翼ある日輪の帝国 司書の物語

鹿紙 路

第1話

 つかまってください。

 立ち止まらないでください。

 あきらめないでください。


 弟タンマリートゥはそう言って父テプティ・フンバン・インシュシナクの手を引き、走り続けた。ウライー川のそば、灌木の林のなかに逃げ込む。しかしある歩兵が彼らに追いつき、背後から王の頭に棍棒の一撃を加える。

「父上!」

 弟がさけび、しかし、間もなくして彼自身も頭を打たれる。地面に倒れ伏した彼らに、兵士たちは群がり、丸太を切るように剣を前後に動かして首を落とす。

 偉大なるハルタミ――アッシリアびとにはエラムと呼ばれる――わが故郷、わが王家。

 アッシリア王アッシュル・バニ・アプリの在位十年目にして、ハルタミ王家は事実上、滅亡した。

 たくさんの首級、略奪された武器、装身具、財宝、そして奴隷――……

 わたしはそのなかに、自分は宦官の書記だと偽って紛れ込んだ。髪をみじかく切り、胸に布を巻いて押さえつける。髭のない顔で文字を読み書きする身分――女であるより安全で、ただの町民であるより豊か。弟はわたしのことを、男装すれば女だとはわからない、雄々しい姉だと言ったことがあったが、それは現実になった。

 ハルタミのひとびとはアッシリアの首都ニネヴェに連行され、さらに別の占領地に移される。それが、アッシリアの王が繰り返し被征服民に強いた政策だ。しかし、書記であれば話は別だ。

「読み書きできることばは?」

「エラム語、アッシリア語、シュメル語、アラム語、ヘブル語、バビロニア語」

 王宮書記官にハルタミのことばで尋ねられて、ひざまずいたわたしは答えた。

「わが友よ、なぜわれわれは臆病者のように震えているのか?」

 書記官はシュメル語でわたしに尋ねる。わたしは目を上げて彼を見つめながら、古いアッカド語――いまのアッシリア語のもとになったことば――で答える。

「わが友は戦いを熟知している者であり、格闘を経験してきた者であり、死を恐れない」

 古い叙事詩――ウルク王ギルガメシュの物語の断片だ。王は敵フンババの住まう杉の森に入るにあたって、友エンキドゥに弱音を吐く。それを激励するのが、わたしの答えたことばだ。

 書記官は快活に笑った。わたしの答えは彼の眼鏡にかなったらしい。

「知ってのとおり、わが王はひろく文書を集めておられる」

 わたしはうなずいた。ハルタミの首都スサにいたころから、その噂は聞いていた。

「都の外はおろか、王の広げられた領土、さらにはまだ征服していないエジプト、エチオピアまで。粘土板に限らず、羊の皮やパピルスに記された文書まで。書記を派遣し、正確を期すために原本を入手し、そのものを王宮に収められた」

 わたしは黙って彼の話を聞く。原本を収める――すなわち、もともとの所有者は、王に文書を奪われたのだ。ハルタミの王宮も、例外ではない。わが王族の蓄積した王領の経営文書も、ハルタミに伝わる神話も、儀礼に使われる呪文も――……もはや奪われ、ニネヴェにやってきていた。

「文書は王が閲覧されるために管理されている。不届きな者が盗み出したり、壊したりしないため――あるいは、王の思索に有用であるよう、整理し、分類するために。よって、管理する者には各地の言語に習熟していることが必要だ」

 言いながら、彼は――彼の頬にも髭はない――わたしを伴い、宮殿のナツメヤシや百合の生える庭を進んだ。赤や黄の、釉薬の施された煉瓦の壁を持つ、ほかと比べればちいさな建物の青銅の扉を、彼は衛兵にうなずいて開けさせる。

 窓はちいさい。まっすぐのびた空間の両脇に、闇がわだかまっている。そこで、ちいさな胡麻油のランプを手に、小声で話し合ったり、文書を持ってすたすたと歩いたり、車に乗せるため棚から粘土板を下ろしたりしているひとびとの、うっそりとした気配がある。

「王のおなりは数日に一度。そのたび、成果を厳しくお尋ねになる。愚鈍であったり、怠惰であったりすれば、すぐに収集に回され、沙漠のなかを文書を求めてさまようか、あるいは役立たずの目を潰されて、皮を剥がれ、城門の脇に吊されることになる」

 書記官の口調は快活なまま、彼はわたしを振り返った。

「エラムの宦官よ。そなたの次の職場はここだ」

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