第17話 千絵2

「ねえ、知ってる?むかーし、この山で迷子になると、二度と帰ってこられないって話があったんだってよ」


「えっ?そんな話があるの?知らなかったよ」


「ふ~ん、知らないんだ」


「なんでそんなこと知ってるの?」


「私がもっと小さい頃、お祖父ちゃんが言ってた。一緒に山にきたとき、お祖父ちゃんが見えるところにいなさいって、一人で見えないところに行くと、二度と帰ってこられないよって」


「それって、小さかったから危ないって意味で言ったんじゃない?」


小さい子に言いそうなことだ。


「そう?でも、お祖父ちゃんの友達が迷子になって、帰ってこなかったってよ。もう大人だったのに」


「家出したとか……」


「だ・か・ら・山で迷子になったんだってば!あたしの話、聞いてる?」


千絵は人差し指を僕の目の前で揺らしながらそう聞いた。その仕草はちょっと鬱陶しく、少しムッとした。


「じゃあ山で迷子にならないようにしないといけないね」


「そうだよ。だから久保君が帰ってきて、不思議なんだよね」


「まるで帰ってこないほうがよかったみたいだね」


「うん、そうなんだよね。だって、二度と帰ってこられないっていう話が間違いだったってことでしょ?困るよね、そういうの」


「困る?」


 千絵の言いたいことがよくわからない。


 僕が帰ってこないほうがよかったと思われているようで、またムッときたけれど、どうもそういう話でもなさそうだ。


「困るよ。あたしは絶対に迷わないように、お祖父ちゃんについて山へ何度もきてるんだよ。絶対に迷子にならないもん」


「そう、岡元さんは迷わないように気をつけてね」


「千絵だよ。あたしは迷わない。でも友達は山をよく知らないから、絶対に迷うんだ」


「友達?ハル?」


「ハルちゃんのこと、知ってるの?」


「知ってるよ。同じ通学班だし」


「ハルちゃんは迷わないよ。あたしが一緒なら迷わないもん」


「ハルと山に来たことがあるの?」


「6年生になったら、2人でもお祭りにきていいって、お母さんが言ってた」


「そう、じゃあ2人で山に来ても迷わないように気をつけてね」


 僕がそう言うと、千絵は「うん」と返事をして、草むしりに集中し始めた。なんだかちょっと変わった子だなと思った。


 それよりも、千絵の話は僕の心をざわつかせた。


 千絵のお祖父さんが言っていた、山でいなくなった友達というのは、きっと山の中……洞窟に入り込んでしまった人なんじゃないかと思う。そうして、昔、身近に山に行ったまま失踪した人がいる人は、山深くに一人で行くと帰ってこられなくなるということを、なんとなくわかっているのかもしれない。


 僕は知らなかったけれど、千絵のように、そういう話を耳にしたことがある子が他にもいるのかもしれない。ただ、その本当の意味には誰も気づいてはいないのだなとも思った。きっとみんな、慣れない者が山深くに一人で入ると、迷ってしまうから気をつけようという意味だと思っているのだろう。


 階段の上まで草むしりが済むと、千絵に「手伝ってくれてありがとう」と言い、僕は社務所に向かった。


「ねえ、この犬、あんたの?」


掃除を終え、千絵は階段を下りて行ったと思っていたけれど、声がして振り向くと目の前にいた。


「お祖父ちゃんのところに行かなくていいの?」


「お祖父ちゃん、終わるまで寺で遊んでなって」


「そうなんだ。僕は伯父さんに頼まれた用事があるから、行くよ」


「ねえ、この犬は?」


「僕の犬だよ。リードを杭から外したりしないでよ」


「迷子になっちゃうもんね」


犬は迷わないんじゃないか?と思ったけれど、僕は「そうだな」と返事をして社務所に入ってしまった。千絵と話してたら、いつまで経ってもここから離れられそうもないからだ。


「誰かいたか?」


「5年の子がお祖父さんと山へきてるみたいだよ」


「そうか。声がしたなと思ってな。お茶でも飲むか?」


そう言って、伯父は既に急須に入れてあるお茶を湯飲み茶わんに注いでくれ、持ってきたスーパーの袋からお煎餅やクッキーを出してくれた。


 そこは僕が草むしりをしている間に、伯父が社務所の雨戸をあけ掃除したようで、入ってきたときに感じた埃臭さが、もう消えていた。


 お茶も飲み終わり、お替りは?と聞かれたけれど、いらないと答えると、


「さて、じゃあ爺さんたちが書き残したものを見るか」


そう言って、押し入れの中にある、その半分ほどの大きさの金庫の鍵を回し始めた。


「いいか、右へ3左へ1、また右へ8、左へ9、右へ5だ。右、左、右、左、右の5回だ。3、1、8、9、5覚えたか?」


「3、1、8、9、5」


「そうだ、ちゃんと覚えておけよ」


そう言われ、僕は何度も、3、1、8、9、5と繰り返した。


「5まで回したら、そこでもう最後閉めるまで回しちゃいかんからな。そのまま閉めて、また次に開けるとき、そこから3、1、8、9、5だ」


「わかった。ちゃんと覚えておくよ」


 その鍵には数字がついているのではなく、ただメモリがついているだけだった。回す回数が重要なんだなと、その数字を知った僕は、また特別な者になるんだという気持ちが湧いてきて、身体が固まっているような気がして、力が入っている肩をなんとなく回した。



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