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 田中は毎週火曜日に「フローラ」で買った花を持って病院にお見舞いに行っていた。

 事情はそれぞれあるだろうが、田中の年代のひとがお見舞いに行くとすれば、入院している相手も同世代か、それ以上と考えるのが自然である。一年間もお見舞いに通っていたとなると、そのひとは軽度の怪我や骨折ではなく、簡単には治らない病気で入院していた可能性が高いだろう。

 そしてお見舞いに行く必要がなくなった、ということは─。

 小山内が理子のテーブルに「クール・ブレンド」を運んできた。「クール」はフランス語で「ハート」である。トランプのスートからつけられた名前だが、もちろん「心」という意味だ。


「田中さんのこと、心配になってきたな。他人がどうこう言えるもんでもないけど」


「……そう、ですよね……私なんか、田中さんとはたった一ヶ月の知り合いだし」


 理子はふっと周囲には聞こえないかすかなため息をついた。


「まあ、俺たちがこれ以上心配してもしょうがない、か。ゆっくりしてってよ、理子ちゃん」


「……ありがとうございます」


 理子は古伊万里のかわいらしいカップを口元に近づけ、熱いコーヒーを一口すすった。「クール・ブレンド」の穏やかな苦味と軽やかな酸味が、理子の心の景色を味で表現しているようだった。

 例によって小山内と話すことを想定していた理子は、授業の予習は家で済ましてある。済ましていてよかった、と理子は思う。哲学のテクストに向かう気分ではなかったからだ。

 理子はカウンターの隅に飾られた紫陽花の鉢植えをぼんやりと眺める。透き通るような淡い水色が美しい。店内に置かれているにもかかわらず、梅雨の雨に降られたあとのような、ぬるっとしたみずみずしさが輝いている。カタツムリが隠れていてもおかしくなさそうだ。


(かわいいなあ、紫陽花……)


 紫陽花を眺めながらコーヒーを半分ほど飲み終えたころだろうか。突然、理子の理性に急激な電流が流れた。


(ちょっと待って……鉢植え? さっきマスター、鉢植えって言ったよね……)


 理性にいきなり供給された大電力が、さながら歓楽街のネオンのような電飾をチカチカと光らせ、理子の頭のなかはまぶしさでいっぱいになった。


「マスター!」


 理子の大音声に、カウンターの奥で作業をしていた小山内の長身がびくっと震えて止まる。


「どうしたの、理子ちゃん。びっくりさせないでよ」


 かがんでいた小山内はゆっくりと身体を起こし、理子のほうに顔を向けた。理子は自然と立ち上がっていた。


「田中さん、お見舞いじゃありません」


「え?」


「さっきマスター、田中さんがシクラメンとか買ってた、って言いましたよね」


「ああ、花屋の奥さん、そう言ってたよ」


「お見舞いに鉢植えは持っていかないと思います」


 理子は高校時代に母と二人で祖母の見舞いに行ったときのことを思い出していた。病院に行く途中で、理子たちは花屋に立ち寄った。季節は冬で、たくさんのシクラメンの鉢が並べられていた。あまりの綺麗さからそのうちのひとつを思わず手に取った理子に、母の良子が教えてくれたのだ。

 鉢植えの花には根がある。「根付く」が「寝付く」を連想させるから、お見舞いにはふさわしくない。入院生活が長引くのを願っているようだからだ。


「そうか、理子ちゃん、やるじゃない」


「はい!」


「さすが哲学者!」


「はい! はい……? あはは」


 理子は照れ笑いをしていたが、まんざらでもなさそうだった。小山内に褒められたことが嬉しかったというよりも、誰かの不幸で田中が悲しんだ可能性が少なくなったことに安堵したのだった。

 しばらくして、理子と一緒に楽しそうに相好を崩していた小山内の表情が、すっと真顔に戻る。


「……じゃあ田中さん、なんで来なくなったのよ」


 我を忘れていた理子の理性の興奮も、小山内の指摘でようやく鎮まった。見舞いに来ていたのではないとなると、田中が喫茶店「クレール」と花屋「フローラ」を毎週訪れていた理由がなくなってしまう。


「また、振り出しですね……」


「これ以上なんの情報も出てこないよ……理子ちゃん、ここまでかな」


「ダメですかね、コピ・ルアック。敢闘賞ということで」


「敢闘賞にはちょっと高いかな……幕内優勝くらいしないと。ま、考えておくよ」


 小山内の言うように、田中の謎を解く手がかりはもうなさそうだった。

 だが、転機はすぐに訪れる。

 それは哲学専攻主催の講演会の手伝いのため、理子がいつもより早い火曜日の朝に、「クレール」を訪れたときのことだった。

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