第四章 決戦・長崎談判③

 クルー同士による海難事故の航路問題の結論は出ず、最終的に両藩の重役が直接会談して論議をすることが決定された。

 これはつまり、船対船の事故が藩対藩の国際問題へと発展したことを意味している。紀州側からは明光丸内で最高位の政治的権限を持つ勘定奉行・茂田一次郎が代表として出席することが決まっているが、土佐側から誰が出てくるのかは今後の知らせを待つしかない。

 順を追って理を説けば、双方に共通の見解が生まれて平和的に事故責任の所在が明確になるものと楠之助は信じていた。その上で、誠心誠意船の代金なり積荷の代替物なりの援助を行うのが船乗りとしての道義、そして武士道だと思っていたのだ。

 だが、どうやら考えを改めねばならないようだ。土佐側の論法はともすれば乱暴な言いがかりのようにも聞こえるが、むしろ海上の国際法を熟知しているからこその強談なのではないか。

 ブーフランプがなかったことも航路の食い違いも、お互いの主張以外の物証がほとんどない状況下では、強硬に自説を正当化すれば決着のつけようがないのだ。それを完全に読みきった上で、あのような強談を仕掛けてきたとしたのなら、土佐側の決意は一つに絞られる。

彼らにとってこれは談判ではなく、〈戦〉なのだ。

 その点で、明らかに紀州側は見通しが甘かったと言えるだろう。

 楠之助は宿舎の自室で、筆ではなくおもむろにペンを手に執ると英文の手紙をしたため始めた。宛先は現在長崎港に停泊していることが分かった、旧知の英国海軍艦長だ。事故の経緯を詳細に英訳し、国際的な類例と照らし合わせた上での事故責任の所在について彼の意見を乞うつもりだ。

 手紙を書き終え、さらにその写しも取った楠之助は羽織に袖を通し、ある人物に会うため宿舎を出た。


 長い坂道を上りながら脇を見やると、長崎の港を一望のもとに見渡すことができた。並みいる黒鉄の蒸気艦が威容を誇り、そのはざまに大小さまざまな和船が浮かんでいる。大きなものは主に英国海軍の戦闘艦だろう。近年では日本近海の海図作成のため、しきりに測量作業も行っているという。

 坂道を上りきると存外に広い平坦地が開かれ、緑あふれる庭園が広がっている。その奥には多角形の寄棟という変わった屋根の、東洋と西洋の風情を併せ持つ邸宅が建っており、長身を和服に包んだ男が花々に水を撒いているところだった。

 来訪の気配に気付いたその男は、振り返って楠之助の姿を認めると両手を広げ、

「やあ、よく来てくれたね。コスノ」

 そう言って青い目を柔和に細めて歓迎の意を表した。

「お久しぶりです。トーマス」

 楠之助も気さくな様子で彼の名を呼び、久闊を叙した。流暢な日本語を操る彼も〈くすのすけ〉とは発音しづらいのか、そこだけたどたどしく〈コスノ〉と呼びかけるのがかえって微笑ましい。

 男の名は、トーマス・ブレーク・グラバー。

 諸藩がこぞって銃器や蒸気船を購おうと彼のもとを訪れ、もはや知らぬ者はいないというイギリスの大商人だ。

 見晴らしのよい応接間に通された楠之助は、グラバーに勧められるままソファに腰掛けた。東南アジア風のエキゾチックな設えながらも和風の建材をふんだんに使い、随所に西洋の調度品をレイアウトした不思議な屋敷だ。だが、そこはかとない居心地の良さは、まるでこの長崎という街の風情を凝縮したかのようだ。

 主のグラバーも和服姿が実に堂に入っている。洗いざらした紬の着流しに、地味ながら品のいい色合いの帯は腹の下で程よく締められている。

「その後、レディのご機嫌はいかがかな?」

 茶目っ気たっぷりにグラバーが問いかける。

「麗しくあられますよ。実に優雅に走ってくれます」

 楠之助もおどけて芝居じみた言い回しで切り返す。

 レディとは、すなわち船のことを指している。まだ〈バハマ号〉と呼ばれていた頃の明光丸を所持していたのが、グラバーその人だったのだ。

 明光丸は紀州藩がグラバーから買い取った、初の蒸気艦だ。

「だが、他国の小さなレディと肩がぶつかり、トラブルになってしまった」

 青い目を細めてさらりと言ってのけるグラバーに、楠之助は驚いた。さすがに耳が早い。すでに彼のもとには、伊呂波丸沈没事件のあらましが伝わっているのだ。

「もうご存知でしたら話が早い。ぜひあなたのご意見を聞かせていただけませんか」

 楠之助は懐から、先ほどしたためた英文書簡の写しを取り出し、グラバーに手渡した。

「手紙なのに、私が読んでもいいのかい?」

 楠之助が頷くのを見届けてから、グラバーは手紙を開いて文面に目を通し始めた。

 眼下の港から吹き上がってきた微風にレースのカーテンがはためき、今しも出港しようとする船の帆のように大きくはらんだ。

 楠之助は眼を閉じ、やわらかな風が頬を撫でていく感触に身を委ねた。ほんのひと時でも、このようにほっと心が和らぐのは実に久しぶりのことだ。

 外国からの脅威、国内の不穏な動き、徳川三百年の歴史の中で日本という国の命運は、いままさに転換期を迎えようとしていることが身に沁みて理解できる。事実、御三家の一角たる紀州藩といったところで、その権威などとっくに失墜しているのではないか。四境戦争では惨敗を喫し、今回の海難事故では強談ともいえる圧力をかけられている。すでに幕府という政府の在り方自体が、根元から揺らいでいるのだ。そんな求心力の低下は、紀州藩にとっても徳川宗家への懐疑という、いかんともしがたい瑕疵となってわだかまっているのだ。

 ドアをノックする音で楠之助は我に返った。手紙に目を落としたままグラバーが返事をすると、紅茶の用意を整えた盆を手に、小柄な女性が入室してきた。

「コスノは初めてだったね? 妻のツルだ」

 そう紹介された女性はぺこんとお辞儀をすると、少しはにかんだように微笑んでみせた。きりっとした目鼻立ちながら丸顔で色が白く、愛嬌のある女性だ。楠之助も慌てて立ち上がり、名を名乗る。彼に日本人の伴侶がいたとは知らなかった。紅茶の香りを残して退室していく彼女を見届けグラバーを振り返ると、彼は照れたように片目を瞑ってみせた。

「手紙には一通り目を通したけど、相変わらず見事な英語力だね」

 二人分の紅茶を注ぎ分けながら、グラバーが楠之助に笑いかける。

「さあ、熱いうちにどうぞ。飲みながら話そう。この国には外国語に堪能な人もいるが、英語に関しては君が随一ではないかな。こういうのを……、何と言ったかな。ほら、tongueを使った慣用句……」

 思い出すように額に指を当てて考える素振りを見せたのも束の間、

「ああ! そう、〈舌を巻く〉だ」

 そう言って、グラバーは快活に笑った。

 舌を巻く、のはこちらの方だ。楠之助はグラバーの巧みな日本語にすっかり脱帽する思いだった。勧められるままに紅茶を一口含むと、甘く爽やかな香りが口中に広がり、深い余韻を残しながら鼻腔へと突き抜けていく。

「文法の誤りや不適切な箇所はありませんでしたか?」

「ああ、実に正確な文章だった。ただ、ここと……、ここは複数形にしておくのがいいだろうね。それと二箇所だけスペル違いがある。もしよかったら、後で印を付けておこうか」

 丁寧にチェックしてくれたことに感謝を述べ、楠之助は本題に入った。

「この海難事故について、我々は責任を問われるべき立場なのでしょうか?」

 真剣に問いかける楠之助の視線を正面から受け止め、グラバーがゆっくりと口を開く。

「この内容が事実であり、君たちの主張も事実であるとするならば、私の経験上では十中八九、明光丸に責任はない」

 しかし、と人差し指を立て、少し身を乗り出すようにして話を続ける。

「土佐の人たちの目的は、おそらく正面切っての談判そのものではないだろう。この難事をどうにかしてチャンスに転換しようと決死の覚悟で知恵を巡らせているのに違いない。もし私だったら……衝突の全責任は明光丸にあるものとし、積荷の代替品を現物で用意させるのではなく、船体を含めた賠償金を要求するだろうね。それも、実際よりもはるかに水増しした額をだ」

 楠之助は胸の内で渦巻く、漠然とした不安をずばりと言い表されたことにむしろ奇妙な安堵を覚えた。

 そうだ。土佐側が次に提示してくる要求があるとすれば、恐らくそれしかないだろう。伊呂波丸の積荷が実はミニエー銃だった、と聞かされた時から既にその懸念はあったのだ。だが、何度も言うように紀州側の感覚としてはあくまでも海難事故への対応であり、まさかここまで一方的に事故責任を問われるとは予想外だったのだ。

 グラバーはさらに続ける。

「土佐という国は、革命勢力の急先鋒を自負しているのだろう? 今回の事件では紀州も否応なく、そういった雄藩の台頭とどう向き合うか考えざるをえなくなるだろう。それはもはや、国家間の問題なんだよ」

 優雅な手つきでティーカップをつまみ、グラバーが美味しそうに紅茶を啜った。

「私が〈死の商人〉と呼ばれていることは知っているね」

 唐突な問いかけに、楠之助は一瞬身を強張らせる。武器を取り扱う商人は、おしなべてそういう不吉な二つ名で呼ばれることは承知している。グラバーの言わんとしていることを図りかね、楠之助は目で話の続きを促す。

「確かに私は、大量の銃火器を売っている。大きな戦闘艦を売っている。これらは皆、人の命を簡単に奪ってしまうものだ。でも、同時にそれは大切なものを守る力にもなり得るんだ」

 グラバーは、真剣な眼差しをじっと楠之助に向けていた。折りしも広がった群雲が陽光を遮り、彼の青い目だけが暗くなった室内で輝きを放っている。

「私は、乞われればどの藩にも武器を売るだろう。だがそれは、ただ単に金儲けをしたいからではない。コスノ、私はこの国が好きだ。四季が巡り、神々に祝福されたこの島を私は愛している。だが、列強諸国は虎視眈々とこの国の支配を狙っているんだ。現在の幕府をはじめとした旧来の勢力と、土佐や長州・薩摩といった勢力との軋轢は、まさに連中が付け入るための絶好のチャンスだ。内戦が起これば一方に肩入れし、軍事介入によってその後内政に影響力を持つことはたやすい。その上で植民地化するのが、唾棄すべき我が祖国のやり方だよ」

 苦々しい表情で、グラバーははっきりと故郷イギリスを批判した。楠之助は視線を外すことなく、耳をそばだてている。

「内戦を助長するのは簡単だ。これと決めた勢力に集中して武器を供給すればいいんだ。近代戦では、武器の性能が勝敗を決するといっても過言ではない。だから私は、たとえ死の商人と蔑まれようともこの国のパワーバランスが崩れてしまわないよう、乞われるままに武器を売る。力が拮抗すれば、おいそれとは争いにはならないはずなんだ。特定の藩だけに武力が偏ってしまえば、内戦の炎は瞬く間に燃え広がってしまうだろう。今、諸藩に必要なのは、守るための力だ」

 守るための、力――。

楠之助は瞠目する思いでグラバーの語ることを胸に刻み付ける。それはひとえに藩と藩、という小さな視野ではなく、日本という国全体として列強諸国に対抗することを意味しているのではないか。

「コスノ、武力の〈武〉とはどういう意味だったかな?」

 少し目元を和らげるようにして、教師が生徒に対するような調子でグラバーが問いかける。

「戈(ほこ)を止める、すなわち争いを未然に防ぐ、という意味です」

 すかさず楠之助が答える。

 そうだ。〈武器〉〈武道〉〈武力〉、そして〈武士〉。これらは全て、他者を傷付けるのではなく、本来は争いを防ぐためにこそ存在すべきものなのだ。

「正解。東洋の文化は本当に奥が深いね。コスノ、この国の〈武〉は今まさにその真価を問われようとしている。外国人の私が言うのは変かもしれないが、絶対に列強に付け込まれる隙を見せてはいけない。紀州と土佐の衝突事故も決して軽んじてはいけないが、今は同じ国内の藩同士が小事について争うべき時勢ではない。眼前のことだけではなくもっともっと大きな視点で、大局的に物事を見るんだ。私はこの国の人たちが、滅びるまで互いに傷付け合うような愚行は決してしないと信じているよ」


 もてなしの礼を丁重に述べてグラバー邸を後にした楠之助は、下り坂の途中で港を見下ろした。来た時とほとんど同じ光景のはずだが、今は外国の蒸気艦群がこの国に巣食う宿痾そのもののようにすら見える。

 あくまでも海難審判の決着を目指してここに足を運んだのだが、自分たちはもっと重大なことから目を背けていたのではないか。

 この国の〈武〉が真価を問われている――。

 グラバーの言葉が脳裏に蘇り、楠之助を苛む。


 何かとてつもなく大きな力に、なす術もなく翻弄されている感覚を振り払うかのように、楠之助は足早に坂を下っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る