【 第三章 ⑤ 】
結論から述べると、ロジィの心配は杞憂だった。
ロジィに一任されたアルティノワ公は、勝手に改装を進めてしまうのではなく、デザイン画の段階から細かくロジィに確認を取ってくれたのだ。
彼は本当に絵が上手なので、ラフなスケッチを眺めるだけでも楽しい。何枚もあるスケッチの中から、「こっちのこれと、あっちのそれが好き」というような雑な返答をしても、アルティノワ公はそれを丁寧にすくい取ってくれた。
「……では、コンソールの意匠はこちらで、書き物机は、こちらにしましょうか」
アルティノワ公が四角い線で囲った部屋の中、ロジィが気に入った調度品が、さらさらと描き加えられていく。魔法を見ているようだ。
淑女の嗜みとして、ロジィも水彩画の心得はある。だが、見たものを写生するのと、調度品のデザインを想像するところから描くのとでは、まったく技量が異なる。
「寝台のデザインはどちらがお好みですか? この中になければ、イメージを仰ってください」
その場で答えがまとまらなくても、アルティノワ公がロジィを急かすことはなかった。いったん持ち帰り、改めて相談の日を設けてくれる。そのときには、新しいデザインのスケッチも用意してくれた。
(……こんなに、わたしに構っていて、大丈夫なのかしら)
アルティノワ公は宮廷の要職に就いていないので、政務を放り出しているという心配はしていない。
そうではなくて、政略結婚の相手の機嫌ばかり取っていて大丈夫なのか――という心配だった。
ロジィとアルティノワ公の婚姻は王命だ。そこに愛情などありはしないのに、どうしてアルティノワ公は、ここまで誠実に心を砕いてくれるのだろう。
錯覚しそうになる。……好かれているのかもしれない、と。
「いかがされましたか?」
あまりに見つめすぎてしまったからだろう。怪訝そうに首を傾げながら、アルティノワ公が視線を上げた。
窓から射し込む陽光に照らされて、絹糸のような彼の頭髪が黄金の輝きを放つ。
「申し訳ございません。不躾なことを……」
「いいえ。姫に見つめられるのは、天使の祝福を得たかのように幸せですよ」
さすがは宮廷育ちの貴公子だ。美辞麗句が流れるように口から零れ出てくる。それに対して気の利いた返しが出てこないのは、ロジィが未だ洗練されていないからなのだろう。
打てば響く返答ができないロジィに助け船を出すように、アルティノワ公が言葉を継いだ。
「私の何が、ローゼリア姫のご興味をそそりましたか?」
「……閣下も、ご趣味がよくていらっしゃると、思いまして」
今日のアルティノワ公の宮廷服は、
国王の晩餐に付き合う日なのだ、と、来て早々にぼやいていたので、そのための盛装をしているのだろう。
淡い灰色の地に銀糸で刺繍が施され、真珠と水晶が華美にならない程度に縫いつけられている。あるいは、水晶に見える宝石はアクアマリンかもしれないが、盛夏に相応しい涼しげな組み合わせだ。
「…………。……私、も?」
ぎこちなく、アルティノワ公が言った。確かめるように慎重な声音だ。
「はい。閣下のお衣装も、とても素敵です」
ロジィはこれまで、ベルローズ公爵夫人の趣味が一番よいと思っていたが、アルティノワ公は彼に匹敵するセンスを持っていると、ロジィは思う。色の組み合わせがベルローズ公爵夫人に似て上手なのは、彼に絵の心得があるからなのかもしれない。
「……姫にお褒めいただくとは光栄ですね」
アルティノワ公の微笑みが、どこか引きつっているように見受けられるのは、ロジィの気のせいだろうか。
手元のデザイン画に視線を落としたアルティノワ公は、ややあって口を開いた。
「……姫は、私「も」と仰いました。私の他に、ローゼリア姫のお眼鏡に適った幸運な貴公子は、どなたなのか伺っても?」
「――それは……」
宮廷から去った貴人を話題にすることは、ルガールでは好まれない。この場でベルローズ公爵夫人の名を出すのは作法として不適切だろう。
そこまで思案を巡らせたロジィは、アルティノワ公が、ある単語を使ったことに気がついた。
(……貴公子……)
アルティノワ公は男性だ。そのため、ロジィが引き合いに出した「誰か」も男性だと、アルティノワ公は誤解したのだろう。
――――いや、ベルローズ公爵夫人はれっきとした男性なので間違いではない。
ベルローズは貴婦人であり、同時に貴公子でもある。直接ベルローズ公爵夫人を話題にできないなら、貴公子として話を進めてしまえばいいのだ。
「お名前を、存じ上げていないのです」
「名乗らない不作法者がメルヴェイユに伺候しているのですか!?」
アルティノワ公の蒼い双眸が驚愕に染まっている。言い方が悪かった。ロジィは少し反省した。
「そうではありません。お姿を拝見しただけなので、わたくしもご挨拶申し上げていないのです」
嘘は言っていない。ベルローズ公爵夫人とは挨拶を交わしたが、男性姿の〈ベルローズ〉とは言葉を交わしていないのだから。
「姫の眼差しを奪うとは、その貴公子はルガール一の果報者ですね」
本人が名乗らずとも、周囲に名を尋ねることをしなかったのか――と、アルティノワ公が質問を重ねる。
(ベルローズの本名……)
それはきっと、彼の最大の〈秘密〉だ。知ればおそらく、生命はなかっただろう。
「程なくして、お姿を拝する機会がなくなってしまったのです。ですので、お名前を伺う時間がございませんでした」
ベルローズが宮廷を退去したのは、ロジィが彼の秘密を知ってから一ヶ月ほど経った後のことだが、要約して答えた。
ロジィの前でベルローズが隙を見せたのは、看病の時の一度きりだ。ロジィの体調が回復するのにも時間を要したし、寵姫が男性だという秘密にどこまで踏み込んでいいのか躊躇う気持ちもあった。
そうこうしているうちに、ベルローズは宮廷を去ってしまったのだ。彼の秘密に触れなかったことは、今となってはよい選択だったと思っている。
「何か、特徴を覚えていらっしゃいますか」
「……艶やかな黒髪が異国的でした」
「黒髪……」
ぽつりと呟いたアルティノワ公は、それきり〈謎の貴公子〉について尋ねてくることはなかった。
国王フィリップも祖先の血を受け継いで建築が大好きだった。
着工から四十年近い歳月を費やしてメルヴェイユ宮殿が完成したということもあり、自身で新たな宮殿を建設するつもりはないようだが、部屋の模様替え程度なら嬉々として口を出す。
珊瑚宮の大改装にも強い興味を示していて、途中経過を報告するのがジュストに義務として課せられていた。
この晩餐は、いわばそのための報告の場だったが、開口一番にジュストが言ったのは、これだった。
「黒髪の貴公子に覚えはある?」
フィリップは、きょとんとした表情でテリーヌを口に運び、ジュストを見つめたまま無言で咀嚼する。
ジュストはボナジュー産の赤ワインで喉を潤しながら、返事を待った。
「なんの謎かけだ?」
「侍従にいないの?」
侍従は国王の側近として仕えるため、大貴族の子息が任命されることの多い花形役職だ。容姿端麗であれば中級の貴族出身でも抜擢されることがある。
ローゼリアの目についたのだから、フィリップの身辺をうろついていた侍従ではないかと予想したのだ。
「従僕でもいいけど」
「……ピエール、どうだ?」
記憶を探ることを早々に諦めたらしいフィリップが、横に控えているピエールに助けを求める。
フィリップとジュストの私的な晩餐ということで、普段の給仕役たちは下がらせ、侍従のロッシュ伯ピエールに給仕を任せていた。
「陛下にお仕えする侍従の中に黒髪の者はおりません。王族方にお仕えする従僕となりますと、すべてを把握しておりませんが、見かけたことはございません」
「……そっか」
ボナジュー産のワインは酸味が強い。暑い夏に好まれる味なのだが、ジュストの心境を写し取ったような酸っぱさだった。
「ルガールに黒髪は多くないだろう。一般に、グロリア系には黒褐色の髪質が多いと聞くが」
厚みのある雉肉のローストを切り分けながら、フィリップは淡く笑った。
「グロリア王国と接しているのはラルデニアだったな。……なんだ? ローゼリア姫絡みか?」
「そう、だけど……」
フィリップが言うとおり、ルガールの領地内に色素の濃い髪色を持つ人々は、あまり存在しない。栗色の髪をしているローゼリアがいい例で、どちらかと言えば暗い髪色は南部の血だ。そう考えれば「故郷の知り合いについて話題にした」と解釈する余地も生じるが。
名乗らない不作法者がメルヴェイユに伺候しているのか――というジュストの問いを、ローゼリアは否定しなかった。
「姫は、メルヴェイユで見かけたって、言ったんだ」
「誰を」
「趣味がいい黒髪の貴公子」
「誰だそれは」
「わからないからフィルに訊いたんだろ」
メルヴェイユに出入りする貴族は掃いて捨てるほどいる。ルガール貴族にとって、王宮に部屋を賜ることこそが、最大の栄誉だからだ。
彼らは領地に城館を所有しているが、一城の主であることよりも、一室の客人であることに喜びを感じている。メルヴェイユを離れることは、宮廷貴族にとって死を意味した。
……その事実に照らすと、黒髪の貴公子は「宮廷を追われた」可能性が生じる。ローゼリアは言っていたではないか。姿を見なくなった、と。
「メルヴェイユを追放した貴公子っている?」
「私に訊くまでもないだろう」
呆れた表情でフィリップが言う。ジュストはベルローズ公爵夫人として常に国王の傍らにあり、政務を横目で見ていたのだ。把握していない人事が存在するはずはない。
指摘されてジュストも気づいた。追放処分を受けた貴族はここ一年、思い当たらない。
「え。じゃあ……自分から去って行った貴公子は?」
「おまえだろう」
……は?
目を丸くするジュストに、フィリップは丁寧な口調で説明を添えた。
「我が許を離れた一輪の薔薇。ベルローズ公爵夫人だよ」
「…………、……俺、貴公子って、言ったよね!?」
「ベルローズの中身は、貴公子だからな」
そういうことを言ってるんじゃなくてね、と、ジュストは脱力した。
ローゼリアは、ベルローズが女装したジュストだと知らないのだ。ベルローズを指して〈貴公子〉と表現するはずがない。
八つ当たり気味に雉肉を頬張って、ジュストはしばらく食べることを優先した。
「それで。その、黒髪の貴公子がどうかしたのか?」
食後の珈琲が用意されたところで、フィリップが待ちきれないといった表情で口を開いた。
「気になって」
「理由は」
「姫が褒めたから」
王弟妃を演じていたときも、ローゼリアは貴公子と言葉を交わすことを好まない態度だった。
正体を見破られないように接触人数を減らしていたとも受け取れるが、華やかな社交的会話で煙に巻くという方法をとることもできたはずだ。
ジュストはベルローズを演じるとき、後者の方法を採用している。ローゼリアがそれをしなかった……ということは、本質的に男性が苦手なのだろう。
その彼女が、わざわざ引き合いに出すほどの男だ。婚約者として相手の顔を見てみたいと思うのは、当然のことだと思う。
「別に当然ではないだろう」
「なんで」
「その男が、ローゼリア姫の想い人だというなら話は別だが……――」
――――想い人。
その言葉は、ジュストの心に鉛のように沈んでいく。
婚約してから、ローゼリアがジュストに会いに来てくれない理由。その答えに思えたからだ。
メルヴェイユで生き抜くには不向きな、引っ込み思案のローゼリア。
彼女の目を奪ったことは、すなわち、ローゼリアの心を奪ったことと同じだ。
恋心を抱くことは罪ではない。既婚者であっても……いや、既婚者だからこそ、メルヴェイユでは大手を振って〈恋人〉を持てる。
婚約していても、ローゼリアが誰かを想うことは自由だ。
(……それが、どうしてこんなに、……)
頭ではわかっている。ジュストはメルヴェイユで育ったのだ。半年ぶりに顔を合わせる夫婦など何組も見てきているのに。
(……赦せないと、思うんだろう……)
服の趣味がよい――ローゼリアが言ったのは、ただそれだけのことだ。
取るに足りない褒め言葉。花を見て美しいと呟く、それと同程度のことに過ぎないと、頭の片隅では思うのに。
自分より先にその褒め言葉を向けられた男がいる……その事実が、無性にジュストの心を波立たせた。
(気づいたのは俺が最初だ)
王弟妃が、セレスティーヌではなく、ローゼリアだと。
宮廷の誰も気づかなかった入れ替わりを見抜いたのはジュストなのだ。
それからずっと、ジュストは〈王弟妃〉ではなく〈姉姫〉として、彼女を見つめてきた。ローゼリアがジュストの存在を認識する以前から。
ジュストが見いだした無垢な白薔薇。
可憐な蕾は、自分だけの宝物だと思っていたのに――――。
「ジュスト。本題はいつになったら始まるんだ」
「本題? ……ああ、デザイン画ね」
ピエールが素早く卓上を片付け、ジュストは持参したスケッチブックを数冊、そこに置く。
フィリップは手近に置かれたスケッチブックを早々に広げ、食い入るように眺め始めた。やがて一点を指で示し、身を乗り出してくる。
「この椅子だが、脚のデザインはこれではなく、あれにしたらどうだ」
「あれってどれ」
「豊穣の間に置かれている、控え客用の肘掛け椅子の」
「……豊穣の……、あの薄緑やつか」
建築や調度品が大好きなフィリップは、メルヴェイユ宮殿の室内装飾や調度品の、ほぼすべてを記憶していた。
フィリップが言う豊穣の間の椅子は、造られた当時の流行を取り入れた猫脚なので、改装後の優美な部屋のイメージにも合う。
「……でもさ、フィル。この改装は、俺とローゼリア姫の新居用なんだけど」
「わかっているぞ?」
「なんでフィルの好みを追加しなきゃいけないの」
「私は提案しているだけだ。ローゼリア姫が好みではないと却下するなら、別に咎め立てたりしないが?」
「……俺の好みは考慮されないわけね」
そして、新居が完成すれば頻繁に遊びに来るのだろうな――と、未来を想像したジュストは溜め息を零した。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
ベルローズが使っていた部屋――今は自分の寝室に改装した部屋で、ジュストは一人、無用の長物と化したローブを寝椅子に広げて物思いに耽っていた。
ジュストにしても女装が趣味ではないし、できればさっさと足を洗いたいと思っていた。あの姿にならなくて万々歳のはずなのだが。
(……姫と距離が遠いのが、なぁ……)
よそよそしく、ちっとも打ち解けてくれない婚約者。
いきなり宛がわれた結婚相手に戸惑う気持ちは理解できるが、名も知らぬ男を心に留めている……というのは、正式な婚約者として非常に腹立たしい。
彼はセンスがよかったわ――なんて思い返す暇があるのなら、その時間を是非、婚約者と親睦を深める時間に充てていただきたいものだ。
「……はぁ」
ベルローズ姿の頃はローゼリアの反応を気にすることなく傍へ行くことができたのに……と、ジュストは重たい溜め息を落とす。
ベルローズだった頃。いきなり〈親友〉の距離感で接したので彼女が当惑しているのは感じていたが、女同士なのだから問題ないでしょう、と、笑顔で押し通して。
もし、ローゼリアがベルローズの〈本性〉を知ったら気絶してしまいそうなことまで、女装を隠れ蓑にやっていたのに。
――――今、は。
自分の振る舞いがローゼリアにどう受け止められるのか、そのことばかりが気になって、距離を縮める方法が思いつかない。
これまでは、宮廷の慣習など無駄で面倒だとしか思わなかった。
けれども、俗に〈婚約者の挨拶〉と呼ばれる慣わしだけは、それを理由にローゼリアへ贈り物を捧げることができるから、よいものだと評価を改めたというのに。
贈り物をしても、ローゼリアは戸惑った顔をするばかりで、喜んでくれないから……。
「姫の好みって、わかりづらいからな」
直接に尋ねれば、はぐらかされる。遠回しに訊くと、途中で悟られて、やはり誤魔化される。
好き嫌いを口にするのは、はしたないことである――という淑女教育が徹底されているようだった。元来の、自己主張が乏しい性格も加わって、ローゼリアから好みを聞き出す作戦はすべて失敗に終わっている。
「女装して会おうかなぁ……」
婚約者には言いにくいことも、見知らぬ貴婦人には話してくれるかもしれない。
別人の振りをしてローゼリアの本心を聞き出し、ジュストに戻ってから、それに添うように行動すれば、少しは距離を縮められるのでは……。
色とりどりのローブを睨みつけながら考え込んでいたジュストは、到達した答えが不毛だと気づいた。
「……本末転倒だ」
結婚のためにベルローズを辞めたのに、結婚がきっかけで新たな女装姿を披露したら、フィリップに大笑いされてしまう。
それに、貴婦人にだけ話した内容をジュストが実行したら、ローゼリアに疑われてしまうではないか。
――――貴婦人とジュストは好い仲なのか、と。
そんな誤解をされてしまうくらいなら、ベルローズの正体がジュストだとバレるほうが、まだましだった。
あれは、王命で仕方なく女装していたのだと言い張れるからだ。フィリップも証言してくれるだろうし、ベルローズを演じることになったそもそものきっかけを説明すれば、笑ってくれるに違いない。
彼女が大怪我をしたときにベルローズ姿で看病してしまった過去も、心を込めて謝れば許してもらえると思う。
だが、ローゼリアは敬虔なリジオン教徒だ。婚約者のいるジュストが貴婦人と親しい仲だと誤解すれば、ジュストのことを軽蔑するだろう。
否定するためには、ローゼリアの好みを聞き出すために女装したと自白しなければならない。
そんな卑怯な騙し討ちをする男が結婚相手だと、絶対に思われたくなかった。
白薔薇の前では誠実でありたいのだ。
群青色のローブを清冽なローゼリアに見立てて抱きかかえ、ジュストは窓辺に寄りかかった。
「
ロジィはアルティノワ公の部屋の前にいた。
彼が与えられている居室は、ベルローズ公爵夫人に与えられていた部屋の隣だ。
ベルローズが宮廷を退去したことから、彼の部屋は取りつぶされ、アルティノワ公の部屋に吸収されたという。なので、実質的には国王居室の隣室、という位置にある。
ロジィの部屋は国王居室の向かいなので、廊下に出れば鉢合わせも可能という近さだった。
近距離を理解しながら婚約者の部屋に近寄らなかったロジィが、この場に立っているのは、レティの頼みだったからだ。
……昨日のことだった。
「いつになったら、わたしをアルティノワ公と会わせてくれるの?」
宮廷儀礼をすっ飛ばし、先触れも出さず唐突にロジィの居室を訪れた妹が、不機嫌な顔でそう言い放ったのだ。
「わたしはこれでも、お姉さまに遠慮してあげてるのよ。アルティノワ公の部屋に行くのを我慢して、お姉さまが呼んでくれるのをずっと待ってたのに」
レティは自分で椅子を動かすと、さっさと腰掛けた。着席の許しを与えられなかったので、ロジィは立ったまま王弟妃のお言葉を拝聴する。
アルティノワ公がロジィの居室に足繁く通い、珊瑚宮の改装について相談を重ねていることは、メルヴェイユでは最先端の噂話になっているらしかった。
その話を聞きつけたレティは、仲間はずれにされていると感じて乗り込んできたのだという。
「わたし、言ったわよね。アルティノワ公が欲しいって。どうして協力してくれないの?」
壁際に控えていたミミが、ぎょっとした表情で顔を上げた。
ミミはベリエ公とレティの、万年雪を溶かしそうな熱愛ぶりを間近で見ていたのだ。レティの発言は驚愕だろう。
「……まさか、お姉さま。アルティノワ公を好きなの? 王命で婚約した相手を本気で?」
だから自分を遠ざけているのか――――レティは、若葉色の瞳に烈しい怒りを灯してロジィを糾弾する。
「お姉さまは知らないようだから教えてあげるけど。宮廷ではね、愛し合う夫婦は野暮って言われるのよ」
宮廷公認愛妾が存在するように、正式な配偶者ではない異性と愛を交わすことこそが、ルガールの宮廷人として洗練された振る舞いだ。
結婚相手を愛するのは庶民がすることで、高貴な人々は家庭に愛を持ち込んだりしない。
愛とは、崇高で光輝あるものでなければならないからだ。
古の騎士道が如く、貴公子の愛と忠誠は、それに相応しい〈高貴な女性〉に捧げられるべきである。
それに相応しい――というのは、宮廷でもっとも高貴な存在である、王妃。
「でも、今のルガールには王妃様がいないわ。ねえ、わかるでしょ? 貴公子たちの愛と忠誠を受けるべきのは王弟妃である、このわたしなのよ」
「……ですが、
ロジィの言葉を最後まで聞かず、レティは鼻先で笑った。
「愛し合ってなんかいないわ」
「――え」
ロジィの視界の隅で、ミミも息を詰める。ふたりの、あの振る舞いはすべて芝居だったとでも言うのか。
手に持つ扇子をもてあそびながら、レティは挑発するような眼差しで、立っているロジィを見上げる。鋭い眼光で先日の一件を思い出してしまい、ロジィはぎゅっと、ローブの裾を握り締めた。
「愛し合うっていうのは、お互いにって意味よね」
「はい、さようです」
「だったら違うわ。ルイ様は、わたしのことを命より愛してくれてるけど、わたしはルイ様を愛してないもの」
「――――ッ!?」
目の前にいる妹が、得体の知れない〈何か〉に思えて、ロジィはごくりと唾を呑んだ。
ベリエ公がレティに向ける愛情は、盲愛と言っていいほどに深く激しい。
だから、夫に対して同じだけの愛情をレティが抱いているかと問われれば、それについては自信を持てない。
だが、ふたりの会話を耳にした数回。レティもベリエ公を愛しているように感じたのに……。
「わたしはラルデニアの天使よ。誰もが心を奪われる美しい姫なんだから、ルイ様がわたしを愛するのは当然なの」
同じ顔をしていても貴公子から口説かれたことのないお姉さまとは違うのよ――レティは口の端を吊り上げて、咲き誇る花のように微笑んだ。
「でも、愛されたからって、愛さなければいけないっていう決まりはないでしょ? わたしはルガール宮廷に舞い降りた至高の貴婦人なんだもの」
貴公子たちが捧げる愛と忠誠を受け取りながらも、自身の愛を返すことはない。
それが、ルガールに伝わる騎士道物語が描く理想的な貴婦人の姿だ。
宮廷中の貴公子たちの心をくすぐり、蜜を求める蜂のように群がる彼らの愛情を一身に集めても、唯一は選ばない。
数多の貴公子が愛を捧げる貴婦人は異教の女神のように残酷で、それだからこそ美しい。
「ルイ様は、わたしに焦がれる貴公子の一人に過ぎないわ」
顎をそびやかして胸を張り、きっぱり言い切るレティを見て、ロジィは頭痛を覚えた。
……なぜ、根本的なことを理解していないのだろう、この妹は。
「物語の中で貴婦人が貴公子たちの愛情に応えないのは、彼らが配偶者ではないからです」
騎士道物語はリジオン教の布教活動にも利用されるため、そこはかとなく一夫一婦制を支持する描写が差し込まれているのだ。
貴公子たちが愛を捧げるのは、この世の理想を体現した貴婦人。
しかし、その貴婦人が愛するのは神に誓った正しき配偶者だけ――というのが、騎士道物語が描こうとしている恋愛だ。
「ベリエ公はご夫君でいらっしゃいます。マダムが愛を捧げるに相応しいお方ですが」
「だから言ったでしょ。夫を愛する妻は野暮だって」
「妻を愛しておいでのベリエ公も野暮なのですか」
「相手がわたしだから当たり前だって言ってるの! 宮廷で誰より美しい貴婦人なんだから! 夫が、わたしに夢中にならなきゃおかしいでしょう!?」
レティの手から扇子が吹っ飛んだ。びくっと身を縮めるロジィの横を通り抜け、壁にぶつかって床に落ちる。すぐ近くには、アルティノワ公から贈られた薔薇を活けた花瓶があるので、当たったら惨事になるところだった。
(……割れ物を片付けておくのを忘れてたわ)
レティが来てすぐ、彼女の癇癪を想定して調度品を動かしておけばよかった。今から移動させるのは、レティを刺激するので逆効果だろう。
――あの日。まるで別人のように豹変したレティは、二度と見たくない。
(被害を最小限に抑えないと)
そう考えたロジィは、アルティノワ公を招いた茶会を催すことを提案した――。
……という、一連の流れを回想したロジィは、覚悟を決めて扉を叩く。
二回。三回。返事はなかった。……留守なのだろうか?
どうしようと迷って、なんとなく周囲を見回す。王宮の廊下には人の気配がなかった。
だから……というわけではないが、ロジィは思いきって扉を開けた。
――――いつなりと逢いにいらしてください。
優しく誘ってくれた婚約者が、もし不在だったら遠慮せず部屋の中で待っていて欲しい、と言っていたからだ。
メルヴェイユ様式の椅子や
きちんと整頓されていない、ということは、すぐに戻ってくるのだろう。アルティノワ公の言葉に甘えて待たせてもらうことにした。
壁際に置かれている長椅子に遠慮なく腰掛けて、ふと、違和感を覚えた。
寝椅子に座ったときに正面になる壁。ちょうど、ベルローズ公爵夫人の居室だった部屋と、この部屋とを隔てていた壁だ。双方の部屋は統合されていると聞いたが、壁はまだ取り払われていないようだった。
その壁が一カ所、扉のようにうっすらと開いているのだ。宮殿建築に多用される隠し扉だった。
壁を取り壊すより隠し扉を付けたほうが早くて簡単だったのだろう。
(……あの向こうはベルローズ公爵夫人の、部屋)
連日のように茶会に招かれていた頃が懐かしい。今はどうなっているのだろう。
アルティノワ公は、ベルローズの居室を自身の寝室として利用していると言っていたが。
あのまま手つかずで使用しているのか。あるいは、アルティノワ公の好みに合わせて改装されているのか。
好奇心に負けて、ロジィはそっと、開いている壁に歩み寄った。こわごわと、隙間から部屋を覗き込む。
アルティノワ公がいた。
こちらに背を向ける形で窓辺に寄りかかっている。声を掛けようとして……。
――――夏空のように青いローブの裾が見えた。
真っ青なローブは、アルティノワ公と窓の間に、挟まれるようにして立っている……ように見える。
そうでなければ、窓を向いているアルティノワ公の向こう側から、ローブの裾がはみ出てくる構図にはならない。
だからあれは、窓辺にある青いローブをアルティノワ公が抱き締めているのだろう。
そう考えようとしたロジィは、あまりに浅はかな発想をする自分が馬鹿馬鹿しくなって、壁から離れた。
(ローブを抱き締めるわけが、ないじゃないの)
青いローブに身を包んでいる貴婦人を、アルティノワ公が抱擁しているのだ。
彼の寝室で。
――――お姉さまが、婚約者から愛してもらえるなんて、どうして思えるの?
レティの言葉が、わんわんと頭の中でこだまする。止まることを忘れた釣り鐘のように。
……そうね。そう、だったわ。
ここはルガールだ。ラルデニアではない。結婚と愛情は、まったくの別物と考える場所だ。
そして、この婚姻は紛れもない――――政略。
改装について熱心にロジィの意見を聞いてくれるアルティノワ公の厚意を、好意だと勘違いした自分が浅ましく思えた。
せっかくの新居ですから好みの空間に調えましょう、と、アルティノワ公は言った。
その優しさは、ロジィが受け取ってはいけないものだった。あの、青いローブが似合う貴婦人が受け取るべき愛情だったのに。
ロジィは目を閉じ……ゆっくりと開けた。結婚すれば愛し愛されるなんて幻想とは、今ここで決別しよう。
――――わたしはこれから仮面夫婦を演じて生きていくのだから。
アルティノワ公が不在だったときのためにと、あらかじめ用意しておいた手書きの招待状。それを執務机の上に置く。ロジィは振り返らず、部屋を出た。
ローゼリアに見立てて抱きかかえていた青いローブを寝椅子に放り、ジュストは隣の執務室へと戻った。
ローブを抱き締めても本人に触れているわけではない。非常に虚しい気持ちになるだけだった。
しかも、あのローブはベルローズのものだ。ローゼリアの身代わりにすらならないのだと、途中で気がついた。
(無駄なことをした……)
物語における騎士のように。忠実に誠実に、ローゼリアと心の距離を縮めたい。
意欲だけはたっぷりあるのだが、どうすれば彼女の意識を〈婚約者〉に向けることができるのか、見当がつかなかった。
「……? ――――ッ!?」
執務机に置かれている小さな紙片。貴婦人が秘密のメッセージを届けるのに使われるカードだ。
……ローゼリアが、ここに来ていた……!?
近日に王弟妃が茶会を催すこと。アルティノワ公にも可能な限り出席して欲しいこと。
そうした内容が、実に簡潔に記されていた。ジュストはびっくりして、室内を無駄にきょろきょろ見回してしまう。
来てくれたのだ。ローゼリアが。この部屋まで。
寝室でいじけていないで、改装のデザインを考えていればよかった。そうすれば会えたのに。
……でも、いい。
この部屋まで足を運んでくれた、それだけで、姫との距離が縮まった気がするから。
ジュストはカードに記されている姫の流麗な文字に、そっと唇を当てた。
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