翔べ、メダカ!!それともずっと水の中?

MAKI

第1話 メダカと銀髪

「はい、まいど〜!

バーチャルユーチューバーのユメノココロだよ。今日はめっちゃ暑いけど、みんな熱中症には気をつけようね。ま、ココロはAIなんで暑さは関係ないけどね。あはは!」

パソコンの画面に、3Dコンピュータグラフィックの、キュートで萌え系の女の子が映っている。彼女は一見アニメのキャラクターのようだが、AIつまり人工知能だ。

可愛いらしい身ぶり手ぶりでこちらをむいて語りかけるその動きは、本物の人間の動きをコンピュータで再現した〈モーションキャプチャー〉と、声優の演技によってつくり出されたものである。

いや、そんな裏話はどうでもいいから早く話をすすめてくれ、という方には、お茶目で可愛い〈バーチャルアイドル〉とだけ知っておいてもらえればいい。

「じゃあ、さっそく今回のゲーム実況をはじめるよ。ユメノ、いきま〜す!」と、いきなり昭和ガンダムネタ。こういうポンコツなキャラクターで、ユメノココロは中年のアニメファンからも愛されている。「今日は、あの〈G-BOT〉社のミリタリーアクションゲーム〈オペレーションイーグル〉だよ。ちょっとマニアックだけど、みんな知ってるかな。これ、めちゃくちゃ難易度高いのよね。まあAIのココロなら楽勝だけどね、あはは!

え、感じ悪い?はい、まいど〜!

〈オプ・イーグル〉は、まず敵の偵察チームを全滅させないとだめよ。これをたたいておかないと、味方の戦闘配置がつつ抜けになっちゃうんだから。でもって、あとからくるM2ブラッドレー歩兵戦闘車とか、 M1A2エイブラムズ戦車に、こてんぱんにやられちゃうというわけ。って、そうはさせるかあっ。攻撃開始!おらあ〜ブチのめしたる!」


「あはは!ココロちゃんあいかわらず面白い。でも、ミリタリー系はあたしにはむいてないなあ。乙女にはちとキツいって」

その女は、ポテトチップスを口にほうりこみ、もぐもぐさせながらつぶやいた。

「どうせ〈オプ・イーグル〉やるなら、あたしは上位バージョンのPC版がいいけどね。で、キーボードは〈ロジクール〉のRGBワイヤレス、G-BOT仕様のプロカスタム。テンキーレスのLEDピカピカってやつね。あれ打ち込みの深さが絶妙だし、フィードバックがハンパないんだよなあ」と女は、ふつうの人には理解不能な用語をならべたてた。ポテトチップスのかけらが服に散らばっているが、そんなことは気にしない。

壁かけモニターのなかでは、バーチャルアイドルの『ユメノココロ』が、あいかわらずお茶目な口調でゲームを解説している。

「ココロちゃんはああ言ってるけど、あたしなんかすぐ死んじゃうからね。やっぱコンシューマーゲームは性に合わないなあ。ゲームはコントローラーよりキーボードでしょ。人間の指は十本あるんだからね。さてと、それではほかをいきますか」

彼女はプレイステーション5のクイックメニューボタンを押して、アプリを閉じた。プレステ本体のスロットからディスクをとり出すと、こんどはデスクの上のDELLのゲーム専用パソコン『エイリアンウェア』を立ちあげた。

さっきからやたらに聞きおぼえのない言葉が出てくるなと、みなさんは困惑していることだろう。とはいえ、これはあくまで、彼女の世界を彼女の目線でみているからなのだ。この主人公の変人ぶりは、おいおい明らかになってくるのであしからず。

「最新流行のプレステ5がいくら安くてハイスペックでも、ゲーミングPCには勝てないわよねえ。今はeスポーツの時代、ゲームは娯楽じゃなくて戦いなのよ!〈エイペックス〉も〈フォートナイト〉も〈コールオブデューティ〉も、達人になればなるほどPCのハイエンド機能は必須よね。まっ、素人にはプレステがちょうどいいかもだけど」彼女は世界の大会で有名なゲームタイトルを口にしながら、身勝手な理屈をつぶやいた。「今はオンラインバトゲーの時代よ。あんたたちはミーハーなスマホゲームでもやってなさい。おほほ!」

女は上から目線で高笑いしながら、アニメキャラをデザインした天然ゴム製のパッドの上で、器用にマウスを動かした。グーグル検索で、毎日プレイしている〈レジェンド・オブ・インペリアル〉のサイトにログインする。

アメリカの〈パックワールド〉社が運営するこのゲームは、ファンのあいだでは〈ロアー〉という通称で知られている。タイトルの頭文字L、O、I、を組み合わせて、フランス語風に発音したものだ。おしゃれな呼びかた、といえばそのとおり。

〈レジェンド・オブ・インペリアル〉は、インターネットを使って世界中の誰とでもチームを組むことができる。国際的なeスポーツ大会でも有名で、MOBA(マルチプレイヤー・オンライン・バトルアリーナ=多人数参加型オンライン対戦ゲーム)と呼ばれるジャンルである。世界中でなんと約一億人がプレイしており、プロゲーマーやマニアも数多く参加する、まさしく最先端のオンラインゲームなのだ。

「やっぱ、これこれ。世界中のゲーマーたちと仲間になって戦うチームプレイこそ、〈MOBA〉の醍醐味よねえ。戦略、キャラ選択、技のバリエーション、どれをとっても奥深いルールシステム。通好みだわあ〜。さて、どれどれ。今日はどんなやつらがリクエストしてくるかな、っと…」

タイトル画面が出てくるまでのあいだ、女はポテトチップスを食べながら、大好きなファンタグレープをゴクゴクとのどに流しこんだ。


八月なかば。月曜日の午後三時。

連日の猛暑で、外では気温三十八度の熱気がうなりをあげていた。自宅の二階にある部屋のエアコンは、室温十八度の強冷房に設定してある。

その女はパソコンのモニターの前で、昼間からゲームに熱中していた。世のなかでは熱中症にかかっている人が多いというのに、こちらはゲームの熱中症患者である。


彼女の名前は『田中ことみ』。


顔の小ささにくらべて目玉が大きく、瞳がさらに輪をかけたように大きいために、まわりから "メダカ" とよばれている。

年齢は二十六歳。独身。身長155センチ、体重39キロ。胸のサイズは自称Bカッププラス。髪はコロッケのような茶色のロングヘアーで、いつもツインテールにまとめている。ちなみに、これは地毛だ。目の大きさに反比例して、視力0.05のド近眼。牛乳瓶の底みたいな、黒いプラスチックフレームの丸眼鏡をかけている。好きな色はピンク。

ことみは筋金入りのゲームオタクだ。三度の飯よりも、寝ることやお風呂よりも、もちろんテレビよりも、ゲームが好きなのである。彼女のゲーム歴は、かれこれ二十年近くにもなる。ことみが始めたころといえば、家庭用ゲーム機の〈ニンテンドーDS〉や〈プレイステーションポータブル〉など、携帯ゲームがあたり前になった時代だった。ゲーセンのアーケードゲームでは、〈ストリートファイター2=ストツー〉や〈鉄拳〉などのいわゆる格ゲー、すなわち格闘ゲームが人気だった。

それから約二十年がすぎた。彼女はまさしく、ゲームの歴史とともに人生を歩んできたということになる。

ことみはバーチャルユーチューバー『ユメノココロ』の大ファンだ。相手は仮想現実のキャラクターだけれど、ただひとりの同性の友だちだと信じて疑わない。

また彼女は、他人との意思疎通が極端に苦手な、俗にいうコミュ障である。ゲームのことになるとうるさいくらい舌がまわるのに、現実世界ではろくにものも言えない。悪くいうなら、社会的デクの棒なのだ。

とうぜん恋愛経験はゼロ。もちろん彼氏などいるはずもない。小学校二年生のときに同級生のハンサム男子にいきおいで告白したが相手にされず、それがトラウマになって以来、リア充の異性に恐怖心をもちつづけている。

人生二十六年間、唯一の長所は、数学とコンピュータにめっぽう強いということだけだ。プログラミングの技術では、IT企業のエンジニアを軽くしのぐ能力の持ち主である。コンピューターゲームの解析ソフトウェアなどは、自分でたやすく作ってしまう。ことみは研究者レベルの頭脳をもつ、いわゆる天才なのである。

けれども彼女には、その才能を社会で発揮するという選択肢はない。ひたすらゲームあるのみだ。そんなかたよった頭脳のせいだろうか、彼女は、ふだんから理屈でものを考えることしかできない。なので、まともな人間関係をきずけないでいる。友だちといえるのはゲームやアニメ仲間の数人だけで、部屋から外出するのは、アルバイト先のCDショップとゲームストアくらいである。


ことみが住んでいる実家は、東京都杉並区のJR高円寺駅前にある〈フローラ〉という美容室。母親の田中キヨが、女手ひとつで店をきりもりしている。

警察官だった父親は、ことみが八歳のときに、立てこもり強盗犯との銃撃戦に巻きこまれ、銃弾をうけて死んだ。正義感が強くて子供にやさしい、家庭を大切にする父親だった。

それ以来ことみの母親は、美容室の経営とパートの介護士の仕事で、一家の生計をたてている。

ことみには「くるみ」という名前の妹がいた。美形の高校三年生で、その彼女ををふくめ、田中家は母親と姉妹の一家三人で暮らしている。

引きこもりぎみの姉とは対照的に、妹のくるみは典型的なリア充だ。現在通っている杉並区の公立高校では、とびぬけたルックスの良さで、男子のあこがれの的になっている。芸能界入りをめざしている彼女は、原宿に出かけては、芸能プロダクションにスカウトされることを夢みていた。


「あ〜眠いなあ、ふわわ。バイトいきたくない」ことみはゲーミングチェアで背中をのけぞらせた。そして、週五日のCDショップのアルバイトのことを考えた。「それにしても店長のやつ、いつもあたしのこと独身の年増女とかバカにして、ほんと頭にくる。仕事はこっちのほうが三倍やってるっつうの」パソコン用デスクの上のゲームソフトをかたづけながら、ことみはグチをこぼした。「大卒だからって人をこきつかって、あたしをなんだと思ってるのよ。あいつの顔みると思うだけで仕事いく気なくなる!」夕勤シフトのCDショップのアルバイトのことを思って、ことみは気がめいっていた。

もともと人づきあいが苦手なうえに、接客業ということで、毎日ストレスがたえないのだ。同僚からはメダカ女とよばれて、年下の社員からも雑用を押しつけられてばかり。このあとも夕方五時から、高円寺駅前の店でバイトが待っている。

「ことみ!アルバイトのまえにタケナカドラッグに行って、業務用のパウダー買ってきてちょうだい!」母親のキヨが、一階から大きい声をあげて、ことみに用事を言いつけてきた。「今日はお客さんが多いから、手がたりないのよ」

「ルリさんにたのめばいいじゃ〜ん。あたしバイト前で準備しなくちゃならないんだからあ!」ことみは階下にむかって声をはりあげた。ルリさんとは、〈フローラ〉でただひとりの従業員のことだ。

「なに言ってるの、どうせゲームばっかりやってるんでしょ。そんな時間があるなら、店の手伝いしなさいよ!」とキヨが不満そうに言った。

「はいはい、わかりました〜」と気のぬけた返事をして、ことみはガックリと首を前に倒した。「ああ、もう。お母さんたら、妹のことはあんなに甘やかしてるのに、なんであたしばっかりこんな思いしなくちゃならないのよ。世の中まちがってる。平均的家庭レベルからみても、この家のシステムおかしくない。あ〜やだやだ」


タッタタラリラ、ピーヒャラピーヒャラ


スマホのギャラクシーS21から〈ちびまる子ちゃん〉のメロディが流れた。電話だ。画面をみると "ウナギ" と表示されている。ことみは通話ボタンを押した。

「もしもし?」

「よお、メダカ。いまなにしてんの」電話のむこうの男の声が言った。

「これからバイト」

「あのさあ、来月お台場でココロちゃんのライブあるんだけど、おまえ行かないか」ウナギという名の男がたずねた。

「えっ、行くいく!ていうか、あんたどこからチケット手にいれたの?あたしネットで買おうとしたんだけど、二十分で即完売。めげたよ」と言って、ことみはファンタをひと口飲んだ。

「うちの店の常連さんからもらったんだよ。音楽業界のおじさんなんだけどね」

ウナギの本名は杉本晴夫。ことみのオタク仲間で、年齢は同い年の二十六歳。独身である。彼はゲーマーでドルオタ。つまり、ゲームが趣味でアニメアイドルオタクだ。また晴夫は、年季の入ったミリタリー(軍事)マニアでもある。

身長172センチ、体重80キロ。ひいきめにみて標準体型といえなくもない。ヘアスタイルはさわやかなケミストルマッシュ。ことみの家の美容室で刈ってもらっている髪型だ。眼鏡は、ボストンメガネというおにぎりを逆さまにした形。若者に人気があるが、父親に買ってもらっただけなので、本人がセンスがいいわけでもなんでもない。

実家は、新宿にある楽器店。業界人やプロのミュージシャンも出入りしている、かなりの有名店である。晴夫は実家からはなれて、ひとり暮らしをしている。住んでいるのは、ことみの家から五分くらいの高円寺駅前のワンルームマンションだ。

「へえ、あいかわらずコネ強いわねえ」ことみは感心半分、やっかみ半分で言った。「まあ、とにかく手段はなんでもいいから、行けるのはうれしいよ。ココロちゃんのライブって、たしか九月の第二日曜日だよね?」

「そう。ゼップで午後三時からだよ」と晴夫は説明した。

ゼップ、つまりお台場の〈ゼップ・トーキョー〉は、アニメソングのイベントを年間になんども開催している、アニメファンにとってライブの聖地だ。

バーチャルユーチューバー『ユメノココロ』のライブは、今年で三回目。その日は年に一度、全国からバーチャルアイドルファンが数千人、彼女見たさにお台場へおしよせる。バーチャルユーチューバー界のトップアイドルのライブチケットは、発売開始と同時に即完売のプレミアものなのだ。

話を二人の会話にもどそう。

「俺のコネじゃないよ。親父の知りあいだからね。俺はただ、あまりものをゆずってもらっただけだから」晴夫はこともなげに言った。「じゃあチケット二人ぶんもらっとくから、予定いれといてくれ」

「わかった。ありがとね」

「じゃあな。バイトがんばれよ」

「はいはい」と言ってことみは電話をきった。

やった!これで、あきらめてたココロちゃんのライブいける。ウナギのやつ、けっこう役にたつじゃん。あいつ見ためはさえないんだけど、要領いいからねえ。

チケットを確保したことに気をよくしたことみは、ゲーム画面をログアウトして椅子から立ちあがった。鼻歌まじりでベッドに腰をおろすと、テレビのリモコンをとって電源を入れた。

「なんかやってるかなあ。ま、あんまり世の中には興味ないけど」

地デジのチャンネルで、午後の情報バラエティ番組をやっていた。画面にアナウンサーがアップで映っている。深刻そうな表情からすると、報道局のニュースコーナーなのだろう。ことみは、興味があるでもなく、ただ画面をながめていた。

「中東のシリア情勢が、今週にはいって新たな動きをみせています。アメリカ軍の撤退が噂されるなか、シリア政府軍とクルド人民防衛軍の攻勢によって、ISIS・イスラム国は大きく支配地域を失いつつあるもよう。しかし、中東専門家のあいだでは、弱体化したISISが資金獲得のために、小規模な活動を欧米で活発化させるとの…」

ことみはリモコンでテレビを消した。

「世界ではマジの戦争してるんだもんな。軍事ネタはゲームだけにしてほしいよ。あ〜日本は平和でいいわねえ」ことみはベッドの上で、う〜んと背をそらした。

おっと、もう四時か。買いもの行って、バイトの準備しなくっちゃ。あ〜めんどくさい。


夕方五時。

高円寺駅前のCDショップ〈エクストラレコード〉は、仕事帰りの若いサラリーマンやOL、女子高生などの客でにぎわっていた。

駅の近くで唯一のCDショップなので、平日でも店にたくさんの客があつまる。店内のあちこちに設置されている試聴ブースでは、売れすじのアーティストの最新曲をヘッドフォンで聴いている客が多い。

店頭には、スタッフがえらんだ、人気ランキングベスト10のCDが展示されていた。それぞれのシングルやアルバムを宣伝するために、従業員の手づくりによるポップが飾ってある。

今週の第一位は、五月からiTunesチャートのトップを独走している『二重連星』のセカンドアルバム〈アレルギーなうさぎ〉。妙なタイトルだ。『二重連星』は、テレビにはいっさい出演せず、ネットでしか見ることのできない謎多きシンガーである。リリースから一週間で、アルバムのユーチューブ動画再生回数が1800万回をこえた、いま若者の間で絶大な人気をほこるアーティストなのだ。

田中ことみはというと、店の奥のダンスミュージック・コーナーの陳列棚で、EDMの新着CDをならべていた。EDMとは、Electronic Dance Music(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)の略で、いわゆるクラブのDJによる電子音楽のことである。といっても、クラブにうとい人にはさっぱりわからないだろうが、ようするにコンピュータを使ったダンス曲のことだ。

本日入荷した新曲CDは、オランダのスーパーDJ『JUDGE(ジャッジ)』のニューアルバムだ。世界ナンバーワンDJとして有名な『ジャッジ』は、ダンスミュージック界で知らない人はいないビッグネームである。ショップでは専用のコーナーを設置して、約百枚のCDを用意している。すでに予約が殺到していて、即日完売はまちがいない。

そんな商品がぎっしりつまった段ボール箱をかかえて、ことみはヨロヨロと陳列棚の前にへたりこんだ。

「めっちゃ重い!こんな作業をかよわい乙女にやらせるなんて、まったく失礼しちゃうわね」ことみは額に汗をにじませてあえいだ。「それにしても、こんなチャラい曲のアルバムがバカ売れするなんて、リア充なやつらの気が知れないわ」と腹をたてた。

クラブなんてなにが面白いんだろ。お酒を飲んで、ガラの悪い軽薄な男たちが尻軽女を追いかけまわすとか、アホな連中の集まりじゃない。不謹慎!キモい!ま、あたしには関係ないけどね。

ことみは心のなかで不満をつぶやくと、段ボールからCDのかたまりをとり出して、棚にならべていった。あと三十分以内に作業をおえないと販売にまにあわないので、ことみはCDをごっそりつかんでショーケースにおさめていく。

あ、そうだ、ポップの張りかえしないと…ことみは店長からたのまれたべつの作業を思いだして、棚の上のほうを見あげた。ちなみにポップとは、新発売CDの販売促進用にスタッフが手づくりで制作した、ポスターや飾りつけのことである。

ことみは手をのばしてはがそうとした。が、身長155センチの背丈では届きそうにない。しかたなく、近くにあった脚立(きゃたつ)を持ってきて、棚の前に置いた。アルミ製の脚をひらいて、そろそろとのぼっていく。いちばん上の段に立って足をふんばり、ポップの厚紙をつかんだ。と、ことみはそのとき、片手にCDのかたまりを持ったままなのに気がついた。だが、気にせずに作業をつづけることにした。

厚紙をはがそうとして、右手一本で力を入れた。そのときだった。いきおいで身体がクルッと回転し、足のつま先がズルっとすべってしまったではないか。ことみは脚立の上で悲鳴をあげた!が、時すでにおそし。そのままうしろに倒れこんでいった。

アルバイト女子、絶体絶命!


「あ〜あ〜あ〜あ〜」


ことみは脚立からふっとんで、空中を舞った。床にたたきつけられることを想像しながら、恐怖にかられて手をバタバタさせた。だが、そんなことをしても手おくれだ。もはや一巻の終わりか…

「ぎゃあ〜っ!おかあさ〜ん!」

転落死〜!痛いのやだあ〜!ていうか、なんで人生が走馬灯のようにうかばないのよお〜っ!

そう思って目をつぶった瞬間だった。身体がふわりと、なにかやわらかい感触につつまれた。


え、なにこれ?

あたし死んだの?

ここは天国なのか

あ〜どこまでドジなのよ

ついに人生二十六年で終わりかあ

さよならことみ…


「君、だいじょうぶかい」


声がする。だれ、もしかして神様…?ことみはそっと目をひらいた…

目のまえに、こちらをじっとみつめる男性の顔があった。その瞬間、心臓の鼓動がはねあがった。彼女の時間がとまった。

自分が男の腕のなかにいることに、ハッと気がついた。現実をうけとめられず、ことみは身体を硬直させていた。すると、男は彼女の身体をかかえて、そっと床におろした。ことみはペタンと床にすわりこんだまま、その男性を見あげていた。

身長180センチほども背丈のある、〈GUCCI〉とプリントされたTシャツを着た男が、目のまえに立っていた。銀灰色のヘアーがやけに目立つ、鼻すじのとおった外国人のような顔立ちだった。

耳に小ぶりのピアス。首には高価そうな細めのネックチェーン。オレンジ色のパンツをはいた長い足もとには、高級ブランド〈シャネル〉のスニーカー。全身をつつむファッションをみるかぎり、おしゃれのセンスがずばぬけていることはあきらかだ。

首にワイヤレスヘッドホンをぶらさげて、右手にiPhoneを持ったその男が声をかけてきた。

「ケガはない?」

男は、かがみこんでことみに顔をよせると、床に散らばったCDを拾いあつめた。みると、二枚のジャケットにひびがはいっている。

「あ、これはヤバいな」と彼は言って、うっとりするようなまなざしをむけた。「商品がこわれちゃったね。よければ僕が買わせてもらうよ」

「あ、はい…」ことみは眼鏡をずりあげて、言葉につまりながら、か細い声でこたえた。

まずい…いちばん苦手なタイプだ。のっぽのおしゃれ男。しかもイケメン。リア充まる出しじゃない…

ことみは男の視線にたじろいだ。それにしても、なんでこんなに胸がドキドキしてるんだろう。きっと緊張してるんだわ…って、えっ、なんで緊張してるの?

あ〜どうしよう。意味わかんない。誰か助けて…

「ねえ、ほんとにだいじょうぶ。手をかしてあげるから、さあ立って」男はそう言って、手をさしのべた。

いやいやいや。近よらないで。あたしにさわらないで〜この超リア充男め!


これが、ことみの人生を変えることになる、高城ダニエル健二とのはじめての出会いだった。

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