第1話(1):ドッペルゲンゲル

 ドッペルゲンゲルの名は調査人ならば当然聞いたことはあったけれど、実際にドッペルゲンゲルによる被害に遭ったという話を聞くのはマルカは初めてだった。

 それもそのはずだった。ドッペルゲンゲルは伝説的な存在――実際に存在は確認されているが、おとぎ話上の存在になってしまう程には目撃例が極めて少ない。


「それは、本当にドッペルゲンゲルなんですか?」


 マルカは村長の話を疑っていた訳ではないが、それでも聞き返さずにはいられなかった。


「はい、間違いありません」


 村長は眉間のしわを深くして、頷いた。


「だって、毎夜毎夜村民の姿を真似をして現れるのですよ? ……私も最初は疑いましたが、それは噂に聞くドッペルゲンゲルの特徴ですよね」

「それは確かに、そうですね…………」


 マルカはこめかみを押さえながら、村長さんが出してくれたハーブティを口に含んだ。砂糖ではない、植物由来のほのかな甘さがマルカの口の中に広がり、ほっと落ち着く香りが鼻から抜ける。様々なハーブ類が、こののどかな平地の村の特産品らしかった。


「……ですけれど、調査人さんが信じられないのも無理はないと思います。専門的な知識を持っているからこそ、その希少性を知っているからこそ、そう考えてしまうのでしょうね」


 その通りだった。マルカは調査人として世界各地を旅するようになってから数年が経つけれど、ドッペルゲンゲルに会ったことが無いのは勿論のこと、会ったことがあるという同僚の話も一度も聞いたことは無かった。


「そう、ですね。その通りです」

「ですが、調査人さんの意見も一理あります。私たちは専門家ではないので、本当にあれがドッペルゲンゲルかどうかは断定ができません。それを含めて、ドッペルゲンゲルについて調べてはいただけませんか」

「勿論です。それがわたしの仕事ですし、それが役割ですから」


 マルカは快諾した。理由は、言葉の通り。

 人ならざるものによって引き起こされるトラブルを解決するのも調査人の仕事だ。それが知識と技術と経験を持った者の役割だ。


「ありがとうございます」


 村長は顔に刻まれたしわをふっとゆるめて、椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。「そんな、やめてください!」とマルカは言うけれど、村長は頭を上げなかった。

 これは仕事だ。解決にはお金を頂戴している。そういう契約の素に成り立っているのだから、感謝など必要ないのだ。

 だけれど、これまでの依頼者はみんなこういう風に必要以上の感謝をマルカにするのだった。


*


 平原の村は広大な土地を有する。しかし領地に対して人口はかなり少なく、その理由は土地のほとんどをハーブ畑として使用しているからだった。


 村の門をくぐると村民の住居や施設が固まって建っていて、その一番奥には集会場兼村長宅がそびえている、広大なハーブ園はその後ろに広がっている。

マルカは色とりどりの花が風に揺れているハーブ園を見渡しながら、大きく深呼吸をした。


 匂いがする。色々な、ハーブの香り。嫌なものではない、だけれど多種にわたるハーブが混ざった香りにマルカはくらっとする。

 まだ慣れないマルカには、この強烈な香りたちは少々刺激が強かった。


 住宅地とハーブ園とを区切る木の柵に体重を預け、目をぎゅっと瞑る。……うん、大丈夫だ。マルカは目を開けると、道に沿って住宅地へと歩き出した。


 ドッペルゲンゲルと思わしき現象が発生するのは決まって住宅地だという。ハーブ園での目撃情報は一切なし。調査範囲が狭くていいのは、なんともありがたい事だった。


 しかし、ドッペルゲンゲルの調査なんてどこから進めればいいか分からない。ノウハウも知らない――そもそもあるのだろうか?

 どうすればいいかマルカは悩んで、そして一旦宿へと帰ることにした。おサボリではない、宿に置いた荷物の中にある図鑑が目当てだった。


 図鑑の記述はほとんど暗記している。どの項目が何ページかなんて分かって当然。だけれど、調査人としての仕事をするうえで一度も開いたことの無いページ――例えばドッペルゲンゲルなんかの項目は、さすがのマルカでも記憶はしていなかった。


 宿屋のドアを引くと、ちりんちりんと来客を知らせる鈴が音を鳴らす。鈴は一部が錆びてしまっていて、ぱらぱらと茶色い粉が振ってくる。


「あら、お帰りなさいね調査人さん。村長さんの話はどうだった?」


 マルカの姿を認めると、カウンターでうとうと舟をこいでいた恰幅の良いおばさんが表情を明るくした。


「はい、仕事を依頼されました」

「本当にドッペルゲンゲルの仕業なのかい?」

「それも含めて調査をします」


 この村にマルカがやって来たのはつい昨日のことだった。まだ夕方だったけれど歩き疲れていた彼女は宿を借りて部屋に入るなり直ぐにベッドで横になってしまい、目が覚めたのは翌朝だった。

 朝食兼昼食を用意してくれたおばさんに仕事を聞かれた際に調査人だと名乗ったところ、ドッペルゲンゲルによる被害に困っていると教えられたのだ。言われるがまま村長宅に行き話がまとまって帰って来たのが今、という訳だ。


「なるほどねえ。ドッペルゲンゲルにはみんな困ってるからね、解決してくれるとみんな喜ぶよ」

「はい、全力を尽くします。……あの、困っているというのは、具体的にはどのように?」

「うるさいんだよ、とにかく。真夜中にぎゃあぎゃあ汚い言葉を言って騒いでね。村人を襲うことも無いし騒ぎ出すのもたまにしかない、そんなに大声で騒ぐこともないんだけど……」

「汚い言葉……」

「そう、そうなの。それがすっごい気に障るんだよ」


 マルカは顎に手を当てて、その場に俯いた。緑の髪が彼女の顔を覆い、表情は周りから窺えない。


「そう、馬鹿だとか死ねだとか、まあ子供の喧嘩くらいの言葉だし、誰に向かって言ってる訳でもないみたいだけどさ。それでも汚い言葉ってのは、それだけでこっちも不愉快になるしね」

「……そうですね、わたしもそう思います。ありがとうございます、貴重な情報です」

「あら、そうかい? まあ私で良かったら協力するから、なんかあったら言って頂戴な」


 おばさんは腰に手を当てて、がははと豪快に笑った。


「あ、そうだ、コーヒーでも飲むかい?」

「いいんですか?」

「この村のために働いてくれてるんだ、それくらいお安い御用」

「あの、……砂糖とミルクを付けてもらっても…………?」


 ぼそぼそとマルカが言ったけれど、おばさんはその輪郭の不明瞭な言葉を理解するのに時間がかかったようだった。少し間をおいて、ようやく理解したおばさんは「勿論!」と大きく頷いた。


「部屋に届けるかい? なんか見られちゃまずいものがあるなら、ここで作って渡すけれど」

「じゃあ部屋までお願いしてもいいですか?」


 おばさんは再び大きく頷くと、カウンターの奥にあるキッチンにのそのそと移動した。

 マルカはそれを見届けてから自分の部屋へと戻った。年季の入った扉を開けると、こじんまりとした質素な部屋。だけれどマルカはこれで良かった、これが良かった。


 マルカは部屋の隅にまとめられた荷物軍の中から、肩掛けのベルトの付いた鞄を取り上げた。いや、それは鞄ではなかった。

 黒い革張りに白字で隣人図鑑と記されたそれは、本だった。分厚い、大判の本。背表紙の端からはベルトが伸びて、それがもう一方の端と繋がっている。


 マルカはそれを持ってベッドに横になって、……少し考えてから椅子に座り直した。おばさんがコーヒーを持ってきた時にだらしない姿を見せてしまう。

 テーブルに本を置いて適当なところで開き、ページをめくっていく。目指すは二百十七ページ――あった、ドッペルゲンゲルの項目だ。


 しかし隣人図鑑には、マルカが知る以上の情報は記されていなかった。だけれどそれも当たり前の話。あまりにも調査結果の少ないドッペルゲンゲルに対する情報なんて、隣人図鑑以外で知る術などまずないのだから。


「お邪魔するよ」


 声と共にどんどんと扉がノックされる。「どうぞ」とマルカが返事を返す。


「コーヒーミルク砂糖入り一人前、お待たせしました」


 入口まで受け取りに行こうとしたが、マルカ立ち上がるよりも先におばさんがずんずんと部屋の中へと入って、隣人図鑑の腋にマグカップを置いた。


「あ、ありがとうございます」

「いえいえ。もし他に必要な物があったら言ってね。……あら、その本」


 おばさんが、広げられている本が隣人図鑑だと気付いて目を止める。別に見られて困るものでもないので(だったらこんなに大きな本にしない)、「そうですよ」と頷いた。


「……これがなかったら私、あなた――マルカちゃんだっけ、が調査人だと信じなかったわよ」

「あはは、よく言われます。だけど、都市の方じゃわたしくらいの調査人も珍しくないんですよ?」


 この隣人図鑑とは、人ならざるものの名前や特性を記した図鑑である。マルカが持っているのは第六版で最新版。初版は猫の掌くらいの大きさだったというけれど、段々とその厚さは非常識と呼べるものになっている。

 なので編纂者たちの間で第七版をどうするか――例えば文字を細かくするとか上下巻に分けるとか、といった議論がされているという。


 著者は表紙には記されていないが、奥付に「オーカス・マーデュック」という名前がある。このオーカス・マーデュックという人物も調査人で、他の調査人の報告と自分自身の経験とを合わせてこの隣人図鑑を記述しているとされているが、その真偽は定かではない。

 こんなに様々な人ならざるものに会えるわけがないと言われているし、それにはマルカも同意見だ。それに初版が作られたのは今より百二十年も前の話、普通の人間ならばとうに寿命が来ているはずだ。


「へえ、そうなの。いやあ、でもこんなものを持ち歩かなきゃいけないなんて、調査人は大変ねえ」


 おばさんが気の毒そうにマルカを見た。マルカは苦笑しながら「慣れますよ」と返した。「たしかにかさばりますけれど……」


 この隣人図鑑は市販されているものではない。どこから流れているのか、闇市では高額で取引されているらしいけれど。

 しかしそれ以外で、つまり正規の手段で隣人図鑑を入手する方法はただ一つ。調査人の認定試験に合格することだった。それに合格すると隣人図鑑を受け取ることができるのだ。つまりこの隣人図鑑は、調査人認定試験に合格したという証明書の代わりなのだった。


 別に、調査人という職業にライセンスが必要な訳ではない。名乗ればその日から誰でも調査人だ。だけれど何の裏付けも無ければ誰も信用しないし、今のマルカのように現地の人の協力を得ることもできない。

 認定試験を経由していない調査人も一定数いるけれど、しかし実質的に調査人として必須の資格とされている。


「本当に、これを見たのは今日が初めてじゃないけどずいぶんの厚さよねえ。こんなのを全部覚えなきゃいけないなんて、調査人ってえらく難しい仕事なんだね」


 しみじみとおばさんが言った。

 確かに、楽ではない。難しい案件も、たまにはある。だけれども、マルカは大変だと思ったことは一度もなかった。


「覚えなきゃいけない訳ではないですよ。わたしはこれを読むのが好きなので、何度も読むうちにほとんど暗記しちゃいましたけど……でも、覚えなくていいための図鑑ですし、よく関わる隣人さんは自然に覚えますよ」


 認定試験だって、そこまで難しいものではない。ただ、人ならざるものに対するちょっとした知識を求められるだけだ。それだって基礎的で簡単なもの、調査人にとっては常識の様な問題だ。


「ただ、流石にドッペルゲンゲルのことは覚えていなかったので、こうやって隣人図鑑を確認していたんですけれど……」


「どれ、ドッペルゲンゲル……。なんだこれ、全然載ってないじゃないか」


 目を細めて図鑑をしげしげと眺めたおばさんは、顔を上げると肩をすくめた。


「そうなんですよ。本当に情報が少なくて、どうしたらいいかと思いまして……」

「じゃあ、やっぱり実物を見るしかないんじゃないの?」

「……そうなんですよね」


 それは分かっているのだけれど、どうにもマルカの腰は重かった。

 その理由は分かっていた。単純、怖かった。事前情報の無い人ならざるものと対峙するのに恐怖していたのだ。


 これは弊害と言えるだろう。多くの隣人に対して豊富な知識を持ち対処法を知っているがゆえに、それの確立していない存在に腰が引けてしまう。自分の武器が通用しなくなったとき、その相手が危険な存在ではないとしても引け腰になってしまっているのだ。


 だけれどこれも、決してマルカが臆病という訳ではない。人ならざるものはそれだけ常識の通用しない相手だということだった。人間の持っている理論や法則が通用しない、超自然的な能力を有していることがほとんど。

 その相手の知識が足りなくて危険な目――もちろんそれは、目前に死が迫るようなことだ――を何度も経験したからこそ、こうして臆病に見えてしまう程に慎重になっているのだ。


 生体のほとんどわからないまま対峙しなければいけないの……?

 だけれども、それ以外に方法はないし――。


「マルカちゃん」

「あっ、はいっ!」


 思考に沈んだマルカを、おばさんの声が引っ張り上げる。マルカはびくっと身体を跳ねさせた。ねじの緩んだ椅子が、ギッと軋んだ。


「考えるのもいいけれど、というかそれがマルカちゃんの仕事だけど。コーヒー、冷めちゃうよ?」

「……あっ、コーヒー!」


 不思議なもので、ずっとコーヒーがすぐ傍にあっても何も感じなかったのに、存在を意識した瞬間から、鼻腔の奥を刺激するような奥深い香りが部屋に充満しているのが分かった。


「ごめんなさい……。いただきます」

「はいはい、どうぞ」


 カップを持ち、反対の手でカップの底を押さえて、温度を確認するようにゆっくりと舌を付ける。……うん、結果論だけれども丁度いい温度になっていた。

 甘い。そして、ミルクの滑らかさを感じる。砂糖とミルクをたっぷり入れてくれたらしい。


「すっごく美味しいです」

「そりゃどうも。どこにでもあるコーヒーだけどねえ」


 おばさんは目じりに皺を浮かべた。そしてガハハと豪快に笑う。


「わたし、甘いの好きなんですよ」

「そう思ってたっぷり入れたんだよ」


 身体は思ったよりも糖分を欲しがっていたらしい。そのコーヒーは結構甘かったにもかかわらず、一気に三分の二ほどを飲み干してしまった。

 ふと、マルカは気になったちょっとした疑問を聞いてみることにした。


「どうしてコーヒーなんですか?」

「ん? それはどういうことだい?」

「この村はハーブが有名なんですよね。村長さんのお家でもハーブティを御馳走になりましたし……」

「ああ、どうしてハーブティじゃなくてコーヒなのかってことね。ハーブティは確かに美味しいけれど、毎日飲む物じゃないよ。香りも味もクセが強すぎて、毎日飲むとちょっとうんざりしちゃうのさ」


 そういうものだろうか。

 ……そういえば、ハーブティなんて洒落たものを口にしたのはいつ以来だろうか。

 まだマルカには、おばさんの言ううんざりが分からなかった。

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