられ、内側にべったりこびりついた血痕が現れた。血が女性に見えないようすぐに隠したが、

「…………」

 彼の着ているシャツも赤黒く、まだら模様に変色している。

 大きく広がる血痕は、出血量の多さを物語っていた。にもかかわらず、なぜ一夜を明かしただけでこんなにも回復しているのか――不審がられるかと身構えたが、女性は、

「出口は部屋を出て左よ。まだ無理はしないようにね。朝ごはんは用意しておくから、後で一緒に食べましょう」

 と伝えて、彼に優しげな視線を送るのみだった。


          *


 木々に砕かれた朝の太陽が、細切れの陽光を地上へ届けている。光と炎の塊から送られ続ける膨大な熱量が、凍える世界を解かし始めていた。

 光の恩恵を受ける存在の中に、フラン・トライバルはいた。

 フランは昨夜流した自身の血痕を辿り、川の側に来ていた。大きく弧を描いており、内側の部分は浅瀬になっている。

(僕は――)

 水際で砂利を踏みながら、ぼんやりと考える。

 日没後にあれほどの傷を負いながら、逃げおおせて一命を取り留めたことは奇跡とも呼べる現象だった。彼自身が生きることを望んで逃走していたのであり、その願いが叶ったのだから喜ぶべき状況のはずだったが、

(僕は――どうして生きているんだろう)

 意識が戻った時から、その思いは消えなかった。

 なぜ夜を明かすことができたのかという具体的な疑問ではなく、自分が今ここに立って陽光を浴び、人生を続けていることへの根本的な問いであった。

 シャツの血痕に眼をやる。白い布地は傷口付近を中心に広く染め上げられている。

(妙だと思われただろうな――十中八九、助からなかったはずだ)

 水の流れる音が聞こえる。ゆっくりと深く息を吸う。腕を広げ、光を全身で受ける。

 じっとそうしていると、日光が身体中に染み込んでいくのがわかる。同時に、痛みと疲労が和らいでいった。

 数分間、彼はそうして立っていた。

 やがてもう十分だと判断すると、血塗れのシャツのボタンを外し始めた。前をはだけ、丁寧に巻かれていた腹部の包帯を解いていく。包帯には彼の流した生乾きの血液がべったりと貼り付いていたが、構わずべりべりと引っぺがしていく。

 血痕を辿りながら歩くうちに、おぼろげに昨夜のことを思い出していた。

(何者かに――賊に襲われたんだ。初めてのことだったから、みんな油断してたんだろう……)

 襲撃を受けていると気付いた時、フランは半ば喜んでいた。これで空しいだけのこの世界からやっと解放されるのだと思った。しかし、

(けれど、僕は――)

 怖くなった。

 鋭い痛みを前にして、ナイフの煌きという明確な死の「形」を前にして、経験したことのない心の底からの恐怖が沸き起こった。死とは何か。自分がこの世からいなくなるとは、一体どういうことなのか。

 小さな子どもが感じるような幼稚な疑問――「人は死んだらどうなるの?」という考えが頭の中を埋め尽くし、凄絶なる恐怖となってフランの身体を突き動かした。

 肉体が発する本能の訴えに従い、追手から逃げているうちに――この川に落ちたのだった。水を飲もうと窒息しようと、生命を守るために動き続けることを止めなかった自分の体力に驚嘆していた。

 しかし――なぜ生きているのか、心の問いの答えは出ない。致命傷になり得る一撃を受けたはずだった。死ぬこともできないのか。いつ死んでもいいのではなかったのか――反射で煌く川面を眺めながら、フランは自問自答を続けていた。

 と、背後から砂利を踏む音が近付いてきた。思考を止める。

「やあ、おはようっ!」

 声をかけられる。声量が大きく快活な朝の挨拶だった。

 振り返ると、汚いスコップを担いだ男がこちらに歩いてくる。農夫がよく着ている、オーバーオールとゴム長靴という作業着姿だった。

「……おはようございます」

 フランは覇気のない返事をした。

「いやあ、こうして農具の手入れをしなけりゃあ一日が始まらんからな」

 作業着の男はそう言って、川の中に入った。膝下まで浸かり、ばしゃばしゃと音を立てながらスコップについた泥を落とし始める。水が茶色く濁って流れていく。

「…………」

 フランはその様子を、表情を変えずに眺めている。

 男は川の水に泥汚れを流し終えると、よっこらしょと腰を伸ばした。そして笑顔で話しかけてくる。

「よぉし、お終いっと。ところで少年、君はこの辺の子かな。朝の体操かい?」

「……ええ、まぁ」

 答えになっていない返事に対して男は、

「なんだ、元気がないなあ。そうだ君、どうだ。良かったら私のうちに来るかい。家内が朝食を作ってくれているから一緒に食べないか。私のうちはほら、すぐ後ろだよ」

 と誘って、フランの背後へ指をさした。

「ほら、そこに見えているよ。なかなかいい家だろう? 煙突を見てくれよ、あれは兄貴と一緒に自分でこさえたんだ。素人の仕事だったからちょっと曲がっているんだが、わかるかい、ほら――」

 訊いてもいない家の情報を伝えながら、指をさし続けている。

 フランは振り向かなかった。

 話の内容にも男自身にもまったく興味が湧かない、といった表情でぼんやりと男を見つめている。他に眼をやるものがないので仕方なく見てやっているという、それはどこまでも投げやりで冷たい視線だった。

 フランは返事の代わりに、ふぅ、とため息を吐いた。そして、

「僕は、頭が悪い奴ってのは嫌いなんだ」

 初対面の相手に、いきなりそう言ってのけた。

「……なんだって?」

「耳の悪い奴も嫌いだ」

「ええっと、君ね……どういうつもりだい。大人にそういうことを言うもんじゃない。こんな気持ちのいい朝を台無しにしないでくれよ」

 ありきたりな反論を返す男に、

「そう、今は〝朝〟だ……。あんたは、何も知らされていないのか――」

 と、意味不明で憐れんだような眼を向ける。男はさらに怒りを露にしようとするが、フランは、

「だから何を言っているのか、私には――」

「あんたは、昨夜僕を襲った奴らの仲間だろう」

 と断言した。男が固まる。

「え……」

「そのスコップ……。確かに汚れている」

 くい、と顎を上げて男が持つスコップを示す。

「しかし農家なんてのは、道具に多少泥がついていようがお構いなしにしまっておくものでしょう?」

「いや、私は――」

「きちんと手入れをしてる几帳面な人も中にはいるが、そういう人は一日の仕事が終わったら、その度にきれいに清掃している。畑で土を落としてね。あんたみたいに『これが一日の始まり』なんて言って、わざわざ大切な川の水を汚しに来る馬鹿なんていないんだよ」

「それは……」

「『この辺の子か』だって? 僕がこの辺りの人間じゃないってことは一目でわかるはずだ、あんたが〝この辺の人〟ならね。声をかけるなら『見ない顔だね』だよ。それ以前に、この血まみれのシャツを見て不審に思わないのかい。まさかこんな柄だと思ったとか? ――あんたは、僕を知っているってことで間違いない」

一気にまくし立てられて、男は言葉を詰まらせた。

「う……」

「そして決定打……」

 額に汗を浮かべ始めた男を、フランはさらに追い詰めていく。

「なんであんたは、見ず知らずの若造に言い寄られたくらいで、そんなに焦っているんだい」

「うぅ……」

 男は一歩、川へ身を引いた。

「あんた達は昨夜、僕を見つけたとたんに集中して狙ってきた。目当ては僕だったんだろう? けれど統率が取れているとも感じなかったし、一文にもならない人殺しをするというのは専門の盗賊じゃあない。何者なんだ?」

 フランは逆に男に近付く。水に入り足元が濡れても気にしていない。

「これは予想だけど、あんた達はとりあえず、誰かに雇われただけの人間なんじゃないかな」

 男の額に汗が流れる。

「もし当たっているのなら、ひとつ疑問が出てくるんだけど……昨夜のような大人数に、なんで僕なんかが狙われているのか、その必要があるのか、考えもしなかったのかい」

 少年は冷やかな視線で見つめてくる。滑らかに語っているその内容は推理の事実確認と疑問の解消、つまり……、尋問されている。

 なんだこいつは、と男は考えていた。

(ば、馬鹿にしやがって。しかし――)

 フランの推理は当たっていた。

 男は昨夜逃がした少年を探しており、襲撃の中で顔を見られてはいないと判断して接近したのだった。川原では砂利の音が響くために、まず油断させ、後ろを振り向いたところで仕留めるつもりだったが、

(無理――失敗した――奇襲はしくじった! こうなりゃもう、力ずくで殺っちまうしかねえ……!)

 男の正体がばれているのは明白だった。

 しかし目的を達成できなくなったわけではない。周囲には誰もいない。目の前のひょろっとした小僧と力比べになれば、大柄な彼の方が確実に押し勝てるはずだった。

 その貧弱そうな少年はさらに、

「下っ端としては、目的は金なんだろうけど……。本当に何も知らないのかい」

 などと質問してきた。

 さっきから何の話だ、と訝しんだ直後、

「まぁ……朝食に誘ってくれるのなら、あんたが誰だろうが構いませんけど」

 と言って、くるっ、と男に背を向けてしまった。

(は――?)

 フランはばしゃばしゃと水を蹴りながら、川岸へ歩いていく。

「どの家ですか。煙突が曲がっているって……思い出深いものがあるんでしょうけど、それだと灰がうまく逃げていかないから、すぐ寿命が来ますよ。本職に頼んで直してもらった方がいいですよ、やっぱり」

 などと提案しながら、きょろきょろ首を回して家を探している。嘘っぱちの煙突の機能性を案じている。男の方はもう、見向きもしない。

(こ、こいつ――大戦争を知らない世代ってやつは、自分だけは死なないとでも思ってやがるのか? 所詮は世の中を知らないガキってことか――?)

 フランの背後で、男は重いスコップを両手で掲げ、

(馬鹿はお前の方だったな――死ねっ!)

 後頭部へ、全力で振り降した。

 ごっ、と音がして、フランの身体がぐらりと揺れた。そのまま倒れて、浅瀬の水面にぼちゃんとぶつかって横たわった。動かなくなる。

 はっきりと視認できるほどに、頭蓋骨が陥没していた。全力で殴ったため、男の腕にもその威力と相応の感触が伝わって痺れていた。

〝こうすればこうなる〟という単純明快な、違和感のない〝死〟がそこにはあった。頭からの出血が冷水に混じって流れていく。

「やった……。あっけねえもんだ」

 男が呟いた。言葉にすることで、この事実を揺るぎないものにできるような気がしていた。自分のそんな心の機微に気がついて、へっと笑った。

 死体から眼を離し、考える。

(これからどうするか――。まず仲間と合流して、お頭に連絡を通してもらわねえと。あぁ、その前に死体を隠して――)

 男は昨夜から、逃がしてしまった目標であるフランを探していた。そして偶然川原で見つけたから接近し、農家に凶器があったから拝借し、そのまま殺せそうだから殺したのだった。先のことなど何も考えていなかった。

(どこに隠したものか。そのへんの農家を脅して置かせておくか……)

 行き当たりばったりな計画を頭の中で組みたてていると、

「もう一度、訊くけど――」

 声が聞こえた。

(なっ――――?)

 耳を疑った。ばっ、と振り向くと、そこにはたった今頭部に致命傷を与えてやったはずの少年が、

「なぜこんな小僧を、あんた達みたいなゴロツキを雇って、大人数で襲わなきゃあいけなかったのか――なあ、本当に疑問に思わなかったのかい」

 と質問しながら、びしょ濡れの身体を起こして立っていた。

(い、生き返った――? そんな馬鹿な――)

 一旦引いていた汗が、再び額に噴き出してきた。理解不能の悪夢を見た夜のような、先程の何倍も不快でべとついた油汗だった。

「そんな――そんな馬鹿なことが――」

「まったく、よりによって……。あんたの言う〝こんな気持ちのいい朝〟に、僕を殺そうなんて考える奴はいないんだよ。つまり、あんたは――」

 濡れて冷やされたはずのフランの身体もまた、火照っていた。心と腹の底から煮え切った何かが湧き上がる熱を感じた。

 フランは怒っていた。

 激昂していた。

 自分でも何故だかわからなかった。

 騙されたからではなかった。殴られたからではなかった。殺されそうになったからではなかった。これらは男の知識を確認するために、彼の悪意と殺意を知った上でフランがそう仕向けたことだった。

「あんたは。本当に。何も知らずに、生きているって、わけだ……」

 まるで鏡だった。この世界のことを何も知らない。知ろうともしていない。知らないことすら知らないのだから、何も知ることなどできない――

「この世の中が……どれほど理不尽なのかも。あんたは――」

 それまでの、ひたすらに興味のないものを暇つぶしに眺めていたような腑抜けた視線が、今や湧き上がる激情を剥き出しにして男に迫っていた。

 男は、その眼光に見覚えがあった。それは三十年も過去、今より遥かに世界がきな臭かった、大戦争中のことだった。

「まさか……まさかお前は……!」

 彼の所属していた部隊が後退していると、その残党を殲滅せんと追ってきた化け物。殺戮のために生まれた種であり、帝国の切り札として利用され尽くし、大戦争が終わると同時に姿を消した超常存在。

 そう、殺意に満ち満ちたあの視線はまさに、

「き、吸血鬼――?」

 同時に、いや――と理性が働く。馬鹿な。吸血鬼とは夜の死神なのだ。燦々と朝日を浴びながら復活できる吸血鬼など存在しない。

 しかし他に例えようがないではないか――

「あんたは……あぁぁ……」

「ひぃっ――」

 男は逃げだそうとした。

 少年が何者かなど、もはやどうでもいい――この相手はヤバい、と直感し、とにかく危険から離れるために動いた。後ずさり、川の中に身を投げ、泳いで逃げようと思った。少年の腹には昨夜の刺し傷があるため、激しい運動はできないはず。本能的にそう考えてのことだった。

 彼にしては咄嗟に頭が回った方であるが、しかし――

「――ぁぁぁあああああああああああああッッッ!」

 ――そのような常識的な考えなど通じないほどに、眼前の少年は埒外のモノであった。

 フランは叫びながら、足元の砂利を握り、男の背中に向かって投げつけた。それは子どもが喧嘩で追い詰められた時に、怒りにまかせて卑怯な手段に出たかのような幼稚な行為に似ていた。

 しかし攻撃の威力としては、幼稚という程度ではすまなかった。

 男の背中に穴が開いた。

 小石の当たった場所から血が噴き出した。

 いくつもいくつも、細かな砂利が男の肉体を貫通していき、川面に突入して水底に消えた。

「ぎゃっ」

 身体に無数の穴を開けた男は短い悲鳴をあげ、川に投げ出された。動かなくなる――水の流れに逆らわず、ゆっくりと下流へ移動していく。

「――――ぁぁぁっ、はあっ、はあぁっ……」

 フランは乱れた息を整えながら、男の行方を視線で追う。

「はぁっ……。いるわけがないんだよ、朝の陽射しの下でこの僕……〈ホワイト・ナイト〉のイレギュラーを殺そうなんて考える奴は……!」

 うつぶせのまま流れて行く男はピクリとも動かなかった。周囲の水を赤黒く染めながら、死体はやがてフランの視界から消えた。

 フランは代わりに、己の掌を眺めた。

(人を、殺した……)

 悪を犯した自らの手を、じっと見つめた。

(やっぱり僕は、昨日……死ぬべきだった――――)

 そう思うと、すぐに右手は滲んで見えなくなった。



「あ、いたー!」

 唐突に、澄んだ叫び声が響いた。振り向くと、一人の少女が駆け寄ってくる。ベッドの脇で眠っていた、先程の家の娘だった。

 咄嗟に川の水をすくい、乱暴に顔を洗った。血が染みついたシャツの袖でごしごし拭く。

 少女は黒髪を振り乱しながら彼の側に来ると、

「大丈夫なのですかっ!」

 咬みつきそうな勢いで詰問してきた。

「う――ああ、大丈夫。心配を――」

「大丈夫ではありません! もちろんそんなわけありません! まだ傷が癒えていないのに歩いてはいけません! 家に戻ってください!」

己の問いを自ら全力否定した少女は、フランの腕をつかんだ。そして引っ張る。

「い、いや平気だから――」

 口を挟むが、

「まったくもう! お母さまったら怪我人を歩かせるなんて! ついて来てください、もう一度私が手当てしてあげますから!」

 少女は聞く耳を持たずにぐいぐい引っ張り続ける。

 それはそれで怪我人の扱い方ではなかったが、このままでは引きずられそうな勢いだったのでフランは仕方なくついていく。

 積極的に自分を治そうとしてくれていることには感謝しつつ、気になっていたことを訊ねた。

「さっき、ベッドの脇で眠っているのを見たんだけど――君が傷の手当てをしてくれたの」

 この小柄な女の子が、彼の身体を支えて包帯を巻いたとは思えなかった。

「いいえ、その包帯を巻いたのは母です――あああぁっ!」

 この世の終わりのような声が響いた。

「包帯、取っちゃったんですか! なにしてるんですか! 傷がまだ塞がってないのですから、ばい菌が入りますよ! 大変!」

 少女は慌ててフランのシャツをめくったが、

「え……」

 それは別の驚きに掻き消されることになった。

 シャツの下には、綺麗な肌があった。刺し傷と思われた負傷は跡形もなくなっていた。痕跡すら消えている。どこをどう怪我していたのかも、もはや判別できない。

「こんなに、きれいに……?」

フランは脇腹を隠した。

「いや、だから……これは」

 その時フランは、もう逃げ出そうかと考えていた。これ以上の迷惑をかける前に、この優しい親子から離れた方がいいのではないか。

 しかしその逡巡は、また別の声が遮ることになった。

「フラン! お前、フランか!」

 男性の声が響き、少女とフランが視線を向けた。声の主は川向うの道に立ち、眼を丸くして二人を見ていた。

 いかにも軽薄そうな若い男で、長い槍のような物を背中に担いでいる。

「ビンゴだな! さんざん探したんだぞ。朝になってるってことは傷はもういいんだろ? ちょっと待ってろ、旦那を呼んでくる。近くにいるんだ。待ってろよ!」

 男は一気にまくしたてると、近くに寄って容態を確認することもせずに、来た道を急いで駆け戻っていった。行方不明者を発見した喜びよりも、驚きの方が先行していた。

「フラン、というのですね。私はユイです。ユイ・ヤマブキ。今の方はフランのお友達ですか?」

 ユイと名乗った少女が訊ねた。

「ワークさん。友達なんかじゃないよ」

「でもお知り合いなのでしょう? 仲間がいるのはよいことです」

 そう言って笑う。この世には裏切りも絶望もないとでもいうような、馥郁とした笑顔だった。

「…………」

 フランは彼女に釘付けになった。

(まただ――)

 ベッドで目覚めた時にも感じた、不思議な感覚。

(なんだろう、これは――?)

 すると今度はユイの眼が丸くなり、顔が赤くなり、ふいっとそっぽをむかれる。登場した時の勢いはどこへやら、急におとなしくなってしまった。

 それはフランが彼女の笑顔を見つめ続け、見とれ続けたためであったが、彼がその機微に気付くことはなかった。ただ郷愁にも似た感覚が薄れていくのを感じて、涙を流し絶望していたはずの心の中で、

(もう一度――今の笑顔が見たいな……)

 と、奇妙な感覚の整理もつけられないまま戸惑うことしかできなかった。


          *


「生きていただと――?」

 槍のように長い得物、狙撃銃を背負った男が、壮年の男性にフランの発見を伝えている。報告を受けた男、フランも含めたキャラバンのリーダーであるヴォルフガング・エインズワースが即座に感じたこともまた、喜びではなく違和感だった。

「無事なのか。怪我はないのか?」

「ああ、ぴんぴんしてた。当たり前だろ? いや俺はもうダメかと思ってたぜ、しかし。あいつも運が良かったよなあ」

「……そうか」

 自分で訊いておきながら、エインズワースにも、少年に怪我などあるはずがないことは理解していた。キャラバン内でフランの能力を知らない者はいない。

 もちろん無事だろう。

 フラン・トライバル――吸血鬼にしてイレギュラーである〈ホワイト・ナイト〉が陽光の下で生きているということは、確実に健康体でいるはずなのだ。

「おいおい旦那、嬉しくないのかよ?」

「…………」

 狙撃銃の男が訊ねるが、苦み走った顔のエインズワースはこれに返事をせず、

(フランが無事であったことは吉報に決まっている。決まってはいるが、しかし――そんなはずはない。無事であったはずはない……何かがおかしい)

 と心の中で呟きながら、感情を整理していた。

 彼は寡黙である。

 一度物事を考え始めると、途中で別の情報を発信することが難しくなるのだ。思考のための情報が必要なら口を開くのだが、今回はもう確認事項はないらしい。

 一方で狙撃銃の男は、返事が返ってこないことにいら立った様子もない。彼が旅のキャラバンに誘われてから数か月が経つため、この程度のことには慣れてしまっているのだ。

 しかし心中では、

(考え出すと止まらず、結論は決して急がず……そして常に頭の中に思索が渦巻いているもんで、結局は滅多に喋らないことになるんだよな、この大男は……)

 と半ば呆れていた。

 戦時中には大仰に〝捻じ伏せのエインズワース〟などと呼ばれ一部の部隊で有名だったそうだが、こうして見ていると有名無実の感が強い。

 巨漢であるため無言の威圧感は凄まじいのだが、こうものんびりと考え込む性分では、状況に合わせた即断が求められる戦場で実績を上げたわけではないことは明白だった。

(せいぜいが、訓練ばかりの辺境基地で指揮官としての優秀さを買われていた、ってところかね……)

 ワークが隣で呆れている間にも、エインズワースは思考を整理していく。

(襲われたこと事態は、想定の範囲内だ――その中でフランを守れなかった、問題はそれだけだった。しかし地面に落ちていたフランの血痕、あれだけの出血量で夜を生き延びたというのは偶然ではありえない。これは決して、単に運が良かったという次元の現象ではない……)

 結論が出ていないことを不用意に喋ろうとしない。

 単純に喜ぶこともしない。

 自らの感情でさえも、本当にこう感じているのか、と熟考をかけてからでないと世界に発信しないのである。そのために彼を知らない者には鈍間に見えてしまうことが多々あるのだが、兎にも角にも慎重な男なのだった。

「……ひとまず迎えに急ごう。案内してくれ、ワーク」

 やっと指示を受けた狙撃銃の男、ワークは、了解、と言ってエインズワースを川まで案内する。

 二人で歩いている間にも、エインズワースの思考は途切れることなくどこまでも深まっていく。どこまでも、どこまでも――

(何が起こっている――? フランにとって利益になり得る存在が……まさに〝イレギュラー〟とも呼ぶべき何者かが、不確定要素として関与しているというのか、それとも――)




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