〈1.10〉ファントム参上!

 そいつは講堂の屋上にマントをはためかせ立っていた。


 真っ黒いズボンとシャツ、光沢のあるチョッキは、マントと相まって細い体躯を闇色に染め上げる。右手には手甲にガンシューターを取りつけたグローブアーマーを嵌めていて、電極はその銃口から発射されていた。


 シルクハットの下の顔はペスト医師のような嘴のマスクで覆われ、素性はわからない。が、唯一露わになっている口元が大きく叫び、俺はそいつが何者か知ることになる。


「狙った獲物は必ず頂く! ファントム参上!」


 …………アレか。


脅威査定スレット・アサスメントはDマイナスです〉

「だろうな……」


 マスクに変声機がつけられているらしく、ファントムの声はひび割れ歪んでいたが、それでもあの馬鹿が女だということはわかった。


「ボク様、ちゃんと予告したよね、この世で最も美しいお宝を頂くって。そう、神部雪を! すすくちゃ~ん! あぁ~ん可愛いよ~。こんなマスク越しじゃなくて、早く直接ゼロ距離で見たいな~! もう我慢できない。今迎えに行くから!」


 と、勝手なことをひとしきりベラベラのたまうと、ファントムは屋上から飛び降りた。


「馬鹿っ……!」


 俺はファントムを受け止めるべく駆け出した。変態(直前の発言で、俺の中でのファントムは馬鹿から変態になった)のことなどどうでもいいが、こんなところで死人を出すと俺が困る。


 だが、落下するファントムは落ち着き払って空中で姿勢を戻し、つぶやいた。


オニヴァ行くよ、“エギーユ・クレーズ”……認証コードユイットアントロゥワ!」


 ファントムの露わになっている首筋が赤く光り輝く。


 そこで俺はようやく気づいた。


 セラフィム・ドライブ――それがファントムのうなじに埋め込まれていることに。


 位相差発燃機関セラフィム・ドライブ。それこそが第七世代“コートアーマー”を現実化したオーバーテクノロジーだ。第七世代を形成するテクノロジーのほとんどは研究段階ですでに実証されている。第七世代の実用化が夢物語とされる理由はただ一つ。それらを統合的に稼働するのに膨大なエネルギーを必要とするからだ。


 そのを取っ払ったのが、セラフィム・ドライブだ。人間の識閾野の位相差を利用してファイズ・エネルギーを発生させ、その瞬間最高出力は原子力のおよそ十倍。オーバーテクノロジーの塊である第七世代を動かしてなお、お釣りがくる。



 だが問題はそこではない。


 問題は、なぜあんな変態がを持っているのか?



 ファントムのセラフィム・ドライブがまばゆい真紅の光を放つ。その光を受けた漆黒のマントが波打ち、身体に絡まっていく。まるで意思を持っているかのように……違う。。少なくともウイルスレベルの意思を。


 マントに擬態したナノマシンはファントムの全身に密着し、“コートアーマー”を形成。


 ついに漆黒の第七世代“コートアーマー”――奴が“エギーユ・クレーズ”と呼ぶそれ――が地面に着地した。


 拡散系装甲の“パーシヴァル”でも通常の“コート”より細身だが、“エギーユ・クレーズ”のフォルムはもっと薄く、ほぼ装着者の体型そのままだった。全身のどこにも装甲は見当たらず、ネコ科の肉食動物のように張りのある人工筋肉と伸縮性防弾皮膚だけが“エギーユ・クレーズ”を構成している。


脅威査定スレット・アサスメントをAプラスに変更します。敵性“コートアーマー”を感知。機体種不明。慎重な戦術を推奨します、マスター〉


 VALの忠告を、しかし俺は聞いていなかった。


 地面に四つん這いになったファントムが体勢を立て直すよりも早く俺は駆け出し、マルチ・オプトのサーベルを振りかぶる。


 ごうっ、と走る鋼の斬撃。猫のように避けられた。


「それをどこで手に入れた! 言え、お前は何者だ!」


「ボク様の仕事をご存知なくって? 盗んだに決まってっしょ。ぶわあああぁぁーっか!」


 くひひっ、と笑いながら、ファントムはバク転して俺から距離をとる。


 グローブアーマーを着けた右手を向けられ、俺はとっさに身体をひねった。


 ぱしゅうん、という銃声と共に手甲のガンシューターから電極が射出され、“パーシヴァル”の肩装甲をかすめる。


 ナノマシンそれぞれが動力源を保有する“パーシヴァル”には特定のバッテリーパックが存在しない。代わりに、有機的に結合して“コート”を形成しているので、高圧電流を流されればその部分が一時的に崩壊し、電流がそのまま装着者を襲う可能性がある。


 つまり、俺を。


 相性の悪い相手だった。


 だが、退くわけにはいかない。ファントムがどこからこの第七世代を盗み出したのか暴き、そして“エギーユ・クレーズ”をなんとしてでも破壊する。焦燥感と使命感が入れ替わり、俺の身体を突き動かす。


 “彼女”の命を奪った第七世代はこの世に存在してはならない。


「お前は何者だ! どこでその“コート”の存在を知った!」


 距離を詰めても、異常な機動力によって紙一重で攻撃をかわされる。“エギーユ・クレーズ”は余剰ナノマシンを鞭に変えて、俺の身体を打ち、斬撃を防ぎ、ときには移動手段にまで用いた。ファントムはこの第七世代を完全に扱いこなしている。


 第七世代……そしてそれに熟練した装着者……そんなものを野放しにしておくわけにはいかない。


〈警察無線を傍受しました。パトカーが二台、こちらに向かっています。到着予測時刻は二分後。撤退を推奨します、マスター〉


「ネガティブ!」


 俺は怒鳴り、剣突を放つ。“エギーユ・クレーズ”は頭を振って、それをかわした。


「ボク様は超ポジティブ! 成功する未来を信じてる? 違う違う。ボク様の未来はすでに決定済み! むさっ苦しいボディガードを倒して大勝利! すすくちゃんと希望の未来へレディ・ゴーッ! くひひっ」


「黙れ!」


「しゃべれって言ったり黙れって言ったり、くひひっ、必死だね」


 だが、その言葉で俺はあることを思い出していた。


「VAL、サーマル感知」


 俺は一瞬ちらりと校舎のエントランスに目を走らせる。


〈熱源を感知しました。七十二パーセントの確率で十代後半の女性です〉


 まだ待っている。『じっとしててくれ。俺がなんとかする』という俺の言葉を律儀に信じて、雪はあの塀の陰で身をひそめている。発砲音、怒鳴り声、“コート”のきしむ音、壁や床が吹き飛ぶ破壊音。その恐怖の交響楽に耳を塞ぎながら、それでも逃げ出さずに俺の言葉を信じている。


 何度ミスを犯せば気が済む。


 何があっても守るって言ったばかりだろうが。


〈パトカーの到着予測時刻まで残り一分です、マスター。撤退を推奨します〉


 VALの声……“彼女”に責められている気がして、俺は怖気を震う。


 同じでいいのか。


「――いいわけねえだろ……! 変形オプト円月輪チャクラム!」


 マルチ・オプトが巨大な輪形に展開する。俺はそれをファントムめがけ投げ放った。


「お粗末様!」


 かわされたチャクラムは虚空を飛んでいく。しかし、想定内だ。


 その隙に身を翻し、雪の隠れている塀の陰に飛び込む。


 膝を抱えうつむいていた雪を引っ掴み、肩にかついだ。ついでに空になったアタッシュケースも持ち上げる。


「えーっ! ちょっとちょっと! ねえ!」


「うるさい逃げるぞ! 警察が来る!」


「ねえねえ、なんなのその“コートアーマー”! ありえないでしょ!」


 さっきからずっと狙われている最中だというのに、雪はきらきらと目を輝かせていた。鼻息も荒い。俺はそのまま大学の外に向かって走り出した。


「おいこらー! ボク様のすすくちゃんに触るんじゃねー!」


 走りながら振り返ると、ものすごい速度で追いかけてくるファントムがいた。


「そんなむさ苦しい“コートアーマー”でボク様の“エギーユ・クレーズ”から逃げられると思っとんのかー!」


 と、その背後から回転するチャクラムが戻ってきて、ファントムの後頭部に思い切り激突した。


「ふぎゃ!」


 ファントムを弾き飛ばしながらもチャクラムはそのまま飛び続け、セラフィム・エンジンをビーコンにして俺の右手に帰る。走り続けながらマルチ・オプトを元の姿に戻して、腰に収めた。


「いてて……おい、こら待てー!」


 ファントムの怒りに満ちた悲鳴が遠ざかっていく。


 大学構内を飛び出ると、角の向こうからサイレンが聞こえてきた。俺は車の行き交う大通りを突っ切って、裏路地に滑り込んだ。


 薄汚い裏路地で息をひそめていると、二台のパトカーが大学キャンパス前に停まったのが見えた。パトカーを降りた制服警官たちは拳銃を抜いて、一目散に構内に駆け込んでいく。こちらに気づいた様子はない。


 俺は長い溜息を吐き出すと、


「VAL、装着解除」


〈イエス、マスター。お疲れ様でした〉


 “パーシヴァル”の装甲が、フレームが、人工筋肉が崩壊を始め、ナノマシンの群体へと戻っていく。その奔流はうねりながらアタッシュケースへと飛び込み、格納された。


「……ねえ、何が起きてるの? なんで私、命まで狙われてる系?」


「俺には何もわからない」アタッシュケースを閉め、持ち上げる。「だが、一つだけ確実に言えることがある。どんな奴が襲ってこようが、お前には指一本触れさせない」


 俺は思い出していた。その言葉の重みを。あの儀式の重みを。


「さっきの儀式ってやつ……それをしたから?」


 雪は切り傷のある自分の右手を不思議そうに見た。それから俺を見た。少なくとも、人間を守ることに関しては信用してやってもいい。そう目が告げていた。


「ああ…………一ヶ月のあいだだけな」


 血まみれの手を、雪は握りしめた。


「余計なこと言わなくていい!」


 ぽか、と殴られた。

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