哲学研究室の薄暮〜ミネルヴァの梟は飛び立ちたい 2〜

草野なつめ

プロローグ

プロローグ

 古びた黒いボーラーハットに、ひきずりそうなほど長い黒のコートを羽織った男が、バイアー通りのトラムの線路に沿って歩いている。


 ホテルや飲食店が立ち並ぶ大通りだが、朝の早い時間で、行き交うひとはほとんどいない。リードなしで飼い主を先導して歩いていた一匹のパグが、街灯の足元で立ち止まると、反対側の歩道を歩く男に怪しむような視線を向けた。


 ドイツ南部に位置するバイエルン州の州都ミュンヘンは、ベルリン、ハンブルクに次ぐ、ドイツ第三の都市である。


 街の歴史は一二世紀にさかのぼる。アルプスから流れるイーザル川と、ザルツブルクからの塩の通商路がこの地で出会うことから、ミュンヘンは市場の街としてつくられ、栄えた。


 二◯世紀初頭には、アドルフ・ヒトラーによる武装蜂起の舞台となったことでも知られている。失敗に終わったこの「ミュンヘン一揆」のあと、禁錮きんこ刑に処されたヒトラーは、獄中で、自分の生涯とプロパガンダを口述筆記させて本にした。


 のちに人類史に残る未曾有みぞうの悲劇を生み出すことになる書物――『我が闘争』である。


 過ごしやすい気温の十月の朝とはいえ、黒ずくめの格好はいかにも暑そうだ。が、男はそんな素振りをまったく見せずに、息を切らすこともなく歩き続けていた。


 トラムの線路が大きくカーブする交差点で、男は立ち止まり、顔を少し上げた。目のまえにそびえる巨大な駅舎の外壁の隅に、白地に赤い「DB」の文字が鮮やかに浮かんでいる。ドイツ鉄道(Deutscheドイチェ Bahnバーン)の略称だ。


 男はコートのポケットからドイツ新幹線「ICE」の切符を取り出して、印字されている文字列をしばらくのあいだ見つめた。


 五時四七分、ミュンヘン発、フランクフルト行きの電車である。


 切符をポケットに収め、ふたたび歩き始めた男は、さきほどとまったく変わらない歩調でミュンヘン中央駅に入っていった……。

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