◆4-3

 銀月の光が緩やかに、吹き抜けから降りてくる夜。


 本来ならばその光に愛されし、幽霊達の動きが活発になるのだが――塔の中はしんと静まり返っていた。数多の霊達は出来る限りその身を薄くし、息を潜めるように気配を消している。


 そんな静かな塔の一部屋で、リュクレールに仕える紫髪のメイド――ヴィオレは、主の髪を梳っていた。今日はいつになく気が高ぶって眠れない、主とのお喋りに付き合いながら。


「ヴィオレ、不思議な方でしたね、男爵様は」


「ええ――祓魔と申しましたか、何とも胡散臭い男ですが」


「そうでしょうか? あんなふうに――わたくしのことを淑女として扱って下さるなんて、とてもお優しい方だと思います」


 振り向いて、ほんの少し口の端を綻ばせる少女の顔はとても愛らしかったけれど、ヴィオレはどうしても眉間に皺を寄せてしまう。生まれてこの方、この塔から出たことの無い淑女にとっては歓迎するべき客人であったかもしれないが、その身を守る側としては不安しか齎さない。


「お嬢様……いいですか? お嬢様はとてもお美しい、何処に出しても恥ずかしくない私たちの誇りにございます。あのようなで――失敬、太――失敬、その、恰幅の良過ぎる男性でなくとも、もっと地位も見目も良い方が相応しいかと」


「ありがとう、ヴィオレ。でも、わたくしは――この塔から出ることは叶いませんので」


 訪ねて頂けただけでも、充分過ぎる僥倖ですのよ、とだけ言う少女が不憫で、ヴィオレはそっと浮かんだ涙をぬぐう。


 こんなにも淑やかで、純粋で、お優しいこの方が、何故この悍ましい塔に頸木を締め付けられなければならないのか。幾ら憤っても、同じくこの塔に捧げられた贄であるヴィオレ達には、共にあって彼女を慰めることしかできない。


 ……彼女が、この塔に捨てられたのは、十五年前のこと。あの時はヴィオレも、鎖に繋がれ、恨みと怒りを湛えた悪霊の一体でしかなかった。


 塔の一階の隅で、精一杯、それ以外術が無いというように泣きじゃくっていた赤子を見た時、今までどす黒く渦を巻いていた己の魂に、温かく柔らかい何かが生まれた。それはきっと、この身に宿しながらも産むことが叶わず、戦乱の中で己の命と共に引き裂かれてしまった子供の事を思い出したからだろうか。


 見捨てられなかった。見捨てられる筈も無かった。その思いが通じたのか、赤子をそっと抱いた腕は透けることもなく、彼女を支えることが出来た。


 その時響いた――あの悍ましい声。ヴィオレ達だけでなく、この少女まで塔に縛り付けた鎖の持ち主の声。




『許すぞ。その赤子、育てる戯れを許す』




『健やかに、美しく、育てて見せるが良い。そうすればこそ――その赤子は我の糧となる』




 酷い言い様だった。最初からあれの生贄にするつもりで、赤子を育てろというのだ。逆らうことなど出来ないけれど、到底聞くことも出来なかった。それでも――それでも。


 抱きかかえた赤子は、吃驚するぐらい温かくて。自分の腕に安堵してくれたのか、やっと泣き止んで笑顔を見せてくれて。他の幽霊達にも、止めておけ、そのまま取り落として殺してやる方が慈悲だと言われたけれど――出来なかった。肉の楔すら無くしてあれに頭から食われるよりもましだと、周りの連中を説き伏せて。


 そしてヴィオレは、赤子を育て始めた。まだ乳しか飲めぬ赤子に対し無謀なことであると解っていたけれど、ほんの僅かに塔の地下に自生していた薬草を盗み出し、育て、与えた。肉体を育てることは出来なくても、魔力を高めれば霊質だけでも育てられると思ったからだ。




××× 




「恐らく。今の彼女は、物質と霊質が完全に混じった状態にある。物質である肉体は、食事を取らねばまず育たないだろうが、霊質ならば魔力を注ぎ込めれば維持は可能。肉体は希薄であるが、確かに存在しているよ。――淑女に触れた手は、とても温かさを感じたからね」


「……それが目的でしたか」


 別れ際にあの少女の手を取ったのは、それを確かめる為だったのか、と内心ヤズローは舌を巻く。その後すぐに「いいや、単純に別れの口付けを捧げたかっただけだがね!」と大笑いする主の頭は殴りたくなったが。


「まあアンタの性的な嫌がらせは置いといて」


「失敬な!」


「うっさい。つまり今の彼女は、ほんのちょっとだけ肉体を持った幽霊、ってことで良いのね? けどさ、成長しないならまだしも、肉体なんてご飯食べなきゃすぐ死んじゃうものじゃないの? 赤ちゃんがそんな環境で生きてられるなんて、とても信じらんないんだけど」


「勿論、余程の幸運が交わらないと無理な事だよ。あの塔自体がああなっていたのも、良いのか悪いのか、だがね」


「どういう事?」


 瑞香の視線がヤズローに向くが、彼にも説明できない。不覚を詫びて主に視線を動かすと、仕方ないなお前達はと言いたげな顔でうきうきと話し出す。


「あの塔に刻まれた神紋は五つ。東に戦、北に暴虐、西に病で南の扉に死。これで渦を巻いて死を収集する場の完成だ。通常ならばこの中央に崩壊神アルードの紋を刻み、その魂を全て消失させる。だが」


 そこで言葉が途切れ、丸い腹を撫でながら、今度は主の方から促すような視線が向けられる。姿勢を正して、ヤズローは改めて考える。


「……あの塔の床に刻まれていたのは、銀月女神。まつろわぬものを癒し、昇華させる紋。……旦那様、本来ならばあそこは、幽霊を浄化する場所であると?」


「ご名答だ、ヤズロー。あの塔は辺りの浮かばれぬ死者を集め、銀月女神が守る天へと運ぶ、煙突のようなものなのだ。塔の内部が吹き抜けになっていたのも、都合が良かった。400年ほど前、あの塔に曰くが出来て取り壊せなかった際、吾輩のご先祖様が神紋を刻んだそうだよ、ンッハッハッハッハ!!!」


 えっへんと腹を突き出して自慢してみせる主に対し、従者は不満げだが素直に礼をしてみせる。そんな仲の良い主従をほんの少し羨ましそうな目で見てから、あら? と瑞香は首を傾げる。


「ちょっと待ちなさいよ、そんな力があるんなら、なんで幽霊が塔の中にぎっしりいるわけ?」


 おかしいじゃない、と紅を差した眦を吊り上げる友人に、焦るなとばかりにビザールは手をひらひらと振る。


「ここからが問題だ。あの塔は霊を集めることに長けてはいるが、留めることは出来ない。それにも関わらず、大量の霊、しかも未練を持たぬ者達までもが、留まったままでいる。ならば――神紋の力にすら抗えるほどの未練を持った幽霊が、縛り付けているのだろうね。恐らくは塔の地下に巣食いながら」


「……あの、鎖……!」


 言われてヤズローも思い出す。霊達の体に巻き付いていた黒い鎖。あれは彼等の意志では無く、別の存在が無理やりに縛り付けている証とでもいうのか。あんなにも大量に、神の導きにすら逆らって縛り付けられるほど、強大な悪霊があの塔にいるということなのか。


「アルテ殿を殺した下手人もその悪霊であろうね。家名を名乗った瞬間殺されるというのは、かの家系に恨みがあるからとも思ったのだが――どちらかと言えば、リュクレール殿に対する攻撃の一種だろう」


「え……どういうこと?」


「例え種違いでも、己の兄が自分の領地で縊り殺されたという事実を、あの淑女が悲しまないわけがあるまいよ。彼女の悲しみを、嘲り笑い――彼女の心を折り、己に取り込むつもりかもしれないね」


「最悪。悪趣味ね」


 今まさに塔の中で行われている悍ましいやり方に、瑞香はあからさまに眉を顰めた。素直な憤りに感謝するように男爵は目を細め、決意を込めた顔で頷く。


「悪霊であるからね。だからこそ、あの方をあのまま、塔へ置いておくわけにはいくまい。幸い昼間は本体が地上部分に出て来れないようだし――故に」


 両手の短い指をもちりと組んで、男爵は宣言する。その手に、銀細工の小剣を持って。


「吾輩はあの方に、笑って頂きたい。その為にはまず、あの方自身に戦う術が必要かと思ってね、お前にこれを頼んだのだよ」


「淑女に渡すには無粋の極みの物だと思うけど、まぁそういうことなら納得してあげるわ」


「うむうむ、ついでにもう一つ、頼まれてくれるかね?」


「何よ、これ以上のツケは聞かないわよ」


「代わりと言っては何だが。最近王太子殿の奥方が、南方国の宝石にご執心らしくてね。その辺に明るい商人を王太子から頼まれているのだが」


「――ふうん? 乗ったわ。何が欲しいの?」


 新しい商売の種を見せたことで、商人の瞳が輝いた。面白そうに身を乗り出す親友に、男爵は変わらぬ笑顔のまま注文をする。


「まだ敵の全貌が解らないのが何とも言えないのでね、保険が欲しい。南方辛子の粉とフルフレラの種、仙境の水を、いつもの倍仕入れたい。出来れば明日、無理でも明後日までに」


「お代に相応しい無茶言うわねぇ……ま、いいわよ。小目、目録」


 無言で差し出された紐で結われた紙束を捲り、何か書き足して戻した。小目は一言も発することなく、それを持って部屋から出ていく。それを追う為か瑞香も立ち上がり、腰に両手を当ててふんと胸を反らす。


「これで振られたら、指さして大笑いしてやるから」


「ンハッハッハッハッハッハ! 任せたまえ親友よ!!」


「せいぜいやってみるがいいわー! ほほほほほほ!!」


 すっかり意気投合して盛り上がる二人を置いて、ヤズローは改めて贈物の剣を見る。


 確かに女性に渡すには少々無骨な代物だが、ヤズローは知っている。主が他者に与えるのは一方的な庇護では無い。戦う為の力を与えてくれるのだ、ということを。




×××




 ――いつか、いつか誰かが、この方を救いにきてはくれまいか。そんなお伽噺の様な夢を叶えるのが、あの太った男だとはとても信じられなかったが。


「ですがもう、お会いすることは無いでしょう。お父様の逆鱗に触れたら、あの方もきっと――」


 綺麗に髪を整えられた少女はそっと俯き、己の身を抱きしめる。僅かに震える肩を止めたくて、ヴィオレはそっとその方を抱きしめる。


「お嬢様、どうかお心を確かに。嘆き苦しむは、悪霊への道だけです。お兄様の事は、決して背負い込みすぎませんよう」


「ええ、解っています、ヴィオレ……」


 羨望や嫉妬、恨みや恐れはたやすくその身を悪霊へ落としてしまう。折角ここまで、健やかに育ってくれた彼女が、あれと同じ悪霊に落ちてしまうのはどうしても忍びない。


 そう、昼間ならばともかく、夜のこの塔はあれの支配下だ。地上階にいる霊達も皆身を潜め、その気配を出来る限り細くしている。


 少しでも「あれ」の機嫌を損ねれば、免れぬ「魂の死」が待っているのだから。


 ちゃり、と鎖を引き摺る音がした。


 ひくりとリュクレールの喉が鳴り、身を固くする。ヴィオラも動かず、只管に気配を薄くする。夜に、この塔の中を動き回る幽霊はいない。――ここの主以外は。






 塔の床。空から降る銀月の光を受け止める床がぼんやりと淡く輝く。本来ならば、迷えるものを癒し導く光は、しかしまるで雨粒のように床に染みこんでいく。


 魔を癒す光を受けて、じわりと床の隙間から黒い煙が湧いて出る。それは次々と鎖の姿を取り、それが編み上がっていき――ひとの形を成す。


 まるで鰭か尾のように、鎖の束をじゃりじゃりと流しながら歩く男の姿に。


 がしゃり、ずざり、と重い音を立てながら、塔の階段を昇る。鎖が一本引かれると、首に鎖を括りつけられた幽霊がひとり、引き摺り出される。恐怖と苦痛により顔を歪めながら、許しを乞う悲鳴を上げて。


『おお、おお、おゆる――』


 ぎゃりん、と鎖が噛みあう音が響く。


 壁から一斉に飛び出て来た黒い鎖が、霊を絡め取り、ばらばらに引き裂いた。……壁の中に隠れていた何人かも、同時に犠牲になったようだ。自我の薄い揺蕩う幽霊だったものの欠片は、皆鎖の隙間に吸い込まれ、その中から笑い声が聞こえる。戯れに、喰らったのだろう。己の力を高めるというよりは、ただの脅しだ。次はお前だと、訴えるための。


 鎖の男は、ざりざりと音を立てながら、歩みを止めない。目的は塔の最上階――即ち吹き抜けの先の屋上のようだが、階段を進む中で、鎖で編み上げられたその腕を振り、壁や扉をけたたましい音を立てて引っ掻き、傷をつけていく。その中で、少女とその従者が恐怖に怯え、悲鳴を堪えているのを知っているからだ。


 やがて、鎖の男は塔の天辺に辿り着く。ぐいと一本の鎖を引くと、塔の外に吊り下げられていた男の体が引き摺り上げられる。肉体では無い、霊体だけだ。嘗てアルテ・コンラディンと呼ばれていた者の成れの果てだ。死を齎された時の苦しみを延々と味わいながら、己の喉を引っ掻き続けている。


『ふむ、もう保てぬか。我が子孫にしては何と脆弱なものよ』


 その姿を見下しながら、鎖の男はその隙間から声を漏らす。何処に口や喉があるのか、さっぱり解らないが――塔全体に響く大声を放った。


『我が娘よ! お前の義兄はそろそろ尽きるぞ。お前が泣いて許しを乞えば、解放してやっても構わん』


 返答は無い。だが伝わる。この塔の壁や部屋には全て、この男の鎖による檻も同じ。何処に何が居て、何を思っているのか、解らないわけもない。声をあげなくとも、あの娘は泣いている。己の無力さに、兄に対する謝意に。


『どうした、来ぬのか。ならばこれはもはや、要るまいな』


 息を飲む音。ごめんなさい、というか細い声。堪えてと、必死に娘を宥める霊。その全てが心地良かった。あの忌まわしきシアン・ドゥ・シャッスにこの塔に封印された時は業腹だったが、最早それすら己の体として組み込んだ。最早この塔は彼の体と同じなのだ。


 言葉をなさず、呻きしかあげない哀れな霊を、鎖の束で引き裂き、咀嚼する。大した足しにはならないが、本命はそれにより零す娘の涙だ。


『次は如何するか。――そうだな、我が娘よ。金陽のうちに我が領地を侵した者がいたな?』


 返事は無い。だが、怯えが強まったのが解る。ぎちぎちと金属を擦り合わせるような笑い声をあげて、更に命じた。


『次は銀月が昇るまでこの塔に引き留めておけ。お前に対する良い贄になりそうだ』


 鎖の軋みは増え、大きくなり、まるで塔全体を締め壊すように響き――消えた。






「……、……ッ」


 外から音が消えるまで、リュクレールは必死に声を堪えていた。自分が嘆き怯えれば、それだけ父は傍若無人となると解っていても。


「お嬢様、お嬢様……ああ、おいたわしや」


 その温かな体を、頼りない霊体でしかないことを悔やみつつも、ヴィオレが抱きしめている。他の意識の強い霊達も彼女の部屋に集まり、いざとなれば盾になるつもりだった。彼等にとっても、彼女は守るべき存在なのだ。


「男爵様、どうか……もうおいでにならないでくださいませ……」


 両手で顔を覆い泣き出してしまった主の頭を何度も撫でながら、悲しみを堪えて言い募る。


「大丈夫、大丈夫です。いざとなれば私達が追い返しましょう。お嬢様は何も心配することはありません、どうぞごゆっくりとお休みください」


 外の気配が薄れ、日が昇ってきたことに気付き、霊達は次々と姿を薄れさせ、部屋を出ていく。残ったのはリュクレールとヴィオレだけだ。


「……さぁ、もうお休みなさいませ。どうかゆっくりと、夢も見ずに」


「ありがとう、ヴィオレ。……あの、歌を歌ってくれる?」


「勿論ですわ」


 寝台に潜ると、目の端を赤くしたまま、恥ずかしそうに敷布の下から訴えてくる少女に、ヴィオレは微笑んで不敬と知りつつその頭を撫でてやった。


 ……次の日の昼には再び、不届き者の再訪が起こるとは知る筈もなく。

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