【 第二章  ④ 】

 気がついたとき。

 ロジィは、豪奢な寝台の縁に腰を下ろしていた。

 ミミの姿は、どこにもない。


 自身を見下ろせば、純白の寝間着を着せ付けられているのが目に入った。


 上等な絹地だ。くるぶしまでの裾にはひらひらとフリルがあしらわれ、三枚重ねの仕立てで、一番上は繊細なレースが覆う。


 胸元はゆったりと深めのカットで、袖はレースのみで腕の肌色が透けているという妖艶な意匠だ。そういう目的で仕立てられているとわかる寝間着。


 揺らめく蝋燭の光に照らしだされた自分が恥ずかしくて、ロジィは近くの椅子に掛かかっていたガウンを引き寄せ、大急ぎで身体を隠した。


 あられもない格好を自分の視界から遮断してようやく、ロジィは室内を見回す余裕を持てた。


(――――まさか、本当に?)


 一度も入ったことがない部屋だが、ここが特別な寝室だということは一目でわかった。


 高貴な身分、それも王族ともなれば、夫婦であっても別々の寝室を構えるのが宮廷では普通だ。田舎と称されるラルデニアの城館でも、両親の普段使いの寝室は別になっていた。


 だが、夫婦なのだから一緒に休む場合も、もちろんある。そうした場合には、夫婦用に設けられた寝室で夜を過ごすことになっていた。ここは、その寝室だろう。


 普段に使う寝室には、部屋の隅に洗面台の用意があったり、整理箪笥が置かれていたりと、どことなく生活感がある。

 だが、この部屋にあるのは、天蓋がついた五人は優に寝られそうな特別に大きな寝台と、寝椅子、暖炉のみ。


 寝台の近くには、小さな卓と椅子が置かれていて、ワインは楽しめるような趣向になっているが、それだけだ。レティの閨房のほうが、もっといろいろな調度があって寛げる。


 天蓋を支える、寝台の四隅にある太い支柱には、ルガールにおける豊穣と繁栄を意味するウサギが丹念に彫り込まれていた。所々には黄金が装飾され、天蓋から垂れる分厚いカーテンには愛の女神の姿が織り出されている。夫婦用の寝室としてごく一般的な意匠だ。


「我が愛しの天使、遅くなってしまいました」


 前触れなく〈壁〉が動いて人が出てきた。

 ロジィは仰天したが、どうやら隠し扉の仕掛けになっていたらしかった。


 万一の事態が生じた場合でも逃走経路を確保できるように、宮殿内にはあちこちに隠し扉が作られているという。閉じてしまえば壁と見分けがつかない巧い造りだ。


 この部屋に、隠し扉からたったひとりで入室できる人物はベリエ公しかいない。

 人目に触れない隠し扉を経由したからなのだろう。宮廷服ではなく、寝間着にガウンを羽織っただけという、ロジィと大差ない寛いだ格好をしている。


 王族として振る舞うための衣装ではなく、寝室で妻と過ごすためだけの服装。


 男性の私的な服を間近に見たのは初めてで、ここが〈寝室〉なのだということをまざまざと感じる。


 怖くて、ベリエ公の首から上に視線が向けられない。ロジィは震える指でガウンの胸元をかき合わせた。絨毯の模様が涙で滲んでくる。


 もう、この場から逃げ出すことはできないのだろうか――――。


「――――誰だ、貴様は」


 地を這うような低い声。

 それが、ベリエ公の声だとロジィが理解するまで、しばらく時間が必要だった。


 それほどに、いつも盗み聞きをしているときの声とは異なっていたのだ。


「我が妃ではないな。誰だ!」


 たった一目で、自分とレティの違いを見破れる人物に、ロジィは生まれて初めて出逢った。


 だから、反応が遅れた。


 ベリエ公が大股で歩み寄りながら素早くガウンのベルトを外し、それを振り上げていたことに。


「誰だと聞いている!!」


 衝撃を受けたと思ったときには、ロジィの身体は寝台を離れ、床に投げ出されていた。


 左肩を殴られたのだ。

 そうとわかったとき、ベルトがロジィの太腿を叩いていた。痺れるような痛みが広がる。


 金属や宝石が飾られた儀礼用のベルトではなく、ガウンと共布のものだったからまだ大丈夫だが、それでも充分に痛くて涙が出てくる。


「……ぁあ、わかったぞ。貴様は、我が天使の双子の姉だな」


 レティと語らっているときとは比べものにならないほど、冷たい声。

 他者を見下すことに慣れきった人間特有の言い方だ。

 ベリエ公の素顔は、こちらだったのか。


「私は、この世でフィリップが一番嫌いだ。憎らしい。早くいなくなれと思っている。……だが、それと同じくらい憎んでいる人間がもうひとりだけいる。それは、貴様だ」


「――――ッ」


 ベルトが、ロジィの頬を打った。

 口の中に血の味が広がる。


「何が双子だ。貴様よりレティのほうが美しい色の瞳をしているし、艶やかな髪をしている。心優しく聡明だ。私は、貴様が妻の〈双子〉であることすら許し難い」


 ベリエ公が、爪先でロジィの顎を軽く蹴った。強制的に顔を上向かされる。

 しゃがんで顔をのぞき込んできたベリエ公が、視界いっぱいに広がった。


「なんだ、その格好は。我が妃の寝間着など着込んで。成り代わったつもりか。ハッ、思い上がりも甚だしい。これっぽっちも似合っていないぞ」


 顔立ちは、端麗だった。

 国王フィリップより、甘く繊細な面差しをしている。眉が細く、鼻筋もスッとしていて、顎も華奢。どことなく、ベルローズ公爵夫人に似通った美しさがある。


 瞳の色はフィリップより暗い榛色で、髪色はフィリップより明るい茶褐色だ。色調は似ているのに、母親が異なるせいか、全体的な雰囲気がまるで違う。


 物語に出てくる王子様のような容貌なのに、彼の唇から放たれる言葉は悪魔のように辛辣だった。


「おおかた、王弟妃となった妹を妬み、夫を奪おうとして寝室にまで入り込んだのだろう」

「ち……、が」

「何が違う!?」


 再び、ベルトがロジィの肩を打った。空気を裂く音が怖いほど響く。ものすごい勢いでベルトが振り下ろされているのだ。


「おかしいとは思っていたんだ。私のレティは宮廷行事を嫌っている。ここ最近、頻繁に姿を見かけるという話を聞いて、どうも変だと」


 ……ああ、やはり。


 怪しまれていたのだ。ロジィは無様な悲鳴を上げないよう、必死に歯を食いしばった。


「レティに成り代わったつもりか。どこまでレティを苦しめれば気が済む!?」

「苦、しめて、など……」

「うるさい、黙れ!」


 ひときわ強くベルトを振り下ろされ、目の前が真っ赤になった。叩かれたところが熱い。痛みで意識が飛びそうだった。

「貴様は、いつもいつもレティをいじめていたではないか」


「え……」


 わたしが、レティをいじめていた?


 遠ざかりそうになっていた意識が、一瞬で戻ってくる。

 なんの話だ。

 ベリエ公は、何を言っているのだ――。


「いつもレティのものを奪い取り、我が物としている性悪女だ、貴様は」


 そんなことしていない。

 言い返したいのに、ベルトが何度も、何度も身体を打つから、声が出せない。――息も、できない。


「レティが勉強嫌いなのは貴様のせいだ。貴様が、レティに付けられていた家庭教師に取り入って奪い取ったから、だからレティは満足に勉強ができず、周りから馬鹿にされてしまうのだ。可哀想に」


(……本当に、なんの話?)


 痛みだけに支配されそうになる頭で、ロジィは必死に考えを巡らせる。


 レティに付けられていた家庭教師など存在しない。

 家庭教師は、ロジィとレティ、ふたりに付けられていたのだ。

 同じ部屋でふたりいっぺんに勉強していたが、途中で飽きたり、最初から嫌がったりと、逃げ出していたのはレティだ。


『どうしてレティをちゃんと見ていないの。姉でしょ』


 そうやって母から叱られるのはロジィで、逃げ出してしまうレティのことは「しょうがないわね」で終わりになっていた。


『レティをきちんと見張っていなかった罰よ』


 という、母の命令を受けた家庭教師から宿題を増やされるのはロジィだけ。

 相続人となって領地を治めるのだから、と、厳しい教育を施されるロジィとは違って、レティは勉強を抜け出しても強く怒られることはなかった。


『乗馬が苦手なお姉さまの代わりに、馬を走らせてあげるの』


 あの子がそう言えば、父も母も、誰もが微笑んで『優しい子ね』と褒めていた。

 そうやってレティが乗馬をしている間、ロジィは勉強部屋に閉じこもって、必死に家庭教師の指導を受けた。


 ――――わたしだって、庭でのんびり本を読みたかったのに。


「家庭教師をレティから盗って自分だけ勉強し、その成果を両親へ誇らしげに報告していたそうだな。そのせいで両親の愛情は貴様にだけ注がれていた」


 どれだけ家庭教師がロジィの勉強ぶりを褒めても、母がロジィを褒めることはなかった。


 父は、いつも病床にいたから言葉を掛けてもらえる機会も、ほとんどなくて。

 ……どちらかと言えば、勉強を抜け出していたレティのほうが、父の部屋に行っていた気がする。


『レティは、お父さまのお見舞いを熱心にする、いい子ね』


 母の口癖だった。

 勉強や礼儀作法のおさらいで手一杯で、父の部屋に行く時間を作れないロジィのことは「冷たい娘ね」と言っていたけれど。


「しかも、貴様は妹を――私の天使を、まるで使用人のごとくこき使った」


 ベリエ公が、ロジィのガウンを掴んだ。上半身が強引に引き起こされる。

 冷たく凍える瞳に射貫かれて、ロジィは心臓をわしづかみされたような恐怖を覚えた。


「あのときだ。この私が、ルガールの王子たる、この私が、わざわざ貴様との結婚ごときのために田舎のラルデニアにまで足を運んでやったとき。貴様は迎えにすら出てこないという非礼を働いたな!」


「……ぁ、れは、しき……り、で……」


 ガウンの襟ぐりを強く握られているせいで首が絞まって、うまく声が出せなかった。

 出せたとしても、ベリエ公が聞く耳を持ったとは思えないが。


「貴様は私を侮辱したのだ!」


 そうではない。

 ラルデニアを含む南ルガール地方には、迎えに来た花婿と花嫁が顔を合わせるのは挙式当日、という慣習があるのだ。


 古くからのしきたりに従い、ロジィはベリエ公と絶対に顔を合わせることがないように、城館の別棟にまで移って生活していた。


 それを〈非礼〉と捉えられてしまうなら仕方がないが、ロジィにベリエ公を侮辱する気持ちは一切なかった。一言で言うなら慣習の違いというだけだ。


「私を侮辱するだけでは飽き足らず、貴様はレティに私の応対を押しつけた。客の身の回りの世話をする下女のような扱いだ」

「して、ませ……」


 レティは嫁入り前の大切な娘だ。ロジィが、あの子にそんなことを頼むはずがない。

 だが、ロジィの反論はベリエ公の怒りに油を注いだようだった。


「嘘をつくな! 人前に出るのが何より苦手なレティに、客人の世話をしろと脅したのではないか!」


 ベリエ公一行がこちらに向かっていると情報を得た時点で、ロジィは南方地方の慣習に従い別棟に転居した。


 そのときから、レティとは会っていないし、手紙すらやりとりしていない。

 それなのに、いつ、どうやって、レティを脅せると言うのだろう。

 ――誰から、ベリエ公はそんな作り話を聞かされたのだろう。


(……そもそも、あの子、人前に出るのは大好きじゃなかった?)


 城館で舞踏会が催されると、率先して人の輪に溶け込んで踊りまくっていたが。


 さして親しくもない人と、手に手を取って踊ることが苦手なのはロジィのほうだ。次期領主として相応しいかどうか、いつも値踏みされている気持ちになってしまうから。


 そういった重圧から無縁のレティは、本当に、純粋に人と交わることを楽しんでいた。ロジィは、いつもそれを羨ましいと思いながら見つめていたのだ。


 ベリエ公は、いったい誰から「間違ったセレスティーヌ像」を聞かされているのだろう……。


 ――――フロランタン侯爵夫人?


 彼女の「お勉強」をすっぽかしているから、人が苦手だと、誤解したのだろうか。

 そしてそれを、レティの夫であるベリエ公に伝えた?


「しかも、貴様、どうせ王家に嫁ぐなら王弟ではなく国王がいいと言ったそうだな」


 ――――は?


 ロジィは再び仰天した。そんなこと言っていないし、思ってもいなかった。


「言って、な……」

「嘘も大概にしろ!!」


 ぐっと強く引っ張られて、息が詰まった。苦しい。


「私よりもフィリップごときを選んだ貴様は許し難いが、それよりも、生まれたときからの長きにわたってレティを虐げてきたこと、それが何より赦せない!!」


 言葉と同時に振り払うように手が離され、ロジィの身体が床に叩きつけられた。


 痛みと衝撃で頭が働かない。

 こんな暴力を受けたのは初めてだった。――ここまでの暴言を受けたのも。


「貴様は、泥棒猫だ。妹のものをすべて奪い尽くさないと気が済まないんだろう。こうやって寝室にまで入り込むのだからな。まさに盗人だ」


「わたしは、レティが大事で……」

「その腐った口を閉じろ」


 感情が削ぎ落とされた声だった。

 昂ぶった感情のままに怒鳴り散らしていたこれまでの声とは根本的に異なる、逆鱗に触れたとわかる声。


「レティが大事? どの口が言う。あれだけレティを苦しめ、泣かせ、あらゆるものを奪い取って不幸のどん底に追いやっておきながら」

「――――」


 そんなことはしていない。

 言いたいのに、見下ろしてくるベリエ公の瞳が冷たくて、あまりに凍りついていて、舌を動かすことができない。声が出ない。


「挙げ句、結婚が嫌だから身代わりになれとまで命じたそうだな」

「な――……」

「何を驚く。貴様がレティに言った言葉だろう。……あぁ、私がそれを「知って」いることに驚いたのか?」


 違う。

 ベリエ公が語り続ける「作り話」に驚いているのだ。


 先日、ベルローズのサロンからの帰りに、ふと思ったこと。

 それがもはや、ルガールの宮廷では〈周知の事実〉にされているのだろうか。


 本当にルガールは『ローゼリアが王弟との結婚を嫌がって尼僧院へ逃げ、姉の代わりにセレスティーヌが嫁いできた』と、そういう話にまとめてしまいたいのだろうか……。


「貴様ごときが、この私を拒絶したことも赦せないが、あの麗しく心優しい天使に己が責務を押しつける、その根性の卑しさは万死に値する」


「おし、つけてなど……」

「腐った口を閉じろと言っている!」


 右の頬に熱が走った。


 ベリエ公が手の甲で頬を張ったのだとわかったとき、髪を掴まれて引き起こされていた。

 髪が抜けて首がもげそうだ。痛い。


「レティが読書嫌いなのも貴様のせいだ。貴重な書物はすべて貴様が独り占めしていたというではないか。宝石もローブも、質のよいものはすべて、貴様の取り分だったそうだな。母君からは『姉妹で仲良く分けるように』と言われていたのに、姉だからという理由で取り上げていたと」


 それを知った自分はレティが哀れでならず、毎日必ず何かしらの贈り物をしているのだと、ベリエ公は続けた。


 じんじんと、平手打ちされた頬が熱を持ってうずき始める。

 それと同じように、ロジィの心も熱を持った。


 ――――怒り、という名の、熱を。


 ベリエ公が並べているのは嘘八百だ。正しいところなどひとつとしてない。

 ロジィは、レティが望むことはできる限り叶えてきた。あの子が欲しがったもので、ロジィが横取りしたものは、ひとつとしてないのだ。


 ネックレスも、髪飾りも。ハンカチ一枚だって、まずはレティが気に入ったものをすべて選んでから、その残りをロジィがもらった。


 選ぶ自由があったのは本だけだ。

 レティは装釘の美しさにも目を向けることがなく、書物には無関心だったから、唯一それだけ、ロジィは好きなものを手に取れた。

 それだって、レティの癇癪で壊されてしまうこともあって。


(……『本を大事に扱いなさい』って、お母様に叱られたわ。……〈わたし〉が)


 かといって、隠しておけば『レティにどうして見せないの』と叱られる。


 だから、レティが本を読むことはなくても、いつでも彼女の手が届くところに大切な本を置いておいた。そうして、目に触れる場所に置かざるを得ないから、レティの癇癪の犠牲になってしまうのだが。


(怒られるのは、いつもわたし)


 ロジィが食事を抜かれることはあっても、レティがその罰を受けることはなかった。

 レティの失敗を肩代わりして叱られることはあっても、自分の失敗をレティに押しつけたことはない。


 それなのに、どうして「ロジィがレティをいじめていた」と言われなければならないのだろう。

 どうして、ベリエ公はそこまでロジィのことを誤解しているのだろう。


「……殿下に、伺ってもよろしいでしょうか」


 血の味がする唾をようやく飲み込んでから、ロジィはやっと、まともに声を出せた。


「いいだろう」

「殿下は、どなたから、わたくしのことをお聞きになったのでしょうか」


 ロジィには皆目見当がつかなかった。

 ここまで詳細に、間違っている〈過去〉をベリエ公に吹き込める人物が誰なのか。


「聞いてどうする。自分の本性をバラした相手に報復でもするつもりか」


 正直に「違う」と答えたところで、どうせ信用などしてもらえないのだろう。

 可能性があるのは、幼い頃からのロジィとレティを知っている人物。


 ……ミミ?

 けれど、ミミはロジィとレティ、ふたりの遊び相手だった。


 勉強を抜け出すレティに付き合って遊び、その後、レティを止めなかったという理由でミミが叱責されるのはいつものこと。

 双子姉妹の過去を知り尽くしているのに、そこまでの作り話をするとは考えにくかった。


 それに、現在はレティの筆頭女官の立場にあるからといって、嘘を言ってまで女主人を売り込む必要性はないように感じる。

 だって、売り込むべき相手であるベリエ公は、とっくにレティに骨抜きなのだし。


「心根の醜い貴様のことだ。我が天使が悪口を言ったと思い込んでいるのだろうが、それは違うぞ」


 ベリエ公がロジィの髪を放した。無理矢理に引っ張られていたので、支えが外れて身体が傾く。

 それをさせまいとしたのか、ベリエ公が再び襟ぐりを掴んだ。


「私が、レティの哀れな過去と現状を知っただけだ。貴様との婚姻でラルデニアを訪れたというのに、私の前に現れたのは婚約者の妹だけ。おかしいと思って聞き出したのだ」


 なぜ、深窓の姫君であるセレスティーヌが自分の話し相手を務めているのか、と。


 姉に言われて恥ずかしいのにお相手をしているという回答を聞いたとき、ベリエ公の心はレティへの深い情愛に目覚めたのだという。


 さらに聞けば、ずいぶんと姉に虐げられている様子なのもわかった、と。


「それなのに、なんと清らかな天使だろうか。私のレティは、それでも、貴様のことを心から慕っていると言ったのだ!」


 ベリエ公の言葉は、途中からロジィの耳を素通りしていた。


 ――――レティから、聞き出した?


 聞き出したって、何を。


 これまでの話を? 全部、作り話の、あれを? レティが?


(……何を、言ってるの、この人)


 そんな作り話、レティがするはずない。

 レティが、ロジィにいじめられていたなんて、そんなこと言うはずない。


 ――――いじめてなんか、いないもの!


「レティに、レティに会わせて」


 あの子に会えば、直接に話をすれば、きっと本当のことがわかる。

 そう思って、ロジィはベリエ公に頼んだのだが。


「黙れ!」


 襟ぐりを掴んでいたベリエ公が、ロジィの身体を床に叩き伏せる。

 右肩をしたたかに打ちつけて息が詰まった。


「会わせるはずがないだろう。貴様はそうやって、いつもいつもレティを丸め込む。今度もまた、自分の悪口を言わないようにレティを言いくるめるつもりなんだろう。優しいレティの心につけ込んで、自分が悪者にならないように言い含めて」


 酔ったような口調で、ぺらぺらと言葉を続けるベリエ公を遠くに感じる。


 彼は本当に何を言っているのだろう。

 レティは天使だ。清らかな。


 でも、ロジィはレティをいじめていない。大事にしている。

 ……どうして、ここで齟齬が生じているのだろう――。


「私のレティは、貴様に虐げられている自覚がないようだった。なんと、なんと心が清らかで優しい娘だろうか。まさに天使だ。――その天使を平気で虐げてきた貴様は悪魔にも劣るだろう。死後、地獄に墜ちるがいい」


 言いながら、ベリエ公はロジィの左腕を掴んだ。

 肩が外れるのではないかという勢いで引き起こされ、立たされる。


「死ぬ前に、まずは生きながらの地獄を味わわせてやらないとな」


 ベリエ公が隠し扉に手を触れた。くるりと回転し、向こう側はベリエ公の部屋アパルトマンに繋がっているのがわかる。


 ロジィはベリエ公に腕を掴まれたまま、強引に歩かされた。ベリエ公の部屋を横切る間、彼の従僕たちが目を丸くしてこちらを見ている。


 それはそうだろう。

 ロジィは、レティに瓜二つなのだ。


 双子の姉だとわかっているのはベリエ公だけで、従僕たちにしてみれば、あれだけ王弟妃を溺愛していたベリエ公が愛妻を粗雑に扱っている図にしか見えないだろう。


 ――――ベリエ公、ご乱心。


 そんな心境のはずだ。だが、従僕たちの仰天具合など歯牙にも掛けず、ベリエ公は複数の部屋を突っ切って廊下に出た。


(え)


 宮廷服の盛装でなければ歩くことを禁じられているメルヴェイユ宮殿の廊下。

 そこを、寝間着とガウンという格好で、歩くと?


「……ゃ……」

「さっさと歩け!」


 ベリエ公夫妻の部屋はメルヴェイユ宮殿の二階だ。三階が王太后の部屋として宛がわれている。


 本来、国王一家の居室はメルヴェイユ宮殿の三階に設けられるのが通常だった。


 王の崩御後、二階に居住している王太子が国王に即位するのに伴い、王太后となる前王妃が三階を明け渡すのが通例なのだが、マリー王太后が拒絶した。


 そればかりか、実の息子であるベリエ公には、次期王位継承者として王太子と同等の権利があると主張し、王太子の居室と定まっている二階を与えるよう、フィリップに迫ったという。


 三階に王太后が居座り、それまで暮らしていた二階は異母弟に譲らなければならず、住み処を失ったフィリップは結果としてメルヴェイユ宮殿の一階に居を構えた。


 ロジィは、ベリエ公に引きずられるようにして階段をどんどん下に降りていく。

 ――――向かっている先は、おそらく国王居室。


 この姿で、国王に謁見するつもりなのか、ベリエ公は。

 彼の非礼に驚愕すると同時に、情けない格好で国王の前に引き出される自分が恥ずかしくて堪らない。


 抵抗しようにもベリエ公の力が強すぎて、ロジィは泣きながら歩くしかなかった。

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