獣二と一つ物語

尾巻屋

第一章 ことのはじまり

 昔々、世を統べる長を決めるため、ある儀式が執り行われたと云う。

 それは来るべき暦の生まれ変わる日、ちょうど年初めの朝夕、天の元へと参った者の順に、十二の大将を取り決めるというものであった。

 王位をかけて、多くのものが争ったそうだ。

 こうして、十余二つの長が決まった。

 子、丑、寅、卯、辰、巳、馬、未、坤、酉、戌、亥。

 この長らだが、どれもが己を最も優れた大将だと主張して、絶えず競い合ったらしい。

 そうしてできた伝説は今も多く語り継がれているのだった。

 

 


 空気が、あまい。

 それにころころとしていて、澄んでいて、混じりっ気がない。きっとそうだからこそ、道に転がる石つぶての縁なんかがしっかりと見えるのだ。煮炊きの煙が篭る里でみるそれと違うのはそのためなのだろう。

 齢十かそこらの少女はそんなことを思いながら、体躯に似つかわしくない荷を背負って、大人でさえ気が引けてしまうような岩肌を登る。

 ふと、その娘は足を止めて上を見上げた。

空っぽに透き通る空を背景にして、そそり立つ岩壁の先。高い高い山の天辺に、米粒大の建物が見える。

 もう少しだ。口の中でつぶやいて、彼女は手の甲で額を拭った。

 この山は『牙山』と、そう自分の住む里で呼ばれていた。

 恐ろしい山神がその牙で大地を抉ってできた山。牙のように尖っていることからそう名付けられた山。昔話を聞かされるたびに違う由来だった故、本当はどのような由縁があってこう呼ばれるのかはわからない。

 ただ、里の大人たちは必ず口を揃えて言った。

『あの山に近づいてはならない。化物がいて、食われてしまうからだ』

 いつからそんな言い伝えがあるのかはわからない。それでも確かなのは、里の人間は皆同様にこれを言いつけられ、誰も山を登ろうという気は起こさなかったということだ。

 たとい悪ふざけの過ぎた悪餓鬼がいようとも、里の門番にとっつかまってしまう。

 ではなぜそんな山にこんな小娘がいるのか。勿論、相応の事情があるからだ。

気づかずに下ろしていた腰をよいっと上げて、肩に食い込む背負い紐を手繰り寄せる。

 中に、何が入っているのかは教えられていない。

 加えて、膝に乗せていたもの担ぎ上げる。自分の背丈よりもずっと大きいそれは、かび臭い風呂敷に包まれていて、これも中に何が入っているのかは知らない。

 わかるとすれば、それは大げさな見た目よりも軽いということだけだった。

 まだ、あと少し残る道を少女は進んだ。


 

 山頂に着くと、そこは狭い盆地になっていた。夏に臨む季節らしく、雪の姿はない。金色に枯れた草が地面を敷き詰めている。その中心に小屋が位置していた。

 扉に触れる。もう随分と長い間この場所に存在しているはずだが、目立って朽ちている様子はなかった。黒くくすんだ引き手が冷やっこい。砂埃を少し舞わせて、引き戸が開いた。

 昼間だというのに、小屋の中は真っ暗であった。

 急にぽっかりと空いた視界の穴に、少し躊躇いを覚える。

 が、後戻りは選択肢のうちにない。意を決し踏み込む―

「誰だ」と、そこで声がした。

「麓の里から来た者か。ここがどこだか分かっているのか?山に立ち入るなと言われているはずだろう。ね」

 闇の向こうから聞こえるそれは、腹の底にどん、と響く力強いものであった。気圧され、思わず立ちすくんでしまう。

「んん?帰らぬな。もう一度だけ言うぞ、ここは好奇で来る所ではない。今すぐ立ち去れ。去らねば食らうぞ」

 これが化物の声なのだろうか。

 少女は体を固まらせながらも、素早く思考を巡らせた。確かに、並ならぬものを感ずる―が、人語を解するのならば想像よりは馴染みやすい存在と見える。ならば、と一口大きく息を吸って吐いた。

「私は、里を追われた身である故、帰ることが出来ませぬ。目的を持ってここに参じました。どうか、話を聞いていただけませぬか」

「ほう」と残して闇の向こうのそれは黙ってしまった。

 心の臓が思い出したように早くなるのを感じながら、少女は唾を飲み込む。喉が強張っていて、それが胃の腑にたどり着くまでは間があった。

「よろしい。悪戯の類には見えぬようだ。それより先に進むが良い」

 音に込められる意志の強さはそのままであったが、その声音は先ほどまでと打って変わって優しいものであった。

 少女は無意識に息を溜めたまま一歩、また一歩と小屋に踏み入った。苦しくて、一層強く息を吸うと、里の土倉で嗅いだような、埃の混じった古臭い香りがした。

「ああ臭うぞ、里の者の臭いだ。忘れもせぬ、俺を封じた一派と同じ臭い。いくら経とうが変わらぬなぁ。それがこの地に住むからなのか―親から子に継がれる、血肉に染み付いた臭いなのか」

 化物は、ずっと小さな声で恐ろしげなことを言う。少女は、土のまま慣らされた小屋の床を、履物の底と擦らせながら進む。

 そこで、自分の先にあるもの―木枠で拵えられた牢を見つけた。

「くくっ、幼い子供か。ずいぶんと久しぶりに見た。寄れ、寄れ」

 闇になれた目で見えたもの。それは、想像にあった怪物とは、大きくかけ離れたものであった。

 化物―と、そう教えられて来たそれが、薄暗い牢の奥で目を光らせる。

「怪奇の正体見破ったり―ってえ面でもないな。しかし、これが事実よ」

 畏れの対象は、人と何ら変わらぬ姿をしていた。

 言い伝えられるような牙も、爪も、角も持たない、年若い女子の姿。それがほとんど裸に近いぼろを身にまとって、あぐらに頬杖をつきこちらを見ていた。

「くくく。なぁんだ、こりゃあ可愛い娘っ子じゃあないか。この山を登ってきたのか?一人か?」

 しかし、そこで少女はその『怪物』が自分と大きく異なった存在であることを知る。

 燃えるような紅い髪に、自分の魂までもを見透かされているような深い蒼の瞳。異人もこれが里の者と違うとは学んだが、それとも意味合いが違う何かを彼女は感じ取っていた。

「ふん、他人の顔をじろじろ見るのは結構。だがだんまりはつまらないな。ほれ、試しに名乗ってみたらどうだ。お前は目的があってここに来たんだろ?」

「―い」

 消え入るような声で、少女は呟いた。

「んん?何だ。もう少し鮮明に言え」

「―助けて、下さい」

 緊張が解けたからだろうか。それとも、一晩かけて山を登ってきた疲労からだろうか。少女はその場で倒れこんでしまうのであった。

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