第41話 井津治の失踪3

 姉二人は中学生で小学生の礼子とは学校が違った。だから夕方まで礼子は一人で伸び伸び出来た。だが井津冶が来てからは俄然状況が変わった。まず朝食を終えて走り出す礼子に「礼子、あなたと同じ学校に転校したから一緒に行ってあげなさい」母からそう言われた。井津冶とは初対面の印象から家族は礼子に対して「仲良くしなさいよ」と顔をあわせると挨拶代わりに言われてうんざりさせられた。あの時は普通の雪合戦なのに、あの子が鈍臭い為にあたしの投げた雪がことごとく顔に命中した。男の子の癖に姉達より動きが鈍いからああいう結果になってしまった。礼子は決して自分のせいじゃないと思っているからその後も手抜きをしない。遊びの世界に馴染んでないあの子は余りにも手が掛かりすぎた。

 ああ云う周りに溶け込めないタイプの子はいじめの対象になりやすい。礼子は井津治を自分たちのグループに引き込んで一緒に遊ぶようにした。これは効果があった。井津治にちょっかい出す子はなく、悪さをする子もいなくなった。みんな井津治でなく礼子に一目置いているからであった。それほどこのクラスでの礼子の存在価値は大きく、彼女の庇護のおかげで誰も手出しはできなかった。だから校外では益々彼は礼子には頭が上がらない。しかし学校内では小学生とは思えないほど井津治とは対等に接して、礼子はそんな素振りを同級生の前では見せないマセタところもあった。

「ぐずぐすしないでさっさと歩きなさいよ男のくせに」と礼子は足取りの重い井津冶を急かし「あなたのお陰で学校遅刻しちゃうじゃないのぐず!」と怒鳴る礼子に彼は必死に追い着こうと駆け出した。心の中では誰も身寄りがいない子だからあたしが庇ってやらなくっちゃと思いつつも、いつも口からは正反対の言葉ばかり浴びせてしまった。彼もその居候の境遇を認識して良く耐えていた。

 中学生になるとさすがに礼子は、井津冶に余り小言を云わなくなった。

「腕力ではかなわなくなったから? それとも理性が発達したから?」

「よく言うわ。これでも前からあの子には気に掛けてたのよ、自分の殻に閉じこもろうとするのをいつも必死であたしはこじ開けていただけよ」

「だけど開け方に問題があったんだ。もっとそっとでなく手荒すぎた」

「まだ子供だったんだからしょうがないでしょう。でも最初の一歩を躊躇っていたあの子もあたしのお陰で踏み出していけた。それは小学生時代が熟成期間のようになり、それが中学になってから如実に表れるようになったの」

 その日はバレンタインだった。礼子はあまり関心がなかったが女友達に「礼子は男の目利きがいいから」と付き合わされた。引っ込み思案の井津治を引っ張り出すために、その気は無くても礼子は男子生徒とやり合う。その姿を彼女達は見ているから、クラスの女生徒からはそのように思われている。今日の友達もその一人であたしに男でなく、チョコレートの目利きをさせられた。これどうかしらといちいち訊いてくる。一体彼女は幾つ買うつもりなのかとうんざりさせられたが、井津治の為に礼子が一つ買うと彼女はオーバーに問い詰めてくる。お父さんのよと云って凝ったのを買うと、彼女はヘェーと溜め息をついていた。お互いに内緒よと笑って、リボンの付いた箱に収まったチョコレートをカバンに詰めてエールを交換して別れた。そして学校帰りの井津治を待ち受けた。

「ねえ待ってよ、しょぼくれて今日はどうだったの?」     

 家路の途中で学校帰りの井津治に追いついて礼子は訊いた。

「どうって?」

「とぼけて、チョコレート貰ったの? まだでしょうだったらあたしがあげる」

「義理チョコか」

「中学生らしくないませた言い方ね、いっぱしの大人みたいに気取ってるのね」

 だがこの自信は実績を伴っていた。彼のカバンの中には綺麗にリボン掛けされたチョコレートがあった。

 まじまじと上から下まで眺めてみた。当たった雪玉にベソを掻いていたあの子はどこへ行ったのだろう。だけどこの人は基本的には変わってなんかいやしない。はっきり言うと変われないんだ。それもそうだ人間ボンボンと変わっていったら世の中ややこしなって却って住みづらくなるって云うものね。遺伝子だって環境には馴染んでも、構造そのものが馴染む訳がない。

「この頃はもう中学三年かしら? やっとみんなと溶け込むようになって高校時代はあたしの出番は無くなって一寸距離を置いて見ていた。と云うより恥ずかしいのか、異性を意識してわざと避けているようなところもあったみたい。とにかくこの頃にはあまり個性のない平凡な男の子のグループに入っていた。だが学校の行き帰りは家が違うから相変わらず一人だから、途中からあたしと一緒になることが多かった。それも高校二年の中頃には周囲を気にして完全にあたしの同行を避けた。昔はあたしがぶつと井津治は噛み付いた。さすがにそれはないが、制服から私服に着替えると、回数は減ったが口喧嘩は相変わらず昔と変わらなかった。でも今思うとこの頃のケンカはお互いの異性意識の芽生えから、昔とは感情意識も変わっていた。それがハッキリしたのは卒業が近づき、大学生活を始めた頃からだった。学徒の街であるにも関わらず彼は地方の大学を求めた。祖父もそのわがままを許した。その時なぜ祖父がこの子にはこんなに甘いのか、以前よりハッキリとした疑問が溢れるように湧きだした。その解決策は祖父に問うべきだが祖父の沈黙の壁は強固であの世まで持っていった。これから行くところにそのヒントでもあればいいんだけど、大ざっぱ過ぎるって? そうでしょうね」と礼子は曖昧に笑って見せた。その寂しい笑顔が何を意味するのか裕慈には解けなかった。




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