第二章 処女懐胎 -Storge-
/8 温室(六月十日)※2章冒頭
――姉が、疎ましくて堪らなかった。
生まれたときからずっと、私と姉は
服も、文房具も、誕生日プレゼントだって一緒。どこかに遊びに行くときも、家族全員揃って出かけるのが普通だった。
小学生の頃に一度だけ、家族で遊園地へ行く日に、姉が熱を出したことがある。その日を楽しみにしていた私は、外出を取り止めようとする母に、酷く我儘を言って困らせたのを覚えている。
結局、その日は姉と母を家に残して、私と父だけで遊園地へ行った。母には悪いと思ったし、寝込んでいる姉に対してもほんの少しだけ後ろめたかったけど、それ以上に私は嬉しかった。両親が初めて私を私として扱ってくれた気がしたから。
それだけのことが、何故だかとても嬉しくて、その日は目一杯父に甘えた。
――姉が復調してすぐ、母と二人だけで遊園地に行ったと聞かされたのは、また少し経ってからだった。
分かっている。両親は私たちを平等に扱っただけだ。あの日家に残ったのが私だったとしても、同じようにあとで埋め合わせをしてくれただろう。
そんな当たり前の平等が、私には酷く不公平に思えてならなかった。
両親は、きっと私たちを愛している。けれど、二人が愛しているのは私たちであって、私ではない。二人にとって、私たちはどちらも大切で、だからこそどちらかが大切なわけじゃないのだろう。
そんな両親でも、私たちに対しては、何もかもを同じものを求めようとはなかった。
当然だった。私たちは双子でも、同じ人間じゃない。たとえ同じように学び、同じように励んでも、二人いればそこには優劣が生じてしまう。
学校の勉強だって、運動会の順位だって、バレエの発表会だってそうだ。私たちの出来には、いつも明らかな隔たりがあった。
母は私を優しく諭した。「あなたとお姉ちゃんは、違う人間なんだから」
――嘘だと思った。母の言葉を、私は心のどこかで否定していた。私たちのことを、結果以外で区別なんかできないくせに。
いや――区別できていなかったのは、多分両親だけじゃない。仲の良い友だちも、学校の先生も、誰もが私たちを双子としか思っていなかった。私は所詮、双子のできない方でしかなかったのだ。そう思い至ったとき、急に堪え切れなくなった。
中学の頃、一時髪を短くした。目が悪いわけでもないのに眼鏡を買ったのも、思えばその前後だった。
私の態度から何か感じ取ったのか、かつての母と同じように、周囲の人間は空々しい言葉を吐いた。「双子なのに似てないね」――そんなこと、欠片も思ってないくせに。
私のささやかな抵抗を、姉は黙って見ていた。何か言いあぐねているような、あのどんくさくて曖昧な笑みを浮かべて、ただ私を見ていた。
――その顔が、私には不愉快でならなかった。
◇
温室は、
鏡でもあれば、きっと自分の顰め面が拝めたことだろう。外は
口だけで呼吸しながら温室を歩く。私を取り囲む草木は、見た目も十二分に毒々しい。人工物と疑いたくなるほどに鮮やか過ぎる花弁。こちらの
グロテスクな熱帯植物たちが、巨大な箱の中で
――不思議の国みたいだ。
吐き気を堪えながら歩を速める。やがて開けた場所に出て、私はようやく足を止めた。
正面には、この空間においてさえ一際目を惹く巨木――印度菩提樹が、まさしく聳え立っていた。その威容を思わず仰ぎ見る。菩提樹の枝先は、既に温室の骨組みまで手を伸ばし始めていた。じきに天井すらも突き破ってしまいそうなその枝葉の隙間から、陽光がぽつぽつと零れ落ちている。
その明るさに目が眩んで、視線を樹形に這わせながらゆっくり下げていくと、菩提樹の傍らに小さな影が寄り添っていることに気づいた。
古めかしいロートアイアンのテーブルチェア。そこにひとり、腰掛けているのは、私にとっては
「
立ち止まり、声をかける。
近づく私の足音に、まるで気づいていなかったらしい。大きく肩を震わせてからこちらを向いた姉は、馬鹿みたいに目を丸くしていた。
「――
そう口に出してから、ようやく私と認めたのか、未奈はいつものふわふわとした笑みを浮かべた。
思わず足を止め、歯噛みする。私たちは、初めから同じ形だった。わずかに灰色がかった髪も、薄い眉も、情けなく垂れた目尻も、頼りない撫で肩も。
服や髪など些細なことだ。私たちの容れモノは、あまりに似過ぎている。
――だというのに、私たちはどうして、こんなにも違ってしまったのだろう。
母の
「こんなところで、何をしているの。
戻ったならすぐに報せなさい」
「うん。ごめんね」
いくらかの距離を保ったまま半ば投げ槍に言うと、未奈は人の
その媚びた声音が、一層私を苛立たせる。
――未奈は、私なんかよりずっとずっと優れている。
生まれてから一度だって、未奈に勝てたことなんてない。私がどんなに努力したところで、未奈がいるときはいつだって二位に甘んじてきた。
未奈が私の番なのではない。私が未奈の番なのだ。
そう分かっていても、未奈と競うことは止められなかった。それさえ止めてしまったら、きっと私には何も残らない。
未奈と私を比べていたのは、ほかの誰でもない、私自身だ。
尤も、競っていたつもりになっていたのは、私だけなのかもしれない。だって未奈は、
「――体調は、もう大丈夫なの?」
溢れ出しそうな悪意を胸に留めながら、つい、訊かなくても良いことを口にする。検査結果だって、もう報されていたのに。
「うん、大丈夫。何でもなかったから」
未奈は至って穏やかな口調で答えた。これ見よがしに、お腹の辺りをさすりながら。
――この場所は、甘い毒に満ちている。
来た道を戻ろうと、私は未奈に背を向ける。
温室に漂う緩慢な空気が、私から判断力を奪っている。だから訊かなくてもいいことを訊いてしまう。だから些細なことに苛立ってしまう。
私はこの場所から、一刻も早く逃げ出したかった。
「待って」
踏み出そうとする私に、背後から声がかかった。その声に、どうして私は立ち止まってしまうのだろう。
「私ね。マナちゃんに謝らなきゃいけないんだ」
その声に、どうして私は振り向いてしまうのだろう。今更、
「謝るって、今謝ったばかりじゃない。
何かあるならあとにして。早く帰りましょう。あんたはまだ本調子じゃないんだから」
上辺だけ、慮るようなことを言った。我ながら空々しく思えた言葉を、きっと未奈は疑ってすらいない。
それでも未奈はゆっくりと席を立って、大きく首を横に振った。
「今じゃないと駄目なの。
マナちゃんを
姉が何を言っているのか、分からなかった。
私はこんなにも苦しいのに、一刻も早くこの場所から離れたいのに、未奈は私を救うためと言って、ここに留め置こうとしている。
――それでも、未奈の瞳は気弱に揺れながら、確かに私を見据えていて、
――私はもう、姉と視線を合わせることもできなかった。
「お願いだから、言うことを聞いて。
これ以上、困らせないでよ」
絞り出した言葉は、何故だか情けなく震えている。
目を逸らすべきではなかった。いや――逃れるつもりが、むしろ吸い寄せられていたのかもしれない。私はもう姉の腹部から目が離せなかった。
違う、違うの、と未奈が何度ともなく否定する。先ほどまで穏やかに諭そうとしていた姉は、今や何かに駆られるかのように声を張り上げていた。
――ああ、
未奈の声も、発する言葉も、視界の端々の樹々も、甘ったるい空気も――今の私には、鬱陶しくて仕方がなかった。
「そうじゃない。そうじゃないのマナちゃん。
私はこの娘から、マナちゃんを――」
「――その呼び方、やめてって言ったでしょ!」
姉の声をかき消すように、怒声が温室を揺らした。
誰かの、荒い息遣いが聞こえる。
私は未奈のお腹を見つめながら、堪えていた怨嗟を吐き出した。
「何で、黙っていたの」
零れた戸惑いは、姉の善意を証明している。同時にそれは、私の無価値をも明らかにした。
「私が何をしたか、知っているんでしょ? 何で誰にも言わないの? 先生にだって、神代さんにだって、あの二年にだって、いつでも言いつけられたじゃない!」
「マナ、ちゃ――」
「今回だけじゃない。ずっと前から、私は未奈の枷だった。
あんたが邪魔だった私は、あんたの邪魔ばかりして来た。それでも、いつだって負けるのは――悪いのは私の方なのに、未奈は私を責めようとはしなかった!」
堰を切った感情の濁流は止めどなく、姉の言葉をも押し流す。
自分では、もうどうしようもなかった。私には、こうする以外に他はなかった。
だから――私は未奈と向き合おうともせずに、ただ自分の憤りをぶつけていた。
「あんたはいつだってそう。私のやることなんて全部お見通しのくせに、いつもいつも何も言わずに黙ってる。
馬鹿にしないでよ。私が目障りでしょ? だったら邪魔だって言ってよ! 消えてくれって! お前なんかいなければいいのにって!
そうじゃないと、私は一体何のために」
口にして、ようやく私はその疑問に至った。
何のため。私は一体何のために、姉を縛り続けたのか。
わからない。私には本当に、何もわからない。
――そして私は、あの娘の胎動を幻視した。
恐ろしさのあまり、わたしはそれから目を背けてしまう。そうすると、今度は姉と視線が交わった。
未奈は、笑っていた。今にも零れ落ちそうな涙を堪えながら、痛々しい笑みを浮かべていた。
けれどそれは、結局いつもの痩せ我慢でしかなかった。
「あ、れ――? おかしいな。私、笑ってた、のに」
呟いた未奈の口元は、固く強張っている。
姉の頬を、大きな雫がいくつも伝い、落ちていく。未奈は、何度か両手で顔を拭ったあと、涙に濡れた自分の掌を、不可解そうに眺めていた。
そして不意に、未奈は微かな呻き声を上げると、お腹を抱えたままその場で膝を折った。
「――未奈?」
横たわった姉の苦悶が聞こえる。湿っぽい後悔が、今頃になって私の背に爪を立てた。
――私は、未奈に何を言った?
私は――私の別ち難い半身に、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。
いや、そんなこと今はどうだって良い。姉はまだ回復しきっていないのだ。すぐにでも保健室に連れて行かなければならない。
しかし、私の意志とは裏腹に、私の足はまるで縫い止められたかのように、一歩も踏み出せないままだった。
姉が、私を見ていた。諦観と悔恨が同居する、熱を帯びた虚ろな瞳で、地を這ったまま私を見つめていた。
その
恐ろしくはなかった。ましてや悲しくもなかった。
ただ、私はこの上なく満たされてしまったから――つい、歓喜してしまったのだ。
「おねえ――」
姉に駆け寄ることもできずに、ただその場に立ち尽くす。
私は、私はきっと、未奈のことを――
◇
「八つ当たりはその辺にしておいたらどうですか。
――凛とした声に、鈴祓いの
声のした方を振り返る。温室から伸びた
誰が来たかを悟るには、それだけで十分だった。
「――そう。あなたの仕業というわけ」
降り注いでいたはずの光が何かに遮られ、温室に大きな影が落ちる。
ただ、日が翳っただけだろう。それでも偶然には思えなかった。未奈との断絶が深まったのも、思えばあの下級生に打ち明けたからだ。
未奈が部屋に帰らなかったのも、私をここに留め置こうとしたのも、全部、彼女のせいではないか。
――あれは川だ。私たちの間を隔てる、黒くて深い、大きな川だ。
「まったく、非道い言われようだぜ。
こちとらようやっと出番だっていうのによ」
せせら笑う声が聞こえ、ようやく彼女がその姿を見せた。
化粧っ気のない、特徴に乏しい顔はしかし、むしろその造作が整っているからこそで、中性的な鋭さを感じさせる。
無造作に伸び生やした黒髪と、華奢な手足も
「――ご機嫌よう、先輩方。
そろそろ、わたしも混ぜてくれませんか?」
暗闇を引き連れるようにして、小柄な下級生――
*
「――ご機嫌よう、先輩方。
そろそろ、わたしも混ぜてくれませんか?」
末奈――双子の妹の方が、忌々しげにわたしを睨んだ。
「お断りです。
あなたに出番なんかない。あなたには関係がない。すべては、もう――終わってしまったのだから」
思わず嘆息する。気持ちは分からなくもないが、それもやはり、八つ当たりというものだ。
「わたしに相談を持ちかけたのは先輩でしょう? 今だって、見かねたからこそこうして出てきてあげたのに」
「余計なお世話だと言っているの。
そもそも、私が相談したのは神代さんです。初めからあなたなんか信用していない。
――あなたも未奈も、少しは他人の都合というものを考えられないの?」
まるきり被害者のような面持ちで、末奈がわたしを糾弾する。その
なればこそ、手心を加える必要も感じないのだが。
「その
先輩に被害者ぶる権利なんかない。貴女にだって、もう自分の罪が視えているでしょう」
「大袈裟な言い方をしないで。
私の罪? 一体私が何をしたって言うの?」
小馬鹿にするように末奈が笑った。これが、彼女なり処世術なのだろう。そう分かっていても、ただその愚昧が不快だった。
「決まっているしょう。
先輩がミナ先輩を妊娠させたことですよ」
淡々と、事実だけを口にする。
瞬間、末奈が
「やっぱり、あなたおかしいのね。私が未奈を? 一体どうやって?
そもそも――その娘は妊娠なんてしていないじゃない」
嫌悪と侮蔑の同居した表情で、末奈がわたしを詰る。
「――ああ、やっぱり貴女はそこから正さなければいけないんですね」
まったく呆れた態度だった。もはや溜息すら出てこない。彼女が妊娠していると言い出したのも、末奈だというのに。
その呟きがよほど癪だったか、末奈は眉を顰める。
わたしはもう、すっかり億劫になっていた。ただ、彼女たちがありのままを視れば片づく話なのだが――それでもやはり、このままにしておくわけにもいくまい。
原色を敷き詰めた硝子の箱を行く。そのまままっすぐと末奈の横を通り抜け、わたしは菩提樹へと近寄った。
「何をしているの」
刺々しい口調で、末奈がわたしを制止しようとする。当然聞いてやる義理はない。
「別に。ただ、このままにはしておけないでしょう」
そう言って、わたしは足元のミナの手を取った。半ば強引に彼女の上体を起こすと、そのまま腕を手繰り、肩を貸して立たせる。
「――貴家、さん」
「痛みますか、ミナ先輩」
幸い意識はあるようで、思ったよりスムーズに傍らの長椅子に座らせることができた。熱っぽい瞳で、ミナがわたしに訴えかける。
「だから、やめておけと言ったんです。
貴女がそうまですることはなかった」
思わず、本音を漏らす。
迂闊なわたしに、ミナは小さく首を横に振ってみせた。これは自分のやるべきことだと、この人はそう言うのだろう。
「――これだから、始末が悪いというんだ」
誰にも聞こえないように、口の中で呟く。彼女が妹に対して抱くそれは、わたしから失われて久しい感情だった。
――だからこそ、わたしはゆっくりと、ミナの肚に手を伸ばした。
「貴家さん!」
背後で声が上がるより早く、わたしはその胎動を幻視した。
ミナは、すべてを諦めた顔でわたしを見ていた。もはや、直に触れて確かめるまでもない。
これはわたしの幻想ではない。しかし今、確かにわたしたちはそれを視てしまった。
触れかけた手を引いて、わたしは末奈へ向き直る。末奈は、ただ呆然と立ち尽くしていた。自分の視たものが、まだ信じられないらしい。
「もう分かるでしょう? これが貴女のやったことです。
これでもまだ、貴女は何も視ていないと言うんですか?」
もはや目を逸らすことさえできないのだろう。末奈が怯えた表情で、この場にいないはずの四人目を
「――お腹にいるのは、心臓痕さんなの?」
震える声で末奈が言った。その言葉には亡霊への畏怖ではなく、馬鹿馬鹿しくも切実な願望が込められていた。
「そんなわけがないでしょう。
それは貴女が望んだ幻だ。たとえ貴女に硝子が視えていたとしても、それは本質じゃありません」
そしてわたしたちは信徒ではない。父も御子も聖霊も、聖母だってこの場所にはいやしない。
「だったら――!」
「――だから」
逃避の言葉を遮って、わたしはミナを指し示す。
――彼女の肚に、胎児の影が――硝子の瞳が重なって視えた。
「そこにいるのは、確かに先輩たちの子どもですよ」
――何もかもを悟り、碓氷末奈が絶叫した。
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