第20話 樺太からの逃避行

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 それは樺太に渡って三年目の夏に突然襲って来た。ソ連が突如北緯五十度線の国境を越えて侵略してきた。長沼はこのとき恵須取(えすとる)、豊原に次ぐ樺太第三の町、敷香(しすか)に居てここは山から切り出した材木を流木にして幌内川へ流した集積所で製紙工場があった。

 長沼はここで亜屯から慌ただしくやって来た製紙会社の社員によってソ連の越境を知らされた。彼らは敷香に留まったが、長沼は樺太庁の豊原に向かって一目散に南下した。しかし彼女とは会えず樺太から脱出した。

 亜庭(あにわ)湾に面した一番奥の豊原に近い海岸は遠浅で船もなく、大泊までやってきた。ここは北海道へ逃れる避難民でごった返していた。遅れて来た長沼に桟橋は遠く、とても乗船できる状態ではなかった。更に浜伝いに南へ逃げて一隻の古い小さな漁船を見つけた。一瞬これで海峡を渡れるか思案した。だが余裕はない、銃弾から逃れるのを優先してシケの夜の海を漕ぎ出した。死の覚悟が出来てる兵士と違って、身を守る術のない民間人の恐怖は大きかった。

 まともに波を被る荒れた海は身の避けようがなかった。当たれば楽になれる銃弾よりも、この船出は恐ろしく沖へ出て悔やんだ。やっと逃れて陸が見えるといい気なもんで、あれほどの後悔が吹っ飛んでしまった。足に伝わる大地の感触で気力が湧いた。人家のない海岸を歩くうちにそれも萎え終に行き倒れた。

「敷香からここまでの強運をここで帳消しにするなんて、神はなんて非情だ! 運命をもてあそばれた」と怨み骨髄の中で意識が遠のいた。この浜頓別で飢え死にしそうになったときの残念、無念さの絡んだ恐怖は比べ物にならなかった「俺は此の時に助けてもらった佐伯さんには言い尽くせぬほど感謝している、それと同じぐらい今の君にも感謝している」って云うから「あたしは何もあなたにしていません」って言ったら「君が居るだけで幸福なんだ」って言ってました。

 要するにあの人が云うには「君はあの時に期待した百万の援軍より尊い、樺太での逃避行を帳消しにするほどの価値がある、そんな生まれ変わりの様な人を粗略に扱えない」と言われて母は陰でこの人を支える決心をしてまもなく亡くなった。


 気落ちした井津治に礼子は励ました。

 祖父はあなたにお母さんの想いを肩入れされている。早く亡くなっただけにあなたを身代わりのように育てた。それが理屈抜きに習慣のように身に付いてしまった結果、自己主張が強すぎる一面を抑制する努力をしなかった。祖父のありがたみを負に換えてしまった。それに気が付いてほしい。その上であなたの思いとあたしの思いが交差するかすれ違うかを見極めたい、と礼子は語った。


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