セミダブル5 物書きはカフェインばっか摂っているから作中にコーヒー出しがち



「私の恋愛は散々語った訳だけどさ……」

 朝と昼と間食の三役を担った重く濃厚なハニートーストを平らげ、ゆかりさんの顔にはツヤが戻っている。二日酔いの胃がよくそれを受け付けたなぁと、私はコーヒーをすすりながら感嘆した。

「静羽ちゃんって、あの、沙夜さんのことが好きなんだよね?」

 その辺のラブコメのようにコーヒーを噴き出しはしない。私は慎ましくカップを置き、極めて冷淡に「……は?」と言い放った。

「気を悪くしたなら謝る。でもそういう風に見えたから」

「いえ……んー……どうなのでしょうねぇ」

 善意に真善と偽善があるのと同じように、好意にも真と偽りがあるのなら、私の気持ちはどちらなのだろう。でも――。

「好感はもっていますよ」

「いや、そうじゃなきゃ一緒に仕事してないでしょ」

 そりゃもっともだ。

「私のことは置いといて……。その子の力で良い人と巡り合えると良いですね」

 こちらにはぐらかされて釈然としないのか、ゆかりさんは「だねー」と煮え切らない面持ちで蝉の幼虫を手の甲に乗せてつんつんとつついている。

「あまりいじめるとへそを曲げられちゃいますよ」

「ふふーん。意外と満更でもなさそうよ?」

 幼虫は緩慢に前脚を伸ばし、ゆかりさんの指先と戯れている……ように見えた。

「気持ちがわかるんですか?」

「いや? でも一緒にいると愛着が湧いて、不思議と構いたくなるのよね。私、虫は苦手な方なんだけど」

「まあ……得意な方が少数派ですよね」

「見た目も苦手なんだけど、何を考えているのか全く読めないじゃん? 逃げているかと思ったら、急にこっちに飛びかかってきたりさ……。それが不気味というか……」

 虫の思考や感情表現を理解出来たら、下手にスリッパで叩き潰せないし、殺虫剤なんてとても使えやしないだろう。

「地球の真の支配者は人間じゃなくて彼らですから。『燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや』と言うように、矮小な人間ごときには偉大な虫様の考えはわからないものなのです」

「なるほど……。実際、この子たちが見えている世界ってどんなものなんだろうね」

 じっと佇む蝉を二人でまじまじと観察する。極小の脳と中枢神経に繋がる瞳は無感情に宙を見つめるのみで、まるで感情を読み取れない。仙人でも相手にしているようだった。

「これでも蝉の飼育経験はそれなりになるのですが、まだまだわからないことばかりですよ。沙夜さんだったら何でもわかるのでしょうけど」

「それってあの人が特別だから?」

「特別、というより特殊というか……。浮世離れしているのはたしかにそうですけど」

 魔女なのか神様なのか悪魔なのか、未だにあの人が何なのかははっきりしない。むしろ沙夜さんは「沙夜さん」というオンリーワンの存在なのだろうという結論がしっくりくる。あの人のスケールは時には果てしなく、また別の時にはひたすらみみっちく、付き合いを重ねるほどにその捉えどころのなさに困惑させられる。本人曰く「偉人だって小難しい学術の傍らで下品な単語でげらげら笑っているし、神や悪魔も時々しょうもない理屈で人の世に迷惑かけているだろ? 皆、そんなもんさ」というけれども、あの人の良く言えば深遠さ、悪く言えば胡散臭さは誰にも持ち得ない特有の気色を孕んでいる。

「はぁ……昨晩の才能云々の話と重なるから止めよう」

「ですね」と溜め息混じりに同意した。人間と虫と同じくらい、凡人と異才とでは世界の見え方が違っている。そう考えると、自分のような凡庸な人間に見えている世界は狭く浅く、窮屈に思わされた。高みにあって広く闊達とした世界を臨む者が羨ましい。

 だから私は――。

「そろそろ出よっか」

「ですね」

 カランコロンと喫茶店の陽気なベルに送られて、灰色な心地の私たちはくすんだ日差しの下を歩む。お互いに何を話すでもなく、ぼんやりと喧騒の中を進み、さる交差点にてぽとりと立ち止まった。

「じゃあ私はあっちだから」とゆかりさんは横断歩道の先を指し示す。信号が変われば、これを境に私たちはもう会えなくなる。客の背を見送ることには慣れているけど、今回ばかりは少々名残惜しさがあった。

「初対面だったのに泊めてくれてありがとうね」

「いえ、こっちは好きな作品の作者さんに会えて感激しましたし、それに……一緒に飲めて楽しかったですよ」

「また飲もう、と言いたい所だけど無理なんだよね」

 ゆかりさんは「あーあ、もっと静羽ちゃんの恋バナ聞きたかったんだけどなー」と心底口惜しそうに呟く。

「お酒のアテにもなりませんよ」

「最後まで鉄壁だね。行きずりの仲だからこそ明かしてくれても良いのに」

「……あの絵本、今後もずっと大事にします」

「そう……。じゃあ私はこの子を大事に育てるよ」

 私はゆかりさんの胸元にしがみつく蝉の幼虫に「頼んだよ」と視線でエールを送った。ゆかりさんの願いが叶いますように。

 ――それじゃ、またね。

 信号が青になるやいなや、あえてそう言い残して、彼女は早足でさっさと交差点の向こうへと消えていった。直接会えなくとも、また別の形で巡り合えるかもしれない、そうあってほしいとお互いに望んでいた。

「帰ろう」

 独り言は車のけたたましい走行音にかき消された。

 帰り道の間、昨夜の片付けがまだ完全には済んでいないことを思い出し、煩わしさと面映ゆさがこみ上げる。水で濯いだ空き缶を潰して捨てなきゃいけないし、貸した寝間着も洗濯しなきゃいけない。それを終えたらもう一度あの絵本を読もう。ゆっくりと一ページ一ページを一夜の思い出に重ね合わせながら。

 口にはまだコーヒーのビターな風味が残っていた。

 願いの成就を願いつつ、次回に続く。



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