第二章 才谷梅太郎③


「せやから、あいつは何か不気味やっちゅうたやろ」

 会談場所の魚屋万蔵方からの帰り道、最初に口を開いたのは覚十郎だった。訪問は同二五日夜八時三〇分のことだったため、すでに深夜といってよい時間に更けている。覚十郎の発言に、楠之助とかたわらの成瀬も難しい顔をして黙り込んでいる。

 才谷の申し出に、結果として紀州側は一万両以上の大金をこの場で貸すことは困難であると回答した。その代わりあり合わせの些少な額にて失礼ながら、ぜひお見舞金を受け取ってほしいと伝え、茂田が託した「金・千両」の目録を差し出したのだった。

 それを一瞥した才谷はふっと微笑み、丁寧に目録を押し戻してその心遣いに謝辞を述べた。そして、一万両相当額の借用は当地で願いたいことではなく、主命によって京に送るための武器や器械類を、再び長崎で調達して速やかに本来の任務をまっとうすることこそが本懐なのだと説明してきた。したがって、一万両相当額の武器・器械類を購入する資金として、長崎表において借用することを改めて頼んできたのだ。

「忠義を尽くすべき臣の道は藩が違えど同じこと、必ずご理解いただけるものと信じています」

 才谷にそう畳み掛けられ、楠之助たちは再度、勘定奉行への打診を約するほかなかった。見舞金の目録は再三にわたり受納を乞うたものの、ついに才谷が受け取ることはなった。

「武器って、はっきり言わはったな」

 覚十郎が押し殺したような声でつぶやく。そうだ、楠之助も確かにその耳で聞いた。才谷は伊呂波丸の積荷を武器だと明言したのだ。

 実は両船の衝突当夜、伊呂波丸の積荷が何であるかは早い段階で確認をとっていた。船長の小谷耕蔵本人への聞き取りでは「米と砂糖」という回答があり、その量もさして多くはないという話だった。しかも、被害状況の確認のため伊呂波丸に乗り移った覚十郎が、直接船倉で積荷の様子も確認していたのだ。船体サイズの問題からも、他にそれ以上の積載量があるとは考えにくい。それがために荷物の積み替えは最小限とし、人命救助を最優先としたのだった。

 ここにきて、才谷が積荷を武器だというのは明らかに不自然ではないか。

「妙な雲行きになってきたな……」

 楠之助は誰に言うともなく、そう呟いた。ふいに潮騒の音が近くなったような気がしたが、暗い海は油を流したような凪のまま、悠々とその身を横たえるのみだった。

 以降の談判は頻度こそ目まぐるしくも、その内容は遅々として進展しないもどかしいものとなっていった。

 日時を順に追ってみると次の通りだ。


 翌二十六日暁闇、三時三十分に楠之助・覚十郎と才谷が会談。

 同二十六日十二時、成瀬の案内で才谷が紀州藩宿舎・圓福寺を来訪、紀伊勘定組頭・清水半右衛門と初めて面会。才谷は改めて身分を示す名札を差し出し、名実共に伊呂波丸の最高責任者であることを明らかにした。

 同二十六日午後二時三十分、紀州藩・中谷秀助と土佐俗事方・安市太郎及び土佐屋英四郎とが会談。この時初めて、伊呂波丸の積荷が「ミニエー銃四百挺」だったと土佐側より明言。

 二十七日午前二時三十分、楠之助と覚十郎が枡屋を来訪、才谷の代理である渡辺剛八と会談。


 これらの談判の中で土佐側は、


一、長崎表において、伊呂波丸の積荷の代替となる一万両相当の物品を調達、現物によって貸し付けること。

一、長崎到着後、五日以内にそれらを揃えること。


以上の二点を主な要求事項として挙げていた。それに対して紀州側は、長崎表において現物による一万両相当の貸与を承諾するとした上で、


一、長崎到着後五日以内の調達は困難なため、七~八日の猶予を設けること。

一、借金の返済期日を借用証書に明記すること。


 この二点を譲歩することはできない事項として要求していた。


 そして二十七日午前六時、引き伸ばされていた土佐側の最終的な返答を聞くため、圓福寺に才谷を招いたのだった。

だが――。

才谷の回答は物品調達期日の延期も、返済期日の確約も拒否するという信じがたいものだった。

「ばかな!」

 どんな時でも冷静沈着な成瀬が、たまりかねたように声を荒らげた。

「たかだか二、三日の猶予を何故認めようとしない! それに借りたものを返すのに、日限を設けるのがそんなに無体なことなのですか!」

 悲痛なまでの声が響き渡る中、才谷は顔色ひとつ変えずに成瀬を見つめている。人のいい楠之助と、時に感情的になりがちな覚十郎との間で均衡をとるように、成瀬は今回の協議で両藩にとって最適な着地点を見出せるよう、人一倍心を砕いていたのだ。

「じゃきに、無理にとは申し上げなかったはずですき」

 まるで開き直ったかのような才谷の言葉に、覚十郎が色めきたった。

「なにい? もういっぺん言うてみい、ぶちまわしちゃるぞっ!」

 今にも掴みかからんばかりに、座を蹴って飛び出そうとした覚十郎を止めたのは楠之助だった。

「覚の字! やめないか!」

 覚十郎が立ち上がろうとした瞬間、楠之助はその鎖骨の間にある急所を下方へ圧迫し、動きを止めた刹那に腕を後ろにひねり上げ、制圧した。一呼吸の間にうつ伏せに倒された覚十郎は「キャップ! はなさんかい、このボケェッ!」と喚きながらも、背中を楠之助の膝で押さえ込まれて完全に身動きのできない状態となっていた。ここまでしないと、この男は本当に才谷に殴りかかるだろう。

「ご無礼の段、面目次第もござりません!」

 尚もいましめを解こうともがき続ける覚十郎を必死で押さえながら、楠之助が才谷に叫ぶようにして詫びた。呆気にとられて出遅れた成瀬も、助太刀とばかりに共に覚十郎を押さえにかかり、

「キャップ! 鎮静剤投与の許可を!」

と、穏やかでないことを叫んでいる。

「おのれもか、ドクター! 後でよう覚えちゃあれよ!」

 それでもまだ抵抗しようと覚十郎が大声を放ったとき、突如才谷が仰向けにひっくり返り、手足をばたつかせて転げ回った。

 びっくりしたのは楠之助たち三人だ。思わず顔を見合わせて、さっきまでの狂騒を忘れたかのように才谷に目をやった。

 彼は笑い転げていた。それも尋常ではないほどに、この世にこれ以上愉快なことはないとでも言うが如く、気持ちのいいばかりに大笑いをしているのだ。

 しばらく笑い続けた後、涙を拭いながらあえぎあえぎようやく声を発した。

「ちゃちゃちゃ、たいちゃあ……いなげなにゃあ」

 随分と妙だ、という意味のことを面白がりながら口にしたのだが、無論楠之助たちには通じない。ひとしきり息を整えた才谷は、やおら跳ね起きるとすっかり毒気を抜かれてしまった三人の紀州人に向き直った。

「いや、こちらこそご無礼つかまつりました。まずは、落ち着いて聞いてたもんせ。貴藩からの条件をお断り申したのには、なんちゃあ他意はありませんきに。我らはすでに拠るべき船も沈み、主命を果たすためには一刻の猶予もありませんがじゃ。それに、正直わしらぁの権限ではとっても返済期日をこの場で確答するゆうがは無理ですろう。じゃきに、こんお話は破談、ということになるけんにょも、貴公らのご親切とお心遣い、まっこと感じ入っておりますがじゃ」

 そう言って才谷は、深々と頭を下げた。

 ――正直なところ、協議は曖昧なまま決裂したというのが実態だ。それ故、これ以上平行線をたどったところで双方にとって無益なのは目に見えている。

 詳細な事故審判は日を改め、当事者である両藩のクルーが一堂に会して世界の類例を参考にしつつ、長崎表にて行うということで一旦は手打ちとなった。

「煙に巻かれた、というような気もしますが……」

 去っていく才谷の後姿を見送りながら、成瀬がぽつんと呟いた。

「ほんまに難儀なんは、これからやな」

 何とか落ち着きを取り戻した覚十郎も、感想は同じのようだ。鋭い視線を投げかけつつも、複雑な表情を浮かべている。

 だが、楠之助は一人まったく違うことを考えていた。

笑っていた時の才谷は、本当に心から楽しそうに見えた。この場を切り抜けるための機転や演技とは到底思えなかったのだ。その一方で、紀州側にこの場での示談を許さない巧妙な駆け引きを繰り広げ、終始彼が交渉の主導権を握り続けていた。

 一体何を企んでいるんだ、才谷さん――。

 楠之助は心の中でそう呼びかけ、眼下に広がる鞆の海のはるか向こうに目をやった。これから本格的な時化を乗り越えなくてはならない、そんな確たる予感が胸を満たしている。しかし、今はともかく碇を揚げなくてはならない。

「副長、ドクター、出港準備だ」

 楠之助は無理にでも明るい声を出し、船出を宣言した。

「アイ・サー」

「宜う候」

 異なるアンサーバックが同時に発せられ、一瞬の間をおいて三人はしばし互いに笑い合った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る