/1 相談室〜温室(六月一日)

「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

(マタイによる福音書 1章23節)



   *



「――おっと。もうこんな時間だ。

 ほかに話はあるか? お前から何もなければ、今日は戻っていいぞ」

 

 正面に座る銀髪銀目の外国人女性――ズザンネ・シェーファーはそう言って、わたしたちを隔てる机からデジタル時計を手に取ると、耳障りなアラーム音を停止させた。


「毎度のことですが、こんなに適当でいいんですか?」


 無遠慮にも本音が出てしまう。


 わたしとシェーファーには、週に一時間、司祭棟の相談室で話す取り決めがあった。主にわたしの経過観察のためといって、入学直後からこうして毎週彼女と卓を囲んでいる。


 しかしながら、カウンセリングというのももはや名ばかりで、いくつかの形式的な質問を除けば、最近はもっぱら雑談ばかりしていた。質問攻めにされるよりは気が楽だから、わたしとしても不満こそないものの、本来の目的を思えば多少不安はあった。


 そんなわたしの心配を透かしたように、シェーファーは灰の瞳を細めながらからりと笑い飛ばす。


「このくらいで丁度いいのさ。無意味な時間も必要だ。

 それに私は医者じゃないからな。訊くべきことさえ訊けたら、それ以上は求めないよ。

 悪いがこれからも、時間いっぱい付き合ってくれ」

 

「はぁ。それは別に構いませんが」


 シェーファーがこうした時間も必要というなら、きっとそうなのだろう。


 そう納得しつつも、今日のわたしはどこかにしこりを感じ、それを探すように六畳ほどの相談室をぐるりと見回した。


 壁面が白緑に塗られているのは、恐らく心的効果を期待してのことだろう。正面に座るシェーファーの背後には、両開きの大きな窓があり、本来は開放感を演出しているのだろうが、見えているのが梅雨の曇天ではむしろ気詰まりする。


 そうして遠くの空を見ていると、不意に家族のことが気にかかった。


「――最近、母の様子はどうですか?」

 

 カツン。シェーファーが時計を机上に戻した音だ。


「珍しいな。実家の話は嫌なんじゃなかったか?」


「ちょっと、思うところがありまして」


 ――鈴白要は、母を亡くしたと言っていた。


 ほだされたわけではないと思うが、最近妙に母のことが気になっている。


 母はこの学院の卒業生で、例に漏れず心身に不安がある。昔ほどではないらしいが、それでも季節の変わり目にはよく体調を崩していた。


「先日まで風邪で臥せっていたらしいが、大事ないと電話で言っていたよ。お前にも、また手紙を送ってくださるそうだ」


 わたしの心変わりを訝しみながらも、シェーファーは至極真面目な口調で答えた。


 それにしても飽きずに手紙とは。我が母ながら、今どき律儀というか、古風な人だ。


 実際のところ、携帯電話の持ち込みすら禁じられた学院で、生徒個人と連絡と取るとなれば、そう選択肢もないわけだが。

 

 ――わたしに鈴懸への進学を薦めたのは、ほかならぬ母だった。


 一方で、実際にそう口にするまでには、母なりの葛藤があったらしい。精神を病んだ娘を、母校とはいえ遠く離れた地で生活させることを、母は強く不安に思っていた。だからこそ、こうして折に触れては連絡を寄越すのだろう。


 わたしはだから、家族でさえ距離感がよくわからないけど、そのことを申し訳なく思う気持ちくらいは残っていた。


 ――悔恨は決して、わたしたちの間にある溝を、埋めてくれはしないだろうが。


「お前もちゃんと返事をするんだぞ。春休みも家に帰っていなかっただろう。

 書き物が苦手なら、電話でだっていいんだから」


「分かってますよ。すぐ子ども扱いするんだから」


 シェーファーがそれこそ親並みに五月蠅い。この手のお節介を素面で言えてしまうところも、彼女の美徳なのだろう。


「まぁ、そうやって他人に気を回せるようになっただけ、余裕が出てきたということかな」


 肩先まで伸びた銀髪を払い、シェーファーが涼やかに微笑んだ。微かな胸の高鳴りに気づかないふりをしながら、手近な疑問を投げかけてみる。


「――鈴白先生の調子はどうです?」


「神父様の?」


 流れで尋ねたつもりだったが、流石に不自然だったか。


 何せシェーファーは、わたしと鈴白の顛末に関わりがない。あの夜わたしたちが何を視て、何を失って、何を得たのか――清廉な神の僕たる彼女は、何ひとつとして知らないのだ。


「怪我こそ大袈裟だが、あの通りピンピンしておられるよ。

 ――赤木のことは、流石に心を痛めている様子だった」


「そうですか」


 訝しみこそしたものの、シェーファーは特に追求しようとはしなかった。彼女の気遣いに、わたしは胸を撫で下ろす。


 ――金澤莉音かな ざわ り おんは予後が悪いらしい。折ったのは足首らしいが、詳しい程度までは聞いていない。それでもリハビリのため、退院にはもうしばらくかかるという話だ。

 

 ほかの二人は元々大した怪我ではないが、白瀬花枝しら せ はな えとわたしの関係は実に険悪だった。あんな追い詰め方をすれば嫌われて当然とは思うものの、この前すれ違ったときなどは、廊下に音が響くくらいあからさまに舌打ちされたものだから、流石に面食らったものだ。部屋から出て来られるようになっただけ、精神的には上向いたのだろうが。


 むしろ黒川咲月くろ かわ さ つきが事件以来やたらと気安くなったことの方が余程不思議かもしれない。わたしのどこをそんなに気に入ったのかは知らないが、最近はこちらを見かけるたび声をかけて来る。この間なんて、昼食中のわたしとまひろの間に割り入ってきたくらいだ。まひろは面白がっていたが、いい加減わたしからすれば鬱陶しかった。


 ――そして、赤木るいは何も語らずに学院を去った。


 彼女の人生にとって、たかだか二月に満たない小さなきずあとだが――一つの出会いが、世界すべてを変えてしまうことを、わたしは既に知っていた。


「貴家も災難だったな」


「いえ。正直自業自得ですし」


「そんなことはないだろう。

 あれは事故だ。お前は何も悪いことをしていないじゃないか」


 シェーファーがこちらを気遣うように目を伏せる。心底同情してくれているらしいが、実際わたしは赤木を煽っていた。

 

 いずれにせよ、すべては不幸な行き違いということになっている。今さら、誰にどうすることもできはしないのだ。


「――こっちはそんなところです。今日もありがとうございました」


「そうか。ならいいが。

 それじゃあまた来週に。勿論、何か相談があればいつでも声をかけてくれて構わない。

 あまり思い詰めるんじゃないぞ」


 シェーファーの言葉に、わたしは曖昧な笑みで応える。


 二人連れ立って部屋を出てから、彼女とは司祭棟の一階で別れた。


「悪いこと、してないわけないんだよな」


 建物を出て、今にも泣き出しそうな空の下を足早に歩きながら、独りごちる。

 

 シェーファーは知らない。あんなに親身になってくれているシェーファーを、わたしが心の奥では嫌っていることを。本当は一秒だって同じ空間にいたくないくせに、それが顔に出ないよう必死で誤魔化していることを。


 シェーファーは知らない。わたしがこの世界すべてを理由なく嫌悪していることを。息をするだけで吐き気を催して堪らないことを。


 シェーファーは知らない。わたしが心臓痕硝子を幻視していることを。硝子が学院に遺した呪いを解こうとしていることを。


 シェーファーは、何も知らない。



   *



 温室に入るのは、これが初めてだった。


 敷地の外れにある温室は、寄宿舎の南西――森を分け入った中にある。偶々存在は知っていたが、今まで立ち入る用件がなかった。


 温室内は、熱帯性植物を揃えているだけあって、きっちりと温度管理がされていた。加えて、これもやはり管理されているのか、周囲の植物のせいなのか、かなり湿っぽい。不快指数も相当に高いだろう。今日から夏服に変わったというのに、既にブラウスに汗が滲み始めていた。


 それでも不思議なことに、体感としてはさほど辛くはなかったが、やはり梅雨時にあえて立ち入ろうとする者もいないのだろう。周囲を見回せど、目に五月蝿いのは植物ばかりで、人影ひとつ現れはしなかった。尤もその自己主張の強さゆえに、建物全体を見通すことなどできないわけだが。


(あいつはもう来てるのかな)


 待ち合わせの時刻は既に過ぎている。あまり待たせるのも悪いから、急いではみるものの、初めての場所で視界も悪いときた。円形の建物の外周を沿うように、徐々に中心部へ向かうように順路が設定されているようだが、自分がどのあたりにいるかまではいまいち把握できなかった。


 しかし熱帯性植物というのは、どうしてこう無駄に図体のでかいのだろう。時折わざとらしく道を遮ろうとするものだから、道が入り組んで仕方がない。それにどれもこれも、妙に刺々しい形状だったり、サイケデリックな色味だったり、見た目が落ち着かないものばかりだ。


 レンブ、アリストロキア、バンジロウ、ブシュカン、パボニア・インテルメデア、エトセトラエトセトラ。案内板を見なければ名前も分からない――どころかほとんどは聞いたことすらない植物ばかりだ。わたしに分かるのはせいぜいハイビスカスやブーゲンビリアくらいか。目に馴染みのない分、見ていてなかなか飽きが来ないのかもしれないが。


 そうしてしばらく歩いた後、急に広い空間に出た。二十メートルほど先――部屋の中央には、建物を貫かんとする巨木が見える。きっとあれが待ち合わせの目印だろう。


 大樹の下――木陰の長椅子に腰掛けるルームメイトをすぐに認めて、そしてつい見惚れてしまう。彼女の柔らかく波打った栗色の長髪と、あどけない面貌は、童話の主人公を想起させる。鮮やかな温室に座す彼女の姿は、まるで絵本の一頁のようだった。


 あまりにも画になっているものだから、声をかけたものか迷っているうちに、彼女の方がわたしに気づいて、小さく手を振ってくれた。


「悪い。待ったか?」


「うん。でも、待つのも楽しいから」


 駆け寄るわたしに、曽我部まひろはそう笑いかけた。どうやら怒ってはいないらしい。


「すごいでしょ。インドボダイジュ? だって。何十年も――戦争よりも昔からここにあったみたい」


「釈迦が悟りを開いたとき傍にあったやつか」


 そうなの? とまひろ。そうとも、とわたし。


 キリスト教校としては西洋菩提樹リンデンバウムの方が相応しいかも知れないが、それはさておき確かに立派なものだ。幹周りも太く、こうして間近で見上げていると、随分な迫力がある。


「それで、ここで何をするんだ?」

 

 向き直ってそう尋ねると、まひろはきょとんとした顔でこちらを見た。


「別に何もしないよ。今日はのんびりするの」


「のんびり?」


 そ、とだけ答えて、まひろが長椅子を叩く。促されるままに隣に座ると、目の前をふわりと栗毛が舞う。まひろが体を倒し、わたしの太ももにその小さな頭を載せていた。

 

 ――まひろとは、休日を一緒に過ごす約束があった。


 白瀬の部屋に押し入る際の条件だ。わたしの怪我のせいで、約束の履行を保留してしまっていたから、今になってこうして呼びつけられたというわけだ。


 それにしても、


「こんなことのために、わざわざ呼び出したのか?」


「たまにはふたりでゆっくりしたかったのだ」


「確かに、ここなら人は来なそうだけどな」


 自室で過ごすのとあまり変わりない気がするが、まひろの顔を見ていると、指摘するのも野暮に思えてきた。


 何となく、まひろの頭に手を伸ばしてみる。彼女の栗色の長い髪は、いつ触ってもふわふわとしていて、掴みどころがない。この時期に、この髪質でどうして跳ねたり絡まったりしないのだろう。


 わたしが髪に弄るたび、まひろもくすぐったそうに体を捩らせる。無防備に腹を見せる小型犬みたいだ。


 しばらくの間、無心で撫で回していたことにはたと気づき、わたしはようやく手を止めた。されるがままだった彼女が、わたしの様子を伺うように見上げるものだから、ばっちりと視線が合ってしまう。


 そして今度は、彼女のか細い指がわたしの髪に触れた。


「髪、伸びたねぇ」


「そうかな」


「前の方がかっこよかった」


「そうかよ」


 完全に趣味の話だった。呆れるわたしに対し、まひろは何故だか真剣な面持ちだ。


「うん。前より短いくらいでもいいかも。

 夏休みにツーブロックとかやってみない?」 


「やらないよ。どこのガールズバンドだ」


「いいねぇそれ。せっかくだしピアスも開けよーよ。お揃いのやつ」


「いいわけねぇだろ。うちの親が見たら卒倒するわ」


 それよりシェーファーの鉄拳制裁が先か。ツーブロックどころか、下手したら丸刈りにされかねない。想像するだけに恐ろしい。


 わたしの冷や汗をかくさまがおかしかったのか、まひろは童女のように笑った。


「嘘。今のたみちゃんも好き」


 まひろの手が髪から離れる。


 彼女の無邪気さに、胸の奥がじくじくと痛んだ。

 

「でも、本当に楽しそうじゃない? たみちゃん楽器できるしさ。やってみようよバンド」


「――楽器って、もしかして箏の話か?」


 確かに実家にいた頃は稽古事として習わされていたが、合奏は三絃としかしたことがない。


 とぼけた提案に困惑するわたしを見て、まひろは得意げな顔で鼻を鳴らした。


「知らないの? 今はそういうロックバンドもあるんだよ?」


「頭数はどうするんだよ。お前はどうせボーカルって言う気だろ?」


「最近、聖歌くらいしか聞いてないけどねぇ」


 まひろが下手くそな「あめのきさき」を口ずさむ。こいつが聖歌隊に入らなくて良かったと心底思った。


 ――ふと、自分の頬が綻んでいることに気づく。


 まひろはいいだ。彼女といるのは楽しいし、数少ない大切な友人だと、本心からそう思っている。


 そんなまひろに対しても、わたしは得体のしれない嫌悪感を抱いていた。


「髪を伸ばしてるのは、心臓痕さんの真似?」


 ――すぐには、返事ができなかった。


「何でだよ。あいつは関係ないさ」


 わたしは、さっきみたいに自然に笑えているだろうか。哀れむようなまひろの目が、その答えにも思えた。


「ここに、心臓痕さんはいるの?」


 何故なら、まひろはすべて知っている。


 わたしが硝子に囚われていることも。少女Sの呪いを解こうとしていることも。


 わたしが理由もなくまひろを嫌っていることも。


 彼女はすべて、知っているのだ。


「いないよ。ここにはわたしたち二人だけだ」


 正面の広場を見遣る。わたしはこの場所のことを知らない。この場所にいる硝子を知らない。


 だから、ここで彼女の姿を視ることができないのも当たり前の話だった。


「そう。ならよかった」

 

 ほんの少しだけ、まひろの声が弾んでいるように聞こえた。


 急に恐ろしくなって、わたしはどうしても、彼女にそのことを尋ねずにはいられなかった。


「まひろは――わたしのことが、本当に好きなのか?」


「なぁに? 改まって」


 だってそうだろう。彼女はわたしの嫌悪を、ずっと前から知っている。


 それでも、わたしに対する気持ちが変わらないというなら――何もかもを嫌悪するわたしにとって、これほどに理解し難い好意かんじようはない。


 しかし、まひろはやはり何でもないことのように笑って、再びその手をわたしの頬に伸ばした。


 ――気がつけば、まひろの顔がすぐ目の前にあった。


 近づく指先に気を取られていた刹那、すばやく上体を起こした彼女に、唇を重ねられた。


「――好きでもない人に、こんなことできると思う?」


 柔らかな接触を終えて、まひろがわたしに囁く。


 軽率な問いを、今更に後悔する。彼女の熱を帯びた瞳に、わたしは応えられなかった。

 

「分かってる。たみちゃんはそうじゃないもんね。

 意地悪して、ごめんね」


 膝上から退いて、隣に座り直したまひろが、悲しそうに笑った。

 

 ――まひろは、卑怯だ。


 まっすぐ好意を向けてくる彼女にさえ、わたしは嫌悪感と、罪悪感を覚えてしまう。だからこそ、わたしはまひろの好意も、行為も拒めないでいた。


「たみちゃんは、あたしが嫌い」


 まひろがわたしの手を取って、再びその端正な顔を近づける。彼女の大きな目が、ぴかぴかとした小さな光をいくつも孕んでいた。


 ――硝子の瞳が夜の海なら、まひろのそれは無限の星空だ。


 夏服の薄い生地から、密着する彼女の体温と肉感が伝わってくる。わたしが拒めないと知っているからこそ、彼女はわたしを求めようとする。


 そこからのまひろは、さっきよりずっと乱暴で切実だった。初めは啄むみたいに、次第に貪るように。そうする間にも体重をかけられ続けて、結局力負けして、二人で長椅子に倒れ込んだ。


 まひろの腕がわたしの背に回る。抵抗に意味はない。まひろの力の強さは知っていた。いつだって、押さえ込まれて、組み敷かれるのはわたしの方だ。

 

 荒い息と、水音が耳に纏わりつく。


 鼻腔をくすぐる甘さは花の香りか、それとも別の何かか。芳しさが今はただ苦しくて、ここから逃げ出したくなる。


 既にまひろの顔に笑みはなかった。余裕がないのは彼女も同じなのだろう。いくらその唇をあてがっても、息苦しさは増すばかりで、だからこそどこまでも互いに溺れながら、相手を呑み干そうと必死だった。

 

 思考に靄がかかる。呼吸すらままならず、意識もいずれは途切れるだろう。


 ――それでも、薄い膜の向こうには、冷めた目でわたしたちを見る、自分自身がいた。


 遥か頭上で、弾けるような音が響く。わたしたちを収めた硝子の箱を、雨粒が忙しなく叩いている。


「たみちゃんは、心臓痕さんが好き」


 耳元で発せられた言葉は、どこか独白じみた響きを含んでいた。


「でも――ねぇ、忘れてないよね?

 したのは、あたしの方が先なんだよ?」


「――それは」


 それは分かってる。まひろとの約束は、本当なら硝子の遺言なんかより、優先すべきことのはずだ。

 

 けれど今のわたしには、そんな当たり前のことさえも答えることができなかった。


 ――まひろは卑怯だ。だけど、わたしの方がもっとずっと、卑怯だ。

 

 とくん、と。一際大きく胸が打ち震えた。鼓動にも似た衝撃は、しかしまひろの拳がわたしの胸を軽く叩いたためだった。


「――ごめん。先、帰るね」


 そう言って、まひろはすばやく身体を離すと、そのまま立ち上がって走り去って行った。顔を伺ういとますらなかったが、前髪の下の表情は容易に想像がつく。


 独り、ゆっくりと起き上がった。汗に塗れ、乱れた着衣を改めて、つい膝を抱えてしまう。

 

 親友に何も言ってやれなくて、わたしは自己嫌悪で死にそうだった。



   *



 ――失敗した。

 

 ざあざあ降りの外を見ながら、思わず息を漏らす。


 性懲りもなく、わたしは傘を持たずに外出していた。どうせまひろが持っているだろうとアテにしていたら、そのまひろは一人で先に帰ってしまった。つまるところ自業自得なのだが、非道い追い打ちについ空を睨んでしまう。泣きっ面に蜂とはよく言ったものだ。ありがたいことに、蜂ではなく大雨だから、涙は誤魔化せるかもしれないが。


 馬鹿げた考えを巡らせど、一向に雨が止む気配はない。門限までは当分あるが、待っていたところで、果たしてあの空模様が好転するだろうか。濡れ鼠になって帰ることも考えたが、あんな風に彼女と別れてしまった直後だ。着替えたくとも、すぐには部屋に戻りづらい。


 どうすることもできず、温室の出入り口でただ一人、雨打つ道を眺めていた。飛び跳ねる水滴は、フライパンの上で弾ける油にも似ている。あべこべで可笑しな連想も、沈んだ気分を紛らわせることはなかった。


 しばらくそうして無意味な時間を過ごしていると、突然鈎状の物体が視界の端から伸びてきた。


「やあやあ奇遇だなぁ! こんな日にこんなところで、一体どうしてしょぼくれているんだい?

 ほら、下ばかり見てないで顔を上げなよ。せっかくの器量が台無しじゃないか!」


 聞き覚えのある芝居がかった声にうんざりする。誰が来たかなんて、今さら確かめるまでもない。


 嫌々隣を見ると、いつの間にやって来たのか、上背のある泣きぼくろの女が、軽薄に笑いながら傘を差し出していた。


「何だ。神代じん だいか」


「おいおいおい。何だ、とはまたご挨拶だ! わざわざこうして迎えに来てやったというのに」


 生徒会長――神代祭があざとく前髪を掻き上げる。


 その軟派な口調に反して、彼女の容姿や所作は極めて女性的だ。長い後ろ髪は丁寧にシニヨンで纏められており、この湿気でも乱れがない。白々しく光る薄い唇も、まめにケアされている証拠だろう。


 だからこそ、彼女の喋り口すらも、わたしには自己演出としか思えず、常々不愉快に感じていた。


 恐らくまひろが迎えに寄越したのだろうが、わざわざこいつに頼むということは、半分仕返しも入っているかもしれない。


「――まひろの奴、何か言ってたか?」


「二人きりになった途端襲われたと」


「襲ってねぇ」

 

 神代が手を叩きながら笑った。いちいち挙動が癪に障るやつだが、それを指摘したところで喜ぶだけだから余計に性質たちが悪い。

 

「冗談だよ冗談! 貴家にそんな勇気はないことは知っているさ。

 押し倒すとしたらむしろガベちゃんの方だろう? あの娘から聞いたのは、君をここにひとり残してきたということだけだ」


「そうかいご苦労さん。ありがたすぎて涙が出るね。

 これでいいだろ。傘置いてさっさと帰れ」


 わたしはそう吐き捨てて、目の前の傘の柄を掴んだものの、いくら引っ張っても神代はそれを手離そうとはしない。


「それは困る。生憎傘は一本しか持ち合わせがないんだ」


「何しに来た」


「不良娘を雨の中迎えに来たんだぞ! ぼくに役得があってもいいじゃないか!?」


「お前と相合傘なんて死んでも御免だっつうの。一人で濡れて帰ればいいだろ!」


 無意味な攻防で、しばらく無駄な汗をかく。お互いすっかり疲弊した頃、肩で息をし始めた神代が傘から手を離した。


「本当に強情だな君は。仕方ない。傘はないが、こんなこともあろうかとホラ、合羽を持ってきたからね。拙はこれを着て帰るとするよ」


「初めからそれを言え」


 どこに隠し持っていたのか、神代は小さく折り畳まれた黄色い雨合羽を広げ、いそいそと着込むと、くるりとその場で回って、裾を少し持ち上げながら一礼してみせた。正直、デザインはちょっと敬遠したくなる野暮ったさだったが、その分作りはしっかりしているようだ。


 そうして意気揚々と雨空の下へ踏み出そうとする神代を、わたしはじつと見ていた。

  

「そら、何をしているんだい? もうここに用はないだろう?」

 

 動こうとしないわたしを気にして、神代が振り返る。そのまま先に帰って欲しかったが、そういうわけにも行かないらしい。しかしどうにも、わたしの気分は重いままだった。


「――まだ帰りたくない」


「君さぁ」


 神代が呆れたように額を抑える。


「流石にそれはないんじゃあないか? 子どもじゃないんだからさ。

 ガべちゃんも、君を心配してるぞ」


「いいから先帰ってくれよ。

 顔、合わせ辛いんだ。門限までには帰る。まひろにはそう伝えればいいだろ」


 つい語気が荒くなる。


 そもそも、わたしはまひろに何もしていない。まひろが勝手に期待して、勝手に落胆しただけだ。どちらかといえば被害者はわたしの方じゃないか。


 ――わたしが人を好きになれないと、あの娘は誰よりもよく分かっているはずのに。


 本当ならわたしが気に病むことも、気を回す義理だってないはずだ。それでもどこか後ろめたくて、まひろに会いたくなかった。だけど――


「死人じゃないと濡れないか。相変わらず悪趣味だな」


 その冷笑は、流石に看過できなかった。


「――もう一度言ってみろ」

 

 持っていた傘を神代の鼻先に突きつける。


 まひろのことなんて、もうどうだっていい。心臓痕硝子を――を侮辱する人間を、わたしは許さない。


 神代の口元から、挑発的な笑みが消える。しかし彼女は、怖じけることなくまっすぐに見返した。


 何もかもを見通すかのようなその視線に、わたしは思わず息を呑む。

 

「――拙が言いたいのは、あんまりガベちゃんに不義理をしてくれるなって話さ。

 好きな相手はほかにいるくせ、迫られたら拒み切れないだって? そんなのはただの甘えだよ。

 君はガべちゃんに都合のいい女を演じてるつもりかもしれないが、君にとっての彼女の方が、よっぽど都合がいいじゃないか。

 本当に気がないのなら、さっさと振ってやるのが人情だぞ」


「――お前には関係ない。

 お前なんかに、わたしたちの何が分かるんだ」


 尤もらしく諭す神代を睨みつける。


 この女は、わたしの幻視がらすを知らない。わたしが神代に伝えているのは、少女Sの呪いを解くという目的だけだ。硝子との約束も、まひろとの約束も、わたしの嫌悪も、この女は何一つ知らないのだ。


 ――こんな奴に、訳知り顔で説教される謂れはない。


 これ以上は無駄と分かったのか、神代がおどけるように肩をすくめて見せる。わたしは一度深呼吸をしてから、ゆっくりと傘を下ろした。


「そうだな。確かに拙には関係ない」


 神代の呟きは、何故だか自嘲しているようにも響いた。


 そのまま立ち去るものと思っていたら、対面していた彼女は、予想に反してこちらへ寄って来ると、再びわたしの傍らに立った。こいつがただの使い走りで来るはずはないと思っていたが、どうやらまだ何か用があるらしい。


「本当は帰る道すがら話そうと思っていたのだが――何、まだ門限まで時間はある。幸いここには拙たちしかいないことだしな。

 ――ときにたみの字。君は碓氷先輩と交友があるのかい?」


「誰がたみの字か」


「たみちゃん?」


「やっぱ先帰るわ」


 わたしが傘を開くと、神代がケラケラ笑いながら制止した。正直本気で帰りたかったが、用件を察するにそういうわけにもいかないようだ。


「いい加減、軽口くらい流してくれよ。まったく君は律儀だなぁ。

 ――で、律儀ついでに答えて欲しいんだが、そのあたりどうなんだい?」


「三年の双子のことなら、どちらとも口利いたことすらねえよ。

 そいつらがどうしたって?」


「ああ。実は未奈先輩――姉の方が少々問題を抱えていてね。

 週明けにでも妹を君のところへやるから、詳しくは彼女から直接聞いてくれるかい?」


「姉に問題があるのに、妹が来るのか?」


 わたしに持ちかけたということは、当然少女S絡みなのだろうが、話がよく見えてこない。


 わたしの困惑が余程嬉しかったのか、神代が得意げに薄い胸を張る。


「それが今回の問題というわけさ!

 何と言っても姉の方はだというのだから、部屋から出るのもままならんのだよ」


「言葉は正しく使えよな。まるきり違う意味に聞こえるぞ」


 重いのは身ではなくて気の方だろう――そんなわたしの考えを否定するように、神代がかぶりを振った。


「――おい、まさか」


 まさかがあり得るのだろうか。


 ここは人里離れた山中で、全寮制ミッションスクールで、司祭である鈴白を除けば完全に女の園だ。出入りの業者も基本的には女性以外は許されず、生徒も特別な許可がなければ、学外へ出ることさえままならない。


 だというのに、ここに至って神代は、実に神妙な様子で首肯した。


「そのまさかだよ。

 双子の姉――碓氷未奈は、どうやら身籠っているらしいんだ」

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