episode・14  沖田惣次郎

 のどかな春の日射しである。

 山口と前澤は、甲州道中を、甲府へと向かって歩いていた。

 ゆるゆると歩いて府中に泊まり、急ぐ旅ではなし、今日ものんびりと出発した。

 日野の渡しで多摩川をわたり、遠く高幡不動の山をのぞむ、見渡すかぎりの田圃を抜け、日野宿にさしかかったのは、まだ午前ひるまえだった。

 ゆっくり歩むそのふたりを、背中に漆塗りのつづらを背負い、剣術道具をくくりつけた男が、飛ぶような勢いで追い抜いてゆく。

 石田散薬という幟を、風にはためかせながら、薬売りは、立派な長屋門のなかに入っていった。


「おい、見たか? 今の薬売りの格好なりを」

 前澤が、眼を丸くして、山口に向きなおった。

「とくにめずらしくもあるまい。ここいらへんは、将軍様だんなの御領で、百姓、町人でも、盛んに剣術をやる土地柄だ」

「なるほど……道場も、たくさんありそうだな」

「八王子横山宿には、天然理心流の増田道場、大平真鏡流の塩野道場、北辰一刀流の横川道場、甲源一刀流の比留間道場がある」

「あの比留間半造か……行ったことがあるのか?」

「ああ。以前にな……」

「で、勝ったのか?」

「負けた。相手は、あの比留間半造だぞ。しかも、そのとき俺は、まだ十六の小僧だ……勝てたら驚きだ」

 比留間の名は、江戸にまで轟いており、のちに紀州藩支藩の剣術指南役になったほどの腕前である。


「比留間と男谷は、こないだの狸おやじとならんで、ってやつか」

 前澤の何気ないひと言に、山口は、男谷信友を思い浮かべた。

 山口の剣才は際立っていたが、無敗だったわけでは、もちろんなく、何度も負けたことがある。

 それは、自分の実力が、どのあたりにあって、相手に勝つためには、こういう努力を、これぐらいしなければならない……。

 という、対処法のある負け方だった。

 

――しかし男谷は、そうではなかった。


 男谷の剣は、まるで悪夢のように、つかみどころがなく、どれだけ努力をすれば、そこにたどり着けるのか、それが、まったく見えなかった。


 ふたりは、話しながら、二棟並んだ、長屋門を構えた屋敷の前にさしかかる。

 堂々たる構えからして、どうやら宿場の本陣らしい。

 長屋門の東室は、道場になっているようだが、まだ大工が普請しているらしく、鋸をひく音がきこえている。庭で剣術を稽古しているのか、竹刀を打ちあう音が、遠くから響いていた。

 竹刀の音に、山口がちらりと視線をおくるが、そのままとおりすぎた。


 その長屋門は、日野宿脇本陣のものである。通称、下佐藤こと、名主の佐藤彦五郎の屋敷であった。

 先年の火事で焼けてしまい、先ごろ新築したばかりなので、檜の香りが漂ってくるような、汚れひとつない建物だ。


 屋敷の庭では、井上松五郎をはじめ、日野宿に住む天然理心流の門弟たちが、竹刀で打ちあっている。

 その様子を、いかつい顔のたくましい男が、腕を組みながら、厳しい眼差しで見つめていた。

 鑿で岩を荒っぽく削ったような顔に、底光りした目の、ゴツゴツしたこの男は、宮川勝太。のちの近藤勇である。


「かっちゃん、来てたのか。周助先生は、どうしたんだ?」

 先ほど門に飛びこんでいった、剣術道具をくくりつけた男が、大きな声できいた。もちろん、歳三である。

「おお、トシ。義父おやじは、脚の具合が悪くてな……しばらくは、俺が稽古をつけるよ。なんだ、いま商いの帰りか。家に寄らなくていいのか?」

「なあに、かまうもんか。兄貴の説教を喰らうより、竹刀で叩かれたほうがマシさ」

「トシ……いい加減、誓紙をだして正式に入門したらどうだ?」

「かっちゃんが、四代目を継いだらそうするよ」

「まったく、おまえは……」


 歳三が、その話には、触れてほしくないようなので、勝太は話題をかえた。

「ところで、きいたかトシ。例の盗賊が、また出たって話を……」

「ああ、それなら、小野路の橋本ん家に行ったとき、噂になってたよ。八王子八木宿の絹問屋が狙われて、用心棒が、斬り死にしたらしいじゃねえか」

「おかげで金蔵は、無事だったそうだが、殺られたのは、なんと、北辰一刀流の免許らしいぞ」

「おっかねえな。盗賊んなかに、剣術の得意なやつがいるとはよ」

 歳三が、少しも怖くなさそうな声で言う。

「ふん。俺が用心棒なら盗人なんぞ、全員返り討ちにしてやるんだが」

「ああ、かっちゃんは、盗人をやっつけてるもんなあ……」


 嘉永二年のことである。

勝太は十六歳。天然理心流に入門して間もないころの話だ。

 調布の上石原にある勝太の家に、父親の留守を狙って、盗賊が押し入った。

 それに気づいた、同じころ入門した兄の粂太郎が、刀をとって、盗賊に斬りかかろうとすると……。

「兄ちゃん。賊は、盗みに入ったばかりで気が立ってる……いま俺たちが出ていったら、必死で抵抗するはずだ。

やつらが逃げるときなら、もう安心して油断しているから、その機会に仕掛けるのが兵法だ」

 この言葉に納得した粂太郎は、勝太に従い、賊が獲物を抱え、まさに逃げようとしたとき、


「待てっ!」

 と、声をかけ、斬りかかった。

 あわてたのは、盗賊である。

 すっかり安心したところで反撃にあい、獲物を投げだして、ほうほうの体で逃げてゆく。

 勝太は、なおも追撃しようとする粂太郎に向かって、

「兄ちゃん、深追いは禁物だ。やつらも必死のはず……窮鼠猫を噛むのたとえがある。このへんで、やめておこう」

 と、諫めた。


 この話は、たちまち近隣にひろがり、近藤周助の耳に達し、感動した周助が、是非にと、勝太を将来養子に迎ることに決めた。

「トシ、やめろよ……昔の話だ」

 勝太は、顔を赤くして、照れ笑いを浮かべた。それまでのいかつい顔が嘘のような、人懐っこい笑顔だった。


「あれぇ、トシさん、帰っていたんですか」

 陽気な声に、歳三が振り向くと、総髪の若い男が、幼子と手をつなぎ、ニコニコ笑いながら立っていた。

 笑うと、若いというよりも、むしろ幼い印象をあたえる、ひょろっと背が高いこの男は、沖田惣次郎、のちの沖田総司である。

「惣次郎……おめえ、稽古もしねぇで、なにしに日野にきたんだよ」

「ちがいますよ。さっきまで稽古していたんですが、ちゃんが遊ぼうって、うるさいから……」

「――ちっ」

 思わず歳三が舌打ちする。

 りきちゃんとは、歳三の姉のぶが嫁いだ、佐藤彦五郎の次男の力之介のことで、つまり、歳三の甥にあたる。

「トシさん、舌打ちなんて、武士のすることではありませんよ」

 ケラケラと惣次郎が笑う。

「うるせえ、それは、おめえが……まあいいや。ちょうどいいところにきた。一本勝負だ!」

「かまいませんけど、りきちゃんが見ていても、手加減なんてしませんからね」

「ふん。のぞむところだ……てめえこそ、覚悟しやがれ!」


 歳三は、そう言うと、荷物にくくりつけた剣術道具を外し、身につけはじめた。

 歳三は、惣次郎の剣が苦手だった。というより、勝てる気がしなかった。

 天才とは、まさにこの男のためにある言葉だろう。

 技というものは、何度も何度も繰り返し型を覚え、その要蹄を抽出して、ようやく身につくものだ。

 ところが、惣次郎は、一度見ただけで、ほとんどの技を再現してしまう。

 サヴァン症候群と呼ばれる、一度見た景色を、細部まで完全に記憶している症例がある。

 惣次郎の場合は、映像ではなく、一度見た動きを、細部まで記憶するだけではなく、それを正確に再現する、身体能力を持っているのが脅威だった。


「さあ、いいぜ……かっちゃん、行司しんぱんをたのむ」

 防具をつけると、歳三が言った。

 面金をとめる紐が深紅なのが、やけに目立つ。

 それは、この男なりのダンディズムだった。

「では、いきますよ」

 惣次郎が晴眼に構える。

 しかし、その構えからは、殺気や圧迫感が一切感じられず、相変わらず飄々とした空気をまとっている。


(これが曲者なんだよな……)


 普通は、勝負の場に立てば、どんなに上手く隠しても、知らず知らずのうちに、闘気が漏れ出るものだ。

 また、そうでなくては、相手を威圧し、圧倒することなどは、できるものではない。

 現に、勝太と向かいあうと、思わず身がすくむような、凄まじい重圧を感じずには、いられない。

 ところが、惣次郎には、それがまったくなかった。

 まるで、子どもの手を引いているときと同じような、日常的な雰囲気から、唐突に、苛烈な技がくり出されるのだ。


 歳三は、やや腰を落とすと、晴眼に構え、剣先を右に開くように、意図的に正中線を空けた。

 新陰流などに見られる、相手の攻撃を誘う構えだ。新陰流では、構えとは言わず、位というが……。

「あれぇ、トシさん。どうしたんですか? 柳生の真似なんかして」

「うるせえ、きやがれ!」

「ふふっ、いきますよ」

 そう言ったとたん、空気が摩擦で、きな臭い匂いを放つような、惣次郎の鋭い突きが歳三を襲う。

 得意の三段突きだった。


(かかりやがったな!)


 歳三は、これを誘ったのだ。


 惣次郎の三段突きは、誰に習ったわけでもなく、自得したものである。

 突きといえば、とかく後ろ足で地面を蹴り、身体ごと飛びこむような印象があるが、惣次郎の突きは、そういう単純な攻撃ではない。

 惣次郎は、まず膝を抜き、身体を垂直に落とす古武術特有の身体操作を使い、地面を蹴ることなく、一歩前に、滑るように間合いを詰める。

 縮地と呼ばれる、この最初の動きが、手で突くことなく、身体の移動が、自然に最初の突きになっていた。


 歳三はこれを、何度も喰らっているので、よどみなく後退して、なんなくかわす。

 だが、厄介なのは、このあとだった。

 惣次郎も、最初の突きが簡単に決まるとは、思っていない。

 縮地により、間合いを詰めた位置から、今度は、はじめて本当に突きをだすのだ。

 突き技の最大の欠点は、当たり前だが、突いたら引かねばならないことにある。

 どんなに速く突いた手を引いても、それは、やはり無駄な動きで、心得のあるやつには、つけ入られてしまう。


 しかし、この第二の突きまで、惣次郎は、一度も引く動作を入れていない。

 もちろん、突いた瞬間にあわせ、後の先でカウンターを入れることができれば、それに越したことはないが、あまりにも唐突な攻撃の起こりを捉えるのは、至難の技だった。

 したがって、一度めの突きをかわしても、次の突きで、たいていの相手は、体勢を崩し、なんなく三度めの突きの餌食となってしまうのだ。


 歳三は、二撃めの突きにタイミングを合わせ、無造作に竹刀を突きだし、惣次郎の竹刀に沿わせた。


(来る! 次が本命だ)


 普通なら、ここで竹刀を引く動作を入れなければ、さらに突くことはできない。

 惣次郎の天才の所以は、この先にあった。

 縮地により間合いを詰め、それでまず一撃、腕を突きだして二撃、そして三撃めは……。


 惣次郎は、竹刀を引く動作を入れず、半身を直角に水平移動することにより、腕の位置を変えた。


――これが三撃めの突きだ。


 つまり相手と正対したとき、正面を向いていた身体を、正中線を動かすことなく、横に向けることによって生じた位置の差、身体の半身ぶんの、わずかな移動が、結果的に、突きに転換されるのだ。

 歳三は、沿わせた竹刀をそのままに、後ろにも下がらず、かといって避けもせず、一撃めの突きの動作と同じように、さらに間合いを詰めた。

 惣次郎の三撃めは、歳三の竹刀に誘導され、わずかに方向を変えて、虚しく空を突いた。

 歳三の竹刀は、そのまま……。


――したたかに総司の面を打っていた。


「一本! それまで!!」

 勝太が高らかに宣告した。

「――そっ、そんな」

 惣次郎は、愕然としていた。

 今まで、誰にも返されたことのない突きを、あっけなく返されたのが、衝撃的だった。

「ふふふっ、惣次郎。残念だったな……俺だって、やるときは、やるんだぜ」

 勝ち誇ったように、歳三がふんぞり返った。

「ま、待ってください。よりによってトシさんに、こんなに簡単に負けるなんて……お願いします。もう一本」

「おいっ、なにがだ!  見苦しいぜ。最初に一本勝負と言ったはずだ。

俺は、朝から走りっぱなしで疲れた……これまでだ。寝る!」

 歳三は、一方的に宣言すると、防具を外し、縁側の隅っこに、ごろりと横になった。

「ちょ、トシさん。お願いしますよお……」

 駄々っ子のように、頬を膨らませながら、惣次郎が歳三に詰め寄るが、当の歳三は、もう安らかに寝息をたてていた。


「惣次郎。おまえの負けだ」

 勝太が優しい声で言った。

「でも……なんか、すっきりしないなあ……」

「トシの喉元をよく見てみろ」

 着物をはだけて寝息をたてる、歳三の鎖骨から喉のあたりには、無数の青あざができていた。

「こいつ……おまえに勝てないのが、よほど悔しかったんだろう。どこかで、こっそり修行していたようだ」

 勝太の言うとおりだった。

 歳三は、突き技を得意とする、友人である登戸の千人同心、戸倉又兵衛の家に、わざわざ何度となく立ち寄り、突きに対する特訓をしてきたのだ。

 しかも、又兵衛と総司の腕前の差を考慮して、槍で突かせて、それを竹刀で捌いていた。


 そもそも、剣と槍では、間合いがまったくちがう上に、槍は、突きの動作に特化しており、捌きにくさは、剣の比ではない。

 又兵衛は、剣術こそ歳三と、どっこいの腕前だが、槍は、佐分利流免許皆伝だった。

 これは、とてもまともに試合になるような、レベルの差ではない。

 しかし、歳三は、その無理を承知で、間合いを征する練習をしていたのだ。


「見ろよ、惣次郎。この楽しそうな寝顔。まったくトシってやつはよ……」

 嬉しそうに、勝太が目を細めた。

「ふふっ、まるで子どもみたいですね」

 つられて惣次郎も笑った。

 歳三が起きていたら、どっちが子どもだ。と、怒鳴り返していたにちがいない。

「惣ちゃん、もっと遊ぼうよ」

 いつの間にか、力之介が、弟の漣一郎といっしょに、総司にまとわりついていた。

 惣次郎は、無邪気な微笑みを浮かべると、

「よし。じゃあ、上堰ではや釣りしようか」

 と、ふたりの手を引いて、屋敷の裏手の日野用水に向かって、歩きだした。

 勝太は、ため息をつき、黙ってそれを見送る。

 暖かい陽射しを浴びて、縁側の歳三は、相変わらずぐっすり眠ったままだった。

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