5


 柳井と別れて大学の外に出た理子は、夕暮れどきの歩道を南郷五丁目の駅に向かっていた。理子の横を、家路を急ぐ自転車が何台も通り過ぎていく。

 と、五○メートルほどさきの脇道から大道寺が現れるのが見えた。理子がつい身がまえる。


(……う、大道寺先生……こっちに来る……挨拶しないわけにいかないじゃん……)


 理子の動揺も知らずに、大道寺が理子の存在に気づいて、ニコリと微笑んで手を上げる。そのまま近づいてきて、理子のまえで立ち止まった。手に「ジルベール」のビニール袋を提げている。


「どうも東雲さん、こんばんは。いまお帰りですか?」


「は、はい……柳井先生の授業が終わって……先生はまた大学にお戻りですか?」


「ええ。ちょっと本を買ってきたところで。研究室に寄ってから帰ります」


「……え、えっと……な、なんの本を買われたんですか……?」


「ああ、これですか?」


 そう言うと大道寺は、袋の口に貼られたテープを素早くはがし、「あ、いいです、いいです!」と言う理子を無視して、なかからコミック雑誌を取り出して見せた。表紙では、黒いスーツをびしっと着こなした男性が、縦縞のYシャツ姿の男性のネクタイを引っ張り、不敵な笑みを浮かべてこちらに視線を向けている。


「うわあ! せ、先生、こんなところで……」


「今日が発売日だったんですよ、この雑誌。いやあ、ジルベールの品ぞろえは素晴らしいです。私の家の近くの本屋では買えないので」


「そ、そうなんですか……先生にこういうご趣味があったなんて……」


「えっ?」


 人通りの多い歩道の真ん中でBL雑誌を高々と掲げた大道寺が、心の底から意外そうな声を出す。


「『趣味』じゃありませんよ。『研究』です」


「え、け、研究?」


「はい。私の専門は西洋の古代哲学、特にアリストテレスです。古代ギリシアで少年愛が盛んだったことは東雲さんもご存じでしょう」


「え、ええ、一応は……でもこういう漫画が、その、ご研究に役立つんでしょうか……?」


「古代ギリシアで最も有名な男性カップルと言えば、おそらくアガトンとパウサニアスです」


「?」


「あるとき、二人が言い争っているのを目にしたひとがアガトンに尋ねました。誰よりも愛してくれる相手に向かって、なぜそんな憎まれ口を叩くのか、と。アガトンはこう答えます。愛する者にとって、愛しい少年との喧嘩からの仲直り以上に嬉しいものはありません、私は何度も喧嘩をすることで、あのひとに繰り返し喜びを味合わせているのです、と」


「は、はあ……」


「こういった恋愛感情の機微を理解するうえで、漫画の描写や表現は非常に参考になります」


 古代人の愛の駆け引きに思いを馳せているのか、端正な大道寺の顔が、ふっと憂いを帯びた思慮深い表情になった。


「東雲さん、『饗宴』は読んだことありますか。プラトンの傑作です」


「はい、学部生のときに。えっと……たしか愛がテーマの対話篇でしたよね」


「そうです。ソクラテスたちがワイングラスを傾けながら、順番にエロスを讃える演説をおこなう話です。エロスとは愛が神格化されたもので、美の女神アフロディテの従者です。ローマ神話に言うクピド、すなわちキューピッドですね」


 理子の頭のなかに、翼の生えた赤ちゃんが弓矢をかまえて、ぽよぽよ漂っている姿が浮かぶ。


「『饗宴』にはさきほどのパウサニアスも登場します。彼は、愛には『天上の愛』と『低俗な愛』があり、少年愛こそが前者だと言っています。これはアフロディテが天の神ウラノスの男根から直接生まれた、つまり、母親なしに生まれたことに由来していまして、この『天上のアフロディテ』に仕えるのが『天上のエロス』というわけです」


 歩道は広く、通行人の邪魔にはなっていないようだが、大道寺の口から「男根」や「エロス」という言葉が飛び出るたびに理子はヒヤヒヤする。


「物語のなかでパウサニアスは、彼のあとに見事な演説をおこなうアリストファネスや、トリを務めるソクラテスの前座のような扱いで、あまり重要視されていません。ですがパウサニアスのこの愛の区別は、肉体の美を離れて精神の美へ向かうエロスという議論を先取りしています」


「あ、知ってます。『プラトニック』ってやつですよね」


「そうです。肉欲をともなわない精神的な愛がそう呼ばれていますね。ソクラテスの演説では、さらにエロスは学問の美を通って、最後には美そのものに向かうとされます。これが純粋なエロス、すなわち知への愛としての哲学なのです」

 自分自身が演説を終えたかのように、大道寺の表情から達成感が立ち上っている。いつしか理子も聞き入ってしまって、あやうく拍手を始めそうになっていた。


「でもね、東雲さん」


 大道寺の口元に、意味ありげな含み笑いが浮かぶ。


「エロスはプラトニックなものを経て最高の美を目指すと言ったソクラテスにも、愛する少年がいたって知ってましたか? それもアテナイ随一の美男子の」


「えっ。そうなんですか!?」


 理子の考えるソクラテスは質素な身なりの中年男性というイメージで、そんな美少年と釣り合うとはとても思えない。


「名前をアルキビアデスと言います。名家の生まれで、容姿にも才能にも恵まれた彼は、本当によくモテました。ただ、そのせいか傲慢なところがあり、ソクラテスに戒められるエピソードも残っています。いずれにしてもソクラテスもちゃんと愛する者だったわけです……『自分が愛しているのはアルキビアデスと哲学である』とまで言っているんですよ」


「へえ、知りませんでした……あ、でも」


「なんでしょう?」


「ソクラテスって、奥さんいませんでしたっけ? たしかクサン……」


「クサンティッペですね」


「その……それって両立するものなんでしょうか……?」


 理子を見下ろす大道寺の目が、きりっとした教師のそれに変わる。


「東雲さんはまだ、狭いエロスの考え方に囚われているようですね。ソクラテスがアルキビアデスを愛する気持ちは、彼の演説の内容と矛盾しないのです。彼が愛しているのは美そのものであって、男性とか女性とかは関係ありません」


「そっか……そうですよね。すみません……」


「謝ることはありませんよ。少しずつ勉強していけばいいんですから」


 大道寺がいつもと変わらない穏やかな微笑みを見せた。縮んだ理子の心が、ほっとほどける。


(……さすが、大道寺先生……やっぱりちゃんと研究してたんだ……)


「あ、そうだ」


「はい?」


「よかったら、これお貸ししますよ」


 そう言うと大道寺は、右手にずっと持っていたBL雑誌を理子に差し出した。


「え!? いや、そんな……悪いです……先生がせっかく発売日に……」


「なに言ってるんです。指導教員が自分よりも学生を優先するのは当然じゃないですか。さあ、どうぞ、遠慮なく」


「いや、遠慮とかじゃなくて……あ、先生! それより私、帰って『饗宴』を読み直します!」


「……なるほど。たしかに、それも一案ですね」


 大道寺がようやく雑誌を「ジルベール」の袋のなかに戻す。


(……危ない危ない……油断してるとすぐ先生のペースに巻きこまれちゃう……)


「それなら、物語の最後を飾るアルキビアデスのソクラテス讃美を読んでみてください」


「あれ……ソクラテスの恋人も出てきましたっけ……?」


「そうなんです。『饗宴』はソクラテスの演説が一番の山場ですから、そのあとの印象が薄いひとも多いんですよ。でも、面白いんです」


「私も忘れてました。帰って読んでみますね。美そのものへの愛か……」


「ああ、そこは違います。自分に手を出す素振りをまったく見せないソクラテスを、アルキビアデスがあの手この手で誘惑する話です」


「え……?」


「お供の者を下がらせて二人きりの場面を作ってみたり、一緒に身体を動かしてみたり……それでも一向にそういう雰囲気にならないものですから、アルキビアデスは思い切ってソクラテスを夕食に招きます。わざと深夜まで語り続けて、帰ろうとするソクラテスを『今日はもう遅いから』と強引に引き止めて……二人で横になるのです」


「そ、それで……?」


「給仕たちが部屋から出ていき、灯りも消されて……アルキビアデスが言うのです。『ソクラテス、眠っているのですか』と」


「せ、先生……もう、聞いていられません……」


「そうですか? 話しこんでいて、すっかり遅くなってしまいましたね。続きはご自分で確認してみてください。このシーン、どなたか漫画にしてくれないでしょうかね? ははは」


「そう、ですね……じゃあ、私はこれで……失礼します」


「さようなら、気をつけてお帰りください」


 爽やかな笑顔を浮かべて言う大道寺に、理子はぺこりと頭を下げて足早にその場を去った。街はすっかり夜の闇に溶けこんでしまっている。


(……大道寺先生、やっぱりよくわからん……とりあえず真剣に「研究」してるのは間違いなさそうだけど……でも、ほんとに「趣味」じゃないのかな……?)


 理子は脳内に漂う巨大なクエスチョン・マークを振り払うかのように、地下鉄の改札につながる階段を勢いよくパタパタと駆け下りていった。

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