【 第二章  ② 】

 自らが主催するサロンに現れた〈王弟妃〉を見たジュストは、一目で〈偽物〉だと判断した。

 これまで当世風だったローブの意匠が、慎ましいものに変化していたからだ。


 サロンという文芸の場に相応しい上品なローブを選ぶ常識とセンスを、本物の王弟妃が持ち合わせているとは到底思えない。だから、おそらくこの場にいるのは〈姉〉で間違いないだろう。


 万に一つの可能性で〈本物〉が登場したらどうしようと思っていたが、大丈夫そうだ。


(無駄にならなくて済みそうだな)


 ジュストは手にしている本をそっと抱え直し、貴婦人らしい優雅な足取りで〈王弟妃〉に近づいていった。






(思っていたより、少ない)

 ベルローズのサロンに出席したロジィの感想だ。


 いくら「私的な」という注釈がついても、国王の寵愛深い貴婦人が開くサロンなのだから、宮廷貴族の半数くらいは出席するのだろうと思っていたのに。


 部屋が意外に狭いからかもしれない。

 室内をぐるりと見回して、ロジィはそう結論づける。


 今をときめく寵姫の部屋ということで緊張して入ったが、想像よりもずっと、こぢんまりした部屋だったのだ。


 扉が見えるので奥にもう一部屋はあるようだが、サロンとして解放されているこの部屋はかなり狭い。これでは、ロジィが借り受けている宝飾品管理庫より、二回りほど広いだけだ。


 部屋が狭ければ大人数を招くことは不可能。だからこその、この人数なのか。


(まあ、私的な集まりだものね)


 サロンには侍女を伴わず、ひとりで赴くのが宮廷作法。たとえ王妃であっても、女官は廊下で控えさせる。余計な「目と耳」を除外することもサロンの醍醐味だからだ。


 ロジィも久しぶりに、フロランタン侯爵夫人やミミの視線から解放される。ほっと肩の力を抜いていると、部屋の奥から薔薇の薫りが密度を増しながら近づいてきた。


「お待ちしておりました。お運びいただけて光栄に存じます、妃殿下」


 今日も、ベルローズはふんだんなフリルでデコルテを上手に覆った、品のよいローブを身に纏っている。体型がほっそりとしているから、これでもかというほどにフリルをあしらっていてもバランスが取れるのだ。


 ローブ全体の色調は薄紫で、アクセントにクリーム色を配していた。部屋の壁布が青系統なので、よく溶け込んでいる。

 左目の眦近くに付けられた色っぽい薔薇のムーシュも、以前と同じに似合っていた。


 丁寧に会釈をしようと腰を屈めたベルローズの動きを手で制し、ロジィは親しみを込めて話しかける。


「お招きありがとう、ベルローズ公爵夫人」


 今日は、レティの手持ちのローブから、もっとも慎ましい意匠を選んだ。

 そのため、いつもより落ち着いて周囲を見回す余裕が持てたロジィは、ベルローズが手にしている「あるもの」に目を奪われた。


(……〈湖の乙女〉……)


 ラルデニアの城館で何度も読み返した物語だが、ベルローズが抱えているのは金銀の箔押しがされた豪奢な装釘の本だった。


 手に取って読むというより、貴婦人が己の教養を誇るための小道具として制作された品だろう。室内のどこか、おそらくは暖炉の上などに、さりげなくインテリアとして飾るつもりなのだ。


 装釘があまりに美しくて、吸い寄せられるように凝視していると、そっと囁くように静かな声が聞こえる。


「先日の舞踏会で妃殿下がラフィーネ姫と仰いましたので、こちらもお好きなのではと思いご用意申し上げたのです」


「え」

 にこにこと、ベルローズがこちらを見ていた。


 教養を誇示するための小道具ではなく、わざわざ〈わたし〉のために――?


 ベルローズの言葉は、じんわりと心の奥にしみいった。

 嬉しかった。


「わたくしも〈青薔薇の騎士〉は大好きです。終幕が続編の〈湖の乙女〉に繋がる描写も見事ですもの」


 妃殿下はどのくだりがお好きですか、と、明るい声で続けられ、はっと息を詰める。


 レティだったら本は読まない。

 青薔薇の騎士の内容も知るはずがないし、湖の乙女だって、もしかしたら名前すら知らないだろう。


 ベルローズが用意したのは〈王弟妃〉のためであって〈ロジィ〉のためではない。何を、勘違いしていたのだろう。


 王弟妃として「らしい」振る舞いに徹するあまり、セレスティーヌになりきることが疎かになってしまっていた。本末転倒だ。


 これから先、なるべく〈自分〉を出さないように返答しなければ、どこかで尻尾が出てしまう。


 ――――でも、どうやって?


 ロジィは焦った。

 うっかり、ある程度の学識がなければ読めない本を引き合いに出してしまった。今さら、読書ができない振りは、もう、できない。


(考えるのよ。レティだったら、何を好むか。思い出して)


 権力者と、身分低い恋人との愛に挟まれたラフィーネ姫は、真実の愛を選んで生涯を終えていく。


 レティなら、おそらく「王様に愛されるなんて素敵」と答えるだろうが、王弟妃としては軽薄すぎる回答だ。却下。

 かといって、自決する姫を潔いと賞賛することもないだろう。……これも却下。


「わたくしとしたことが、立ち話は無粋ですね。妃殿下はショコラがお好きだと伺っております。どうぞこちらへ」


 考え込んでいるうちに、ごく自然な流れで、三人掛けの寝椅子に案内された。ベルローズがロジィの隣に腰を下ろす。

 彼女から、ふわっと漂ってくる薔薇の薫りが濃密で、まるで花園に迷い込んだような錯覚がした。


 低めのテーブルには、飲み物や菓子がぎっしり並べられ、レティがこの場にいたら大喜びしそうな光景が広がっている。


「お口に合うとよろしいのですが」


 勧められたショコラには薔薇で香り付けがしてあった。

 香りは強いがくどくなく、レティのところで出されるショコラよりも甘さが控えめで飲みやすかった。


 半分ほど味わってから、先ほどの質問に答える。――あくまでも〈レティ〉として。


「わたくしは、青薔薇のお話はあまり好きではありません」


 意外な答えだったのか、ベルローズは目を丸くした。理由に興味を抱いているのが、そのキラキラと輝いている蒼瞳から伝わってくる。


「愛する恋人が王に奪われようとするのに何もせず、主君の命令だからといって唯々諾々と受け入れ、結果、恋人ひとりを苦しめ、挙げ句に命まで落とさせてしまうのですもの」

 と、レティなら言うだろう。


 騎士も、愛と忠義の板挟みになって苦しんでいた――という複雑な描写に対する感想はこの際、ややこしくなるので脇へ追いやっておく。


 レティならきっと、物語を深く読み解いて味わうということはしない。さらっと表面的な感想だけで充分だ。


 少し高慢に振る舞うところのあるレティの仕草を真似して、ちょっと顎をそびやかした取り澄ましたポーズを取ったロジィは、にこりと微笑んだ。


「もし、わたくしのルイ様が騎士だったなら、きっと万難を排して愛する姫と結ばれましたもの」


 定められた婚約者ではない相手と挙式した王弟。

 彼を夫に持つレティなら、そのような感想を抱いても不思議ではないし、説得力もある。


 たぶん、これなら「レティの感想」として及第点だろう。

 ベルローズも一定の納得をした様子だった。


「……そうでしたね。ベリエ公は大変に情熱的なお方。妃殿下はまるで、あの物語の主人公たちのようですわ」






 偽物王弟妃の〈王弟妃らしい〉返答にベルローズの作り声で頷いたジュストは、手にしていた本の表紙を、そっと指先で撫でた。

 ……意味ありげに。


 ベルローズの言わんとすることがわからなくとも、何か含みがあることだけは所作から察したのだろう。偽物王弟妃が、怪訝そうに眉根を寄せた。


 その表情をちらりと見やってから、ジュストはいくらか声を潜めて口を開く。


「わたくし、妃殿下に伺いたいことがございましたの」


 何事も婉曲にものを言う――という宮廷の慣習を正面からぶち破って、ジュストは単刀直入に切り込んでみた。

 まずは、その言葉を聞いた相手がどう出るか見極めようと思ったのだが、返事は意外と早かった。


「……構いません、どうぞ」


 さすがは聡明で知られたラルデニア伯長女こと偽王弟妃だ。ベルローズが〈王弟の結婚騒動〉について踏み込んだ質問をすると察したらしい。

 ジュストは、内心で「へぇ?」と舌を巻く。


(覚悟の上で出てきた、ってことか)


 偽王弟妃が、さりげなく視線を周囲に向けた。サロンに招待された人々が、それぞれの会話に集中している光景を確認したのだ。


 ベルローズと王弟妃の会話に注意を向けている人がいないことを確かめた――つまり、ある程度は込み入った質問に答える心づもりがある、ということ。

 ならば――と、ジュストも腹を決めて向き直った。


「妃殿下は〈湖の乙女〉をお好きですか?」


          * * * * *


 昔々、カルナ湖には妖精の姉妹がいた。

 姉である〈湖の乙女〉が人間の男に恋をしたのだが、その男は〈乙女の妹〉を愛していた。

 永遠を生きる妖精と、限りある人生を生きる人間は、結ばれることがない。

 だが、姉は、男の恋を成就させてやりたいと月に願った。

 月の女神は願いを聞き入れ、男に永遠の命を約束し、妹と夫婦になれるよう計らってくれた。

 ――――姉の〈永遠の生命〉と引き替えに。


          * * * * *


(レティが〈湖の乙女〉を好きか……?)


 ベルローズの問いかけはロジィの想定を越えるものだった。

 王弟妃に聞きたいことと言えば、結婚騒動だろう。それしかないはず。


 姉の婚約者から求婚された気持ちはどんなものか、とか。姉の代わりに嫁ぐことになって戸惑いはなかったのか、とか。

 おそらくは、そういった貴婦人が好みそうなゴシップネタを聞き出したいはずなのに。


 いや、今はそれよりも「好きかどうか」の問いに答えることが先だ。

 ロジィは目の前の質問に集中するため、余計な雑念を頭の中から振り払った。


 レティはこの物語を知ったら、どんな感想を抱くだろうか……。


 彼女の考えを推測しようとして、推測しようとしている自分に、ロジィは愕然とした。


 レティのことが、わからない。わからなくなっている。

 ……双子なのに。


 あれだけ一緒に育って、考えていることなど手に取るように分かっていたのに。


 ――どうして、今になると、あの子のことが何も分からなくなってしまうのだろう……。


 ぼんやりと思考に囚われていたら、ベロアのようになめらかな、ベルローズの声が耳朶を打った。


「この物語に登場する〈乙女の妹〉は、まるで妃殿下のようですわね」

「! ……そう、ですね」


 ロジィは苦笑した。

 男が愛したのは〈湖の乙女〉ではなく、その〈妹〉。


 その事実だけを切り取れば、確かに、姉の婚約者に一目惚れされたセレスティーヌにそっくりと、言えなくもない。


「ですから〈乙女の妹〉の気持ちを、妃殿下ならご理解なさっているのではと思ったのです」

「……妹の気持ちを?」


 ロジィが戸惑った声を上げると、ベルローズは深く頷いた。


「姉は、あれほど自分を慕ってくれた妹ではなく、男の望みを叶えることを選びました。妹と永劫の時間を生きるのではなく、男のために命を差し出したのです。……このことを、姉に棄てられた形となる妹は、どう思っていたのでしょう」


 まっすぐ向けられる蒼の瞳。

 同じ〈妹〉の立場である〈セレスティーヌ〉の答えを聞きたいと、雄弁に語っていた。


 ロジィは、言葉に詰まった。

 生まれたときから〈姉〉で、妹の立場になったことはない。


 レティの好き嫌いを考慮したことはあっても、レティが自分をどう見ているのか、考えたことはなかった。


 自分が妹を好きだから、妹も自分を好きだろうと、思っていた。

 あの子が、ロジィから向けられる愛情を信じて疑わないように、ロジィもまた、レティから愛されていると。


(でも、それは、「本当」に?)


 ベルローズの問いかけで、ふと、疑念が生じた。


 妹から向けられる愛情を知り尽くしていたのに、好いた男の望みを叶えるため、妹を切り捨てた〈湖の乙女〉。


 姉が消えてしまって、〈乙女の妹〉は驚いただろう。悲しんだだろう。――姉を、恨んだかもしれない。

 同じことが、自分たちの間に起きていないと、どうして言えるだろう。


 だって、実際、ロジィはレティの考えをわからなくなっているのだ。あの子が〈湖の乙女〉を好きかどうか、そんな些細な質問に対してさえ、もう、すぐには答えられないのに――。


 レティが〈わたし〉に対してどんな感情を抱いているのかなんて、わからない。


 だから、言えるのは……「自分だったら」ということだけ。

 自分が妹だったら。


 レティが〈湖の乙女〉で、自分が〈乙女の妹〉だったなら、きっと――――。


「いもう、と、は……、大好きな姉の想いを尊重したかったのではないですか」






(尊重?)


 偽王弟妃の返答はジュストの想定を越えるものだった。

 ジュストは、ラルデニア伯の姉妹を物語の登場人物になぞらえて、姉の本心を探ろうとしたのだ。


 ――姉は、妹ではなく男を選びました。妹と永劫の時間を生きるのではなく、男のために命を差し出した。……このことを、姉に棄てられた形となる妹はどう思っていたのでしょう。


 物語中の〈湖の乙女〉と〈男〉は婚約関係ではないが、似たような関係性として仮定する。


 そうすると、男が〈乙女〉ではなく、〈乙女の妹〉に恋をした描写をそのまま、双子の姉姫ではなく妹姫と強硬に婚姻したベリエ公にすり替えることができる。

 言い換えると、こうだ。


 ――ベリエ公は、あなたではなく妹君を選びました。あなたと結婚するのではなく、妹君のために無理を押し通した。……このことを、ベリエ公に棄てられたあなたは、どう思っていたのですか。


 そうした意味を含んだ質問を、ジュストはあえて〈王弟妃〉にぶつけた。


 この場にいる王弟妃が偽物であることを、ジュストはとっくに理解している。だが、それを当人には伝えていないから、彼女は「バレていない」と考えているだろう。


 妹の振りをしている中で、ことさら「妹」の心情を問いかけられたら、言葉に詰まる場面が訪れる。

 棄てられた、というキーワードも盛り込んだから、負の感情がよみがえればきっと、妹に成りすます演技に亀裂が生じる。


 そこまで心理的に追い詰められたら、思わず「自分の本音」を口に出してしまうだろうと考えたのだ。

 常日頃から別人のベルローズを演じているジュストの経験則だった。


 ――――だが。

 偽王弟妃の返答は、あくまでも「姉を思いやる妹」の域を出ない。

 つまり、姉姫は本物の王弟妃を、特別に思っているのだ。しみじみと、ジュストは〈姉〉を見つめた。


 ジュストにも〈弟妹〉はいる。

 いるが、愛情を抱くような関係性ではなく、どちらかといえば疎ましく感じているのが本音だ。


 フィリップも異母弟であるベリエ公を「好き」とは思っていないだろうし。

 まして、姉の立場で物事を見れば、妹は、自分の立場と婚約者を奪った相手になるのだ。


 自分だったら考えられない、とジュストは思う。たとえそれが、血を分けた〈家族〉だったとしても。


 ――――いや、血を分けた家族だからこそ余計に、許せない。


 自分が得られるべき権利を奪い去った人間が目の前にいて、恨みの感情を一切出さずに過ごす、なんて。


(絶対、できない)


 だから、新鮮だった。

 それだけの目に遭ってなお、血を分けた妹を大好きだと断言できる彼女を、眩しく感じた。


 妹を害しに来たのでは――などと、ほんの一瞬でも疑ってしまった自身が恥ずかしく思える。

 だが、当初の疑問が解決すると、すぐにまた別の疑問が脳裏に浮かんだ。


(じゃ、なんのために宮廷ここに来た?)


 これだけ聡明な姫君なのだ。自分の立場は充分に自覚しているだろう。


 ラルデニアの女子相続人は、他国が、ラルデニアに爪を伸ばそうとするルガールを牽制する重要な切り札となる。また、ルガールにとっても、ラルデニアを狙っている他国を牽制するための重要な切り札だ。


 つまり、ルガールと他国の双方から見て、最大の駒。

 彼女の身柄を確保しておくことが、ラルデニアの保有権を握る手段と言っても過言ではない。


 そんな彼女がメルヴェイユ宮殿をうろうろしていたら、どれほどの騒動を引き起こすか、分かっているだろう。


 下手をしたら、彼女自身の命すら危ういというのに。――それでも来たのは。


(妹のため、なんだろうな。……あの王弟妃は、そこまで大事にする価値がないと思うけど)


 やれやれ、という〈兄〉のような感情がこみ上げてきて、ジュストは苦笑交じりに姉姫を見た。


 姉にとって妹がどのように映っているのかはわからないが、彼女が王弟妃となってルガール宮廷に登場してから数ヶ月。

 ジュストが見る限り、実に奔放で勝手気ままなお姫様だ。


 前時代よりはずいぶんと緩やかになったが、それでもルガール宮廷は未だに、ダンベルクの宮廷と肩を並べる厳格さを誇る。


 本来であれば「退屈なのがキライ」などという勝手な理由で、結婚からこちら、すべての宮廷行事をすっぽかすなど許されないことなのだ。


 義母となる王太后と、夫であるベリエ公の後ろ盾があるとはいえ、堂々と引きこもる王弟妃は自由奔放の一言に尽きる。


 だから、姉姫がメルヴェイユに来ることになった理由もおそらくは、王弟妃の奔放な要求だろう。


 それなのに、姉姫は妹を大切に思い、妹の思いに応えようとし

ている。いや、妹の要求に応えたからこそ、ここにいるのだ。――偽の王弟妃を演じてまで。


(……だったら、これ以上は詮索しなくても大丈夫かな)


 ラルデニアの相続人である姫が、ルガールの王弟妃に害を為していた場合、それはルガール王家に対するラルデニア伯家の謀反に繋がる。そのいざこざを周辺諸侯に悪用されたら戦争にまで発展しかねない。


 ジュストもフィリップも、それを危惧していたのだ。

 だが、そうでないならば、妹への過分な愛情によるものならば、入れ替わりもなりすましも、当面は見逃して大丈夫だろう。


 このまま深く追求したとき、本当に困るのは入れ替わった〈姉姫〉だ。それはあまりに可哀想だと、ジュストは思った。


 フィリップやルガール王家に対して悪意も策略もないなら、泳がせてあげるのが姉姫のためだろう。


 厳密に考えれば、入れ替わっている段階ですでに「国王への反逆」を濃厚に疑われる事態ではあるが、あの王弟妃がそこまでの謀略を企てているとも思えない。入れ替わっている〈姉姫〉からも、そうした悪意は感じ取れないし。


 心配なら、ジュストが〈ベルローズ〉として、これまで以上に注意して見守ればいい。

 このことをフィリップに相談しても、優しい彼のことだ。きっと、ジュストと同じことを口にするはず。


(だから、もういいか)


 ジュストは追求をやめた。

 あくまでも〈王弟妃〉として振る舞おうとする妹思いの姉姫に、騙された振りを続けてあげようと決める。


 穏便に、隠密に、宮廷内でスパイ活動をするのが〈ベルローズ〉に課せられた使命だ。

 か弱い貴婦人ひとり、密かに監視できなくてどうする。


「妃殿下はお優しい方ですね。わたくしでしたら、自分ではなく男を選んだ身勝手な姉の気持ちを尊重しようとは思えませんもの。妃殿下のようなお姉さま思いの妹君をお持ちの姉君は、お幸せでいらっしゃいますこと」


 ――――あなたにそこまで深く愛されて王弟妃は幸せだ。


 言えない真意を別の言葉で包み隠し、ジュストは〈ベルローズ〉として微笑みを浮かべた。






(……疑われているんじゃないかしら)


 ベルローズのサロンを辞したロジィは、ふらふらと廊下を歩きながら思案する。


 物語に対する感想を尋ねる態度を取りながら、その実、〈妹〉の〈姉〉に対する感情を訊いていた。妹として姉をどう思っているのか、と、しつこいほどに。


 ――――王弟妃の姉とは、どのような人物であるのか。


 それが、ベルローズが本当に探りたかった内容ではないだろうか。


 客観的に見れば、ローゼリアはセレスティーヌに婚約者を奪われている。

 姉が妹を恨んでいると考えるのが普通だろう。大切なルガール王弟妃に、恨みを募らせた姉が何かするのではないか、と疑うのも当然。


 そこで、サロンに呼び出し、妹セレスティーヌから見た姉ローゼリアの姿を聞き出すことで、ラルデニア伯領相続人の人となりを聞き出そうという魂胆だったのでは……。


 王弟妃に一礼してくれる宮廷の従僕たちに会釈しながら、ロジィは足早に進んだ。


 ロジィは、婚約者に棄てられた自身の厄介な立場を充分に自覚している。

 ラルデニア伯領の相続人であることが、それに拍車を掛けていることも。


 だから、王弟妃の地位を奪った妹を恨むような人物なのかどうか、あの会話で探りを入れられていたのではないだろうか。


 そして、その〈答え〉によっては、どちらを「どうするか」決める目的だったのでは――。


 そこまで思い至って、ロジィの背筋がゾッとした。

 ルガール王国にとって、相続権のない王弟妃は、はっきり言って無用の長物だ。

 裏を返せば、ルガール王弟妃でない人間が相続人であることもまた、無用の長物。


(もしかしたら……)


 ロジィは、思わず、足を止めた。

 ベルローズは、妹ではなく男を選んだ〈湖の乙女〉を「身勝手」と評していた。


 あれがそのまま、ラルデニア伯長女に向けられた言葉だということは、ないだろうか。


 ロジィから見れば身勝手なのはベリエ公だ。

 だが、ルガールはそれを認めたくはないだろう、絶対に。


 ローゼリアが相続人だからこそ、次期女領主――つまりは〈将来の君主〉に準ずる存在として認められ、ルガール王族の婚約者に定まったのだ。


 相続権を有さないセレスティーヌは単なる貴族の姫、はっきり言えばルガール臣下の娘でしかない。現状、セレスティーヌはルガール王弟の相手として、劣る身分なのだ。


 王族と、臣下の娘との婚姻は貴賤結婚とみなされ、追放されるのが慣例。


 そうした複雑かつ厳格な〈暗黙の了解〉があるにもかかわらず、王弟が正式な婚約者を棄てて自由恋愛の結婚を優先させた、など。


 それが白日の下にさらされたら、ベリエ公の王位継承権は剥奪される。


 フィリップにとって政敵が失脚することは好ましいかもしれないが、彼が〈国王〉という重責を理解しているなら、一概に喜べない事態だ。


 フィリップには嫡男がいない。つまり、次代の王位継承者がいない。

 いくら異母弟が憎くても、〈ルガール王〉にとってベリエ公は大切な〈世継ぎ〉なのだ。


 国王の直系が存在しない現状で、ルガールの王位継承権を有する〈唯一の王族〉を放逐することは、ルガールを滅ぼすことと同じ。


 個人的な感情がいかなるものであれ、ルガールのためのを思うなら国王フィリップは、王弟ベリエ公を庇い通さなければならない。


(事実を事実として認められない……、ということは)


 ロジィは、ひゅっと息を呑んだ。

 まさか。


 ルガール宮廷は、王弟ベリエ公の一存で結婚相手が変わったという事実を、改竄しようとしているのだろうか。



『ローゼリアは身勝手にも王弟との結婚を嫌がって尼僧院へ逃げた。姉の気持ちを知っているセレスティーヌはそれを見逃し、姉が罪に問われないよう、姉の代わりとして結婚した』



 例えば、このような筋書きを作り上げたらどうだろう。

 挙式前夜になって逃げ出すような娘を周辺諸侯は〈相続人〉とは認めない。揉めに揉めているラルデニアの継承問題は、あっさり収束する。


 実際、そうする案も出るには出たのだ。

 両親と、そのことについて話し合ったことはある。だが、決断するには至らなかった。


 周辺諸侯は大反対するだろうし、ローゼリアが放棄を宣言したからといって、すんなりセレスティーヌが相続人として承認される保証はないだろう――と。


 そんな、ぬるい考えで先送りにしてしまっていたが、ローゼリア自身が破談にしたのだと嘘を言えば、万事解決していたはずだった。


 言えなかったのは、きっと、泥を被ることに抵抗があったから。

 そこまでの〈無責任な娘〉になりたくなかったから。


(わたしが、保身に走っていたから……)


 ロジィは、泣いてしまわないように奥歯を噛み締めた。

 ラルデニア伯領を継ぐ娘として、ずっとそのことだけに誇りを持って生きてきたけれど。


 ――――わたしはもう、ラルデニアにとって邪魔な存在でしかないのだ。


 喉の奥からせり上がってくるしょっぱい感情を呑み込んで、ロジィは再び歩き始める。

 ローゼリアとしては口にできない言葉でも、〈王弟妃〉を演じている今なら、言えるかもしれない。


 メルヴェイユ宮殿で〈王弟妃セレスティーヌ〉が「身勝手な姉の身代わりになった」と証言すれば、問題が片付く。レティの中途半端な立場を補強してあげられる。


 妹の――セレスティーヌのことを真に思うなら、そうしてあげるべきだろう。


 だってもう、ロジィが〈ルガール王弟妃〉となったレティにしてあげられることなど、それくらいしか残っていない。


(違うわ)


 セレスティーヌにしてあげられる、唯一で最大のことだ。

 物語の姉は、恋した〈男〉の望みを叶えるために消えたけれど、ロジィは。

 大切な〈妹〉のために、俗世から姿を消そう。


(……あのサロンで最後よ)


 ロジィは強く決意した。

 王弟妃の部屋に戻ったら、レティに何を言われても、どんなに引き留められても、ラルデニアに帰るのだ。

 そして、修道女になろう。


 ローゼリアが俗世を捨ててしまえば、周辺諸侯が口を挟む理由はなくなる。


 どこからも異論を提示されることなく、相続権はセレスティーヌのものになるのだから――――。

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