【 第三章  ② 】

 そよ風のように姫が離れていく。お付き女官と連れ立って遠ざかる後ろ姿をガラス越しに見つめ、ジュストは唇を尖らせた。


「……フィルのせいで姫に逃げられた」

「私のせいか?」


「どう考えたってフィルのせいだろ。いつもそうだよ。フィルが来ると、姫はそそくさと帰っちゃうんだ」

「それは……嫌われたものだな」


 しょんぼりと、元気をなくして残念そうなフィリップの声。ジュストの眉が無意識に跳ね上がった。


「は? 好かれたいわけ? 姫に?」


 ハリネズミのような声音で問い質したジュストに、フィリップは至極当然といった表情で頷きを返した。


「私は国王だからな。宮廷に集う人々から好意を向けられる存在でありたいと常々思っている。ローゼリア姫もむろん、そのうちのひとりだ」

「そんな理由で姫に粉をかけてるの? 最低」

「別に粉をかけているつもりはないが。宮廷での社交辞令の範囲だ」

「それにしてはやたら熱心に口説いてるよね。……ピエールもそう思うだろ?」


 不意に会話を振られたピエールは軽く目を見張ったものの、苦笑の混じった吐息を零した。


「陛下は、いつもどおりでいらっしゃるかと」

「どこが?」


 声音も眼光も、まるで抜き身の刃だ。硬化した態度のジュストを見て、珍しいことだとフィリップが首をかしげている。


「ずいぶんと機嫌が悪いな。どうかしたのか」

 のほほんとした口調がジュストを苛立たせた。


「気づいてないの。姫、何度もフィルを見てた。その気もないのにやたらと構って、姫がフィルに本気になったらどうするつもりなんだよ」


 フィリップがピエールと顔を見合わせた。

 その、まったく心当たりがありません、という態度がまた、ジュストを無性に苛々させる。


 姫に贈ろうと思って丁寧に棘を抜いた薔薇も、用なしになってしまった。手に持ったままの薔薇を無意味にくるくる回して八つ当たりしている間に、フィリップとピエール、ふたりの間で何かしらの無言の会話がなされたらしい。

 取りなすようにまず口を開いたのはピエールだった。


「ローゼリア姫は昨今では珍しく非常に節度のあるお方です。たとえ陛下に尊敬の念以上のお気持ちを抱かれていたとしても、薔薇の君を差し置いて陛下に取り入ろうなどとはなさいますまい」


 どことなく姫を悪者に仕立て上げているように聞こえるピエールの言葉に、ジュストはカチンときた。


 姫の名誉のためにも、ここはきちんと訂正を入れておかねばならない。ジュストは薔薇を鞭のようにしならせながらピエールの言に反論した。


「姫が取り入るなんて言ってない。フィルが、姫に構い過ぎだって言ってる。誤解させる。……さっきだって、フィルと一緒がいいって言ってたし……」


 ふむ、と。

 フィリップが頷いた。正答を見つけた、と言わんばかりに得意げな顔だ。


 今後は誤解を招くような行動を厳に慎む――と、謝罪のひとつも口にするだろうと肩の力を抜いたら。


「ヤキモチか。私がローゼリア姫にばかり構うから淋しかったのだな」

「――――、…………」


 なんで、そうなる。

 唖然として口が閉じられないジュストに、フィリップは蜜を垂らしたような口調で続ける。


「大丈夫だ、安心したまえ。余の寵姫はそなたひとりだ、ベルローズ」


 ジュストの全身に、ぞわっと鳥肌が立った。フィリップの瞳の奥は、実に楽しそうに笑っていた。寵姫に向ける愛情――など、当たり前だが微塵も浮かんでいない。

 思い切りからかっている、と、わかるから余計に。


「気色悪い芝居をするな!」


 怒りにまかせて放り投げた薔薇は、軽々とフィリップによけられて、虚しく地面に落下した。


「本当に機嫌が悪いな、ジュスト」

「おもにフィルのせいでね」


 フィリップとピエールが再び無言で顔を見合わせる。困り切った様子のふたりを見たジュストは大きく息を吐いた。


 大人げない態度を取っている自覚はある。……でも。

 どうしてこんなに苛々しているのか、本当は自分だってよくわからない。


 ただ、フィリップが姫に話しかけると胃のあたりがむかむかとして、姫の眼差しがフィリップに向くと、彼女の視線を独り占めしているフィリップを蹴り倒したくなるだけだ。背後から全力で。


 そう説明を終えると、フィリップはなんとも形容しがたい表情をしていた。


「……何、その顔。にやけるのか困るのか、どっちかにしてくれない? それともまさか蹴られたいとか!?」


「いや。おまえにも春が来たんだな」

「もうすぐ初夏だよ」


 そういう意味ではないよと柔らかく笑って、フィリップは周囲の薔薇を見回す。


 意味がわかっていないジュストをそれ以上からかってくることはなかったが、余裕たっぷりの態度はジュストの幼稚な態度を咎めているようにも感じられて居心地が悪かった。


 でも、とジュストは内心でぼやく。

 せっかく姫とふたりきりの時間を楽しんでいるのに、毎度毎度、そこに顔を出してくるフィリップが悪い。


 かなりの日数が過ぎたとはいえ、姫は病み上がりだ。些細なことにも目を配りたいのに、フィリップが来たとたんに退席されてしまう。ちっとも観察できないし、話もできない。本当に困っているのだ。


「フィルが来たって、そのままいてくれればいいのに……」

「……それは、ローゼリア姫ですから、無理なのでは」


 思わずこぼれ落ちたジュストの独白に応えたのはピエールだった

 姫だから無理……? ジュストは彼に向き直る。


「どういうこと?」

 ピエールは、こほんと小さく咳払いした。

「ベルローズ公爵夫人は陛下のご寵姫様でいらっしゃいます」


 もったいつけて口を開いた割に、言っている中身は薄い。わざわざ相づちを打つのも億劫なので、ジュストは視線だけで先を促した。


「ご寵姫様の許へ陛下がおいでになれば、おふたりにご遠慮申し上げるのは当然かと」

「そ……――」


 そんな偽りの関係に気を遣わなくても、と叫びかけてジュストは沈黙した。

 この秘密は、この場にいる三人だけのものだ。


 宮廷に伺候している貴族の誰ひとりとして知るはずのない内容。

 むろん、それはローゼリア姫も同じだ。ベルローズを国王寵姫ラ・ファヴォリットだと信じ切っている姫の立場に立てば、一刻も早く立ち去りたい心境になるかもしれない。


「……やっぱり、フィルのせいじゃないか」


 ふてくされたジュストに、フィリップがクスリと笑った。子供の癇癪を微笑ましく思っているような笑い方。

 それに、むっとして睨み付けると、フィリップは何かを決意したような眼差しで言う。


「アルティノワ公に戻ってみるか?」


 ジュストは、きょとんと目を丸くした。唐突な提案だが、脈絡のないフィリップの言葉には慣れている。すぐに頭を巡らせて答えを導く。


「王太后が出席する宮廷行事があるの?」


 ベルローズ公爵夫人はメルヴェイユ宮廷で非公認の寵姫。

 王族が列席する重要な宮廷行事への参加は認められていないため、そうした場面でジュストは本来の姿に戻る。


 だが、最近では王太后のほうが重要行事に欠席するので、ベルローズの格好のまま出ることが多くなっていた。今回は珍しく王太后が出席を表明したのかと思ったが。


「いや。ないが。……私に邪魔されず、姫とゆっくり語らいたいのだろう?」

「フィルが来なければいい話だよね」

「寵姫のご機嫌を伺わない国王がどこにいる」

「政務をサボって寵姫と戯れるのは辞めたほうがいいと思うよ」


 満面の笑みを浮かべて正論を口にすれば、フィリップは唇を尖らせてぶちぶちとごねる。


「政務より優先してもらえて嬉しいと素直に言ったらどうだ」


 可愛げがないとか、なんとか、いろいろと呟いているようだが、ジュストは綺麗さっぱり無視した。フィリップに見せる可愛げなど持ち合わせていない。

 そもそも、ジュストは本物の寵姫ではないのだ。嬉しいと思うはずがないだろう、まったく。


 ふんっと横を向いて無視を決め込むジュストを、しばらく無言で見つめていたフィリップは、声音を真剣なものに戻して口を開いた。


「アルティノワ公の姿でローゼリア姫に会いたいとは思わないのか?」


 珍妙な質問だった。さっぱり意味がわからなくて自然と眉根が寄ってしまう。


 ――――会う? 姫に、俺が〈俺〉として……?

 いや、それよりも。


「ベルローズはどうするつもり」

「急な病を得て実家に帰った、とでも説明するさ」

「それ、フィルに利点ってあるの?」


 ジュストがベルローズに扮しているのは、きっかけはともかく、王妃という〈貴婦人の情報網〉を持たない国王の代わりに情報収集をするためだ。


 そもそも、大陸で篤く信奉されているリジオン教では、人間は〈男女のペア〉であることが、神の恩寵を得る上でもっとも望ましいとされている。それゆえ、国家の頂点に君臨する国王には妃が必要不可欠な要素。

 だが、フィリップには生まれてこのかた、妃がいない。


 ――――ルガール王には、結婚ができない深刻な事情が存在するのではないか。


 そういった悪意ある噂話がルガール宮廷を飛び越え、各国宮廷でも囁かれるようになるまで時間はかからなかった。

 せめて貴婦人たちとの派手な艶聞でもあればよかったのだが、残念なことにフィリップは王太子時代から真面目で名を馳せている。


 そんな真面目一辺倒の国王が、ある日突然、身分不確かな愛妾に溺れたら――?


 彼女への秘めた愛を貫いていたせいで王妃を迎えられなかったのだろうと、周辺国は勝手に納得してくれた。

 ジュストが女装して国王寵姫を演じているのは、情報収集と目くらましという、一石二鳥の利点があるからだ。

 国王フィリップの傍らから寵姫ベルローズが消えることに、どんな利点が生じるというのだろう。


(不利益しかないよな?)


 貴婦人たちの噂話は、彼女らの夫である廷臣が国王に上げる報告よりも、時に真実を言い当てる。

 王弟ベリエ公の縁談についても、王太后からの正式な報告より先に知ることができたのは、ベルローズが噂を拾い上げていたからだ。


「俺の役目は〈王の密偵〉だ、そう言ったのはあんただろ、フィリップ陛下」

「その〈王〉が、密偵の役割を休んでよいと申しているのだが?」

「だから、その利点は? 俺は、利がある話にしか乗らないよ」


 回りくどい提案は嫌いだ。フィリップが何を目的としているのか、はっきり言ってもらいたい。

 腕を組んで正面から見据えると、ルガールの王は微苦笑を浮かべた。


「おまえが言う〈利〉は、私にとっての利点だろう。おまえにとっての利を取る気はないのか」


「俺にとっての、利……?」

 ジュストは、ゆっくりとひとつ瞬いて答えた。


「俺が〈アルティノワ公〉でいることに利点なんてひとっっっつもないけど?」


 そうでなければ、誰が好き好んで女装姿を続けるだろう。

 本来の姿であるアルティノワ公としてメルヴェイユ宮廷に伺候していても、ただの穀潰しとしか見られない。

 いてもいなくてもいい存在。……むしろ、いないほうがいい存在。


 父にとっても母にとっても、ジュストはそういう存在だった。母の胎内に宿ったときから厄介者扱いされ、生まれ落ちたその瞬間に抹殺しようとさえされた。


 実の両親にすら歓迎されないジュストは、ルガール王家の視点から見ても利用価値がなかった。

 生後まもなく修道院送りとなる寸前、時の国王クロヴィス二世が恩情をかけ、アルティノワ公の称号と領地をジュストに与えてくれた。


 ジュストが王族の末席に名を連ねていられるのは、クロヴィス二世とフィリップのお陰。

 王家の従僕として私心なく仕えることをジュストは誓っている。


「俺の利は、あんたが国王として君臨してくれることだ。その威を借りて、俺は宮廷でのうのうと暮らしてるんだから」


 それには〈ベルローズ〉が必要だろう?

 目だけで問いかけると、フィリップは「なるほど」と頷いた。榛色の瞳が冷徹な色を湛えて細められる。


「おまえがアルティノワ公に戻ることが、私にとって最大の〈利〉だと言えば、従うんだな」

「……まあ、そういうことになるね。アルティノワ公がフィルの助けになれるとは思えないけど」


「なる」

 たった一言。潔いほどきっぱり断言したルガール国王は、厳かな声音で続けた。


「王の名において、アルティノワ公に婚姻を命ずる」




       ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★




「お疲れではありませんか?」


 深みのある蒼い瞳に、息もかかりそうな近さで覗き込まれて、ロジィはとっさに仰け反って距離を取った。


 印象的な瞳の色彩から解放されてほっとする間もなく、次に目を奪われるのは鮮烈な輝きを放つ金髪だ。あまり癖がつかない髪質なのか、肩の辺りでひとつに結わかれているそれは、さらりと胸の前に流れている。


 着用している宮廷服は全体が爽やかな淡緑色で、陽光に似た髪色とよく調和していた。胴着ジレには小粒のダイヤモンドを無数に縫いとめているが、上着アビ脚衣キュロットは金糸で細かい刺繍を施しているだけだ。


 一見すると華やかさに欠けるが、彼が動くとシャンデリアの光を反射して煌めくので、実によく計算されている。


 上着の袖口から覗くレースは黄みが強めのクリーム色で、クラヴァットも同色で合わせてあった。結び目を彩るブローチは真珠が縁取りされた角形エメラルド。


 漆黒のロングブーツは全体をぴりりと引き締める役割を果たし、踵や靴先に施してある金の装飾が壮麗さを添える。


「ローゼリア姫?」


 名を呼ばれて、ロジィは、相手の足下に落としていた視線を慌てて持ち上げた。


「――――ッ」


 真正面から視線がぶつかって、息が詰まる。

 陶器のような白い肌は羨ましくなるほどで、野蛮さが微塵も感じられない眉の下から、こちらをじっと見つめる瞳は、まるで上質な青玉サファイア


 すっきりと高い鼻梁は気品を感じさせるし、厚みも色味も薄い唇は、近寄りがたい高貴さを醸し出している。


 国王フィリップは端正。王弟ベリエ公は端麗。そして彼は――妍麗。


 男性の形容に妍麗を用いるのは不適切だが、そうとしか言いようがないほどに圧倒的な存在感を放っているのだ。


 男性も女性も超越した、何か別の生き物。たとえば、魔性の化身ではないかと疑いたくなるほど、人間離れした容貌をしている。


 ――彼の隣で、婚約者として立っていることが信じられない。


 視線を上げたものの、そのまま固まっている〈妻〉に困惑したのだろう。ロジィを見つめる未来の夫は、不安に満ちあふれた声を出した。


「タブレを用意させましょうか?」

「……! え、あ、いえ。大丈夫です、アルティノワ公爵閣下」


 ロジィの婚約者フィアンセ―――ジュスト・ユジェーヌ・ダルティノワ。


 先王クロヴィス二世から国王親族封アパナージュを与えられたルガール王族でありながら、ルガールの王位継承権を有さない特異な男性王族だ。


 国王親族封とは、ルガール国王が長子以外の王子や王弟に封土として与えた王領の一部のこと。

 アルティノワ公は、先代の王弟ロンティエ公の孫にあたるが、本来であれば国王親族封アパナージュの対象にならない。彼がロンティエ公家の嫡男として生まれたわけではないからだ。


 だが、彼の特殊な出生事情を哀れんだクロヴィス二世が聖王庁に談判し、別の領土を差し出すことと引き替えに、ルガール王族として承認させたのだという。


 レティの身代わりを務めるときに、そうした存在の王族がいることは聞いていたが、その頃に彼と会うことはなかった。アルティノワ公は、滅多にメルヴェイユ宮殿に伺候しない変わり者の王族だったからだ。――――それが、まさか。


(結婚相手になるなんて)


「無理をなさらないでください。お掛けになったまま貴族の挨拶を受けることは、非礼には当たりません」


 アルティノワ公の手が、いたわるようにロジィの肩を撫でる。

 手袋を着用するのは男女共通の服飾規定で、素材はサテンやベロアが一般的だ。季節が夏ということもあり、アルティノワ公の手袋は純白のサテン仕立てだった。


「誰か、タブレを」

 アルティノワ公の一声で、広間の隅に控えていた侍従が、走るような速さでタブレを運んでくる。


 タブレとは背もたれのない一人用の腰掛けのこと。豪華な織物で覆われ、房飾りがつけられていることもある。なんということはない調度品のひとつだが、ルガール宮廷においては特別な意味を持っていた。


 公的な場面でタブレに腰掛けることができるのは、公爵夫人以上の身分を有する貴族女性と定められていたからだ。

 ロジィは昨日、アルティノワ公との婚約式を終えた。相手は王族公爵なので、近い将来に敬意を込めて〈公妃〉と呼ばれることになる。


 アルティノワ公が〈王子〉の称号を持たないため殿下の敬称はつかないが、儀礼上は公爵夫人より一段高い身分になるのだ。タブレの使用に問題はないが……。


「いけません、閣下。このあとには陛下がいらっしゃいますのに」


 ロジィたちがいるのは〈アポロンの間〉だった。王室主催の舞踏会にしか使用されない大広間が特例で解放されているのは、国王のお声掛かりで婚姻するふたりの、婚約披露祝賀会が催されているから。そして、その場に国王が来臨するのは当然の流れ。タブレの横で迎えるのは、あまりに不敬だ。


 そう言って遠慮すると、アルティノワ公はがんぜない子供をあやすような苦笑を浮かべた。


「私も、姫も。この場で肘掛け椅子に座る権利を持っているのですよ?」


 公式の宮廷行事で着席の権利があるのは国王と、その家族。設けられている玉座の横に、アルティノワ公と、その婚約者ローゼリアのための椅子が並んでいても、宮廷規範には違反しない。


 それはロジィも理解しているが、結婚式を挙げていない今は、まだラルデニア伯の娘。王族然として振る舞うことに抵抗がある。


 落ち着かない気分で縮こまっているだけなのだが、ロジィの態度に、アルティノワ公は別の理由を見いだしたようだった。


「……私に継承権がないことは事実ですが、妻となられるローゼリア姫が、そこまで遠慮なさることはありません」


 思ってもいない言葉。ロジィは、とっさにアルティノワ公の肘に手を添えた。


「そのようなこと……!」


 彼が、ルガールの王位継承権を有していないこと――そのこと自体を、ロジィはまったく気にしていない。王権を巡る争いのただ中に身を置かずに済むので、かえって安心したくらいだ。


 だが、過ぎた謙遜がアルティノワ公の矜恃を傷つけたのだとしたら、詫びるよりない。


「閣下のお心を煩わせてしまい申し訳ございません。ラルデニア育ちのわたくしには身に過ぎた厚遇を賜り、あまりのもったいなさに身の置き所がなく……」


 アルティノワ公の手が、彼の肘に添えていたロジィの手を優しく握った。

 壊れ物に触れるような手つきなのに、たったそれだけで、ロジィは言葉を封じられてしまう。


「いずれはラルデニア女伯となられる御身です。一国の王にも等しいのですから、そのようにご謙遜なさるのはおやめください」

「滅多なことを仰いませんように」


 伯領と王国領を同列に扱うのは不遜だ。周囲を憚り、咎める視線を向けたロジィに、アルティノワ公は柔らかな口調で反論する。


「アルティノワ公領はルガールの国王親族封アパナージュに過ぎませんが、ラルデニア伯領は半独立領。その一点において、伯領は〈国〉であると理解していますよ」


 ラルデニアをルガール属領と考えれば、伯家の息女は単なる臣下の娘に過ぎず、この婚姻は貴賤結婚との誹りを受ける。


 だが、ラルデニアからもたらされる交易品はルガールにとって不可欠なので、廷臣たちがラルデニアを〈伯国〉の美称で呼んでいるのも事実。


 さらにローゼリアが保持する相続権も考慮すれば、強引ではあるが、臣下の娘ではなく、小国の王女という見方ができる。だからこそフィリップは〈公妃〉の称号を許し、それを宮廷も受け入れた。


 今さらの話ではあるが、相続権を持たないセレスティーヌが〈王弟妃〉として認められたのは、ルガール宮廷では異例のことだったのだ。


 レティの身分を厳格に論議すると貴賤結婚に該当し、産まれてくる子に王位継承権を与えることができなくなってしまう。それを避けたい王太后と廷臣たちの思惑が合致し、レティは無事に王弟妃の称号と権利を得ることができた。


「未来の女伯であられるローゼリア姫は、お望みになればルガール王妃の座を射止めることもできるのです。継承権のない私には過ぎた妃でいらっしゃる」


「畏れ多いことを。閣下とのご縁はラルデニア伯家にとりまして、望外の喜びにございます」


 アルティノワ公が結婚相手であることに不満は抱いていない――と婉曲に伝えれば、公は我が意を得たり、といった様子で微笑んだ。


「ローゼリア姫が、私の王位継承権などという俗事をお気に掛けておられないことは、充分に承知しております。ですが、そうでいらっしゃるならば、なおのこと。王族公爵の妃となられることの自覚をお持ちください」


 王位継承権を有さないことは、将来、その頭上に王冠を戴かないというだけのこと。

 ルガール王族の身位はいささかも損なわれておらず、払われる敬意も、得られる権利も、まったきものであるとアルティノワ公は続けた。

 そしてそれは〈婚約中〉である現在にも、適用されるのだと。


「王族が、王族らしく振る舞わなければ、身の置き場がないのは貴族たちですよ」


 でも、せめて。国王に挨拶を終えてからタブレに座りたい――――。


 心の中で願っていたことが天に通じたのだろうか。折良く、ラッパの音が高らかに鳴り響く。

 アポロンの間にいる貴族たちが一斉に居住まいを正して整列し、アルティノワ公とロジィも、それに倣った。


 今宵の主役はアルティノワ公であるという考えからか、国王の宮廷服は宝石が少なく、色合いもややくすんだオリーブ色だ。若々しい淡緑色をまとうアルティノワ公と並ぶと、年齢以上の貫禄を感じる。


「婚約おめでとう、我が弟よ」


 正しく説明すると、国王にとってアルティノワ公は〈いとこの子〉だった。

 が、そうしたことに無頓着というべきか、フィリップはアルティノワ公を〈弟〉の一言で片付けるのが常なのだと教えられたのは、昨日のこと。


 詳細な血縁関係をロジィに教えてくれた張本人は、国王を〈兄〉と呼ぶのは絶対にゴメンだと言い切っていたが。


「太陽と海に祝福された麗しき乙女を賜り、お計らいに心より御礼申し上げます、陛下」

「ああ、まさしくラルデニアは〈太陽と海の小国〉だ。我が弟に、アポロンとポセイドンの加護があらんことを」

「陛下にも神の祝福を」


 型どおりの挨拶を受け、鷹揚に頷いてみせたフィリップは、視線を隣にいるロジィへと向ける。


 貴婦人の教養として叩き込まれている宮廷式の礼を執ると、フィリップはたいそう恭しい態度でロジィの手を取った。ロジィの手の甲に唇を寄せる所作をして、貴婦人への挨拶を返す。


冬薔薇ローゼリアが夏にも咲き誇るとは存じませんでした。ラルデニアの白薔薇は我が宮廷においても華でいらっしゃる」


「片田舎に咲く野草など、洗練されたルガール宮廷ではお目汚しにございましょう」

「麗しの薔薇に見限られてしまいましたから、白薔薇の楚々としたお姿に心を癒やされているのですよ」


 冗談めかした軽い口調でフィリップが応じる。

 国王寵姫ラ・ファヴォリットとして、常にフィリップの傍らにいたベルローズ公爵夫人が宮廷から姿を消したのは、薔薇園を散策した翌日のことだった。


 君寵を失ったのではなく、ベルローズ公爵夫人に縁談が持ち上がったので秘密裏に実家へ帰ったのだという。

 貴族たちは、ベルローズが国王寵姫の座に飽き足らず、宮廷公認愛妾メトレス・アン・ティトルになることを目論んだのだろうと予想した。宮廷公認愛妾は有夫が条件だからだ。


 ところが、それを国王フィリップが真っ向から否定した。ベルローズは爵位を返上し、王の寵愛すら振り切って、宮廷を去ったのだと。言葉どおり、フィリップは寵姫に「見限られた」わけだ。


 性別の壁を越えてベルローズを寵愛していた王にとって、彼との別離は痛手だろう。

 フィリップは今までと変わらず明るく振る舞っているが、ロジィにはそれが空元気に思えてならなかった。


(……戻っていらっしゃればいいのに)


 縁談と言うからには、ベルローズは本来の性別に戻って妻帯したのだろう。ならば、寵姫としてフィリップの傍らに侍ることが適わなくても、寵臣として仕える道は残されているはずだ。


 そう考えたロジィは、黒髪蒼瞳の美麗な男性貴族が颯爽と現れることを楽しみにしているのだが……。


 それらしい新参の貴族がメルヴェイユ宮殿に伺候することは、まだなかった。


「白薔薇を手折る権利を得た我が弟が、実に羨ましい」

「畏れながら、陛下。宮廷を彩る花は薔薇だけではございません」


 社交辞令だとわかってはいても、手放しの賛辞はこそばゆい。フィリップの意識を逸らしたくて、ロジィは大広間に集う貴婦人たちを扇子で示した。


「このように、とりどりの花々が華麗に咲きこぼれていらっしゃるのは、陛下のご威徳があればこそと、深く感じ入っております」


「――その〈花〉には、わたしも入っているのかしら。アルティノワ公の婚約者殿」







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