1‐11 祝福

 夢。未宙は夢を見ていた。陽の光も見えない深い森の小川に浮かぶ夢。未宙は生まれてこのかた森も川も実物を見たことがない。故に未宙自身、これは夢だな、と思った。知らないのに体験しているというのは妙な気分だったが、不思議と悪い気分ではない。この感覚には覚えがあった。セヴンスのコクピット内部、ハッチが閉じたときに感じる妙な感覚。G負荷を軽減するためにDDLがコクピット周辺に充填されることによって疑似的に外の世界と『ずれる』現象に近い感覚。安らぎと根拠のない全能感。


 もしかして死んだのか、とも未宙は思った。どちらでもいい。幸い、時間はありそうだった。少し眠ろう。夢の中で。未宙は目を閉じる。そして、深くへと沈んでゆく。




 肩までの黒い髪に翼の髪飾りをつけた少女がいる。八年前、未宙がまだ孤児院にいて、十一歳だった頃、彼女はマム――管理人――から呼び出しを受けた。一人で来いと言われ、しぶしぶと廊下を歩いていた。


 思い当たる節はいくつかある。四日前夜中にちびっこどもを連れて食堂に侵入したこと、三日前からかってきた年下の男の子をボコボコにしたこと、一昨日掃除当番をしていて花瓶にヒビを入れてしまったこと、今朝一人抜け出して地上に出たこと。


 管理人室に向かう彼女の後ろには数名、彼女よりも小さな子どもがついてきている。


「これはあたしの問題だから、皆は帰って遊んでな。すぐ戻るからさ」


 子どもたちをたしなめ、部屋に帰す。不安そうに未宙を見つめる子どもたちに目線を合わせ、彼女は頭を撫でて微笑む。未宙はそこそこやんちゃであったが、同時に面倒見のよい性格でもあった。

少しして、子どもたちは小走りで元来た方向へと戻っていった。


 孤児院はなかなか広い。だが外は見られない。窓を模したオブジェクトには外界の景色がモニターに映っており、時間に合わせて光が変化するだけだ。本物の世界はこんなものじゃない、と未宙は思う。風、雲、草木、雨、それらすべての匂いと質感、そして空の高さ。


 何度か孤児院を抜け出して地上に出て分かったのは、ここが日本ではないこと、ここは何か巨大な施設であること、そしてここは地下であることだ。


 そうこうしているうちに管理人室の前につく。さあどれがバレたのだろう、と少し考え、どうしようもないかと覚悟を決め、早めに解放されることを祈りつつ扉を開ける。


 しかし、未宙の予想は外れた。その扉の先にいたのは胡散臭い顔の管理人ではなく、白く長い髪と青い瞳を持った、黒い服に身を包むひとりの少女だった。


 未宙はしばらく、その少女に見惚れていた。この世のものとは思えなかった。どれくらい経ったか、はっと我に返り、その後ろに座っていた管理人に要件を聞いた。


「今日からここで一緒に暮らすことになる子だ。ほら、挨拶」


 管理人は少女にそう促すと、ややあって、


「……リザ」


 小さく、けれど透き通った声で、そう言った。


「未宙のひとつ年下だ。ベッドが空いてるから今日から未宙のルームメイトになる。ほかの子たちには夜紹介するから、それまで部屋の案内と荷物の整理を手伝ってあげてほしい」


 その言葉に未宙は目を輝かせた。彼女にルームメイトは長らくいなかった。彼女がこの孤児院に来て間もない頃に数年間最年長の人と同室になったきり、彼女はずっと一人で眠っていた。日中は自室への立ち入りは基本的に禁止されているから、ルームメイトと言っても夜と朝をともにする程度の関係でしかない。だが彼女はその関係性に、また消灯時間を過ぎてから小さな声で話すということに人一倍憧れていた。


 未宙はこの出会いを、運命だと思った。この少女のことをもっと知りたいと思った。この少女と仲良くなりたいと思った。


 それから一週間。リザは最初の自己紹介以来一言も発することなく、一日中共用スペースの片隅でじっとしていた。


 当然、子どもたちはみんなリザに声をかけた。けれど彼女は反応を返すことなく俯いているだけだった。初めはそういう子どももたまにいる。だから殆どの子どもたちはリザに関わることをやめ、それぞれのグループで遊ぶようになった。


 けれど未宙だけは、リザに話しかけ続けた。朝起きたとき、食事のとき、勉強のとき、お風呂のとき、夜眠るとき。それはもうしつこく話しかけ続けた。自由時間はずっと隣で座っていた。何一つ会話はなかったが、二人の間にはゆっくりとした時間が確かに流れていた。


 そんな日々が続いて、リザが孤児院に来てから十五日目の午後のことだった。未宙はその日のことを鮮明に覚えている。昼下がり、小さな子どもたちが遊んでいる声が聞こえてくる、あたたかい日だった。


「いなくなると、寂しいから。わたしは、誰とも繋がらない」


 リザは言った。顔を膝に埋めたまま、初めて喋った時と同じ綺麗な声でそう言った。


 未宙は何も言えなかった。彼女が一体何を見て、何を経験してきたのか。詮索はタブーだったが、きっとそれほどのことがあったのだ、と子どもながらに理解していた。そして、ここで何かを言わなければリザはまた心を閉ざしてしまうことも理解していた。


 だから、未宙はそっと、リザの手を取る。


 そして、思ったことを、告げる。


「だったら、あたしが隣にいてやる。あたしが勝手に繋がっててやる」


 握る手に力を籠める。冷たい手だった。リザと目が合う。その目には涙が浮かんでいて、深い、深い青空のようだと未宙は思った。微笑む。根拠のない虚勢を張って、リザが安心できるように。


「本当――?」


 そう訊ねるリザの表情は今にも壊れてしまいそうなほどに儚げで、嬉しそうで。未宙はこの少女を、リザを、決して離すものかと思った。


「ああ、本当だ。約束する――そうだ」


 未宙はおもむろに自らの銀色の翼をかたどった髪留めを外し、それをリザにつけてやる。綺麗な白い髪に輝く翼。空のようだと未宙は思った。


「入所祝い。あたしより似合うな、やっぱ」


 笑って見せる。


「――未宙」


 初めて名前を呼んでくれた。未宙は胸がいっぱいになって、リザを抱きしめた。そしてすぐ、やりすぎたと後悔した。感情に任せて傷つけてしまったかもしれない。早く謝って離れようとしたとき。


「未宙、これから、よろしく」


 顔は見えなかったが、きっとその時リザは笑っていた。


 思うだけではだめだ。未宙はリザを絶対に離さないと、心に誓った。




 それから二人はともに日々を過ごす。ともに目覚め、同じものを食べ、ともに眠る。幸せな日々だった。二人でいられるなら、未宙はそれでよかった。リザもそう思っていたら嬉しいと思った。そして、別れの日が訪れる。前の日の夜、まどろみの中握った彼女の手の温度を、未宙は七年経った今でも覚えている。


 リザに会いたい。リザに触れたい。リザを抱きしめたい。


 最近よく夢に見る。リザともに過ごし、大人になり、二人で暮らす夢を。八洲から日本に渡って小さな喫茶店を建て、働いて、ともに眠る幸せな夢。あったかもしれない、なかった未来の夢。その夢にはセヴンスも飛行機もおらず、ただどこまでも続く深い青空があった。


 リザに会うことはできる。話すこともできる。けれどもう、触れることは叶わない。


 欲張りすぎだと未宙は思う。けれどどうしても、思わずにはいられなかった。望みはたったひとつだけなのに、それすら叶わないのか、と。


 そこで未宙は気付く。どうして自分が空を飛ぶのか。その理由を。


 リザの笑顔が浮かぶ。彼女は白い髪を翻し、翼の髪飾りを陽光にきらめかせ、こっちを向いて、笑う。

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