第4話 鮮血帝

「はぁ、はぁ、アゲロス様、アゲロス様っっ!」


 人影も無く静まり返った廊下に、あせりの気配を押し殺しつつも、緊急を知らせる意思をはっきりと持った声が響く。


 そこはエレトリア宮殿の中庭を望む回廊の一角。


 既に日が傾きかけた頃、この時間に回廊を歩いている者は殆どいない。


 エレトリア宮殿はこの街の中央広場に面する一等地にあり、しかもその装飾は金銀をふんだんに用いた贅を極めたものだ。


 夏の強い日差しを一身に受け絢爛豪華に輝くその姿は、エレトリアが保有する膨大な冨を内外に強く知らしめていた。


 元はエレトリア国王の御座所として使われてきた宮殿だが、帝国に併呑されてからは、町々の代表が集い、エレトリアの行く末について討議を行う議事堂の役割を果たしているのだ。



 その小柄でやせぎす、少し神経質な印象を受ける男のトゥニカには、赤地に白い縁取り、更にその前面には薄い青の獅子をかたちどった刺繍が施されている。


 その仕立ての良さ一つとってみても、この男がかなり高い地位にいる事が見て取れるだろう。


 本来は高い地位のものが出歩く時は、数名の奴隷を護衛や先立ちとして連れ歩くのが普通なのだが、この血相を変えた男は、たった一人で回廊を走って来た。


 それはこの男にとってただならぬ事が起きたことを証明している。


 その痩せぎす男の走り寄る先には、この男と同じ赤地に白い縁取りのトゥニカを纏い、かつ護衛と思われる5名の屈強な奴隷を従えた恰幅の良い男が、ゆったりとその歩を進めているところだ。


 これだけ声を掛けられたにもかかわらず、振り向く素振りも見せず、優雅に歩を進めている。ただ、その男の前面の獅子の刺繍は、濃い青の糸で仕上げられていた。



「アゲロス様、アゲロス様っ、急ぎお知らせしたき事が……」



 このアゲロス様と呼ばれた男の頭髪は、天頂部まですっかり禿げ上がっており、この男の精力が滲み出したかの様にテラテラとどす黒い光を反射させている。


 また、ぶ厚い脂肪により、はれぼったく変形した両のまぶたのその奥には、見るものに何かしらの恐怖を与えて止まない鋭い眼光が隠されていた。


 すでに40を過ぎた年齢のはずなのだが、見ようによってはまだ30台前半にも見てとれる。


 それはこの男の身のこなしや隙の無さが醸し出す、生命力の様なものが感じ取れるからなのかもしれない。


 この男こそ、エレトリア自治領区上席参議、兼、このエレトリアには2人しかいない、帝国元老院議員、アゲロス=マロネイア、その人であった。


 痩せぎすの男はアゲロスのかなり手前で、奴隷と思われる男により行く手を阻まれたものの、全くひるむ事無く、続けざまに声を掛ける。 



「アゲロス様、緊急の事態です。何卒、何卒お人払いをっ!」



 行く手を遮る男の腕を振りほどくため、不器用にじたばたと両の腕を振り回しつつも、懇願する様な表情でアゲロスに訴えかける。



「……ふぅっ」



 アゲロスは後ろを振り向きもせず、これ以上無い様な不機嫌な表情のままため息を付く。


 そして、思い直した様に大きく息を吸い込むと、ゆっくりと振り返った。



「おぉ、これはこれは、ヨルギオス参議ではございませぬか?」



 振り向く前の世界中を敵に回した様な表情とは打って変わって、まるで人の良い好々爺の様な笑顔で語りかける。しかし、その両眼が全く笑っていないことは一目瞭然だ。



「年は取りたく無いものですなぁ。最近すっかり耳が遠くなってしまったものか、せっかくお声がけ頂いていたにもかかわらず気が付き申しませなんだ。ご容赦願いたい」


 アゲロスはそこまで一気にまくしたてると、右手を左肩に当てて頭を下げる。


「ただ、この後は商工ギルド会頭との夕食会に呼ばれているため、大変申し訳無いがここで失礼させて頂こう」



 アゲロスは自分のセリフがまだ途中であるにもかかわらず、出口の方へ向き直り、再びその歩を進めようとする。


 自分の顔がヨルギオスから見えなくなった途端、元の不機嫌な表情に戻るのは一種の才能とも言うべき変わり身の早さだ。



「……ア、アゲロス様、“鮮血”が、あの“鮮血帝”が……再び光臨されましたっ!」



 ヨルギオス参議と呼ばれた男は、意を決した様に言葉を続けた。


 アゲロスは“ピタリ”とその歩を止め、ただでさえ細いその目を更に細くしながらヨルギオス参議の言葉に耳を傾ける。


 不穏な雰囲気を醸すエレトリアの街には、“鮮血帝”の名を彷彿とさせる赤い夕日が輝いていた。



 ◆◇◆◇◆◇



「グォルルルルルル。」



 暗い闇の中に、野獣とも怪物とも判断の付かぬ不気味な音が響き渡っている。



 何の音だ……。分からない。 何も見えない。……暗い……のか……。



 目を開けようにも開く事が出来ず、何か重いもので頭を押さえつけられている様な感じだ。



 俺は……死んだ……のか……な。



「グォルルルルルルルルルルルルルル」



 再び、野獣のうなり声が聞こえる。さっきよりも大きくなっている様だ。まさかとは思いたいが、俺の方へ近付いて来ているのかもしれない。



 怖い……。ここは何処だ……。まず逃げなければ。でもどっちに逃げれば良いんだ。



 両目が使えず、頭に圧し掛かる重さのせいで、俺は軽いパニック状態に。


 しかも息苦しい。俺の中の焦りが呼吸を荒くしているのか、それともこの闇になんらかの呼吸阻害効果が含まれているのか、上手く呼吸ができない。



 はぁ、はぁ。はぁ。俺は……ここで野獣に食われて死ぬのか。いや、元々ここはあの世のどこかなのか。


 ラノベで行けば、ここで転生って展開だけど、転生ってこんなに苦しいものなのか?……チート能力くれる神様は……どこだ。……はぁ、はぁ、はぁ、。ヤバイ。……誰か、だれか……助け……て……母さん……た・す・け・てっ! ……。



 漆黒の闇の中に意識が吸い込まれそうになった所で、遠くから懐かしい母の声が聞こえた様な気がした……。



「……アルちゃん、アルちゃん」


「いくらお腹がすいたからって、ウチの子を膝に乗せたままテーブルに倒れ込まないでって。なんだかウチの子、うなされてるみたいよぉ」


「ほらほら、アルちゃんの立派な爆乳でウチの子が鼻血だしても知らないわよぉ」



 ……まったく緊張感の無い母の声が聞こえる。



「えぇ、だってお腹すきすぎて、もう力が入らんがやもん。」「さっきからお腹がぐーぐー言っとるがんぜぇ。」

(翻訳:えー、だってお腹がすきすぎちゃって、もう力が入らないの。さっきからお腹がくー。くー鳴っているのよっ)


「それに鼻血出しても大丈夫やよー。そう言うか思って、最初からけーちゃんの鼻にティッシュ詰めといたからー。あはは」



 更に能天気なアル姉の声まで聞こえて来た。……おや?



「ん~……?」



 無理やり目を開けると、そこにはグレーのユ○クロに包まれた大きな2つの塊があり、がっしり俺の頭をホールドしている。


 その巨魁に触れない様、十分注意しながら自分の鼻の穴に手を持ってゆくと、両方の鼻の穴にはキッチリとティッシュが詰め込まれていた。



(アル姉、本当にティッシュ詰めやがったな)



 ティッシュを取ると、ウソの様に息苦しさが解消され、体中に五感が戻ってくるではないか。



(なんだよー。俺生きてるじゃん。てっきり転生テンプレキターとか思ったのに損した気分だなぁ)



 さっきは21歳にもなって、マジで母さんの名前を呼んだ事も忘れて悪態を付く俺。



「あっ、アル姉、重いよ、これ。前が……見えない」



「あっ、けーちゃん起きたん? 良かったー。さっきリーちゃんに締め落とされたらしいから心配しとったんぜぇー」



 どうやら、“リーちゃん”とか言う誰かに締め落とされて、そのまま俺は気を失っていたらしい。



(うん……まぁ、しかし、アル姉の膝枕ってぇのは、これはこれで、うん、悪い事は無いな)



 薄目をあければ巨大な塊の向こうにアル姉の魅惑的な下顎が見える。また頭の下にはふっくら柔らかなアル姉のむっちり太ももが絶妙の弾力で頭を支えてくれているのだ。



(うん、もうしばらくこのままでいようか)



 そう思ってもう一度目を閉じようとする俺。このまま十分にこのシチュエーションを堪能する事に決めたのだ。



「けーちゃん、もう起きて、あたしお腹すきすぎて大変なんぜー」



 そう言うと、パタリと俺の顔の上に倒れ込むアル姉。



(うほほほほ。こっこれはたまらん。これは絶対ブラしてないパターンのやつやぁ)



 そう言えば、日ごろは胸が締め付けられるから……と言う理由で殆どブラをしていないと聞いた事がある。


 アル姉は、「もう起きようよー、起きようよー。」と繰り返しながら俺の胸に顔をうずめて来る。



(うぉー辛抱たまらん。やっぱりここは天国なのか?)



 そう思った瞬間! アル姉は突然“ガバっ”と起き上がったのだ!



「あー、ケーちゃんティッシュ取ったやろー。もー、お気に入りのジャージだったんにー。ケーちゃんの鼻血付いてしもたやないー。もぉぉ。困ったさんやねぇ」



「へっ……。へへ」



 半笑いで膝枕されている俺の鼻からは、一筋の赤い血(鮮血)が“つー”っと流れ落ちる。



「二十一にもなって鼻血を出しとる様ではまだまだよのぉ」



 いつの間にか向い側の席に座っていたじーちゃんが、呆れたように言い放つ。



「あぁ、じーちゃん。ただいまぁ」



 アル姉に膝枕してもらったまま、じーちゃんに挨拶をする俺。



「はぁ……。これではワシの後を継ぐのは難しいかのぉ」



 その様子を見て、じーちゃんは深いため息をついた。 今日も高橋家は平和だ。

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