/6 書庫~寄宿舎(五月二十日)

「それで、休日の間は結局何の進展もなかったというわけ?」


 バッサリと、袈裟斬りにするかのような硝子の物言いで、思わず書庫の長机に突っ伏してしまう。


「身も蓋もない言い方をするなあ」


「事実じゃない。せっかく時間を稼いでも、無意味に食い潰してるなら無能も良いところよ。赤木にくれてやった紅茶ラデュレも今頃泣いているわ」


 例のごとく、硝子はこちらには一瞥もくれずに、机上の絵本を眺めながら淡々と言い放った。その精緻な横顔は、たかだか数日見ないだけで、何故だが酷く懐かしいものに感じられた。しかし紅茶贔屓とは聞いていたが、赤木に渡した眠剤入りのティーバッグについて、どうやら根に持っているらしい。


「何もしていなかったわけじゃないぞ。確かに、上手く行けばもっと早くカタがつくと思ってたし、それどころか分からないことが増えていく一方だが――ある程度、情報は出揃った、と思う」


 抗弁してみるものの、自信のなさの表れか、意図せず言葉が尻すぼんでいく。それでも貴重な土日を費やしたのだから、少しくらいは労って欲しい――などと、甘ったれた考えが漏れ出ていたのか、ようやく硝子はこちらへ向くと、これ見よがしに溜息を吐いた。


「それを無駄だと言っているのよ。情報量があれば良いってものじゃないでしょう。時間がないからって脊髄反射的に動かないの。

 貴女の強みはフットワークの軽さでも、判断の速さでもないでもないんだから。一度頭を冷やしなさい。本当なら、この土日にだって独りで考える時間が取れたはずよ」


「じゃあ、硝子の言うわたしの強みって何だよ?」


「そんなこと、それこそ自分で考えなさいな。子どもじゃないんだから」


 言葉とは裏腹に、硝子の態度は子どもを諭すときのそれだった。しかしそう言われても、分からないものは分からないのだ。煮詰まっているからこそ、こうして相談しているというのに。


 恨みがましく見つめて抗議の意志を示すと、硝子は一度長い髪をかき上げ、そして実に面倒臭そうに口を開いた。


「仕方ないな。筋道を立てるくらいまでは付き合ってあげましょう。

 ――そもそも貴女、目的を見失ってないかしら? 貴女は何のために、この事件と関わりを持ったの?」


 亡霊がわたしを見る。硝子の瞳の奥に満ちる黒い水が、爛々とした光を放っていた。


 試されている。彼女はわたしの忠誠心を――信仰心を確かめようとしている。


「わたしの目的は――君との約束を履行することだ」


 わずかな思案ののち、わたしは自らの信仰を告白した。硝子の口許が、微かに緩んだように見えた。 


「覚えていてくれて嬉しいわ。

 差し当たり、今回は赤木るいの疑心を解消する必要があるのだけど――さて、そのためには何をする必要があると思う?」


「金澤の怪我の理由を示すことだろ。それも推論のレベルではなく、明らかな確証を得た上で」


「そうね。貴女は初めから、おおよその構造は察しがついていたようだけど、確証がない以上、赤木からしてみればただの誹謗中傷でしかないでしょう。

 それで、現時点で貴女は何をどこまで知っているの?」


 わたしがこの数日で何を知り、また何を見聞きしたのか。頭の中にある付箋を並べ直す。


 まずはっきりしているのは、黒川の怪我の原因と、その経緯だ。これは本人から既に言質が取れている。白瀬の怪我も、恐らくは同じ経緯であるはずだが、あちらにはまた別の疑問が生じてしまった。加えて言えば、金澤の件とも通底するはずだが――白瀬以上に、どこか致命的な箇所が違っている気がする。


 次いで、鈴白が何かしらの形でに関与しているということだ。確証はないものの、消去法で考える限りまず間違いない。これもやはり推測だが、彼は金澤が怪我をする以前に、彼女自身から降霊術について相談を受けていたのではないか。


「じゃあ逆に、現状分からないままにしていることは?」


 突然、目の前で硝子の姿が霧散し、かと思えば耳元で囁くような声が響いた。何のことはない。一瞬でわたしの背後に回り込んだだけだ。


 彼女はわたしの脳内現象に過ぎない。だから硝子が何をしようと、結局それはわたしの望みであり、わたしの想像の域を脱し得ない。しかし、いくら自分自身にそう言い聞かせても、こうして硝子の存在を間近に感じると、どうしても胸が高鳴ってしまう。


 わたしはいもしない彼女の声に促されるままに、頭の中に散らばった付箋を再び手繰り寄せた。今しがた、わたし自身が口にした通り、究明すべき最大の謎は、発端である金澤の負傷の原因と、その経緯である。これさえ分かってしまえば事実上の解決となるが、当然その前により多くの疑問を潰していく必要があるようだ。


 次に気になるのは、鈴白が隠しているについてだ。腹立たしいことに、あの男は今なお思わせぶりな態度を取り続けている。あるいは核心に迫る疑問であるのだろうが、これも先に外堀を埋め尽くさない限りは、例によってヒラヒラと躱されてしまうだけだ。


 机に刻まれていたという聖句の謎も残っている。一体誰が、いつ刻んだものなのか。気にはなるが、これは後回しにして良いようにも思える。ほかと比べて著しく手がかりが乏しい上、肝心の机すら見ることが叶わなかったため、そうせざるを得ないとも言えるが。


 そして、目下のところわたしを悩ませているのが、何故だか白瀬が部屋に引き籠っていることだった。困ったことに、これについては単純に理由が分からないときた。降霊術やに関する情報からは、彼女が今更人目を忍ぶような理由を導き出せそうもない。


 そもそも、彼女たち四人が降霊術が行ったのは十日の金曜日だ。白瀬が怪我をしたのは、週を跨いで十三日の月曜日。そして彼女が部屋から出て来なくなったのは、十七日の木曜日――黒川の転落の翌日で、赤木がわたしに相談する前日のことだった。


 怪我をしてからその間、白瀬は何をしていたのか? 彼女に一体どのような心境の変化があったのか? 昨晩、黒川に改めて尋ねはしてみたものの、残念ながら彼女にも心当たりがないという。


 もし白瀬がと無関係の事情で思い悩んでいるとしたら、わたしにどうにかできるとも思えない。見知らぬ他人の心情を推し量ることほど難しいものはないからだ。そうであれば、白瀬以外の新たな情報源を見出せていない今、解決から著しく遠ざかってしまうだろう。


 ――一通り概観し終えると、いつのまにか隣席に戻っていた硝子が、珍しく感心したように幾度か頷いていた。


「何だ。そこまで自己分析できているのなら、手順は見えているじゃない。

 鈴白先生が口を割らず、金澤莉音に会いに行けない以上、まずはっきりさせるべきは、白瀬花枝が部屋から出てこない理由でしょう」


「そんなことは分かっているし、それが分かれば苦労しないよ。

 わたしは白瀬の顔すら知らないんだぞ」


 改めて情報を整理して感じた。現時点で、白瀬の心情まで詳らかにできるとは思えない。俯瞰から分析できるのは合理的な事柄だけだ。彼女が何かの理不尽から引き籠もっている可能性は大いにある。


 わたしの半ば投げ遣りな返事を聞いて、しかし硝子は怒るでもなく、ただその均整の取れた頭部を小さく横に振った。


「いいえ。貴女は考えていないだけよ。白瀬の件が、や降霊術と無関係のはずはないでしょう。

 今の貴女になら分かるはず。何も白瀬に同情して、心境を察してやる必要はないわ。いつも通り、

 貴女はまだ見ぬ白瀬花枝を一体どんな人間だと思う? 彼女は一連の事件において、一体どういった立ち位置にいるの?」


 鈴の音のような美しい声が、音が、わたしの脳を掻き乱す。わたしの迷いから象られたはずの幻覚かのじよが、不可解にもわたしの思考を鮮明にしていく。パチパチと、泡立つような小気味良い音が、頭の中に響いた。


「白瀬の境遇は――黒川とそう変わらないはずだ。

 だがもしそうなら、本当は黒川と同じように立ち直っていなければおかしい。たとえ表面を繕っていたとしても、あの二人は既に免罪符を得ているんだから」


 思考の空白が徐々に埋まっていく。誰が何を考え、何を行ったのか。事実が不可能を塗り潰し、真実の輪郭を浮き彫りにする。


「黒川も完全に憑き物が落ちているわけじゃなかった。むしろ少女Sがらすに対する恐怖は、前より大きくなっているみたいだ。だけどそれは、何も周囲との関係を断ち切るほどのものじゃない。

 なら――わたしは前提を間違ったのか? 白瀬が黒川と異なる境遇にあるのとしたら? 白瀬が少女Sおまえに恐怖を募らせているわけではないんだとしたら――?」


 弾けるような音が脳を埋め尽くす。次々と疑問が表出し、そしてすぐに溶けて消えていく。硝子の瞳。嗜虐的な笑み。闇色の髪が影のように揺れる。


 何故。何故。何故。何故。何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故。一体、何故。


「だとしたら、彼女は何故部屋から出て来られないの?」


 亡霊の声が脳裏に木霊する。


 瞬間、不規則な点の集合が、確かな像を結んだ。


「――ああ、何だ。そんなことだったのか」


 おもむろに席を立つ。気づけば寄宿舎の門限が近づいていた。何も問題はない。幸いなことに、質すべき相手はここ数日自室に籠もりきりだ。まずはまひろに協力を仰いでみよう。


「ありがとう。お蔭でやるべきことが見えたよ」


 素直に感謝を口にする。しかし、硝子はやはり座したまま、こちらに一切の視線も寄越さず、ただ鼻先で笑い飛ばした。


「何を今更。私は貴女の抽斗ひきだしで、ただの幻覚よ。恩に着る必要なんてないわ」


「そうだな。お前はそうだった」


 それ以上会話はなかった。


 消灯し、書庫を後にする。人気のない古い学舎の廊下に、自分の足音だけが響いている。


 その刻むような音は、迫り来る真実を予感させた。



   *



「ねえ。本当にやるの、これ?」


 夕食後の自由時間。わたしとまひろは連れ立って、寄宿舎一階西廊下――一年生の暮らす私室前へ向かった。目指すは当然、白瀬花枝のいる一○三室だ。


「勿論、本当だとも。わたしが今まで嘘を吐いたことがあったか?」


「覚えているだけで軽く三桁は超えるんだけど」


 そんなにか。滅茶苦茶記憶力良いな。


「正直、騙し討ちみたいで気が引けるよう。たみちゃんは他人だからどうでも良いんだろうけど、あたしは一応面識あるし」


「そこを何とか。これはお前にしか頼めない仕事なんだ」


「そっか。たみちゃん、友達いないもんねえ」


 哀れみの視線が実に屈辱的だが、事実は事実として受け止めるほかない。実際、頼める相手がまひろくらいしかいないのだから。神代の手だけは死んでも借りたくないし。


「しょうがないなあ。愛するたみちゃんのため、ここはあたしが一肌脱いじゃいましょう! 代わりに、次の休日はあたしが貰うからね?」


「――別に良いけど。こっちの仕事が片付いてからな」


 あとで何を要求されるか空恐ろしいものがあるが、背に腹は代えられない。今にも鼻歌でも口ずさみそうなほど上機嫌なまひろを横目に、わたしは廊下を進んだ。それでも肝心の一○三号室の前に差し掛かる頃には、彼女も神妙な面持ちで、普段は姦しいその口を真一文字に結んでいた。


 わたしは扉の開く側にしゃがみ込み、扉正面に立つまひろに目配せをする。まひろは軽く頷いたあと、扉を三度ノックして、部屋の中にいるはずの彼女に呼びかけた。


「花枝ちゃん。あたし、曽我部だけど。あのね――」


 まひろが声をかけてから、少しだけ静寂があった。


 部屋の中から、慌てた足音が聞こえて来る。わたしはその機を逃さぬよう、扉を注視し神経を尖らせる。


 扉が微かに動いたその瞬間、わたしは隙間に手を掛け立ち上がり、すばやく身体をドアの内に滑り込ませた。


「――え?」


 扉の向こうにいた少女が、大きく目を見開き後退あとずさった。背後で扉が閉まると、すぐにその顔も暗闇に沈む。わたしは後ろ手に鍵をかけ、そしてすぐに壁のスイッチを探り当てると、躊躇いなく押し込んだ。


「っ――」


 頭上に明かりが灯り、息を呑む音が聞こえた。長い時間、暗いまま過ごしていたのだろう。わたしとそう背丈の変わらぬ小柄な少女は、しばらく眩しそうに右手を掲げ光を遮っていた。


 ようやくその手を下ろしたかと思えば、胸ポケットから黒い縁取りの眼鏡を取り出して、自身の顔まで持っていく。そして、神経質さと臆病さの同居する丸い瞳が、薄いガラス越しにわたしを見た。


 異国の血が混じっているのか、瞳にわずかばかり明るい色が認められる。しかし顔立ちそのものに特筆した形質は見当たらず、自己主張の弱い低い鼻と高い頬骨が、標準的な日本人らしい平板な印象を与えた。髪もわずかに赤みがかって見えなくもないが、肩にも届かない短さであるにも関わらず、寝癖なのか髪質なのか分からない程度には乱れていることの方が、髪色よりよほど目についた。学院から支給されている、一見質素ながら上等なワンピースタイプのルームウェアも、数日同じものを着続けているのか、あちこち皺が目立っていた。


 無遠慮に検分するわたしを、下級生――白瀬花枝は明らかに警戒したように、身を強張らせながらじりじりと距離を取った。


「そう怯えるなよ。別に取って食おうってんじゃない。ただ、君と話がしたかっただけだ」


「誰? 曽我部先輩は?

 いやそんなことより、るいの怪我ってどういう――」


「だから落ち着けって。二年の貴家だよ。一昨日の夜も、昨日の昼も訪ねただろう。

 あと赤木の怪我ってのは嘘だから。彼女、ピンピンしてるよ。今のところはね」


 白瀬が再び驚愕に目を見張った。


 ――るいちゃんが、麓の病院へ運ばれたの。


 部屋の前で、まひろはそう告げた。予想通り、白瀬は赤木を無視できなかった。黒川の転落と、これから起こり得る赤木の転落は、ある意味で白瀬が原因だ。赤木が学院を離れるほどの怪我をしたとなれば、罪の意識が生じるだろう。その可能性に、わたしは賭けた。


「私を、騙したの?」


 ようやっと、絞り出すように白瀬が言った。怒りを押し留めるような、震えた声だった。


「ああ。でもまひろを恨んでやるなよ。あいつは人よりちょっと即物的なだけだ。

 それに白瀬さんも悪いんだぜ? 相部屋の子も、先生方も、みんな君を心配しているんだから」


「関係ないでしょ。

 さっさとここから出てって。でないと――」


「大声でも出して助けを呼ぶか? やってみろよ。わたしは正直に、包み隠さずすべて話すぞ」


 わたしがそう言うと、白瀬は臆したようにまた言葉を詰まらせた。


「あんたが、一体何を知ってるって言うの」


「何もかも、をだよ。

 白瀬さん、君はこう思っているんだろう。――少女Sは自殺ではなく他殺だった。だって屋上の鍵は閉まっていたのだから、ってな」


 返す言葉すらなかったのか、白瀬はただただ目を見張った。


 彼女が絶句するのも無理はない。本来教職員しか知らないはずの不可解な事実を、知っている者がいたのだから。


 そしてその沈黙こそが、わたしの推測を確信に変えた。


「怖くなったんだろう、白瀬花枝。

 今更そんなことを知らされて、怖くて外にも出られなくなったんだ。何せそれが事実なら、少女Sを殺した犯人がまだ学院にいるかも知れないからな。

 いや、それだけじゃないか。金澤をたのもそいつだと君は思い込んだ。ならば君たちのも、知らずそいつの逆鱗に触れていたかもしれない」


「何で、そんなことまで――」


「悪いが質問してるのはこっちだ。屋上の鍵の件は、黒川さんの怪我のあとに聞いたんだな? と、鈴白に告げ口したときにでも言われたか」


 力なく、白瀬がその場にへたり込んだ。もはや言い逃れをする気力もないようだ。


 白瀬は初めから少女Sの霊なんて信じてはいなかった。そしてそれは周囲の人間も同じだったのだろう。だからこそ白瀬は、S


 そして黒川の転落後、黒川が金澤を突き落とした犯人だと確信した白瀬は、それを鈴白に密告した。しかし鈴白は、白瀬の推測を否定した上で、屋上の鍵の件を聞かせたのだろう。つまりは少女Sを殺した犯人が、金澤のの犯人であると示唆したのだ。


 わたしは白瀬に近寄り、屈んで視線の高さを合わせた。


「良いか。鈴白の言うことなんかを信じるな。あの男は聞こえの良い言葉を並べているだけだ。君たちのことなんて欠片も慮っちゃいない」


「屋上の鍵がかかっていたというのは、嘘だったの――?」


「施錠されていたのは本当だよ。残念ながらね。

 だとしても彼女は自殺なんだ。それだけは絶対に嘘なんかじゃない」


 知らず、語気が強まる。対する白瀬はしかし、実に弱々しくわたしを見つめていた。


「どうせ鈴白は、S、とでも君に仄めかしたんだろう。鍵を自由に持ち出せるのは教職員だけだからな。

 だが、よく思い出してみろ。鈴白は絶対に明言していない。君が勝手にそう思い込むよう仕向けただけだ。あとでいくらでも言い逃れができるようにな。

 そして、よく考えてみろ。もし本当に教職員の中に少女Sを殺した犯人がいるなら、それを君に明かして一体何の得があると言うんだ?

 ああ、確かに鈴白は嘘を吐かないだろう。しかしあの男は君を欺いた。自分に都合の良い情報だけ伝えて、君の行動を制限したんだ」


「――分からない。先生は、どうしてそんなことを?」


 白瀬は明らかに混乱した様子だったが、しかしその疑問自体はもっともだ。教職員に犯人がいるということは、鈴白自身も容疑者の一人であると知らせるようなものだ。そもそもそれを一生徒に暗示して何になるだろう。


 仮に白瀬が鈴白を告発したところで、まさか信じる者はいないだろうが、一方で鈴白が箝口令の敷かれている情報を生徒に流した事実は明るみになる。どちらに転んでも鈴白に得はない。


 つまり鈴白の狙いはそのどちらでもなく、まさに今の彼女の状態をこそ、望んでいたと考えるべきだろう。


「――さあね。しかし君が今も五体満足でいることが、鈴白の欺瞞の証左じゃないか。

 もし殺人犯とやらがいたとして、屋上の扉を自由に開閉できるような手段を持っているなら、この部屋の玩具みたいな鍵なんて易々と破るだろうよ」


 もっともらしい口調でまくし立てる。わたしと鈴白、欺瞞に満ちているのは、果たしてどちらの言葉だろうか。


 硝子の死の前後に、第三者が屋上にいたとして、鍵を用いずに屋上の扉を開閉したとは限らない。そもそも扉の鍵穴には、無理やり操作されたような痕跡は残っていなかったはずだ。


 例えば――第三者が何かの偶然で屋上の合鍵を入手していた場合、寄宿舎の部屋まで自由に出入りできる道理はないだろう。


 しかし、その程度の矛盾すらも見抜けないほどに、白瀬の判断力は損なわれていた。彼女は既に、み疲れていたのだ。


「咲月は――誰かに突き落とされたんじゃ、ないんですね」


「ああ。だけど金澤さんの怪我も、黒川さんの仕業じゃないよ。

 黒川さんの怪我は――君と同じだよ。つまるところ、


 白瀬は両手で顔を覆いながら、違う、違うと喚きながら、何よりも己自身にそう言い聞かせようとしていた。しかしそれは、事実を正確に認識しているからこその苦悶であり、つまるところ逃避でしかなかった。


「だったら、どうして莉音は落ちたの? あの子が落ちなければ、私だってしなかった!

 先輩は莉音がって――少女Sが本当にいたって言うんですか!?」


 彼女の悲痛な叫びに、わたしは答えない。わたしに彼女は救えないし、そのつもりもない。それに、金澤の事情を知りたいのはわたしも同じだった。


「やはり君は、少女Sの存在を信じてはいないんだな」


 わたしが訊くと、白瀬はわずかに顔を上げ、自棄になったように鼻で笑った。


「そんなの当たり前じゃない。どうせあの子は、構ってもらいたかっただけでしょ」


 誰に、とは聞かずとも分かり切っていた。


 それ以上、白瀬は何も言わなかった。彼女はただ膝を抱えて、罪悪感から逃れようとしていた。


 ――尋ねるべきことは尋ねた。もうこの部屋に残る理由はないだろう。


「邪魔をしたな。

 これは先輩としての助言だが、あまり思い詰めるなよ。


 黒川さんの怪我は確かに君のせいだが――少なくとも彼女は君のことを恨んでいなかったよ。あるいは、黒川さんが先に怪我をする可能性だってあったかもしれない。


 それに君たちを繋いでいるのは、たかだか二ヶ月足らずの友情じゃないか。この学院で一年も過ごす頃には、きっと何もかもを忘れられるさ」


 わたしは静かに立ち上がって、足元で蹲る白瀬にそう言った。


 ――硝子かのじよがいた、たかだか数ヶ月の時間を忘れられないわたしが嘯くほど、空々しく響くものはない。


五月蝿うるさいな。

 さっさとどっか行って。二度と話しかけないで」


 白瀬も、わたしの言葉から何かを感じ取ったのだろうか。彼女の恨めしげな声が響いたところで、わたしはようやく部屋の鍵を開けて、無言のまま退室した。



   *



「――花枝ちゃん、どうだった?」


 廊下に出ると、壁に寄りかかって待っていたまひろが、すぐさまこちらに駆け寄って来た。わたしは彼女を伴いながら、足早に廊下を往く。


「こっちの目的は果たした。

 しかし、あれは重症だな。わたしにはどうしようもない」


「――そっか。それじゃあしょうがないね」

 まひろの表情を伺う。いつもと変わらない飄々とした顔で、彼女なりに白瀬を哀れんでいるのだろうか。


「悪かったな」


「何で? たみちゃんは別にそれでも良いんでしょ?

 たみちゃんが悲しくないなら、あたしも悲しくないよ」


 まひろはそう言って、本当に何でもないようにと笑った。


 ――わたしは自分のために、白瀬の傷を切り開いた。しかしそのことに不要な感傷を抱いていたのは、どうやらわたしだけだったらしい。


 広間の階段を上がり、二階へ。談話室前を通り過ぎ、東側の通路へと入る。


「それで、赤木さんの頼みは果たせそうなの?」


「まあな。多少整理してからになるけど、後は詰めを残すのみってところかな。

 問い質すべき相手も分かっているが――それでも、今度こそ言い逃れできないよう、攻め方はきちんと考えておかないと」


 散々回り道をしたが、ようやく尻尾を掴むことができた。やはり彼は一連の事故に介入している。自分の目的のために、事実を捻じ曲げ、


 いくつかの扉を通り過ぎ、二〇六号室――わたしとまひろの部屋の前で、わたしは足を止める。それから振り返ると、まひろがわたしの言葉を待つように、まっすぐわたしの顔を見ていた。


 ――心からの信頼を表すかのような、澄み切った色を湛える瞳。深い闇を孕んだ硝子の双眸とかけ離れているはずのそれは、しかし何故だか硝子と同じように、濃密な死の臭いを漂わせていた。


 その理由を、わたしはとうに知っている。だからわたしは、彼女にだけは自分を偽ることができないのだ。


 軽く息を吸って、吐く。そしてわたしは、初めて幻覚かのじよ以外の人間に、一連の核心を明らかにした。


「――鈴白要。あの男がの中心だ」

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