光と影<2>

 今日の雲の上の空には、ユカリコ姫の楽しげに語る声が響いていた。


「でね、宮廷画家ってすごいのよ。その昔、あたしの肖像画を描いてもらってね、……」


 のびやかな時間。番子はユカリコの声に耳を傾けながら、幸せに浸っていた。


 …………

 ……


 会議は踊る。されど進まず。けれども心は弾むばかり。


 ユカリコ姫から城の上層部の様子を聞いたり、逆に番子がメイドたちの日常を話して聞かせたり。会うまでに適度に間があくこともあり、話は尽きなかった。


「あーあっ❤ おっかしー。いやあ、それはないよう」


 ユカリコ姫が涙をぬぐいつつ言う。


「ね。ソラトはやんちゃすぎだけど、よく私もそんなばかばかしいことに付き合ったなあって今では思うよ。なにもその剣技をキノコ採りのために奮わなくても……」

「あーあ、会ってみたいわー、ソラトくん」

「少なくともソラトは会いたがっているね~、ユカリコ姫様に――授与式で」


 ここならどれだけ大きな声で話そうとも近所迷惑にはならないし、人の目も気にならない。これが楽しくないはずがなかった。飴をなめながらや、水筒に入れた温かい紅茶を飲みながら。前回の反省を生かして、タルトを持ち込むときはフォークを底からぶすっとさして、キャンディーのようにかじって食べることも覚えた。


「ご歓談中恐れ入りますが、はな様、ユリ様」


 トトが割って入ってくる。


「トト! え、もしかして、黒入道?」

「はい」


 またあ~? と、番子とユカリコ姫の声が見事に揃う。


「なーんか最近、黒入道多くない?」


 今日もせっかく楽しくユカリコと話していたというのに。それに、ミイ様への言い訳ネタも尽き気味だ。どうしたものか。


「そうですね。やはり……」

「トト」


 なにかを言いかけたトトに、ユカリコ姫が素早く制すように声をかけた。


「……失礼いたしました」

「え? どうしたの?」

「いえっ。なんでもありません」


 トトは失言した時のようにあわてて、羽をはばたかせた。


 ……なんだろう?


 だが、こうしてはいられない。足元の雲を払いのけると、眼下の北の方に悪い魚のような黒雲が街を這っているのが見えた。


「あーほんとだ。あっちだ。ああ、もう!」


 番子はトトにユカリコ姫を送らせ、急いで黒入道の上へと舞い降りる。一瞬空中でステッキから降り、杖を逆手に持ち替えて重力のままに落ちる。風が抜けていく。視界が闇に包まれ、湿り気のある空気を感じた時、強烈な光が差し込んだ。黒入道が霧散し、無数の黒影となって街へと落ちていく。人型の影が手足をばたつかせながら落ちていく様はもう見慣れたものだが、やはりおぞましい光景には変わりない。


「さて……」


 半分ほど雲を解体したところで、番子はステッキにもう一度またがると、ぴゅ~っと駆けつける。降りるほどに磯の香りがその身を包んだ。今回の黒入道の発生元は海に面した外れ町。王都や街から関所で締め切られたここは王城から特に離れていて、援軍の到着も遅くなるうえに、家のない人が多く住む。


「プリンセスナイトだ!!」

「よかった! きてくれた!」


 番子の助けを呼ぶ声が足下のあちらこちらから聞こえてくる。その多くは黒入道の降らす大雨で洪水状になった路上で行き場もなくうずくまっていた、ボロ布のような服を纏う者たち。


「みんな、黒影が来るわ! ここは危険だから、施設の中へ急いで避難して!」


 プリンセスナイトとして番子が叫ぶ。まだ年端もいかぬ子どもたちが塀の影から飛び出してきて、きらきらとした瞳で番子を見つめている。


 黒入道が発生するのは、こうした外れ町が多い。だが、黒入道の存在を確認してからプリンセスナイトが駆けつけるまでに少し時間がかかるため、いつもはその間に通り過ぎていくのだ。あまりに外れ町で黒入道を解体すると、逃げ場もなく、守ってくれる兵の数も少ないここの住人たちが黒影に襲われてしまうというのもある。だが、暴風雨を放置しておくばかりでもそれはそれで問題のため、番子は、外れ町で黒入道が発生した際にうまく駆けつけられた時には、最後まで黒影撃退に付き合うつもりで黒入道を解体することに決めていた。今回は空中にいたために、すぐに来ることができたというわけだ。


 わらわらと空からまだ降ってくる黒影を、空中で羽ステッキを大きく振って浄化していく。空を海に見立てて遠くから見れば、網で魚郡をとらえる漁業のようにも見えるかもしれない。空から落ちてくる黒影が減ってきたら、地面へとこぼれおちた影を消し去りに向かう。


 海近くの澱んだ砂浜で、裸足の少女が泥を跳ねさせて走っている。黒影に追われているのだ。


「今行くからね――っ!」


 番子はステッキの羽をはばたかせて風に乗る。蒼白な顔で転んだ少女は、泥まみれになりながらも顔を上げ、立ち上がる暇もなく振り向く。


 眼前に迫る影。負の感情が実体を持ったかのような揺らぎとともに、影はこちらに向かって走ってくる。奇妙に伸び縮みする足が、大きく躍動し、手が手刀の様に振り上げられた。命が終わるあきらめの時。その視界を遮ったのは純白のドレス。まるでその場にそぐわないような明るい白。


「プリンセスナイト――」


 彼女の持つ羽が散ったとき、もう影は姿を消していた。少女がその名を呟き終える前に、もうプリンセスナイトは跳躍する。


(一人たりとも死者を出させないわ……!)


 番子はプリンセスナイトとしての力を放出させ、高く遠く。その瞬間に常駐兵士の手の届かなかった黒影を見つけ出し、消し去っていく。海岸、住宅街、市場。表を片付ければ、今度は裏へ。使われているのかどうかもわからない、高く打ち建てられた建物の塀と塀の間までステッキで飛んで回る。


 昼間でも薄暗い廃屋に、プリンセスナイトは空中を移動して音もなく踏み入った。番子はここに、路上で困惑するように彷徨っていた数人が避難しているのを見ていた。開けっ放しであるから誰でも入れるが、黒影に見つかって立ち入られたらなすすべもない。幸いなことに、ここは無事のようだ。次へと移ろうとしたとき、


「――っ!」


 がつん、と強力な衝撃と痛み。手放しそうになる意識を一瞬だけ強く保ち、番子は反射的にステッキを振る。物理的な手応えとともに、それは消滅していった。黒影が潜んでいたらしい。視界が悪く、気づかなかった。


「大丈夫!? プリンセスナイト!」


 じわじわと広がる頭の痛みにうずくまると、避難していた町の住人が駆け寄ってきてくれた。


「うん……平気……」


 次、行かなきゃ。


 そう言って立ち上がる番子の心はしかし満たされていた。力がみなぎってくる。石畳を蹴って、跳躍したままステッキに飛び乗り、巡回を続ける。振り払った痛みを、勢いに変える。


 ――私はプリンセスナイト。この国を守る存在よ。


 表通りの広場に舞い戻ると、城からの援軍が到着しているのが見えた。番子は杖先をぐっと上空へ向け、上昇。空に残していた黒入道の半分を降ろすのだ。下にはもう結構な数の兵がいるため、一気にやってしまっても問題ないだろう。消し残すと、あとが厄介。番子はたっぷり時間をかけて、汚れた空を一掃していった。

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