【 第四章  ⑥ 】

 ――――私がお慕いしているのは、あなたですよ。


 アルティノワ公が放ったその言葉は、あまりにロジィを侮辱していた。

 貴婦人たる者、いかなるときでも冷静に振る舞い、感情を悟られるようなことをするのは、はしたないことである。

 その教育を徹底して受けてきたのに、ロジィは怒りを抑えることがどうしてもできなかった。


「嘘ではありません。私は本当にローゼリア姫を――……」

「やめて!!」


 手首を掴まれたままだからアルティノワ公から逃げることができなくて、ロジィはせめてもの抵抗として顔を俯けた。


 脳裏に鮮やかに蘇るのは夏空のような青いローブだ。


 アルティノワ公の寝室で、青いローブの貴婦人は、彼に大切そうに抱擁されていた。

 恋人や愛人がいるのはメルヴェイユで当たり前だ。あの青いローブの貴婦人に嫉妬するわけではない。


 いるなら、いる、と。

 認めて欲しかっただけだ。――――それなのに。


(わたしを慕ってる、ですって……?)


 馬鹿にしないで欲しい。

 ロジィの居室の暖炉を使って、招待状を燃やしておいて。


 あれほどの侮蔑を与えた相手を「慕う」など、敵国と同盟を結ぶよりも有り得ないことだ。


 想い人の存在を隠したくて「いない」と言い続けるのなら、それが彼の望みなのだと考えて、受け入れようと思った。

 知らぬ振りをすることを求められているのだろう、と。


 けれど、ロジィを慕っているという信じられない嘘を言われたことに、笑い出したいほどの怒りを覚えた。

 だから、怒鳴った。


「想い人を、わたくしに隠そうとなさるお気持ちは理解できます。ですが、わたくしを慕っているなどという嘘を仰ることはないでしょう?」

「なぜ、信じてくださらないのですか?」

「信じられるわけがないでしょう!?」

「その理由は?」


「!?」

 言えと、言うの……?

 招待状を部屋の暖炉で燃やされていたという、あの屈辱的なことを。


「……私に想い人などおりません。何かを耳にされたのならば、それは悪意ある噂でしょう。何かをご覧になったのなら、それもおそらく誤解です。……ですが、姫をお慕いするこの気持ちを〈嘘〉だと断じなさるのは、なぜなのですか?」


 ロジィは、ふふ、と、笑った。……笑うしかなかった。


「わたくしが存じ上げていないとでも思っていらっしゃるのかしら。それとも、ご自身がなさったことをお忘れなのかしら」

「……私が、した……?」

 アルティノワ公が怪訝そうな声を漏らす。


「私は何か、姫のお心を傷つけるようなことをしてしまったのでしょうか」

「いいえ」


 ロジィは微笑みを顔に貼り付けた。貴婦人らしい、模範的な微笑を作り上げて、顔を上げる。

 戸惑いを隠し切れていないアルティノワ公の美しい瞳を見つめながら、できるだけ感情の宿らない声で答えた。


「閣下は、閣下のお心に正直に行動なさっただけでしょう。わたくしが、勝手に驚いただけですわ」


 手を放していただけますか――冷静な声で頼んだのに、アルティノワ公は解放してくれなかった。だんだん腹立たしくなってきたロジィは、溜め息を落とす。


「嫌っている相手の手を掴んでいるのは苦痛でしょうに」

「……嫌って、いる……? 私は姫をお慕いしていると……」


 どこまでも噛み合わない会話。嘘をつこうとするアルティノワ公。

 この状況に嫌気が差して、ロジィは、貴婦人に求められる振る舞いを捨てることにした。

 ――もう、どうにでもなれ……と。思ったのかもしれない。


「王弟妃殿下の茶会に閣下を幾度かご招待したことがございましたね」

「ええ」

「いつでしたでしょうか。わたくしの部屋の暖炉に、招待状の燃えさしがありました」


「!」

 アルティノワ公の蒼瞳が大きく見開かれる。衝撃と驚愕に彩られた表情。


(それはそうでしょうね)


 心の中で小さく苦笑した。まさか燃え残っていたとは夢にも思わなかったのだろう。ロジィは、掴まれているのとは反対の手で、アルティノワ公の手をほどこうとした。


「そのことはもうよいのです。閣下のお気持ちを知るよい機会だったと……――、あの、放して、いただけますか?」

「いいえ。放しません」

「!」


 いつも、どこかロジィの様子を窺うような、控えめな素振りばかり見せていたアルティノワ公。

 ロジィも、どこかでそれに甘えていたのだろう。――最後は必ず、願いを聞き届けてくれる、と。


 きっぱりと言い切られ、さらに、視線を重ねるように瞳を覗き込まれて、ロジィは戸惑う。

 彼が節度ある距離を保って接してくれていたから、ロジィは気安く話をすることができていた。魔性のような美貌で迫られたら、緊張で息が詰まってしまう。


「目を逸らさないでください、姫」


 蒼い瞳を見ていると魂まで吸い取られてしまいそうで怖いのに。

 アルティノワ公は、ロジィの手を掴んでいないほうの手で、そっと顎先に指を掛けた。


「!?」

 こちらを向け――と。やんわりと、けれども強引に、視線を固定されてしまう。


「最初からお話しします」


 アルティノワ公は静かな声音でそう告げると、ロジィが逃げ出さないようにしっかりと手首を掴んだまま、先ほどまでロジィが座っていた寝椅子へと足を向けた。

 ロジィを座らせると、アルティノワ公もすぐ隣へと腰を下ろす。――近い。


「まず、私に、姫が仰るような想い人はいません」

「それは……っ」

「とりあえず、お聞きください」


 きゅ、と。逃げることを許さない力で、手を握り込まれる。

 婚約中であるためか、アルティノワ公はダンスの場面を除いて、あまりロジィに触れようとしなかった。


 ラルデニアにいた頃から男性と接することが得意ではなかったロジィは、その態度を好ましく感じていたのだけれど――なぜ、急に。


「そちらの誤解も気になりますが、招待状の件です」

「――――」

「姫は、私の執務室にいらしてくださったのでしたね」

「……ええ」


 そこで、青いローブの貴婦人を見かけたのだ。盗み見などするものではないと身をもって理解した。世の中には、知らないほうがよいこともあるのだ。


「招待を受けて王弟妃の茶会に赴いたとき、姫のお姿はありませんでした。そして、その場で、庭の散策に誘われたのです」


 アルティノワ公が、こちらをじっと見ているのを感じたが、ロジィは俯くことでその視線をやり過ごした。

 レティが「逢引」と言っていた、あのときのことだろう。アルティノワ公には迷惑を掛けてしまった……。


「相手はベリエ公の愛妻。そして私は婚約中の身です。王弟妃と二人きりで会うなど言語道断」

 ですから、と、アルティノワ公が言葉を継ぐ。


「いただいた招待状の裏に、姫へのメッセージを記したのです」


(……?)

 暖炉に落ちていた燃えさしは小さな紙片になっていたし、黒く焦げ付いていて文字など読めなかった。見覚えのある金泥模様の縁取りが見えたから、自分が置いてきた招待状だと、かろうじて判別できたに過ぎない。


「そのあとから、姫は私に会ってくださらなくなりました。てっきり、招待状の裏を使うような横着な振る舞いをしたので、幻滅されたのだとばかり思っていたのですが……」


 招待状の裏に出欠の返事を書くのは、メルヴェイユ宮殿で日常的に使われる手段だ。その程度のことで幻滅するなどあり得ない。

 招待状が燃やされていたから。――だから、ロジィは絶望したのに。


「姫が招待状をお手に取られたとき、それはすでに燃えていたのですね?」

「……ええ」


 俯いたまま、ロジィは目を閉じた。一切から逃げ出したい気分だった。

 なぜ、婚約者から、その婚約者が燃やした招待状のことについて、根掘り葉掘り確認されなければならないの。


 ささくれだった気持ちでアルティノワ公の言葉を聞き流そうとしていたら、思いがけないことを言われた。


「姫は聡明な方でいらっしゃいます。私を誤解しておいでの今はおつらいでしょうが、どうか厭わずに話を聞いていただけませんか。そうすれば、私が姫に対して、いささかも偽りの言葉を口にしていないとおわかりいただけるはずです」


 ――聡明などという褒め言葉は生まれて初めて耳にした。

 言われた言葉がすぐには理解できなくて、思わず、顔を上げてしまう。海のような蒼い瞳と正面から視線がかち合った。


「ようやく私をご覧になってくださいましたね」


 アルティノワ公が、あまりに嬉しそうに微笑むから。――視線を外す機会を逸してしまった。

 窓から射し込む光に照らされて、アルティノワ公の髪が太陽のように輝いている。まるで天使のようだ。


「……聞いていらっしゃいますか、姫?」

「え。あ、はい」

 宗教画に描かれている大天使を前にしたような気分になって、うっかり見入っていた。


「先ほどの哀れな小鳥を覚えておいでですか」


 ロジィは頷いた。天に召されてしまった小鳥は可哀想だが、ああでもされなければ紅茶に毒が入っていたと、ロジィは納得することができなかっただろう。アルティノワ公が毒に慣れているというのも驚きだったが……。


「あの茶葉は私がご用意しました。ローゼリア姫のために」

「…………?」


 紅茶には毒が入っていた。その茶葉はアルティノワ公が用意した。――ロジィのために。


 ここだけを切り取って考えれば、まるでアルティノワ公がロジィに毒を盛ったと告白されているように聞こえる。ロジィに紅茶を飲ませず彼が飲み干したのも、己に嫌疑が掛からないように身体を張った……と、考えられなくもない。彼は毒に慣れていると言うし、代わりに飲むくらいは容易い行為だろう。


(でも)


 一連の行為には意味がない。彼が毒を用意していながら、その毒を自分が飲んでしまうなんて。


 ロジィを抹殺したいのであれば手段は他にあるだろう。国王フィリップの毒味役を務めたくらい毒に慣れているなら、ロジィを毒殺すればかえって足が付く。疑われないように手を下すのが普通だ。

 そう思って、アルティノワ公の顔を黙って見つめていると、彼は笑みを深めた。


「やはり、姫はご聡明でいらっしゃる」

「わたくしの、どこが――……」

「今の話で、私が毒を入れたとお疑いにならないからですよ」

「わたくしに毒を盛ることに、閣下の利点がございませんから」


 ロジィを殺したい――つまり、邪魔だと考える理由としてもっとも可能性が高いのは、ロジィを妻にすることだろう。単純に考えれば、好きでもない女を妻にするのは嫌だ、という。


 だが、たとえアルティノワ公に想い人が存在していると仮定しても、ロジィを殺す利点はアルティノワにない。

 メルヴェイユ宮廷の慣わしが、既婚者だからこそ自由に恋愛ができる――というものだからだ。


 順当にロジィと婚姻が成立したとしても、アルティノワ公が恋人や愛人を持つことは誰にも憚る必要がなかった。


 アルティノワ公はルガール王族なのだし、ラルデニアを持参金にするロジィとの結婚は「成立させなければならない」ものだ。婚約期間中にロジィを殺してしまったら無意味である。


「茶葉をご用意したのは私ですが、それには理由がございます」


 アルティノワ公の視線がロジィから外れた。少し離れたところに設置されているテーブル。その上には、まだティーカップがいくつか並べられている。アルティノワ公が飲み干したカップも。


「このところ、食事を召し上がっていないとか」


 ロジィは謹慎中の身だ。厨房から届けられる豪勢な食事に手をつけるわけにはいかない。

 けれど、そのことと、アルティノワ公が茶葉を用意したことと、どう繋がるのかしら……?


「紅茶の茶葉がなくなりそうだと、メラニエ夫人が困っておりましたよ」


 ……ああ、そんなことを言われたような気もするわ。

 厨房が届けてくる料理からパンだけを取り分けて、残りはすべてミミに下げ渡していたけれど。


 パンだけを食していては喉に詰まってしまうので、実家から取り寄せている紅茶だけは飲むようにしていた。その茶葉がなくなりそうだと言われた記憶がある。

 ロジィが取り合わなかったから、ミミはアルティノワ公を頼った……ということなのだろう。


「わたくしの女官が厚かましいお願いを申し上げまして、主人としてお詫び申し上げます」


 仕えている女官の非礼は、その主人が働いた非礼である。どれほど些細な事柄であれ、無心するというのは宮廷作法違反だ。

 けれど、作法にのっとって謝罪したロジィに、アルティノワ公は心外だと溜め息を零す。


「私は姫の婚約者なのですよ。日々の暮らし向きをお助けするのは当然のことです。……私が申し上げたいのは、メラニエ夫人から耳にしなければ茶葉をご用意することはなかった、と、いうことなのですが」


 毒入りの紅茶にするために必要な、茶葉。

 それを用意したアルティノワ公には毒を混入させる動機がない。そして、その茶葉をそもそも所望したのはメラニエ男爵夫人である――――。


「……なぜ」


 茶葉を用意したアルティノワ公が毒を仕込んでいないのであれば、この場で紅茶を淹れたミミしか、該当者がいなくなる。

 ――ミミが、ロジィを殺そうとしたのだ。


「どうして……」

 呟きながら、ロジィはもう〈答え〉がわかっていた。


 レティだ。


 たとえ、ミミがロジィを個人的に嫌っていたとしても、殺害までは考えないだろう。


 故郷に帰りたければいつでも申し出て欲しいと、最初にきちんと伝えておいた。ロジィに仕えることに嫌気が差したのであれば、辞めたいと一言、言ってくれさえすればよかった。


 毒殺すれば証拠が残る。ロジィに仕える〈メラニエ男爵夫人〉が真っ先に疑われるのは自明の理だ。危ない橋を渡るくらいなら女官を辞めてしまえばよかったのだから。

 だから、ミミがロジィに毒を盛った理由は、レティしかあり得なかった。


(そこまで……?)


 宮廷でも有名な伊達男に色仕掛けをして呼び出し、その悪戯をロジィになすりつけるだけでは飽き足らず。

 ――――わたしの命まで。


「お気づきになりましたね?」


 頷くことはできなかったが、アルティノワ公が言いたいことは理解した。そんな意を込めて見つめ返すと、意図は伝わったようだった。


「では、招待状の件についてご説明します」

「?」

 毒入りの紅茶と招待状と、なんのつながりが……?


「姫からいただいた招待状にメッセージを記したことは先ほどお話ししましたが、姫が部屋に不在でいらしたので、それを女官に託しました」


「!」

 ロジィは、はっと瞳を見開いた。


 あの茶会にロジィは加わらず、部屋を出て宮殿の庭園を散策していたが、ロジィに仕えているミミは部屋に残っていたのだ。そして、茶会の手伝いをしていた。


 茶会に出席したアルティノワ公がロジィに渡す招待状を託せる人物は、部屋にいて、かつ、ロジィに仕えているミミしかいない。


「ええ。そうです。メラニエ男爵夫人に、です」


 ロジィは、ずっと、アルティノワ公が部屋の暖炉で燃やしたのだと思っていた。

 自分の部屋で燃やせばいいものを、わざわざロジィの部屋の暖炉を使った。しかも、燃えさしが残るような中途半端さで。


 それはつまり、ロジィに対して嫌悪を抱いていると伝えるために「わざと」したことなのだろうと、そう思っていたけれど。

 招待状がロジィの手元に戻ってくるまでに〈仲介者〉がいたとは思わなかった。


「……私が招待状を燃やしたのではないと、信じていただけますか?」


 アルティノワ公を信じることは、ミミが招待状を燃やしたと認めること。

 それはそれで哀しい現実だが、誠実なアルティノワ公の瞳を見れば、何が真実であるかは痛いほどわかる。


 燃えた招待状だけを見て、アルティノワ公に嫌われているのだと思い込んでしまったけれど。


 その一件が起きる前も、起きた後も。アルティノワ公は変わらず、ロジィに細やかな気配りをしてくれていた。接する態度も、物腰も、何もかも同じなのだ。


 嫌っている――と、招待状を燃やすことで見せつけたのなら、そのときから態度が変わっていたはずなのに。


「信じます」

「では、私に想い人などいないということも、信じてくださいますね」

「それは……」


 鮮やかな青いローブ。記憶の中でひるがえる色は、アルティノワ公の瞳のように鮮烈だ。


「何か、理由がおありですか?」


 招待状を燃やされた一件で頑なに心を閉ざしていたけれど。

 アルティノワ公が燃やしたのでないなら、彼に嫌われているのではないのなら――相手の言い分に耳を傾けることも必要だ。


「姫が私に対して信頼をお寄せくださらないのは致し方ないことでしょう」


 するり、と。流れるような自然な仕草で手を握られた。

 ロジィは手袋を着用しているが、絵筆を執っていたアルティノワ公は素手なので、余計に彼の体温を感じられるような気がする。


「私はベリエ公と同じように、愛する貴婦人は生涯に妻だけと決めておりますが、それはゆっくりと姫にお信じいただこうと考えております」


「――――」

 今、何か、とても都合のいい言葉を聞いたような気がする。


 ……愛する貴婦人は生涯に妻だけ。


 そんな、夢のようなことが本当に起こりうるのかしら。

 レティがベリエ公から熱烈に愛されたのは、あの子が誰からも愛される〈ラルデニアの天使〉だったからだ。同じことがロジィの身に起きるはずがない。


 ――婚約破棄されたロジィを愛してくれる人がいるはずもない……。


「生涯、姫だけに愛を捧げようと決めている私を、そうまでお疑いになる理由をお聞かせいただきたいのですが」

 真摯な輝きに満ちた蒼い瞳。宝玉のように麗しい彼の瞳を見つめたら、言葉が零れ落ちていた。


「青い、ローブの……」


「青いローブ?」

「!」


 聞き返されて、思わず呟いていたことに気がつく。なんでもないと誤魔化すには遅すぎた。

 ロジィは諦めて口を開く。


「招待状を届けに伺ったとき閣下はご不在で……お待ち申し上げている間、隣の部屋を覗いてしまったのです」

「隣の」

「薔薇の貴婦人がお使いだった部屋が、今は、閣下の寝室でいらっしゃいますから……」


「ああ!」


 急に大声を出されてロジィは肩を揺らした。一方のアルティノワ公は、ようやく合点がいったというように晴れやかな笑顔を浮かべる。


「あのときをご覧になっていたのですね」


 ……「あのとき」が「どのとき」かはわからないが、ロジィは小さく答えた。

「青いローブの貴婦人を抱き締めておいでのように見受けましたので……」

「あれはローブを抱えていただけですよ」


 あっけらかんとアルティノワ公は言った。……殿方がローブを抱えるって、どういう状況なの、それ。

 疑いの眼差しを向けてしまったら、アルティノワ公は困ったように微笑した。


「あの部屋はベルローズの部屋ですから、衣装箪笥にローブがぎっしり残っているのですよ。正直に申しまして邪魔ですが、姫に贈るローブの参考になるかと思い、時折、眺めているのです」


「……はぁ」

 特に反論する糸口は見つけられなかった。完璧な言い分である。


 アルティノワ公の服飾センスは申し分ないし、室内装飾を考えるのが趣味だとも言っていた。


 そうした方面に関心の強いアルティノワ公が、意匠の参考にローブを引っ張り出して眺め、あまつさえ抱え込んでいたとしても、不審な点は見出せない。


「まだ、お疑いでしたら、寝室においでになりますか? 衣装箪笥を埋め尽くすローブの数をご覧になれば、さすがに信じていただけるかと」

「滅相もありません!」


 正式に婚姻を交わしていない殿方の寝室に入り込むなど正気の沙汰ではない。

 だが、ロジィの固辞を都合よく解釈したアルティノワ公は、朗らかな笑みを浮かべた。


「そうですね。真面目な姫が謹慎中に出歩くようなことはなさいませんね。では、謹慎が明けたときに」


 アルティノワ公は握っているロジィの手をそっと持ち上げると、貴婦人に忠誠を誓う騎士がごとく、手の甲に唇を寄せた。

 貴公子からの挨拶は受け入れるのが宮廷作法なので、されるがままに任せていたら。


 アルティノワ公は、ロジィの手の甲に唇を添わせたまま、視線だけをロジィの瞳に合わせてきた。


「私がローゼリア姫をお慕い申し上げていると、お信じいただけますか」


 ロジィは、答えられなかった。

 何も言えず、アルティノワ公の眼差しを受け止め続けることもできなくて、視線を床に落としたら。

「……姫にこそ、どなたか想うお人がおありなのでは」


 思いもしないことを、言われた。


「わ、わたし、は……、そのように見えるのですか……?」


 貴婦人は他者に対して自身を言い表すときに「わたくし」と言い述べるのが作法である。

 けれど、根本的な作法が頭から零れ落ちるくらい、衝撃だった。


 ロジィが秘やかな想い人を作っていて、先に婚約者を裏切っていたから、だからアルティノワ公の不実を疑った――そう言いたいのだろうか。


「わたしはラルデニアで生まれ育ちました。ラルデニアは敬虔なリジオン教徒が多い土地柄なのです。婚姻の縁を結んだら、相手を裏切ることは神を冒涜することと同じと教えられてきました。わたしも、そうあるべきだと……それなのに、わ、わたしが、閣下を裏切っているようにお思いなのですか……っ」


「泣かないで、姫」

「!」


 全身が、温もりに包まれた。

 アルティノワ公がロジィを抱擁しているのだ。


 まるで泣きじゃくる子どもを宥めるかのように、アルティノワ公の手がロジィの背筋をゆっくりと撫で下ろしてく。肩から腰に掛けて。


「すみません、私の気持ちをなかなか信じてくださらないので、意地悪を言いました。謝ります。だから、どうか、泣かないで」


 眦にアルティノワ公の唇が触れた。それにびっくりして涙が止まる。

「ラルデニアの土地柄は承知していますよ。姫が模範的なリジオン教徒でいらっしゃることも」

 頬を伝っていった涙の痕を、アルティノワ公の掌が優しく撫でた。両頬を包むように掌で覆われる。


「では、姫も、私を……その、憎からずお思いですか?」

「婚約者ですから」

「…………。そうですね。ええと、婚約者として、悪くないと?」

「? 神が定めたもうた縁に、悪縁などありません」

「――――」


 するすると。ロジィの頬を包んでいたアルティノワ公の手が、力が抜けるように離れていった。


「……何か、間違ったことを申し上げましたか?」


 沈黙してしまったアルティノワ公が心配になって尋ねたが、「いえ、大丈夫です」と不思議な返答をもらった。


「ラルデニアでは、婚姻によって結ばれた相手を愛することこそ、神の教えに従うことだとされています。……ですから、ラルデニアの夫婦は、結婚してから愛を育むのです」

「結婚、してから」

 どこか落ち込んでいたアルティノワ公の表情に明るさが戻った。


「メルヴェイユに来て、あまりに風習が違うので驚きました」

「それで、私をお疑いでしたか?」

 すぐに信じなかったのはそれが理由か――と尋ねられ、事実なのでロジィは頷いた。


 結婚してからこそ自由恋愛、という慣習が当たり前のメルヴェイユで、自分と同じだけの誠実さを相手に求められるはずがない。


「では、姫は、愛を育むべき相手として、私をご覧になっておいでですか」

「婚約者ですので」

「……婚約していなかったら」

「将来的に婚姻しない相手を愛することは教義に反します」


 きっぱり言い切ると、アルティノワ公が、わかりやすく落ち込んだ。

 ……なぜ、なのかしら。


 ロジィにとって、恋い慕う感情は「結婚してから抱くもの」だ。支配階級に生を受けた者として、婚姻が政略なのは幼い頃からわかりきっていた。


 それなのに、幼少の頃からの幼馴染みを恋い慕ったら、いざ結婚となったときに辛い目に遭うのは明白。上層の子どもたちは結婚前の恋愛が〈悪〉として教えられる。

 ロジィでさえそのように育ったのだから、宮殿育ちのアルティノワ公も同じだったはずなのに。


「……婚約相手が私でなくても、姫は、その相手を愛したと仰るのですね」

「もちろん、そのように努めます。……それは閣下も同じでしょう?」

「え」

「たとえ王族としての義務であっても、わたしなどを大切にしてくださる閣下ですから、そのお相手のことも……――」


「私が婚約したのは、ローゼリア姫だからです」


「……は?」

 ロジィは、ぽかん、と、口を開けてしまった。

 この方は今、なんと仰ったのだろう。――わたし、だから?


「この婚約は王命だったはずでは……」

「王命です。ですが、私は〈アルティノワ公〉ですから。ラルデニアの姫でなければ「婚約が許されなかった」のですよ」

「え?」


 意味がわからなかった。アルティノワ公は王族の中では特権的な地位にいる。王位継承権こそ有していないが、莫大なアルティノワ公領を与えられ、国王が「我が弟」と親しげに呼びかけるような存在なのだ。


 王族の義務は世継ぎ候補を確保すること。それに照らせば、王位継承権を持たないアルティノワ公が婚姻する重要度は低くなる。


 だが、見方を変えれば、恋愛結婚を許された唯一の王族とも言える。元から継承権を保有していないのだから、貴賤結婚をしたとしても影響はない。王族としての軛から外れた希有な立場にいたはずなのに。


 ――――婚約が許されなかった……?


 呆然とアルティノワ公を見つめたら、彼は、少しだけ寂しげな微笑を浮かべた。


「……いい機会です。私のことをすべてお話ししましょう」


       * * *


 現国王フィリップ一世の父・クロヴィス二世には弟がいた。王弟ロンティエ公シャルル・フランソワである。

 彼はフィオーレ王国の大貴族コンクルーネ家のルイーザ姫を娶り、一男一女をもうけた。


 長男をジョゼフ。長女をイザベル。

 当時、クロヴィス二世には世継ぎが望めない深刻な事情があり、王弟の長男であるジョゼフ王子は未来の国王として、周囲の期待を一身に受けていた。


 しかし、ロンティエ公家を不幸が襲う。流行病である。

 わずか五歳のイザベル姫を遺し、ロンティエ公夫妻と幼いジョゼフは天国へ旅立ってしまった。


 弟夫妻と世継ぎ候補、さらには王妃までをも流行病で一時に亡くしたクロヴィス二世は、姪イザベルを引き取り、我が子同様に育てることとした。

 やがて、国王であるクロヴィス二世は再婚。待望の世継ぎフィリップを得たが、イザベル姫を娘のように溺愛することは変わらなかった。


 イザベルは十二歳で、グロリアのミゲル王子と結婚する。ルガールとグロリアとの同盟政策によってだった。

 数年後、ミゲル王子は即位してグロリア王ミゲル四世となり、イザベルは王妃となった。


 ところが、である。聖王庁が、グロリア国王ミゲルと王妃イザベルの〈婚姻無効〉を宣言した。


 理由は王侯貴族が離婚する際に使用される〈白い結婚〉だった。

 結婚当時、夫は十歳で妻は十二歳。正式な婚姻が成立するとは思えない年齢である。


 だが、このとき夫ミゲル四世は十六歳。妻イザベルは十八歳。人によっては妊娠や出産が起きていても不思議はない年齢だ。王族は総じて早婚が多いので。


 しかも、成婚からすでに数年が経過している。今さら婚姻無効を持ち出すのは無謀とも言える状況でありながら、ミゲルが病弱であることと、イザベルに妊娠の兆候が見えないことを理由に〈白い結婚〉を主張したのだ。


 聖王庁の強引な介入にはダンベルク帝国の思惑があった。

 ネーベルン戦争に敗れたダンベルクが、支払えない賠償金の代替案として、ネーベルンをグロリアに割譲すると提案したのだ。


 ただし、大公女マリアンネをグロリア王ミゲル四世の妃に据えるならばその持参金として――という条件付きで。


 ミゲル四世にはすでに王妃イザベルがいる。とうてい受け入れられるはずのない条件だったが、それにグロリアは飛びついた。ルガールとの同盟を破棄してでもネーベルンが欲しかった。


 グロリアの廷臣たちは水面下でダンベルクと結託し、自国の王は病弱で結婚生活を送れるような心身ではなかったと大陸中に公布。


 聖王ニコラウス八世がダンベルク帝国を統治するウォルシュタイン家出身だったことも加わり、流れは一気に「グロリア国王夫妻を離婚させよ」に転じた。


 イザベルは〈白い結婚〉ではないと訴え、離婚に応じない構えを見せたが、グロリアの廷臣が一方的にルガールへ送還してしまう。


 その直後、なんとイザベル王妃の〈懐妊〉が発覚したのだ。


 王妃が懐妊したとなれば、その結婚生活は〈白〉ではない。夫婦生活が営まれている何よりの証である。子どもがいないこと、妊娠の兆候がないことを理由に、王妃を放逐することができるはずはない。


 だが、懐妊が発覚した地がグロリアではなくルガールだったことを理由に、グロリア側は「王の子」と認めないと宣言。イザベルは男児を出産したが、ミゲル四世は生まれた子を〈嫡子〉と認めなかった。

 いや、認めないように圧力をかけられた、というのが正しい。


 白い結婚を理由に離婚を勧告したのは聖王庁だったのに、その夫婦の間に子が産まれてしまったのだ。協議に照らせば離婚など言語道断。聖王庁の正当性を保つには、ふたりは白い結婚だったと言い張るしかなく、結果として産まれてきた子供にしわ寄せがいったのだ。


 いかにルガール王とイザベルが離婚に反対しようとも、婚姻を承認する聖王庁が「無効」を宣言すれば無意味である。

 グロリア国王ミゲル四世はイザベル王妃と正式に離婚が成立し、ダンベルクの大公女を後妻に迎え入れた。


        * * *


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