洞窟街

◆4-1

 昔からこの一帯は冬になると雪深くなり、生半な家ではその重みに耐えきれず潰れてしまうことが多かった。故に、この地に生きる者達は地下を掘り、そこに街を造りあげた。


 しかし建築の技術や、魔操師達の術式の開発により、丈夫な家屋が造られるようになると、人々は地上に移り住んだ。嘗ての旧市街は、やがて貧しい者や流れ者、犯罪者などが住み着き、独自の秩序を築いていった。


 そして今、王家や貴族達もおいそれとは手を出せない、「洞窟街」と呼ばれるもう一つの国と言っても良い街が出来上がった。


 迂闊に何も知らぬものが足を踏み込めば、あっという間に身ぐるみを剥がされてしまうほど治安は悪い。特に出入りを止められることはないが、全ての行動は自己責任。地上の法は、地下の者を守ってはくれない――逆も然り、だが。


 しかし、十になる頃までこの街で育ったヤズローにとっては、慣れ親しんだ空気であった。


 きちんと仕立てられた執事服と、両手両足を覆う銀の具足。いつもと全く変わらぬ出で立ちで、街の片隅にある穴階段から洞窟街に下りる。眉間の皺は、いつもより深い。主の命令とはいえ、会いたくない相手に会わねばならないからだ。


 崩落を防ぐために蟻の巣のように入り組んで掘られた地下道の壁には僅かな明かりが飾られているが、とても全ての暗闇を見通せるものではない。


 道端には物乞いが体を寄せて、侠者達の尖兵である三下がたむろするところへ、商売女達があからさまに媚を売る。


 それでも、洞窟街の中では一番浅い場所にある、「蜘蛛」と呼ばれる地区は、賑わっている方だった。貴族の子息たちがおっかなびっくり、度胸試しに入り込むにはちょうどいい浅さなのだ。そのうちの一人が、ヤズローの見目を知っていたようで、不躾に声をかけてくる。


「おい、そこの。知っているぞ、悪食男爵の稚児だろう」


「詐欺師の従者の分際で、何故こんな所にいる?」


 時代が流れ、少しずつ世界から神秘が駆逐されていく中で、祓魔という生業も軽んじられるようになった。実際、不可思議な事件を捏造して、解決したと嘯いて金を巻き上げるような輩も市井に存在するらしい。最も、ビザールが蔑まれているのは家業だけでなく、彼自身の胡散臭い立ち居振る舞いにもあるのだろうが。


 あからさまな侮蔑の声を、ヤズローは無視をする。そも、自分の主と直属の上司であるメイド長以外に、払う愛想など持ち合わせていないし、何より主に命じられた仕事の最中なのだ。そんな有象無象どもの言葉など端から認識していない。


 しかし、自分を無視されることなど今まで一度も無かったであろう貴族にとって、それは許し難いことだったのだろう。


「貴様、聞いているのか!」


 無造作に肩を掴まれた瞬間、ヤズローの左腕はその手を跳ね上げていた。そのまま目にも留まらぬ速さで片足を軸に回転し、振り上げたもう片足を、男の顔面すぐ横、その壁に叩きつける。ずん、と重く鈍い音がして、地下の壁に皹が入った。


「――邪魔すんじゃねぇ。殺すぞ」


 主と話す時にはどうにか使えている敬語が完全に吹き飛んでいる。顔はほぼ無表情なものの、その吊り上がった眦と低い声は、例え矮躯であろうと男達を臆させるのに十分な迫力を出していた。


「ああ、すいませんね兄さん方。その狂犬にゃ、手ぇ出さないほうが身のためですよ」


 すると、路地裏からひょこりと姿を見せたのは、この「蜘蛛」では割と顔の売れた女衒であった。無精ひげの生えた顎をぼりぼり掻きながら、謝りつつもその態度はやはり貴族に向かってへりくだるようなものではない。――当然だ、この街の支配者は様々な、互助会という名の侠者の首領達であり、王や貴族では無い。それすら理解していない子息たちは、どうにか身を立て直してがなり立てるが。


「き、貴様! 私を愚弄するか!」


「いえいえ、ただですね、そこの狂犬はうちの姐さんのお客なんですわ。そら坊主、姐さんがお待ちだ、とっとと行ってやれ」


 そういって無造作に放られるのは、銀板に縞模様の蜘蛛が刻まれた割符。それを手甲でかちりと受け止めたヤズローは、不機嫌そうな顔を隠さないまま、もう貴族達には興味を無くしたように歩き出す。


「ったく、かわいげのねぇ。下手に面倒起こしたらあの肉団子に迷惑かかるってんのに、血の気の多いッたらありゃしねぇ」


「お、おい。今の割符は――」


「? ああ、ご存知でしたか。レイユァ姐さんの店の割符ですよ。姐さんの部屋、直通のね」


「馬鹿な! そんなものが――」


「ま、あんたらが知らないことはこの街では沢山あるってことです。その辺の機微が解らないようなら、ここで遊ぶには向いてませんよ、兄さんがた」




×××




 「蜘蛛」の中心に立つ、毒々しい黄色と黒に塗り分けられた壁に通じる扉。其処を開くと、この街では一番豪奢であろう、娼館というよりは貴族の屋敷と言ってもいいほどの美しい装飾で彩られた部屋が連なる。


 しかしヤズローは全くそれにも目をくれず、色目を使う他の女達に愛想のひとつも振り撒かず――真っ直ぐに、一番奥の部屋へ向かう。


 その前に立っている屈強な男達に、銀の割符を差し出すと、丁寧に頭を下げて道を開けられた。中へ声のひとつもかけていないのに、重い扉が、自然と開く。


 中は――闇であった。


 ひとつの明かりもない黒の中、ちかちかと光る宝石のような輝きがいくつか。目を細め、それだけを頼りにヤズローは油断なくゆっくりと歩く。ここはもはや、正しく蜘蛛の巣の上なのだから。


 じりじりと進めた足の膝が、寝台に当たる。まるで天鵞絨ベルベットのように広がる柔らかな黒い敷布の上に、上るか否か僅かに逡巡すると。


「つれないこと。はよぅ上がっておくれな」


 まるで熟れた果実の様な、甘ったるく艶めいた声がした。ヤズローは夜目が利かぬ自分の身を恨みつつ、油断だけはせず、具足も解かずに膝で寝台の上に上がる。


「!」


 すると、膝の下の敷布が待ちかねていたようにずるりと引かれ、そのままヤズローの体もとても広いであろう寝台の真ん中に引き寄せられる。


「ふ、ふ、ふ。つかまえた」


 気づいた時には、柔らかく温かい腕の中に抱き込まれていた。ゆるゆるとヤズローの頬を撫でてくる腕は、白い。今までどうやって闇の中に潜んでいたかどうか解らない、仄かな輝きを発するほどに白かった。


「離せ、レイユァ」


 頬に当たる柔らかく丸い肉の海からどうにか顔を出し、不機嫌そうに闇の中の女の名前を呼ぶと、


「もう。ほんとうに、つれないこと」


 ほんの僅かな嘆息が、甘い香りを振り撒いてヤズローの旋毛に降り注ぐ。白い腕が名残惜しそうにその頭を撫でて、漸く拘束から解き放たれた。


「相も変わらず、男爵様、男爵様で。好かないったら」


 ヤズローの目の前にいつの間にか現れたのは、闇の中で金色に輝く瞳と、その瞳を彩る石飾りのような、目尻に着けられた並ぶ同じ色の輝き。綺麗に通った鼻筋と、濃い桑の実色の唇がほんのり開いたその中に、思ったよりも鋭い糸切り歯が見える。服を着けていないのか、黒い敷布のようなものから身を捩る度に見える体は、一糸纏わぬ裸体であった。


「黙れ化け物」


 並の男ならばすっかり理性が蒸発してしまいそうな妖艶な美に対し、ヤズローは遠慮というものを一切しなかった。心底不快そうに自分の耳に着けられた蜘蛛型のカフスを外すと、寝台の上に放り投げる。するとそれはまるで氷が融けるようにうぞりと動きだし、あっという間に黒い天鵞絨の中に――つまり、寝台全体に広がった女の髪の中に飲み込まれていった。


「んまぁ、生意気な。いつもお世話してあげているのに」


 そんなヤズローの動きを子供の癇癪のようにいなしながら、女はくるくると喉を鳴らして笑う。白い手指は遠慮なく、少年の頤を撫で、銀に包まれた腕と足を労うようにそっと撫で摩る。


 それは逆に、獣が獲物を食らう時に下拵えをしているかのようにも感じて、僅かな怯えを不愉快でかき消し、ヤズローは眉間の皺を寄せたまま問うた。


「コンラディン家について知っていることは無いか」


 端的な問いに、女の瞳と共に、六つの小さな金の光もまた瞬く。全てが、レイユァと呼ばれる絡新婦アラクーネの瞳だった。


 彼女は魔の者。その本性を隠し――恐らく知っているものは知っているのだろうけれど、少なくとも地上の人間達には全く気付かれることも無く――この地下の街に長年君臨してきた、「蜘蛛」の元締め。八百年程前にこの地に流れて来て、ビザールの家とは古くから何某かの繋がりがあった。人間を迂闊に食い物にしないことを約定とする替わり、己の居場所を確保した彼女は、その礼のひとつとして、この国の裏側での情報をシアン・ドゥ・シャッス家へ提供している。


「はい、はい」


 ヤズローへ応えながらも、女の手指はするすると、黒髪に埋もれたヤズローの体を撫でている。そして片腕、肘の繋目へ、銀に塗られた長い爪をかけられ、咄嗟にヤズローは身を振り解く。


「触るな」


「あれ。ふふ、寝床の上に要らないでしょう?」


「この腕と脚は、旦那様に頂いたものだ。お前が勝手に触れていいもんじゃねぇ」


 何度も説明しているのにこの女は聞きやしない、と苛立ちを込めて吐き捨てるが、女の方も怯まない。


「もう。いっつも繋ぎ止めてるのは、私なのに」


 拗ねたように唇をつんと尖らせると、かさかさという音がして、寝台一杯に広がった彼女の髪から、指の先程度の小さな蜘蛛がわらわらと這い出して来た。その蜘蛛達はヤズローの腕や足に取り付き、その継ぎ目である場所まで辿り着く。


「一度、外して。重いでしょう」


 それと同時に、女の声にほんの僅かな重みが加わり――果たして心配なのか、それ以外の感情なのかはヤズローにとんと聞き分けられなかったが――苦虫を噛み潰したような顔のまま、渋々頷く。許しが出たと同時に、無数の蜘蛛がその牙をきらりと光らせ――ぷち、ぷち、と糸が切れる音がする。


 がちゃりと僅かに金属音を立てて、ヤズローの手足が同時に外れた。その下には――何も、無い。


 執事服は肘と膝の下からきちんと切られた特注品で、その中の手足は、関節がある筈の場所から先が、無い。骨を包む薄い皮膚を最後に、まるで雑に作られたぬいぐるみのような短い手足を、ヤズローは不快そうにぶるりと振って纏わりつく蜘蛛を落とした。


 ……洞窟街で生まれた子供には、珍しくないことだった。病や不潔さが蔓延している地下では、弱いものからその犠牲になる。


 ヤズローも、親は物心ついたころから既に無く、スリや追剥の真似事をして日銭を稼ぐ有様だった。しかし碌に傷の手当てもしないのが悪かったのか、指先から腐り落ちる病を得て――ついには、腕も足も無くなって、芋虫のように地面を這いずることしか出来なくなった。


 そんな、ただ死ぬのを待つことしか出来なかったヤズローに手を差し伸べてくれたのは、たまに来る炊き出しの神官でも、それらが語る神でも、この女でもない。




『――君は強いな。名は何という?』


「……、」


『無いのかね? ならば吾輩がつけよう。ふむん、ヤズローというのはどうだろうか? 神話に出てくる、龍の名をもじったものだ。中々に格好良いだろう?』




 泥と膿と腐臭に塗れた体を躊躇わず抱き上げられ、仕組みはちっとも理解できないままに自在に動く手足を与えて――男爵の従者という、御大層な身分まで与えられてしまった。未だに、この借りを返せるとは思っていない。


 だから主が不必要に貶められるのも気に食わないし、主自身がへらへらと笑ってふざけるのも気に食わない。ヤズローがいつも不機嫌に、主に対してすら慇懃無礼に振る舞うのは、そういう意味合いも籠っているのだ。


 レイユァも、その辺りをちゃんと理解している。洞窟街のひとつを治める者として、其処に働く者――主に娼婦達だが、それを守るのも己の責務だと彼女も思っている。だが、如何に彼女の手足が長く糸は広がっても、限界はある。ヤズローが自分の街の中で取り零しかけた命であることも知っているレイユァは、嫣然と微笑んで小さく無防備な体を抱きしめる。彼が親にされなかったことを少しでも満たすように。


「そうねぇ、コンラディン。現当主さんは堅物で、奥様以外には手を出さない、身綺麗な方て聞いたけど」


「なら、何も知らないのか」


「焦らないの。来てるのは、その息子さん。グレアム・コンラディン――つい最近亡くなったアルテさんの、すぐ下の弟」


 暗闇の中でヤズローの目が光ったことに気付いたのか、レイユァはひそひそと彼の耳元で語る。擽ったそうに身を捩るが、逃がさずに抱きしめて。


「前々から遊びに来てくれてたんだけど、ここのとこは入り浸り。お値段は三番目ぐらいの、『蔓薔薇』にいるわ」


 そう言いながら、レイユァの手指が己の髪に潜り、先刻ヤズローの耳に着いていた筈の蜘蛛を取り出す。子供の頃の栄養状態が悪くすっかり色気の無くなったヤズローの髪をそっと梳り、不快そうに身を捩るのにも構わずその耳に蜘蛛を停まらせてやる。


『――どうせうちはもう終いだ。兄貴が馬鹿だ、あんな塔に手など出しやがって』


「!」


 耳元で銀の蜘蛛が囁くのは、この場に居ない筈の男の声。レイユァの蜘蛛糸は音を拾い、彼女に届けることが出来るのだ。糸はこの店どころか『蜘蛛』全体に及んでいる。この街に居る限り、彼女の耳を塞ぐ方法は無い。ヤズローはじっと、何か手がかりは無いかと耳を澄ませる。


『お袋が死にかけたのがけちの付きはじめだ。あの女、あの塔の中で下手な野郎と逢引でもしてたんだろう』


「何……?」


 聞き捨てならない言葉に、思わずヤズローは声を上げた。レイユァも部屋の様子を理解しているらしく、少し待って、と囁いて何やら手指を動かす。自分の指示を、あの男に付いている娼婦に伝えるのもお手のものらしい。


『……ああ、そうだとも、親父だって気づいていたさ。昔っから奔放な女だった、罰が当たったのさ』


 話を促されたらしい男の舌はどんどん回り、聞かれていない事までべらべらと喋った。この街、特に娼館での話は外に持ち出さないのが絶対のルールだ。まさかこの街の元締めが特定の人間にだけは依怙贔屓することには気付くまい。


『エールが生まれた後は隠しもしなくなったぜ。あの日も、社交場で貧乏貴族でも引っかけたんだろう、あの塔なら人目にもつかないしな。戻ってこないあいつを総出で探して、塔の扉が開いてることに気づいた時には、もう手遅れさ。大股開いたまま目をかっ開いて、とても見れたもんじゃなかったぜ』


「……その相手は?」


 ヤズローの疑問を、レイユァは上手く伝えたらしい。男の鼻を鳴らす音が聞こえて、


『さあな、影も形も見えなかった。でもってその後、孕んだのが解って大騒ぎだ。エールを産んでからは寝室も別だったからな、あいつらは!』


 げらげらと男は笑う。己の父母を嘲り笑う声は不快だったが、無理が無いとも流石のヤズローも思う。母親のことなど全く覚えていないので、共感は出来兼ねるが。


「……そしてその子供は流れた、とエール殿は言っていた。彼はまだ幼くて、その辺りを知らなかったのだと、思う」


「そうねぇ。流したのか流されたのかは、解らないけど」


 さらりと恐ろしいことを言うレイユァを睨みつつ、そういうものかとヤズローも納得はする。……生まれることを望まれない子供など、いくらでもいるのだ。


『ああ――あいつはまだ、生きている。生きていたんだ!』


 だが、突然男の声音が変わった。何かに怯えるように叫び、金属の音がする。杯でも取り落としたのだろうか。


『信じられるか!!? あんな、あの餓鬼――間違いない! 生きてやがったんだ! あの塔の中で! 十五年間、生きていたんだよ!! 間違いない!!』


「……何を言っている?」


 ヤズローの疑問に、促すことなく答えは返ってきた。


『あの白い女は、あの時の赤ん坊だッ!!!』 


「!?」


 驚愕に、ヤズローは目を見開く。……確かに、あの塔の中で出会った白い少女の幽霊、年の頃は十四、五だった。コンラディンの奥方が賜った悲劇の時期と一致する。しかし彼女は紛れもなく、宙を舞える幽霊である筈――成長した? まさか?


「……どうも、酒が回りすぎたみたいねぇ。これ以上は無理かも」


 済まなそうに頭を撫でてくるレイユァの手を乱暴に振り解き、眉間に皺を寄せてヤズローは言う。


「旦那様に報告する」


「はい、はい。今つけてあげるから」


「一本でいい、後は自分でやる」


「遠慮しないの」


 結局、両手両足を蜘蛛糸で丁寧に繋ぎ直すまで、どれだけ悪罵を吐き捨てようとも解放されなかった。


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