薔薇のメヌエット

嘉村有夏

序章 

【 手紙 】

 神に仕える修道院の朝は早い。

 ラルデニア伯領の東北ロヴァン地方にある、聖クロード女子修道院も例外ではない。


「ニルドの尼僧院」と昔から呼び慣わされているこの女子修道院は、小麦畑で名高いニルド村を眼下に見おろす小さな丘の上に建っていた。


 まだ春の声が遠いこの季節。

 夜明けを待たずに活動を始めるのはつらいが、早起きの習慣が三ヶ月も続けば体が慣れて、同じ時刻に目覚めてしまうから不思議だった。


 寝間着代わりのシュミーズの上に、色味を抑えたローブを羽織るだけの質素な身支度を終えたロジィは、冷たく透き通った冬の空気に肩を震わせながら厨房へ向かう。

 真っ先に竈へ火を入れると寒さが少しだけ和らいだ。


 ここに来てすぐの頃は火の熾し方もわからなかったが、今ではすっかり得意になった。湯を沸かしている間に、パンと香草茶、少しばかりのフロマージュを準備する。


 清貧をむねとするリジオン教では、一日の食事を正餐と晩餐の二度と定めているが、ごく簡素な内容であれば朝食を摂ってもよいとされていた。


 食事の支度は、尼僧院に来て真っ先に覚えた事柄だ。来たばかりの頃は、お茶の一杯すら満足に淹れることができなかったが、今は違う。


 このパンも、ニルド村で収穫された小麦粉を練るところからロジィがひとりで焼き上げたものだし、香草も尼僧院周辺に自生しているものをロジィが摘んで用意していた。夕餉の野菜スープだって、もう、ひとりで作れる。


「おはよう、ローゼリア」


 厨房の片隅にある小さなテーブルに食器を並べていると、院長のベアトリスが姿を見せた。


 敬虔な尼僧らしく頭巾をすっぽり被り、いつもと変わらない慎ましい出で立ちだ。目尻の皺が目立つようになったが、それでもまだまだ若々しい。


「おはようございます。あとはお茶を淹れるだけですから」


 小さなパンとフロマージュを皿に載せ、ベアトリスの前に出す。

 ティーポットに熱湯を注ぐと、湯気とともに甘く瑞々しい芳香がふわりと広がった。


「……あぁ、よい香りね。今日は香草茶ではないの?」

「薔薇茶にしました。先日、実家から茶葉が届いたので」

「それはありがたいこと。あとでお礼のお手紙を差し上げましょう」


 カップに注がれた薔薇色の液体に頬を緩めたベアトリスが、静かに両手を組む。

 父の従姉に当たるベアトリスは、食前の祈りを捧げる所作もどこか洗練されていて美しかった。


「手紙といえば、ご実家からのお手紙に、あなた宛のものが含まれていました」


 朝食の後片付けも終わった頃、ベアトリスがそう切り出した。ロジィは、きょとんと瞬く。


「……手紙、ですか」


 もういちど座るようロジィに促したベアトリスは、手紙はまだ自分の部屋に置いてある、と付け加えた上で言葉を重ねた。


「ここは尼僧院です。俗世とは切り離されるのが倣いであり、規則」

「はい。わかっています」


 修道院や尼僧院とは基本的に、神に仕える人生を歩み、そのために生活する場だ。


 行儀見習いとして、一定期間を区切って学びに訪れる場合を除き、修道院に入ることは今までの人生を捨てることなのだと、ベアトリスからしつこく教えられている。


 手紙のことをわざわざ伝えず、ベアトリスが独断で処分してしまって構わないのに、どうして教えてくれたのか。

 困惑するロジィに救いの道を示すかのように、ベアトリスはこれまでとはうってかわって柔軟な考えを口にした。


「ですが、あなたはまだ正式な修道女となる手順を踏んでいません。いわば見習いの乙女たちと同じ。そこまで厳格に掟を――」


 彼女の言わんとすることを察したロジィは慌てて言葉を遮った。


「待ってください、ベアトリス様。わたしの心はすでに定まっています」


 ここで、尼僧となる道を選んだのだ。誰からの手紙であれ読むつもりはない。

 首を大きく横に振ったロジィに、ベアトリスは困ったような、哀れむような眼差しを向けた。


「ローゼリア。……いえ、ローゼリア姫。あなたはまだ十五。とても若いのです。これから続く長い人生をきちんと歩み終えてから、それから神に仕える道を選んでも遅くはないと思いますよ」


 ベアトリスの言葉は正論であり、同時に、ロジィの心を深く抉るものでもあった。



「…………これからの、長い、人生?」



 声が、唇が、ロジィの意思から離れて勝手に震える。

 感情を露わにするのは、神聖な尼僧院であるまじきことだと、頭ではわかるのに。

 言葉が止められない。



「わたしの人生は、もうすでに決められています! この尼僧院から出てはいけない、それが、わたしに課せられた運命です!」



 そんなこと、ロジィを引き受けたベアトリスが一番よくわかっているはずだ。

 どうして、今になってそんな、逃げ道があるみたいなことを言うのだろう。



 ――――ロジィは「選ばれなかった」のに。



「それは神が定めたもうた運命ではないかもしれません」


 ベアトリスの言葉は心からの慰めだとわかる。でも、素直に受け止めることができない。


 平静を保とうとして失敗し、ロジィはぎこちなく歪んだ笑みを浮かべてしまった。

 なげやりな感情がそのまま、言葉になってこぼれ落ちる。


「神に誓う、まさにその直前に、わたしは修道院行きを命じられました」


 だから、ここにいることこそが、神がロジィに与えた運命なのだ。

 気を張っていないと泣いてしまいそうで、ロジィは精一杯、瞳に力を入れる。


 あの日から、ロジィは泣き虫になった。子供の頃は、あまり感情の振れ幅が大きくなくて、物静かな子だと言われることが多かったのに。


「神がもし、あなたに信仰の道を真実、お示しになっているのだとしたら……」


 ベアトリスはテーブルの上で静かに両手を組み、しっとりとした声音で言う。


「外部からの手紙が届くこと自体、起こりえないことだと思いますよ。ですから、あなたがこの尼僧院で生きることを、神はお望みではないとわたしは判断しました」


「わたしは俗世に戻りたくありません! このまま、何もかも忘れて――」

「ローゼリア姫」


 小さいが、厳しい声にロジィは口を閉ざす。

 ベアトリスは珍しく怒っていた。


「信仰は逃避ではありません。修道院は逃げ場ではないのです。そのような心持ちで神に仕えることは赦されません」


 ぴしゃりと言われ、返す言葉が見つからなかった。ロジィにとって、ここは正真正銘の「逃げ場」だったのだ。


 神の御前で婚姻の誓約をする、まさにその前夜。

 ロジィは、修道院へ引き籠もることを相手方から要求された。


 突然の破談だった。


 相手が、気に入った姫君を見つけたからという理由によって一方的に、ロジィは棄てられたのだ。


 挙式を執り行うため、すでに聖王庁からは高位聖職者が派遣されてきていた。

 領内には大々的に布告も終わっていたし、相手も「結婚」そのものを取り止めるつもりはなく、翌日の式はつつがなく挙行された。



 ――――主役がロジィではないという一点を除いて。



 ロジィが着るはずだった贅を尽くした花嫁衣装は、相手が気に入った姫君がそのまま、袖を通した。


 嫁ぐロジィのために用意された豪勢なパリュール――ティアラやネックレスといった装身具一式――も、その人の全身を美しく彩った。


 なぜなら、相手が気に入った「姫君」は、ロジィとまったく同じ顔と背格好をしていたから。


 ロジィのために用意された一切の花嫁道具は、最初から彼女のために誂えられていたかのように、何もかもがぴったりだったのだ。


 夫となるはずだった人は、ロジィと同じ顔の、けれど、まったく別の姫に微笑み、永遠の愛を誓った。ロジィはその姿を、遠くから見つめた。


 そして、邪魔者となったロジィは、人目を憚った母が用意したみすぼらしい馬車に乗って、その場を去るよりなかった。


 馬車が停まったのは、住み慣れた城館から遠く離れた田舎村にある、なかば廃れた尼僧院。


 石造りの建物はあちこちから雨漏りがして、隙間風もひどく、今にも崩れ落ちそうな風情だったが、それを嫌だとは思わなかった。


 すべて忘れて、ひっそりと生きていきたいロジィにとって、村人たちからも忘れられている尼僧院は逃げ場所としてうってつけだったから。


 高貴な家の娘は主体性など持たないよう、慎重に育てられる。

 子は、親の命令に従うのが当然。

 こと結婚ともなればそこに異論を差し挟む余地などありはしない。


 当事者間の愛情よりも、家の存続、領地の安泰、それらこそが重要な問題だから。

 ロジィの生家ラルデニア伯家にとってもそれは同じだ。


 だから、あまりに突然で不条理だとは思ったけれど、ここで生きろと言われたなら従わなければいけないのだと言い聞かせていたのに。

 ……今さら、ここを出るなんて。


「あなたが悩み、惑う気持ちは理解できます。……ですが」


 厳しい声と表情を柔らかなものに変えて、ベアトリスは静かに言った。


「修道女となって信仰の道に進むことと同じくらい、現実の世で、苦難に立ち向かうこともまた、立派な修行ですよ」


 信心深い尼僧らしい言葉だ。

 中途半端な気持ちで神に仕えるのは不敬だと、ロジィも理解はしている。……しかし、それが忠実に実行できるか、ということはまた別問題で。


「仰せの通りです。ですが、ベアトリス様。両親の赦しもなく勝手に尼僧院を離れることはできません」


 もっともらしい理由をひねり出して、ロジィは抵抗しようと試みた。

 そんなロジィの屁理屈を聞いたベアトリスは、予想に反して怒ることはなかった。優しく手を伸ばし、硬く強張ったロジィの指を撫でながら続ける。


「心配はいりません。手紙は、あなたのご両親からでした。どのような内容だったのかは、あなたが自分で確かめるべきですからお話ししませんが、わたしは賛成しているとだけお伝えしておきます」


 その言葉と、ここに至るまでの会話で、ロジィはベアトリスが言いたいことのおおよそを察した。


 実家に戻り、結婚せよと、そういうことだ。おそらくは。


 領主にとって結婚適齢期の娘は〈重要な駒〉であり、好条件の相手に高く売りつけることが、課せられた最大の責務と言える。


 ひとたび縁談が持ち上がっても、それがすんなりまとまる例は少ない。双方の駆け引きによって婚約段階で破棄されることが珍しくないからだ。


 今回のロジィの件も、それと同じだった。

 修道院に身を隠さなければならなかったのは相手方からの圧力があったためで、本来なら、実家でよりよい縁組相手を探している最中だっただろう。


「この尼僧院に暮らしているのは、わたしだけでしたから、年若いあなたが来てくれたことで雰囲気も明るくなりました。とても楽しい日々をありがとう、ローゼリア姫」


 良家の子女が花嫁修業の一環として行儀見習いのため修道院入りする例は多く、名目上は神の妻になる――つまり神と婚姻すると考えるので持参金を添える。


 ロジィがこの尼僧院に入ったのは突然の流れで、文字通り「身ひとつ」で転がり込んだが、実家から後日、相応の持参金が届けられたことは知っていた。


 ロジィの素性に関して口外しないようにという意味合いも込め、それなりの額だったと聞いている。親族でありながら、これまで疎遠だったことの詫びも含まれていたのだろう。


 壊れた屋根は修繕されて雨漏りが止まり、隙間風もなくなった。建物の周囲も雑草が綺麗に刈られ、埋もれていた薬草や香草を発見するのに困らない。礼拝堂にも伯家から寄付された真新しい祭具が並んでいる。


 清潔で華やかになった尼僧院に、周辺の人々も足繁く通ってくるようになった。近々、商家の娘たちが数人、行儀見習いとして預けられるとも聞く。


 ニルド村のぼろ尼僧院は「聖クロード女子修道院」の名にふさわしい変貌を遂げた。

 ベアトリスにとってはもう充分で、領主夫妻の要求に反対する理由などないのだろう。


 彼女自身、伯家の都合で嫁ぎ、婚家の都合で実家に戻っている。家同士の思惑で人生を左右された典型的なお姫様だ。ロジィの主張は子供のわがままとしか思っていない。


「たとえこの場を離れても、救済の心を忘れてはなりませんよ、ローゼリア姫。困っている人があなたに助けを求めていたら、迷わず手を差し伸べておあげなさい。あなたの尊い行為を、神は必ずご覧になっておられます」

「……はい」


 姫、と呼ばれる身分の女性に自由な意思は赦されない。

 家が「結婚しろ」と命じてくるなら、ロジィはそれに従うしかない。

 だから、せめて。


(今度こそ、結婚できたら嬉しい)


 淡い期待を胸に、ベアトリスから封筒を受け取って自室に戻る。

 封蠟に押された印璽シールの模様は向かい合うツバメ。間違いなくラルデニア伯が使用する指輪印章だ。


 大きく分厚い封筒を開けると、中からさらに三つの封筒が出てきた。三つも入っていたから分厚かったのか。


 順番に開封しようとしたが手が滑り、そのうちの一通が床に滑り落ちてしまった。

 拾い上げた封筒をまず開けたロジィは、広げた便箋に目を見開いた。




『会いにいらして、お姉さま。

 わたしたちは同じ魂が別たれて生まれてきているのよ。

 きっと、お姉さまもわたしの苦しみを感じて、泣いているはずだわ。

 すぐにいらして、待っているわ。絶対よ。

 お姉さまの愛しい妹より愛を込めて』




(……なんで、この手紙が?)

 ベアトリスが言っていた両親からの手紙は、セレスティーヌの封筒の下に、隠すようにして重ねられていた。


 手にしていた便箋をテーブルに置き、ロジィは残り二つの封筒を破るようにして開けた。


 セレスティーヌの望みを叶えて欲しい、そしてそのために一刻も早く尼僧院から戻ってきて欲しいと、言い回しは違うが、両親ともに同じ内容がしたためられている。


 ――――てっきり、新しい縁談だと思っていたのに。


 覚悟を決めたあとで、予想と違う事態が目の前に広がると、どうしたらいいかわからなくなる。

 しかも、よりによってセレスティーヌに会いに行く、なんて。


 彼女に一番、近づいてはいけない人物はロジィだと思うのだけれど。

 ……違う。


(わたしが、レティに会いたくないのよ。本当は)


 ずっと一緒に育ってきた、片割れとも言える存在。

 離れるなんて想像したこともなくて、嫁ぎ先にも一緒に行くのだと、愚かな夢想をしていた時期もあった。

 彼女の幸せを望んでいるし、毎日、それを心から神に祈っている。


 でも、挙式前夜に花婿から棄てられた無様な自分の姿を、いくらセレスティーヌにも見られたくない、という気持ちもあって。


(違う。……レティだからこそ、見られたくない)


 あなたたちは二人で一人ね、と、両親にさえ言われる仲だったのに。

 ロジィだけが、まるで神に見放されたかのように姿を消さなければならなかった。レティは陽の当たる場所で輝いているのに。

 彼女を妬む気持ちはない。……ない、けれど。



(……本当に?)



 心の片隅で、もうひとりの自分が意地悪く囁く。

 今までのように、なんの陰りもない気持ちでセレスティーヌの前に立つ自信はなかった。


 同じだと、何も変わらないと信じていた自分たちの関係性が、まったくの別物だと突きつけられてしまったから。

 わたしと、レティは違う。――わたしはレティに、なれない。


(わたしはレティに劣っている……)


 心の中に降り積もっていく感情が醜くて、心臓を取り出して水洗いしたい気持ちに駆られる。

 たとえ洗ったとしても、黒く染まった色を戻すことなど、できないだろうけれど。


 こんな気持ちでレティの前に立ってはいけない。彼女をきっと、傷つける。

 だから、会えない。……そう、思うのに。


 ――――待っているわ。


 セレスティーヌの文字が、ロジィの心を揺らす。

 急いで書いたのか筆跡のあちこちがいつもより乱れていて、お世辞にも上手とは言えない文字だった。


 それが余計にレティの心情を訴えてくるようで、読まなかったことにできない。

 ベアトリスは言うだろう。彼女に会うことを苦しいと思うのならば、それがきっと、ロジィにとっての〈苦難〉だ、と。

 受け入れ、乗り越えるべき、神が与えたもうた試練なのだ。


(……だったら、取るべき道はひとつ)


 迷いは消えた。

 困り果て、手紙を書いてきた両親の気持ちを無碍にはできない。


 父は寝付いていることが多く、この手紙を書くために起き上がるだけで相当の気力を消費したはずだ。


(……それに)


 他ならぬ、たったひとりの、大切な妹が呼んでいるのだから。

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