セミダブル
セミダブル1 広いようで狭い道、それが人生
本日も何事もない、平坦な一日だった。私と沙夜さんはバー「シミール」でしっとりとした夜を過ごそうとしていた。いつものバーのいつものカウンター席……ではなく、今宵はそこから少し離れたテーブル席に着いている。
カウンターでは見かけない女性が管を巻き、マスターを占有していた。私達も他の客も距離を取り、二人のやり取りに聞き耳を立てている。興味はあるけど、すっかり出来上がった状態の女に絡まれたくないと皆が思っていた。故にマスターこと岩西さんに誰も助け船を出さない。
「ふっふっふ……岩西の野郎、目で助けを訴えてやがる」
私の背後で繰り広げられている酔いどれの独演会を眺めながら、沙夜さんはほくそ笑んだ。ついこの前、新メニューの実験台にされたのを根に持っているらしい。「訴えは棄却棄却」と邪神は機嫌良く呟き、くいっと一杯引っかけた。人ならざる者なのに立ち振舞いはみみっちい。
「静羽、読んでいないとでも思ったかい? 社会に適応していると言いな」
ふとした時に思考を読まれるのはもう慣れてしまった。神様なのか悪魔なのか魔女なのか宇宙人なのか、未だによくわからないけど、とにかく沙夜さんはたくさんの超能力を有している。でも、使われる場面が日常に寄り添いすぎていて、いまいちすごさがわかりにくい。要するに胡散臭いのだ(身の毛がよだつほどの鋭い視線が飛んできているからこの辺で止そう)。
「そ、それはともかく! あの女の人、随分悩んでいるみたいですね」
「悩んでいるというより、自暴自棄になっていると言った方が近いな」
断片的に聞こえてくる会話から察するに、恋愛絡みの悩みらしい。「行動してもその先が続かない」だとか「親が遠回しに急かしてくる」といったワードが聞こえる。仕事帰りなのだろう。スーツをパンツスタイルでカッチリ着こなしていて、パッと見た限り普段はザ・真面目なお姉さんなのだろうなと想像する。歳は私より少し年上くらいかな? そこまで焦る年頃でもなさそうなのにな。
「そういえば最近、恋愛相談みたいな依頼がありませんでしたっけ?」
「あー近所の年上の姉ちゃん落としたいっていう奴か? あいつ、どうしてんだろうな」
それはもう最近とは言えない頃の話だ。沙夜さんと話をしていると、時間の感覚にギャップがあって困る時がある。
「そっちじゃなくて……」と、私はそれとは別の出来事について話した。
数日前のことだ。うちの店に恋愛に悩む男性が訪ねてきた。その人には「将来はこの人と」と心に決めた相手がいて同棲までしていたが、ある日突然別れを告げられてしまった。それからというものの、恋愛に対して無気力になったまま齢を重ねて、周りが家庭を持ちだした頃に危機感を覚えたが、にっちもさっちもいかなくなってしまって困っている。
「って話がありましたよね? 今のご時世でも結婚願望に囚われる人って多いのかなーっ思ったんですよ」
「人の尺度なんてそれぞれ違うからね。他人との縁なんて運次第な所があるから悩み出したらキリがなくてつらいぞ?」
「あれってどの蝉を渡しましたっけ?」
「さあ? 渡したかどうかさえ覚えてないや」
沙夜さんはその話題にもカウンターに居座る女の人にも興味がなさそうだった。とにかく岩西さんが困っている様を見ているのが愉快で仕方ないらしい。
「あの人に縁結びの神様とか紹介してあげたらどうなんです?」と軽い気持ちで問いかけてみると、沙夜さんも軽い調子で「紹介料けっこう張るよ?」と返してきた。
「何を取るんです?」
「金じゃないとわかる辺り、あんたもあたしに毒されてきたね」
くすりと笑ってそれ以上は教えてくれなかったけど、そこはかとなく嬉しそうだった。
「沙夜ちゃーん」
カウンターから飛んできた声を沙夜さんは華麗にスルーした。「おーい、ちょっと」と手招きされても無反応。私が「沙夜さん! マスターが呼んでますよ!」と囁いてもグラスに口を付けて知らんぷり。
「頼むよ。今度は美味い物を出してやるから」
そう言われてやっと沙夜さんは動き出した。グイッとグラスの残りを飲み干してからふらりと立ち上がる。グラスがガンッと荒々しく置かれたものだから、私は割れやしないかヒヤッとした。そこからいかにも渋々といった足取りでカウンター席に着いて「同じの」と吐き捨てた。
「あいよ。静羽ちゃんもおかわりいる?」
「あ、はい。あのー何か、すみません」
「いいのいいの。お客さんは神様だから」
隣の席から私にしか聞こえないくらいのかすかな舌打ちが聞こえた。きっと気のせい気のせい。
岩西さんは次の杯を用意しつつ、私達のことを女性に紹介する。
「この人が沙夜さん。隣の子が静羽ちゃん。困った人を助ける何でも屋みたいなお店をしている」
「こんばんはー」
「…………」
せっかく私が愛想よく挨拶しても沙夜さんは不愛想に会釈もしない。マスターはこの空気を気に留めず、相手のことも続けて紹介する。
「この方はゆかりさん。うちの店は初めてだけどえらく気に入ってくれたみたいでね」
「どうもーはじめましてー行き遅れのゆかりですー!」
空回りした冗談に乾いた笑いを浮かべるしかない。このズレた自虐からして、普段はおちゃらけない人なんだろうなとその場の印象だけで分析してみる。沙夜さんの表情は見ない方が良いだろう。女性の顔はというと酔いですっかり上気していた。「冗談でもそんな自分を落とす発言しちゃあいかんよ」と岩西さんが優しく窘める。
「へへへーマスターは優しいですねー。寂しいから毎日通っちゃおうかなー」
傍目から見てもぐでんぐでんだったから予想していたけど、テンションについていけない。普段から余程ストレスを抱えているのかしら。さて、どうしたものか。
「さっきまで彼女の話を色々聞いていたんだけどね、俺からだと男目線でしかアドバイスできないし、ちょうど二人が居てくれてよかったよ」
話の内容はある程度聞こえていたけど「へぇーどんなお話を?」と一応訊ねてみる。ゆかりさんは「よくぞ聞いてくれました」とおどけながらくどくどと語り始める。
「あなた達、恋人は居たことある?」
私は「ええ、まぁ」と当たり障りのない返答をする。そりゃ良い歳の女だからね。私はともかく沙夜さんはどうなのだろう? めちゃくちゃ美人だし、枯れて自室に引きこもっている今は別として、若い頃はさぞかしモテたはず。あーいや、むしろ美人過ぎて周りが気後れしていた可能性もある。正直気になって仕方ないけど、ここはゆかりさんの話を聞こう。
「私は一人、たった一人だけ。大学の同級生とね……。今振り返ってもとても素敵な彼氏だった。卒業後の進路の関係で別れちゃったけどね。地元へ帰る彼とここに残る私とで折り合いがつかなくてさよならーって感じ。それからは全く浮いた話はなし。仕事と趣味ばかりで、他人が入る余地のない生活を送っている内にあれよあれよと三十目前。今は未婚でも本人が良ければそれでいいじゃないって世の中になりつつあるから、肩身が狭い思いはしないけど、最近ふと思うのよね。一人で終わりたくないなーって」
私は「結婚かぁ……」と独り言と共に息を吐く。彼女と同じく二十も後半、
勢いでやるもの、一時の気の迷い、しっかり計画を立てるべきもの、手順を踏むことが大事、人生の最高潮で後は下り坂、地獄の幕開け、自分が主人公じゃなくなる時等々……私にとっては未だに質感が不明瞭で掴み所がない概念だ。考えを巡らしても結局、しないとわからないという解に落ち着く。
「人生って道はままならないよね。一人で歩くには広々として持て余すのに、二人で行くには窮屈なんだから。自分と同じ道を分かち合える相手って貴重だと思うわ。出会いを求めて色々行動してみて身に染みた」
「ほうほう婚活してみたんですねー」と相槌を打つ私とは対照的に、沙夜さんはどこ吹く風といった様子で空のグラスを岩西さんに突き出していた。えっ? ペース早くない?
一方、ゆかりさんは酒にも己の世界にも酔っているようで、つらつらと戦歴を語り出す始末だった。岩西さんは他のお客さんの注文も聞いてせっせと手を動かしている。あれ? これって私が全部聞く流れ?
「私ね、見ての通りインドア派じゃない?」
いや、初対面だから知らんがな。
「結婚相談所に登録して婚活パーティに行ったら、どの人もけっこう活動的な趣味を持ってらっしゃって、光に焼かれたわ。いえ、もちろん印象の為に取り繕っている人も居たんだろうけどね。でも、それってこれから一緒に過ごす相手に対して、ずっと嘘を吐き続けるのかって話にならない? そういうもやもやもあって通常の婚活パーティに行くのはすぐやめた」
恐るべき駆け引きの世界だ。何だか面白そう。沙夜さんも誘って行ってみようかしら。あっ、今一瞬だけ隣から殺気が……。黙っているけど話はちゃんと聞いているらしい。
「外に出て気疲れすると、やっぱり家でお酒を飲みながらゲームしたり動画や配信を観たりしてダラダラしているのが最高って思うけど、時々ちょっと寂しくなる時もあるのよね」
第一印象ではプライベートでも小難しい本や映画をしかめっ面で眺めているイメージだったので、これは少し意外かも。
「だからね、恋人でなくてもせめて同好の士でも得られたらと思って、インドア派向けの婚活パーティに何度か参加してみたら……」
そんなパーティもあるのかと感心した。そういえば婚活の場は意外と友達ができるとも聞いたことがある。
「何人かとお近づきになれたの。でも関係が先細りになって続かないのよね……。踏み込めない。合わない。私も含めてろくなのがいない。泥沼の戦場にいる気分よ」
婚活市場という戦場からの帰還兵はどんよりとやるせない表情を見せた。果たして彼女の元に終戦と新たなる秩序は訪れるのだろうか。
次回に続く。
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