タケルは何かを地下で見る

 余震のように静かに騒ぐ胸。そこから連なる腕。小学生以来、向かわぬようになった机。タケルは帰宅するとすぐ、握り締めたまま汗で少し歪んだ表紙を開いた。


 枕草子。もちろん、名前くらいは聞いたことがある。授業でも習った。しかし、古典などをタケルが理解するはずもなく、ほとんど経文のような文章だと感じた。


「春は、あけぼの」

 眼で追うことを諦め、小声で読んでみた。

「やうやう白くなりゆく——」

 山ぎは、をどう訓ずればよいのか分からない。そもそも、ようよう、ではなく、書かれたままやうやうと訓じてしまっている。

「すこしあかりて。——すこしあ?すこし、あかりて?」

「ちょっとだけ明るくなって、って意味よ」

 不意に背後から声がして、タケルは背中を刺されたように身を仰け反らせた。


「なんだよ、メグ」

「朝からちゃんと学校行って、帰ってきて勉強?お兄ちゃん、ほんとにどうしちゃったの」


 メグはタケルの様子を見に、彼が部屋に入ったあとからすぐ、そっと扉の隙間から覗き見ていたわけであるが、彼が物置きと化した机の上に散らばっているものを乱暴に押しのけて本を開いたものだから、空に不意に現れた龍が蛇行しているのを見るかのように驚いてしまい、声をかけられずにいた。彼が読みに詰まったのが救いのようになり、やっと室内に身を滑り込ませることができた。


「ねえ、ほんとに大丈夫?」


 メグは心配しているらしい。うるせーな、お前にゃ関係ねえだろ、というタケルの怒号が飛んで、やっと少し安心することができた。


「今日は、クラブ行かないの」

「クラブじゃねえ。ライブハウスだ」

 それについての小言が、今この場の二人を繋ぐたったひとつのものだった。


「訊かれたことに、答えなさい。出かけるの?出かけないの?」

「出かけるよ。うるせーな。嫁かよ」


 メグは、そう、とだけ言って退出するかと思われたがそれをせず、むしろ部屋の中に進み入ってベッドに腰掛けた。


「なんだよ。出てけよ」

「ねえ、ライムしてみてよ」


 兄が唯一打ち込めるものの用語で、韻を踏むことをそう言うのだということをメグは知っている。彼女はヒップホップなど全く理解せず、いつもタケルの部屋から漏れ聞こえる重低音についての苦情を申し立ててくるものであるが、このときは、むしろ兄の世界に話題を向けた。


「なんだよ、急に」

「あ、急に言われても、できないんだ。負け犬ルーザー


 そう言われれば、タケルはすぐにかっとなる。メグの方が一枚上手であった。

 タケルは瞬時に、メグが思わずはっとするほど深い集中を見せた。既にその耳の奥では、無音のビートが再生されている。


「民度の問題、理解できない、ヒントを頂戴、それは論外」

 言葉がうねりグルーヴとなり、タケルの唇を鳴らす。


「ピントの合わないレンズに包帯、マジで困憊、この枕草子に見栄を通し」


 メグが思わず腰を浮き沈みさせてしまうほど、その言葉は一定の引っ掛かりをもって流れている。


「意識と言葉と文字をコンバイン、セパレート、背丈とそれに見合ったアクセレート、エスカレート、この文字の羅列、バカな俺には似合いの墓穴」


 メグが笑った。タケルも、口の端を吊り上げて笑っている。二人の頭が、同じようにして揺れる。


「教えてくれよ秘訣、才色兼備で通ったメグ、清少納言にゃお手上げだよ多分、勉強もせず、漢字読めず、気ばかりがく」


 タケルのツイストパーマが揺れるのをやめると、メグのボブヘアーも止まった。


「案外やるじゃん、お兄ちゃん。勉強ができなくても、言葉はそれなりに知ってるのね」

「うるせえ。それなりに、は余計だ」


 メグはくすくすと笑い、タケルがいつもの調子であることを確かめて安心したのか、出かけるなら早く帰るのよ、という言葉と共に、兄の真似をしてちょっとおどけながら、


「日付変わる前に帰宅せよシンデレラ、ヤンキータケル実はツンデレだ」


 とライムをひとつ残して出て行った。


「ヤンキーじゃねーわ。下手くそ」


 タケルはそっと閉じられる扉に向かって中指を立て、また机に向かった。

 出かける、という宣言は、そのまま晩飯は要らぬという意思表明をしたものと考えてよいだろうと思い、時間ぎりぎりまで枕草子と格闘する覚悟を決めた。

 読みが分からず、詰まる。下段には現代文訳が挿し込まれているから、それを見れば意味は分かる。タケルは今、明日カンナに教えてもらうべき点を模索している。教わる約束をしたはいいが、何をどう教わってよいものか分からない。


 一時間ほど苦悶の表情を浮かべ、枕草子を放り出して制服のズボンを脱ぎ、スポーツメーカーのトラックスーツを穿いて彼の世界へと出かけた。


 電車なら一駅、歩いてゆけないこともない。それくらいの距離に、彼の入り浸る地下の世界はあった。日によっては今どきのバンドのライブが入るが、ヒップホップ好きのオーナーの意向によって週に三日はヒップホップイベントが催される。


「なんだ。タケル。また泣かされに来たのか」


 そう言って笑う受付の元ボディビルダーのリュウという男に千円札と中指を突き出した。


「頑張ってね、タケルくん」


 ジンジャーエールをプラスチックのカップに注いでタケルに渡すのは、大学生のミサキ。噂では元風俗嬢フーだったというが、それを感じさせない、ちょっと派手な化粧をしているくらいの印象の女だった。

 タケルはそれと目も合わせずにカップを受け取り、手招きをするようにバスドラムの音を漏らす安い防音扉を開いた。


 開くと、歓声の波が、繰り返される音楽シーケンスの渦が、ステージの方に向けられたまま放置されているスポットライトとそれが作る客席の闇が、彼を包んだ。


「どこ触ってんのよ、変態」


 すぐ目の前で、女の怒声。それに応じる男の声。その真ん中を割って入り、通り過ぎ、フロアのど真ん中でステージを睨み付ける。


 海兵隊頭ジャーヘッドのハルト。また、歓声を全身に浴びて挑戦者を打ちのめしている。

 それを睨み付け、タケルはジンジャーエールを一口啜る。挑戦者がマイクをMCに返し、それに対する歓声とブーイングが巻き起こる。ある者はタケルを讃え、ある者は挑戦者を罵った。飛び交うそのひとつひとつが、タケルを苛立たせた。


 ふと、ハルトが客席に眼をやる。

 暗闇の客席に浮かぶトラックスーツのラインと長く伸びたツイストパーマを見つけると、にやりと笑って痛々しくガーゼをあてた顔を笑ませ、来いよ、という仕草をした。


 踏み出す。タケルの足が、ステージへ。

 乱すことなく、その精神を不定期な重低音キックに溶かす。

 意味為す言葉になるその前の混沌が、弾んでいる。

 袖を通らず、フロアを蹴ってステージへ。

 歓声。同時に、罵声。そこから派生する温度と共生することなく、芯まで冷えた頭で。


 何かが足りない。いつも、そう感じていた。何が足りないのかは、分からない。その混沌の渦をどうにか言葉にできぬものかと足掻くが、枕草子の読み解きと同じで、何をどのようにして足掻けばよいのか分からない。

 瞳を突き刺すスポットライトを一度睨み付け、コイントス。それに従い、ハルトが先攻に。


「この傷の借りを返してやるよ、チビ」

「言ってろ、海兵隊」


 レコードが回転を始める。ハルトはすぐにそのビートを掴み、自らのグルーヴを溶かし込む。


「まずは先攻、オーディエンスの選考、幸か不幸か標的変更、撃ち抜くぜ負け犬ルーザー、この言葉で操作、俺の人気は揺るがねえ、翻れ旗、じゃあなまた、今日は帰って親孝行、肩揉み掃除してなマザーファッカー」


 まずは小手調べといったところだろう。シーケンスの中、互いに睨み合ったままマイクゴーハチを交わす。


「さあ、次はタケルだ!今夜こそ、永遠の負け犬ルーザーの汚名を晴らせるか!」


 MCが言うのに応じて、オーディエンスも口々に囃し立てる。それが次第に一つの波となり、フロア全体がルーザー、という声で満たされた。


 タケルは、マイクを握り締めたまま微動だにしない。もう、持ち時間は始まっている。

 オーディエンスが、どよめいている。

 それを、タケルはただ聴いている。

 頭の中に、何かが。

 それを、追いかけてみる。しかし、それは姿形が見えそうになると、陽炎のように逃げてゆく。

 あと、一周。それで持ち時間が終わる。それを待たずしてタケルはマイクをMCに返し、ステージを降りた。

 嘲笑と罵声が、その背に斬り付ける。それに気付かぬわけもなかろうが、タケルは不思議なものでも見たような表情をしながらフロアを通り抜け、無言のまま防音扉を開いた。


「あれ、もういいの?どうだった、今日は勝てた?」

 ミサキがにっこりと笑いながら声をかけてくるが、やはりタケルは答えない。そのまま受付のバーカウンターを出、地上の下らない世界へと通ずる頼りない螺旋階段を上がった。


 何が見えかけたのか。ステージを降りた瞬間、それは消えてしまった。ただ、今まで知り得なかった何かが、確かにそこにあった。

 それが何なのか、確かめなければならなかった。

 足を家に向けるうち、冷めた頭にはいつものようなぼんやりとしたフィルターがかかってゆく。


「あれ、早かったのね」


 玄関で、部屋に上がろうとしていた風呂上りのメグと鉢合わせをしたところで、帰宅したことを知った。


「どうしたの。なんかあった?」

「うるせー。お前にゃ関係ねえ」


 そのまま、また部屋へ。机の上には、放り出された枕草子。それにちらりと眼をやり、ベッドに突っ伏す。このままだと、シャワーも浴びずに眠ってしまいそうだった。どうにか再び起き上がらなければ。そう思ったところで、タケルの意識は途切れた。

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