episode・30  隻眼剣客 平山五郎


 新家の道場を、あとにした新八は、物足りなさを感じながら、緑町に向かっていた。

 こういう気分のときは、酒をのむにかぎる。新八の脳裏には『とうふや』の豆腐料理が浮かんでいた。

 黒板塀が続く緑町の小路を曲がると、柳の木陰の料理屋の板塀に、男がよりかかっているのが見えた。

 男は新八に、片方だけの目を向けると、にやりと笑った。

「よお。新八さん。待ってたぜ」

 その声には、むしろ愉しげな響きがあった。

 新家の道場で、竹刀を交わした隻眼の平山五郎である。

 どうやら新八を、待ちかまえていたらしい。


「ふふふ……わざわざ俺と、一杯やりたいって、わけじゃあなさそうだな」

 新八も愉しげにこたえた。

「ああ……どうだい。そこらの空き地で、昼間の続きと洒落こまないか?」

「いいぜ。俺もちょうど、そういう気分だったんだ」


 そこは、飲み屋が連なる一角にある、板塀に囲まれた三十坪ほどの空き地であった。

 どこからか三味線の音が聴こえ、人びとの、かすかなざわめきが伝わってはくるが、奥まった一角なので、めったに、ひとがくることはないだろう。


「いざ!」

 平山が、すらりと刀を抜く。

 薄暗闇に、刀身がきらりと光る。

 それに応じて、新八も抜きあわせ、刀を下段正眼に構える。

 昼間の試合のときとは異なり、平山は、あえて隙を作らず、基本である、正中線を守る構えをみせた。

「へえ……外連けれんを棄てたな。そのほうがになってるぜ」

 新八が言った。

「同じ失敗しくじりは、しねえさ」

 そうこたえながら、片方の目に、鋭い殺気がほとばしる。


 平山は、水戸にいたころから、喧嘩三昧の荒れた生活をしていた。

 生来持っている狂暴な性質は、たいていの相手を、怯ませる迫力があり、この夜は、いつにも増して、凄まじい殺気を放っていた。

 それに対する新八は、ただ静かに構えている……なのに平山は、妙に気圧され、攻撃をためらった。


(おかしい……どうしたというんだ。なぜ斬りかかれぬ!)


 新八の下段正眼には、これといって威圧感はなく、むしろ、静かに佇んでいるかのようにさえ見える。

 平山は、出鼻を挫かれ、蛇に睨まれた蛙のように、額から汗を流していた。

 喧嘩に明け暮れた日々の経験から、平山は道場剣術など、はなから馬鹿にしていた。

 たしかに道場では、新八に負けたが、真剣勝負なら、場数を踏んでいる自分が有利なはずだ、と、思っていた。


 ところが……。

 平山が攻撃の気配を見せる。すると、無意識に、新八がその起こりを捉えて、それに無言の気合いを被せる。

「むう……」

 平山は気圧されて、剣を振るうことができなかった。

 江戸にいたころの新八であったら、このような戦いかたはせず、真っ向からぶつかっていったに、ちがいない。

 新八は、わずかのあいだに、恐ろしいほど成長していた。


「いくぜ」

 新八がいきなり、するすると間合いを詰めた。

「うりゃああ!」

 平山が、弾かれたように、捨て鉢の気合いをかけながら、突きを放った。

 新八が刀を振り上げ、その突きを跳ねあげると、平山の刀が高々と宙に舞う。

 振り上げた刀を、くるりと廻すように新八の剣が走り、平山の首筋でぴたりと止まった。


「――ま、参りました」

 平山の真っ青な顔から、汗が滴りおちた。

 一方、新八は汗ひとつかかず、涼しい顔をしている。

「勝負あり……だな」

「ああ。俺の負けだ。ひとつ教えてくれ。なんで俺は、あんたに斬りかかれなかったんだ?」

「平山さん……おまえさん、道場剣術を馬鹿にしてるだろう」

「ああ。その通りだ……あんな竹刀で剣術ごっこをしても、いざ真剣勝負になりゃあ、ものの役にたつもんか」

「やっぱりな……でも、それは間違いだ」

「見損なったぜ。俺と同類かと思っていたが、あんたも、そういうを言うか」

 平山が吐き捨てるように言った。道場では器用に試合しても、いざ、真剣になると、なにもできなくなる情けないやつらを、たくさん見てきたからだ。


「少し前まで、俺もそう思っていた……だが、いまはちがう。得物が竹刀だろうと、棒っきれだろうと、気組きぐみあれば、それは真剣と同じだ」

「俺には、その気組が足りないというのか?」

「いや。足りないわけじゃねえ。あんたの気合いは、かなりのもんだ。だが、技術も伴っていないと、意味がないって、ことさ。道場剣術には、少なくとも技術はある。気、剣、体の一致。それこそが剣術の真髄なんだ。――俺もまだ未熟者だ。最近ようやく、そのことに気がついた」

「気、剣、体の一致。か、なるほど……よい勉強になった」

 平山は昼間とちがい、本心から頭を下げると続ける。

「今回は完全に俺の負けだ……修行し直して、あんたに、また勝負を挑んでもいいか?」

「ああ。かまわないぜ。だが……そんとき俺は、いまより、もっと強くなってるけどな」

「望むところだ」

 平山は、新八から離れ刀を拾って鞘に納めると、一度手を振り空き地から立ち去った。

 黙ってそれを、見送る新八の口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。



――新八が平山と路地裏で斬り結んでいたころ。

 池之端の料理屋『はなぶさ』の離れでは、清河と御子神が、差し向かいで、酒をのんでいた。

「紋多君。勘違いしてはいけません。君が一命を捧げるのは、僕ではなく天帝でしょう」

「そうでした」

「しかし、君の赤誠は、しかと受けとめました。ところで、新家を組織しくみから外す件ですが、後釜が見つかったとか……」

「はい。前澤という、御家人崩れを拾いました。かなり腕は立つかと思われます」

「それはよかった。相手は用心棒の浪人とはいえ、新家は仕事(盗み)の最中に、ひとを斬りました。これを見逃すわけには、いきませんからね」

「しかり。この仕事、殺しはご法度でござる」

 青梅宿で、ひとを斬ったばかりの御子神が、ぬけぬけと言いきった。

 御子神には、盗賊の仕事以外で、ひとを斬ることは、モラルから外れる行為ではないらしい。

 こうした感覚が、常人とは、大きくずれていることに、御子神は気付いていない。

 しかし、そのことを知りながら、それを、あっさりと許容する清河も、普通の人間とは、かけ離れた感覚を持っていた。

「道場のほうは、下村が寄越す新見という男にまかせ、実働隊と道場は、やはり切り離しましょう。

それでは、次の仕事の準備にかかってください。これは祐天の子分が調べた、標的の間取りと、主人や奉公人の詳細です」

 と、言って清河は、御子神に封をした書類を手わたした。


 祐天仙之介の子分には、元大工や仕法家(現在でいう経営コンサルタントのようなもの)など、商家の詳しい内幕を、詳細に調べる特技を持つ者がいる。

 さらに、経営している口入れ屋を通じて、大店に、自分の息のかかった奉公人を斡旋しており、膨大な数の商家の内幕を、ひそかに入手していた。清河は、その情報を買っていたのだ。


「相変わらずあの博徒は、抜け目がないですな」

「ええ。八王子横山宿の賭場だけでなく、表稼業の口入れ屋も、たいそう繁盛しているようです」

「あの男は、いったい、何がしたいのでござろうか?」

「どうやら、博徒には見切りをつけて、この攘夷騒ぎに紛れて、侍になりたいようです」

 祐天仙之助は、その勢力からいって、三井の卯吉の後継者にふさわしい貫禄があったが、博徒の世界では順列がものをいう。なにしろ席次を間違えただけで、血で血を洗う抗争に発展することなど、珍しくもない世界だ。

 その点から仙之助には、席次が上の兄貴分がおり、すんなり卯吉の後釜に座ることは、不可能だったのだ。

 仙之助の勢力があれば、やってできないことはないが、そのような強硬手段にでれば、甲府のすべての博徒を敵にまわすことになるだろう。

「ふん、ごときが侍とは、きいてあきれますな」

 自分のことは棚に上げて、御子神が吐きすてると、

「それが祐天の弱味です。せいぜい利用してやりましょう」

 清河が、にやりと笑った。


 ふたりが話に夢中になって話していると、離れに続く中庭の戸が、ガラッと開く音がきこえた。

「どうやら来客のようですな。それでは拙者、軽く下見をしてから、甲府に戻ります」

 御子神は、客が入ってきた中庭とは、反対側の障子を開け、裏庭に降りる。

「では、御免」

 そして、清河に一礼すると、助走もつけず、七尺もある黒板塀を、軽々と跳び越えて、闇に消えた。


「おい清河、俺だ。入るぞ」

 やってきたのは、山岡鉄太郎である。

「山岡君。どうしました。こんな夜更けに、珍しいですね」

 清河が、にこやかに迎える。

 山岡は、御子神とならんで、清河が無条件で信頼している、数少ない人間のひとりだった。

「おい、いよいよ事態は、切迫してきたぞ」

 そう言った山岡の顔は、めずらしく緊張している。

「義兄(高橋泥舟)が江戸城なかで、下田条約の詳しい内容を訊きこんできた。

なんと、メリケン奴らが、我が国で罪を犯しても、我らが裁くことはできず、通貨は、価値ではなく、で両替するそうだ」

「幕閣は、おとなしくそれを呑んだ、というのですね」


 清河の顔に、朱が走った。

「馬鹿にしていやがる……初手から、こんなに舐められていたら、やがて清国の二の舞だ!」

「日和見な阿部よりましとは言え、相模守(堀田正睦)は、腰が退けています。しかし、これが掃部守(井伊直弼)が上に立ったら、事態はますます悪化するでしょうね」

「悪化どころではない! 皇国の存亡に関わる。掃部守は、早いところ斬ったほうが、よいかもしれぬ……」

 山岡が激昂する。しかし、その顔は、あまりの怒りによって、むしろ青ざめていた。

「山岡君。まあ、そう激昂せずに、冷静にゆきましょう」


 このとき幕閣は、真っ二つに割れていた。

 それは、開国問題と将軍継嗣問題である。

 現・将軍家定は、病弱で跡継ぎも作れない有り様で、とても将軍の器ではなかった。

 御三家のなかには、有力な候補がふたりいた。ひとりは、家定の従兄弟にあたる紀州藩主・徳川慶福。

 慶福は、血筋に問題はないが、まだわずか十三歳に、すぎなかった。


 そして、もうひとりが水戸藩・徳川斉昭の子、一橋慶喜であった。慶喜は、二十二歳。英明として知られ、年齢も申し分ない。

 しかし、水戸藩から将軍を出した、前例がないことが問題だった。

 慶福を推している井伊直弼、老中・松平忠固ら、保守派は「南紀派」と呼ばれ、一方、一橋慶喜を推す「一橋派」は、福井藩主・松平慶永(春嶽)、薩摩藩主・島津斉彬らの改革派の大名が名を連ねていた。


 この時期、春嶽は、橋本左内を、斉彬は、西郷吉之介を、それぞれ京に派遣して、一橋慶喜を、将軍に指名する勅状を得ようと工作していたが、井伊の妨害にあって、失敗に終わる。

 一方で井伊は、大奥に働きかけ、将軍家定を洗脳して、ついに大老の地位を得て、春嶽、斉彬らを退け、権力の頂点に立つのだが、それは、まだ翌年の話だ。


「しかし、掃部守を、このまま野放しにしておくと、禍根を残すような気がしてならん……」

 呻くように、山岡がつぶやいた。

「とはいっても、我らが行動を起こすには、まだ時期尚早……もう少し組織を、しっかりと固めなければ、動きようがありません」


 清河の言うところの組織は、のちに「虎尾の会」として、山岡をはじめ松岡万、益満休之介、伊牟田尚平ら薩摩藩士などを含めて、具体的なかたちになる。

 しかし一方で、山岡の心配も、のちに安政の大獄として、現実のものとなるが、この時点で、それを予想することは、まだ誰にもできなかった。



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