第4話 隔たり






 人とは(まあ、私は鬼なのだが)良くも悪くも環境に慣れてしまう生き物なのかもしれない。



 今まで何度か体感した、その言葉。それを改めて実感したのは、ママが経営するスナックで働き始めて早二か月が過ぎた辺り。丁度私が、この生活のリズムに慣れ始めた頃だった。


 最初は嫌で仕方が無かった女物の衣服(ママが用意してくれている)も、今では袖を通すことに躊躇は無い。何でこんなに早く順応出来るのかと自分のことなのに疑問を抱いたこともあったが……たぶん、これはこの身体が影響しているのだろうと思っている。


 精神は肉体の影響を受けるというが、その逆もまた然り。肉体も、精神に影響を与えるということを、私はこの身体になって幾度となく実感してきた。


 その代表なのが、酒だ。


 この体になる前の私と、この体になった後の私。私自身は特に変わったようには感じない。だが、酒に対する執着や、この肉体がもたらす恩恵によって多少なりとも私の精神に変質が現れているのだろう……と、今の所はそのように推測している。


 だから、と言うべきかは些か迷うところだが、意外と女物というやつを受け入れるのに抵抗は少なかった。


 さすがに自ら望んで身に着けようとは思わないが、口紅の加減も分かるようになり、パンプス(ママ曰く、お子様シューズだそうだ。どこが違うのかは知らない)にも慣れた。今なら、多少なりとも女らしく見られていることだろう。


 そのおかげか、最初と比べて客から声を掛けられる回数が目に見えて増えた。ただ、私がそのことに気づいたのは、つい最近のこと。ママから『さすがに何時までも裏方ばかりさせられないねえ』はっきりと言われるまで、私はてんでそのことに気づいていなかった。



 『素材は良いのに、見事なまでにお前はその素材を殺している。世界広しと言えど、お前以上に勿体無いやつは見たことがないね』



 ――とママが苦笑交じりに零していたのは、記憶に新しい。


 多少なりとも女らしさというやつを見に付けた私だが、どうやら生来の無頓着ぶりは鬼(女)になっても些かも変わっていないようだ。そのせいで、私は一部のお姉さま(仕事上の先輩たちである)方からも、勿体ないやつと言われるようになっていた。



 まあ、私としては、だ。



 どう見られようと気にするような性格ではないし、結果的に売り上げが上がるのなら、それでいいという程度のことでしかない。むしろ、中身が男(しかも、くっそ情けない三十路間際の、だ)であることが申し訳ないとすら思うこともあった。


 そういう気持ちがあったからなのか、私は酔っ払った客(堅気もヤクザも)から悪戯半分でお尻を触られても、特に怒りも何も湧かなかった。極道にちょっかいを掛けられても、私はごく平然と業務を続け、顔色一つ変えることもなかった。


 ふーん、の一言で対応したり、ごく自然な動きでその手を遮ったり、逆にその手を掴んで握手をしてみたり……そうやって対応できるようになって、さらに一ヵ月。計、三ヶ月が経った頃。


 鈍感になったのか、あるいは慣れたからなのかは分からない。ただ、驚いて手を引く客の姿を見れば、私はいちいち反応するのも馬鹿らしいとすら感じるようにまで、私の心は平穏のままだった。


 特に名言されたわけではないし、教えられたわけでもないが、もしかしたら、それが『あしらい方』というやつだったのかもしれない。


 そして、日々の仕事の中で私がその技術をごく自然と学んでいくに従って、ママも私に任せる仕事の幅を少しずつ増やしてくれるようになった。


 まあ、行ってしまえば雑用の幅が増えただけのことなのだが、私としては、けっこうそれが嬉しかった。自分で言うのも何だが、認められた、と思えたからなのかもしれない。


 そして、私がそこで働き始めてから、計四か月の月日が流れた頃……私は、お姉さま方のご機嫌伺いも兼ねて、今日も今日とで先輩たちが嫌がる作業……ワインクーラーの用意に明け暮れていた。







 かつん、かつん、かつん、かつん、かつん。


 それなりに意識を集中させながら、注意を払ってアイスピックを振り下ろし続けること、早二十分。ふと目を瞬かせれば、氷の欠片で出来た小山が鎮座していた。


 ぽつぽつと聞こえてくる雨の音に耳を澄ませながら、私はまな板の上の氷と、ボールに溜めていた氷をアイスクーラーの中に流し入れる。次いで、冷凍庫にある氷製器から新たな氷塊を取り出し……また、アイスピックを振り下ろす作業を始めた。


 かつん、かつん、かつん、かつん、かつん。


 ともすれば貫通してしまいそうな恐怖に怯えながら、最小限の力でピックを振り下ろす。かつん、と割れた大きめの破片を指先で細かく砕いてからボールに投げ入れる。


 この砕いた氷は、主にワインクーラーに(ワインを冷やしておく、あのバケツだ)使用する代物だ。細かければ多少形が崩れてもいいが、とにかく量を用意しなければならない。


 ママ曰く、このワインクーラーがあるかどうかで、テーブル上の印象がガラリと変わるらしい。私としては、『華』さえあれば良いのではないかと思っていたが、それだけでは客は集まらないのだそうだ。


 ただ、実はこれ……ママを含めたお姉さま方全員が面倒に思っている作業の一つだったりする。鬼である私にとっては苦にはならない作業だが、女の細腕では、やはりかなり堪える作業らしい。


 なにせ、私以外の全員がこの作業に対して、『とにかく手が疲れるし豆が出来たりするから、出来ることならやりたくない』と口を揃えるのだから、よっぽどである。



 だったら人を雇えばいいじゃん、と言ってしまえばそれまでのことだが、それも今は出来ないのだという。



 以前、こういった力仕事をまかせる為にボーイを二人ぐらい雇っていたらしいが、その内の一人がどこぞの組の女に手を出したとかで、かなりの大事になったらしい。


 だから、今は男を一人も雇わないようにしている(時々は贔屓にしている組の若造やら、銀二やらが手伝ってくれるらしいのだが)から、必然とこういった力仕事もしないといけなくなった、というのがこの作業の経緯だった。



(――まあ、そのおかげでお姉さま方から良く働く子だと思われているから、余計な嫉妬を買わずに済むんだけどな)



 そのボーイには悪いが、な。まあ、それとは別に、『経費削減』と『実益』も兼ねているらしいから、それだけが理由ではないのだろう。クーラーボックスに砕いた氷を流し入れながら、私はそう思った。


 経費削減と言ったって、製氷皿で作るのと何が違うのかと疑問に思わないでもなかったが、『若い女の子が自分たちの為に作ってくれた氷の方が、色々と美味しく思えるだろ?』と銀二さんから言われ……不覚にも納得してしまったのは、ママには秘密である。


 かつん、かつん、かつん、かつん、かつん。


 営業時よりも幾らか照明が落とされた店内には、絶えず冷風を吐き出す空調と、アイスピックによって削られる氷の悲鳴だけが規則正しく響いている。その中で、断続的に振り下ろしていた手を止めた私は、静まり返った店内を見回して、大きくため息を零した。



 ――いいかげん、飽きた。



 その言葉を寸でのところで呑み込んだ私は、音を立てながら水滴だらけのビール(500ml缶、一番搾り)を全て飲み干す。げふう、とオヤジ臭いため息を吐いた私は、改めて作業を再開させつつも……ぼんやりと虚空を眺めながら、今の己を振り返った。


 ……現時点では、だ。今の所、私のことを本当の『化け物』だと思っている者はいない。特に私から誇示したわけではないから当たり前なのだろうが、結果的にはそのまま今日まで来てしまった。



(最初は居心地の悪さしか感じなかったこの空間も、今ではけっこう落ち着くようになってきちゃったしなあ……)



 せっかく、この生活にも慣れて来たし、酒もある程度は安定的に飲めるようになったのだ。この生活が何時まで続くかは知らないが、出来ることならもうしばらくはこのままで居たいもの――。



 がつん。



 ――と、貫いた脆い氷の手応えに、「あっ」私は思わず声を出した。



 ……。


 ……。


 …………。


 それからしばしして、諸々の片づけを終えた後。することが無くて暇だからフロアの掃除を始めていた私の耳が捉えたのは、出入り口の向こう。少しばかり激しくなってきている雨の中から帰って来たお姉さん方の、怒りを滲ませた愚痴であった。



「――たく、あいつらってマジで最悪! これだからアッチのやつらは嫌いなのよ!」



 ふわり、と香水の臭いを漂わせながら真っ先にそう吐き捨てたのは、この店では一番の人気を誇る女性。銀二さんが属している組の幹部の愛人であるという専らな噂の、ミキちゃんだった。


 なんとまあ、意外な光景だ。急いでタオルを取りに走った私は、怒りに顔を紅潮させたミキちゃんの姿を思い浮かべながら、ううん、と唸り声をあげた。


 美紀ちゃんは、泣き黒子が似合う、ハッと引き寄せられるような美女だ。彼女はその見た目同様、普段から滅多な事では怒りを見せない。その彼女が、これほどまでに怒りを見せる……ただ事ではないだろう。



「ほんと、あいつらって何様のつもりなのかしら」

「そうよね、全く! 幾らなんでも、あれで口説いているつもりだったら、笑えないわよ!」



 ミキちゃんの吐き捨てた言葉に、他のお姉さま方も同意する。その後ろ、一番遅れて無言のままに入ってきたママが、鋭い視線を向けながら入口に鍵を掛けたのを見て……嫌な予感を覚えた私は、そっとミキちゃんたちに駆け寄った。



「――あ、きいにゃん、持ってきてくれたの? ありがとう」



 きいにゃんとは、私の渾名であり、いつの間にか定着した今の私の名前でもある。


 最初はちゃんと自己紹介をしたのだが、誰もそれを信じて貰えなかった結果、そのようになった。(まあ、男の時の名前だから、当然と言えば当然なのだろうが)ちなみに名前の由来は、鬼を訓読み、娘を中国語読みにしただけである。


 真っ先に私に気づいたミキちゃんが、先ほどまで浮かべていた怒りを笑顔に変えて、差し出したタオルを受け取ると、足早に化粧室へと駆けこんで行ってしまった。


 次いで、他のお姉さま方にもタオルを手渡して行く。そのたびに駆け足で消えていく背中を見送りながら……最後、仏頂面を隠そうともしないママに、一番上等なタオルを手渡した。



「……何かあったの?」



 余計な怒りを買わないように気を付けながら、そっと声を潜める。その私の努力を察してくれたのか、ママはしばし無言のままにタオルに顔を押し付けた後……静かに、顔をあげた。



「同隆会(どうりゅうかい)のやつらだよ」



 ……んん?



「……最近になってここいらでデカい顔をし始めている、新参者のグループだよ。言ってしまえばルールも筋も分かってない、チンピラみたいなやつらさ」



 意味が分からずに首を傾げると、「まあ、お前は知らないだろうねえ」ママは苦笑しながら、私に分かる様に言葉を変えて、補足の説明を入れてくれた。うむ、有り難い。



「その同隆会ってのが、いったい何をしたんだ?」



 ミキちゃんとは別の意味で怒りを見せないママが、これほど不機嫌さを露わにするのだ。よほどのことをされたのだろうと思って尋ねた私であったが――



「やつらが、うちのミキにちょっかいを掛けたのさ。うちの店で働けって……しかも、かなり強引な方法でね」



 吐き捨てる様に飛び出したママのその言葉に、思わず――。



「……は、それだけ?」



 ――そう、返していた。


 瞬間、「――はあ?」こっちの様子を伺っていた一部のお姉さま方が振り返った。「い、いえ、すいません!」私は失言を口走ってしまったことを理解する。いや、私に怒りを向けられても……と思う反面、理不尽さを覚えずにはいられなかった。



「こら、あんた達。この子に当たったってしょうがないだろう。それに、この子はこの世界のことは何も知らないんだ」



 そんな私の内心を察したかのように、ママが間を取り持ってくれた。さすがにお姉さま方もママに逆らうつもりはないのか、特に異論を唱えることなく、今度こそ化粧室の向こうへと姿を消した。


 直後、「知らないでは済まされない世界もあるってことを、お前も肝に銘じておきな」しっかりと私に釘を刺す辺り、私には出来ない事だな、と、思った。



「――要はね、他所の店の女を引き抜く行為ってのは、この世界では御法度なのさ」



 私にタオルを返したママは、そう話しながらカウンターへと向かう。次いで、洗って綺麗にしておいた灰皿を一つ手に取ると、煙草に火を点ける。ふう、と吐かれた紫煙の臭いを私が嗅ぎ取った辺りで、「まあ、色々と抜け道もあるけど」ママは話を続けた。



「お前は違うけど、この世界には組と関わりのある女は少なくはない。さすがに結婚まで済ませたやつはそうはいないが、そっち関係の男と寝たっていう女なんて、探せば幾らでもいる程度には、ね」



 苦い顔でそう零したママに私は、「御法度なのって、もしかして痴情のもつれが原因?」思い切って尋ねてみた。ママは首を縦に振って答えた。



「有り体に言えば、そういうことだ。最近は少なくなったけど、お気に入りの子を横取りされて、切った張ったの大喧嘩はいつになっても堪えなくてねえ」



 少しばかり言い難そうではあったものの、はっきりと、ママは断言した……あー……ヤクザも、やっぱり人の子なんだな。



「さすがにハジキ(銃である)を持ちだすような馬鹿はいないが、なにぶん、血の気の多いモノ同士だ。大抵は面倒な大事になって、その都度うちを含めた店側ももちろんのこと、喧嘩した互いの後ろに構えているやつらにも迷惑が掛かってしまう」

「あー、なるほど」

「本当のことを言えば、互いの組もいちいち女絡みで面倒な騒動は御免だろうよ。しかし、組の方からしても面子を保たなくちゃあならないから、やられっぱなしのままにしておくわけにもいかない」

「……つまり?」



 首を傾げながら尋ねると、ママはぷわぁ、と大きく紫煙を吐いた。



「お互いに、落とし所を見つけるのに苦労するのさ。互いの面子を傷つけないようにしなければならないうえに、一文の金にもならない。だから皆、いい加減みんな嫌になって、その御法度が生まれたってわけさ」



 そこらへんは、表の社会と何ら変わらないんだな。と言う言葉を、私は相槌と共に飲み込む。



「……つまり、他所の女にはちょっかいを掛けるなってこと?」

「そういうことだ。仕事であれ何であれ、やることやるなら筋を通せってだけの話なんだが……」



 じじじ、と灰皿に押し付けられた煙草の焦げ臭さが、むわっと立ちのぼった。



「その同隆会ってのは、出来た当初からあんまり良い噂を聞かないところでねえ。犯しちゃあならない線を度々超えちまう、面倒なやつらなんだよ」



 しかもあいつらと来たら、関係の無い堅気にまで手を出すから手におえない。吐き捨てるように零したその愚痴と共にママは顔を上げると、「おや、もうこんな時間かい」ふわりと表情を引き締めた。


 遅れて私も顔をあげれば……なるほど、既に営業時間だ。私が探った範囲ではまだ客は来ていないようだが、いずれすぐにでも誰かが来るだろう……と思ったら、私の耳は階段を上ってくる足音を捉えていた。



(この足音……銀二たちだな)



 この店はヤクザも利用するが、一般の人も利用する。月に何日かそういうふうに分けている……つまり、極道である銀二が来るということは、だ。



「――よお、姐さん。もう開いているかい?」



 からんころん、と入口のベルの向こう。そこから顔を覗かせた、頬に痛々しい傷跡を残している男、銀二と、部下たち。その彼らが来ると言うことは、今日は……。



(面倒事だけは起きませんように)



 そう、居もしない神へと願った私は、小走りでおしぼりを取りに厨房へと戻った。






 その私の予感が現実のものとなったのは、それからさらに三日後のことだった。



(そう、思ってはいたんだけどなあ)



 店から少しばかり離れ、路地を進んだところにある狭い空間は、非常灯とネオンの光で足元が確認出来る程度には明るい。よく分からないが、人を連れ込むには、うってつけとしか言いようがない場所だろう……と、辺りを見回しながら、私はそんな感想を抱く。


 ビルとビルの合間に出来た狭い路地の、袋小路。ちょっと声を出したぐらいでは中々外からは見付けられない場所。そこへ有無を言わさず引きずり込まれたのは、つい先ほどのこと。


 気づいた時には周囲を物騒な形相の男たちに囲まれていることを悟った私は、嫌が応にも己の状況を理解させられ……こみ上げてくる憂鬱さをそのままに、ため息を吐いた。



「――ああん? お前、余裕だな?」



 その態度が癇に障ったのか、私の前に居たスキンヘッドの男が、グイッと顔を近づけてきた。と、同時に、漂ってきた甘い臭いが嫌で反射的に身を引いた私の身体にぶつけられたのは……男たちの嘲笑であった。


 ……何となく。本当に何となく、向けられる視線に薄気味悪さを覚えた私は、それから逃れるように一歩退く。直後、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべていた男たちは、さらにその笑みを深めた。



(まさか、こいつら――)



 それを見た私は、ここにきてようやく……彼らが私に向けている視線の意味と、彼らが私に抱いている感情を理解する。この体になって私は初めて、剥き出しの性欲というやつをぶつけられるということが、どういうことなのかを実感した。



(……こうしてみれば、男の視線って男が思っている以上に分かり易いんだな……でも、意外だ。こういうやつらでも、私のような身体に欲情するんだな)



 ……だが、それはただ単に理解しただけであった。隠す様子すら見受けられない欲望に満ちた視線が、腰やら胸やらに向けられているのが分かっていても、私の心に『へえ、そうなんだ』、それ以上の感想を抱かせるようなことはなかった。


 はた目から見れば絶望的としか思えない状況である。唯一の退路は目の前の男たちに塞がれ、背後はビルの壁が立ち塞がり、頭上に見えるビルの窓のどれもに光は無い。


 助けを呼ぼうにも、表通りから聞こえる喧騒が邪魔をして声も届きにくく、届いてもこの時間帯での悲鳴や怒声はある意味日常茶飯事だ。ということは、外部からの助けは期待出来ない……なのに。



(はてさて、どうしたものか)



 不思議と、私の心は平穏のままであった。現実逃避とか、そういう話ではない。自らよりも頭一つ分どころか三回り……いや、四回りは大きい男に害意を向けられ、かつ囲まれているというのに……私は、全く彼らを恐れていなかった。


 むしろ、私は彼らに対して……愛情にも似た憐れみを覚えていた。狼である私に、無謀にも喧嘩を売る雛……あるいは、虎に戦いを挑む羽虫……それが、今の私にとっては最も近しい気分なのだろうか。



 どちらにしても、私は彼らに対して抱いた言葉は……『身の程知らず』であった。



 けれども私は不思議なことに、彼らに怒りは抱かなかった。むしろ、そんな彼らに好感を抱いてすらいた。まるで可愛らしくも愚かなモノを眺めるかのように、彼らのさえずりに目を細めずにはいられなかった。


 かつての自分であれば、怯えて声もまともに出せない状況だろう。涙を流し、震えてその場にへたり込んだ後で、財布を差し出しているところだろう。これも、この身体になった影響というやつなのかもしれない……と。


 ――不意に、頬に衝撃が走った。特に痛みもなく、たたらを踏むようなことはなかったが、あまりに突然のことに驚いた私が顔を上げれば……そこには、顔をしかめて右手を摩っているスキンヘッド野郎の姿があった。



 ……もしかして、殴られたのか?



 その姿を見て、遅ればせながら私は状況を理解する。直後、そのスキンヘッドの脇を掻い潜る様にして迫った男の拳が、私の視界いっぱいに広がって――衝撃が、鼻筋から鼻腔の奥を通って、後頭部へと抜ける。ゴッ、と鈍い打突音が響いてから一拍遅れて、のけ反った私の頭がビルの壁にぶち当たった。


 どぐん、と腹部に走る衝撃に私はつんのめる。見れば、男の腕が私の腹に食い込んでいる。もうちょっと横ならレバー打ちだな、と思っていると、また顔面に衝撃が走る。今度は目か、と思うと同時に、ごつ、と衝撃が人中を走ったのと同時に、ごつん、とまた後頭部が壁にぶち当たった……のを、私は他人事のように知覚していた。


 リンチ……それが始まったというのに、私は冷静であった。右から、左から、前から、後ろから、ありとあらゆる方向から拳や蹴りを撃ち込まれてもなお、私は冷静であった。終いにはその場に蹴り倒され、ボールのように蹴られ捲ってもなお……これっぽっちも、全く、彼らに対して恐怖を抱いていなかった。



 ――なにせ、痛くないのだ。



 どこを殴られても、どこを蹴られても、彼らの攻撃は私に対して、痒いとかくすぐったいとか、そういう最低基準にすら達していない。彼らの暴力は憐れみすら覚える程、鬼に対して……あまりにか弱すぎた。


 例えるなら、爪を出していない赤ちゃん猫のパンチ……と言ったところだろうか。服が汚れることは嫌であったが、それだけだ。正直、地面に倒された時点で私の脳裏をよぎったのは……『鬱陶しい』、この一言に尽きた。


 ライオンがミミズの動向に気を留めないように、私も彼らに対してどうこうしようとは思わない。だが、一方的にこうも好き放題されれば、さすがに苛立ちも募る。そして彼らも、しばらくしてそんな私に気づいた(あるいは、疲れただけか)ようだ。


 いくら殴っても鼻血どころか堪えた様子すら見せず、それどころか自分たちの手足が逆に痛んでいくことに、言葉には出来ない恐怖でも抱いたのか。気づけば、彼らからの暴力は止んでいた。



 ……気は、済んだのかな。



 そう思って靴跡だらけになった私が不意に身体を起こせば、「――っ!?」彼らは私に怖気づいたかのように一斉に距離を取った。ちょっと、面白いと思った。


 ため息を吐きながら、こき、こき、と首を鳴らす。せっかく用意してもらった服が汚れてしまった……ママ、怒るだろうか。ていうか、帰りが大分遅くなっているか……戻った後の言い訳を考えながら、私はのそりと歩きだし……退路を塞ぐ男の前に立つと。



「――退け、目障りだ」



 軽く、腕を払った。それだけで、十分だった。私にとっては無造作に、彼らにとってはおそらく捉えることすら不可能な速さで放たれた、構えも糞もない裏拳もどき。それが、男の身体を数メートル程浮かせ……強かにアスファルトの上を転がらせた。


 ……。


 ……。


 …………誰も彼もが、何も言葉を発せなかった……絶句、そう、絶句だ。アスファルトを転がった男を前に、彼らは一人の例外もなく絶句していた。


 まあ、そうなるだろうな、と私はやはり不思議なぐらいに冷静な頭で、血反吐を零しながら痙攣をする男を一瞥し……じろり、他の奴らを見やった。


 途端、ビクッ、と彼らが震えたのが面白かった。もう一人ぐらい見せしめにしてやろうか……とも思ったが、彼らの怯えた顔を見て、ふと、私は何をやっているのだろうか……と、我に返った。



「クリーニング代」



 我に返った直後、私の唇から出た言葉は……そんな言葉であった。



「え?」

「出せよ、万札。こいつと同じになりたいなら、払わなくてもいいぞ」



 私の言葉に、彼らは慌てて財布を取り出す。次いで、震える手で私に万札を差し出す。その姿に、何とも言えない罪悪感を覚えながらも受け取った私は、その金を握り締めて帰路に着こうと……する前に、ふと、私は思った。


 確実に、少しずつ、根幹から、自分の中の何かが変わってきている。もしかしたら……これが『闘争に呑まれる』という本当の意味なのだろうか。


 自分は、やはり『鬼』なのだ。それを、思いもよらなかった形で肯定された私は……何となく、本当に何となく……今だけは酒を飲みたくないな、と思った。



  

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