七章、墓碑

 ここまで、俺は便宜上俺の元祖国のことを「アーム王朝」と呼び習わしてきた。二つの銀河帝国は共に「我こそは正統の銀河帝国」と主張しており、どっちも正式名称は「銀河帝国」なのだ。紛らわしすぎる。故にそう呼んできたわけだが、実は「アーム王朝」は、元祖国ではまったく通用しない呼び方なのだった。


 「ロスアフィスト王朝」は問題ない。エトナの苗字は「ロスアフィスト」である。これは辺境星域を統一し、元銀河帝国から分離した開祖ロスアフィスト・フォッカーの名からきている。故にこっちの銀河帝国では自国のことを普通に「ロスアフィスト王朝」と呼び、公式書類にそう書かれることもある。同時に、向こうの銀河帝国のことも普通に「アーム王朝」と呼ぶわけである。


 ところが、これが「アーム王朝」側では事情が異なる。


 かの帝国の現皇帝はルクシオン帝であるが、その苗字は「フォッカー」なのである。現銀河帝国皇家の姓をそのまま使っているのだ。そもそも「アーム王朝」は帝国分裂時の皇帝アームの名から来ているのだが、彼は父帝から正式に位を継いで即位した皇帝なのである。「アーム王朝」側が「我が方こそ帝国の正統」と誇ることに根拠が無いわけではないのだ。


 故に「アーム王朝」内部では、その名称はまったく通用しない。帝国はあくまで銀河帝国であり、敵「ロスアフィスト王朝」は、帝国から分離独立した「反乱勢力」であり、公式には「ロスアフィスト勢力圏」と呼ばれる。エトナは「叛徒ロスアフィストの子孫」であり「皇帝を僭称する偽帝」なのだった。もっとも、敵国と関わりの薄い一般国民は実際にそう呼び習わしているが、さすがに軍では「ロスアフィスト王朝」「敵の皇帝」というような通称が使われている。


 この一事からでも分かるように、両国のお互いに対する認識は様々な面で相当に異なる。特にアーム王朝はロスアフィスト王朝のことを公式には外交相手と認めていない。それでも、一応は国境協定や通商協約が結ばれているので、まったくの没交渉というわけでもないのが現実というものなのだが。いすれにせよ、両国を講和させるためには、この認識の違いを無視しては上手くいかないであろう。幸い、俺は亡命者だったので、この辺りは十分に把握できていた。




 ルクスの反乱を鎮圧し、俺は名実共に帝国の第一人者になった。これで俺が以前から主張していたアーム王朝との講和を実行に移すための条件が整ったことを意味したのである。しかしながら、その前に俺にはまだ一つ、やるべき事が残されていた。


 軍需産業との調整である。


 俺はこれまで、意図的に軍需産業を敵に回していた。これは、講和反対派に軍需産業と繋がりが強い貴族が多かったという事情のほかに、その方が世論の受けが良かったという理由がある。しかしながら、状況がここまで推移すれば、このまま軍需産業と対立し続けることにはマイナス面が多く過ぎる。俺は密かに軍需産業と接触を図った。


 俺は、大規模な軍縮を考えていないことを強調し、講和が実現するにしてもまだまだ先であることを伝え、軍需産業に協力を要請した。俺は今や軍においても元帥である。軍需産業にとっても俺と対立しないで済むのならそれに越したことは無かったのであろう。彼らは俺との和解に応じ、協力を確約した。


 こうして、真の意味での国論の統一が成ったわけである。


まったく、綺麗事で政治は出来ないのだ。俺は始めから清廉潔白な政治家であろうとは一つも考えてはいなかったが、政治に深入りすればするほど考え方が卑しくなって行くようで、少なからずうんざりはした。まだしも軍事に専念していたほうが単純な世の中に生きられるのだ。ただしそれは、政治家に面倒な部分を押し付けているからそうできるのであるという事が、今の俺には分かる。俺は望んで政治家になった。誰に文句を言うことも出来ん。




 俺は元帥になり、要するにロスアフィスト王朝軍最高階級になった訳である。つまり、本来軍トップであるはずの参謀本部長ルドルフ・ハイネス大将や軍令部本部長コロネウム・パリス大将、宇宙艦隊司令長官ロンド・ボグスター大将を抜いてしまったのだ。これはなぜかというと、ロスアフィスト王朝軍には本来、元帥という階級が無いからである。定年を迎えた大将に対して、名誉元帥という形で、以降の軍への関与を許可するという意味で贈られる階級が元帥なのであった。


 現役で元帥の称号を得たのは、ロスアフィスト王朝始まって以来俺が初めてだとか。その俺が単に第九艦隊司令官で居続けるわけにも行かない。しかし、他の三長官の地位を奪うことにも問題があるだろう。俺は三長官や、他の艦隊司令を集めて協議を行い、一つの役名をひねり出した。


 ロスアフィスト王朝最高司令官。


 という、大層な役名が俺、アルマージュ・ルクス元帥の名の前に冠されることとなった。いやはや、これはまたとんでもないことになったものである。つまり、俺は皇帝直下の文字通り軍のトップに祭り上げられることとなった訳だ。しかし、軍令部長パリス大将はあっさり言ってのけた。


「どうせ、陛下とご結婚なさるまでの繋ぎです」


 エトナと結婚すれば、つまり皇帝の夫となれば共同皇帝となって位階や役名は意味を失う、というわけだ。


 俺は帝国歴225年早々に、エトナと婚約していた。俺は前年の暮れには正式に公爵に叙任されていたから、位階的にも問題は無かった。大々的な大いに草臥れる婚約儀式や会見が行われ、国民は一応、歓呼の声でこの婚約を祝福してくれたようである。


 なぜ一応か、というと、この頃俺の評判は最悪だったからだ。


 俺は亡命者、しかもまだ40にもならない若輩でありながら、ロスアフィスト王朝における政軍界のトップに成り上がっていたのだ。評判が芳しくないのは当たり前である。しかも、恩人であるはずのケントス・ルクスを反乱に追い込み、それを討ち、あまつさえその家を乗っ取った、という見方をする者もあった。世論が判官贔屓であるのはどんな世の中でも変わらない。勝手な話であるとは思うが、仕方が無い面もある。この頃の俺はまったく民衆に人気が無かったのだった。


 もっとも、あんまり俺は気にしてはいなかった。世論の人気が欲しいなら、それなりに選択肢はあったのだ。しかし俺は、結果を優先してそれを選択しなかっただけだ。その結果であるのだから、不人気は受け入れるしかない。


 俺は、人気は欲しがらなかったが、政治的、軍事的権力は貪欲に欲した。目的のためには手段を選ばないことを、俺はこの時既に決めていた。


 俺は遠慮無く「皇帝の婚約者=将来の共同皇帝」であることを振りかざし、政界と軍の改革に大鉈を振るった。太政大臣の位と元老院第一人者の地位を兼任し、軍においては最高指揮官。正に、皇帝を除けば他に並ぶ者の無い絶対者の地位を手に入れ、対抗勢力は理由をつけて排除する。正に独裁者の所業で、実際俺はロスアフィスト王朝で独裁体制の樹立を目指したのだった。


 エトナはこれにあまり賛成ではないようだった。彼女は俺に言った。


「これじゃぁ、あなたに対する反感が蓄積されて行くばかりじゃない。危険よ。そもそも、どうしてそんなにあなたに権力を集中させる必要があるの?」


 理由は簡単である。


 これから、アーム王朝と事を構えるに際し、何かあるたびに議会や皇帝府にお伺いを立てていたのでは、あまりにも効率が悪すぎるからだ。外交交渉にしても、軍事行動にしても、俺の独断で行った事が何もかも合法になるような状態になっていなければ、臨機応変な対応が行えなくなる。


「なぜなら俺は、これからは、首都レオンに帰ってくる暇もろくに無くなるだろうからね」


「え?」


 対アーム王朝に対していろいろと交渉を行うには、どうしたって首都にいるよりも国境付近、もしくはアーム王朝に乗り込んでいった方がやり易い。国境と首都を頻繁に往復していたのでは、何か重要なタイミングを逸してしまう可能性がある。それなら、首都ではなく、俺のいるところが政治軍事の中心である状況であれば良いのだ。


 もちろん、首都をがら空きにしたところを、内敵に付け込まれては目も当てられない。そのためには、内部の敵は始めから慎重に潰しておく必要がある。先の反乱でめぼしい所は潰し終えていたが、小物がまだ少し残っていたのだ。後は、信頼出来るホーネスト・ウェラン男爵あたりに目を光らせておいてもらって、皇帝エトナが俺とその味方を後見してくれれば、まぁ大丈夫であろう。


「ということだ」


 見ると、エトナが頬を膨らませていた。目が爛々と輝いている。俺は仰け反った。


「な、なに?」


「国境に行って、帰ってこない・・・、ですって!」


 う、ヤバイ。そこに地雷があったのか。


「あたしをほっぽって、国境に行ってしまうっていうのね!」


「いや、たまには帰ってくるって。分かってくれよ、断じて君を放って置くわけじゃぁ・・・」


「フィアンセを放って、国境でお姉さま方とよろしくやろうっていうのね!」


「そんなこと言って無いだろう!」


「許せない!」




 ・・・まぁ、多少の問題はあったが、俺は事実上、皇帝以上の権力を掌握することに成功した。仕事に掛かる条件が整ったわけである。


「まず、こちらから講和を打診する形になりましょうか」


 ナルレイン・カンバー中将は首を傾げた。彼女は軍令部副次長になっていた。


「どうでしょう?アーム王朝は乗ってくるでしょうか?」


「無理でしょうね。先の侵攻を見ても、あっちはやる気十分ですもの」


 コロー・ホリデー中将も頷く。彼女はこの度、帝国艦隊副司令となる事が決まっていた。程なく司令長官になることも確実である。


 ちなみに、エラン・ブロックンは大将に昇進し、第九艦隊司令になっている。マイツ・アキナは中将に昇進、第四艦隊司令に抜擢されていた。リンド・オフトは少将に昇進し、近衛艦隊副指令となっている。


 艦隊配属の三名は、各々の艦隊で部下の掌握と訓練などに忙しい。俺とカンバー、ホリデー両中将は軍令部及び参謀本部、艦隊司令部の再編成をしながら、密かに対アーム王朝戦略案を練っていた。


「講和と言っても、相手にその気が無ければ、こちらから相手の気を引けるような、いい条件を提示するしかありませんが・・・」


「無茶ですわ。差し出した手に喰いつかれて、手首まで持っていかれかねません」


 その通りなのである。


 講和というのは要するに戦争の、勝ち負けを明確にすることなのである。喧嘩の決着はこういう風につきました。なのでこの後はこの決着を踏まえた上で仲良くしましょうか、てなもんなのだ。名前から受けるイメージとはずいぶん違うが、これでも相手を完全に屈服させ、無条件降伏に追い込むよりもずいぶんと平和的な解決だとは言える。


 しかしながら、戦争状態が長引き、しかも膠着している状態で、両陣営が納得するような講和を結ぶというのは、まったくもって難しい事なのである。何しろ、どちらも負けたとは思っていないのだ。であれば、お互いに納得が行く条件を講和条約に折込むしかないが、そんなことが出来るくらいなら始めから戦争は起こらないわけだ。どちらかが歩み寄れば上手く行くかもしれないが、それは要するに負けを認めたということになり、ひいては後々の外交関係で劣勢に立たされることを意味するわけである。


 例えば今回の場合、ロスアフィスト王朝側から講和を打診すれば、アーム王朝はロスアフィスト王朝が負けたという事が明確になるような講和条件を求めてくるであろう。大幅な領地割譲や国号の変更などが当然予測される。もちろん、ロスアフィスト王朝に呑める条件ではないから、講和は成立しない。


「まぁ、その心配は無用だ」


「どういうことですの?」


 ホリデー中将が問いただす。俺は平然と答えた。


「俺は、この段階で講和を成立させる気は無いからだ」


 俺の言葉に、両中将の目が点になった。しばらくの沈黙の後、カンバー中将が言った。


「おっしゃる意味が良く分かりませんが」


「今の状況で、アーム王朝に講和を持ち掛けても成立しないことは分かっている。でもそれでいいんだ」


「では、いったいどうするおつもりなんですか?」


 こういうことである。


 はっきり言って、今この段階でアーム王朝に対して講和を持ち掛けても、あちらが応じてくる可能性は極少である。アーム王朝はこの戦争に対してロスアフィスト王朝よりもはるかにやる気だし、ロスアフィスト王朝に奪われた旧領土の奪還という悲願もあるのだ。少なくとも俺が居た頃のアーム王朝では講和論など聞いた事も無かった。


 そこへ、あえてこちらが辞を低くして講和を持ち掛ければどうなるか。向こうがこれに応じてくれば良し。もしも、向こうがこちらの差し伸べた手を振り払った場合、こちらはその非を鳴らすことが出来る。無用の戦を求めるのはアーム王朝の方だ、と声高に叫べるわけである。


 我がロスアフィスト王朝は講和を求めているのに、アーム王朝がこれに応じない、と両国民に喧伝すればどうなるか。ロスアフィスト王朝の世論はアーム王朝に対する反発に満ち溢れるだろう。逆に、アーム王朝世論は講和賛成、反対に分裂する事が期待できるのだ。


 戦意高く、軍民の結びつきも強固なアーム王朝のままであれば、これを打ち破るのは難しい。しかし、世論に対立を生むことができれば、それは貴族院や軍内部での分裂に波及する事が期待出来る。


 つまり、俺が講和を主張するのは、戦略としてアーム王朝内部を分裂、混乱させるためだということである。


「なんですか、それは。ずいぶん陰険な考えですこと」


 ホリデー中将は呆れ果てたように言った。確かにその通り。真っ当な軍人が考えるような手口ではない。アーム王朝のみならず、ロスアフィスト王朝国民をもペテンに掛ける様なものなのである。


「と、いうことは、提督は講和を、本気ではお求めではないということなのですか」


 カンバー中将が眉を潜める。俺は首を横に振った。


「いや、究極的には、俺は講和を願っているよ。ただ、それには手順が要るんだ」


 現状のように、両国の勢力が拮抗している状態では、奇跡的に両国の講和が成り立っても、それによって生まれた平和はけして長続きしないであろう。両国はこれ幸いとその平和な期間を軍備拡張に使うはずだ。平和が、次の戦争のための準備期間になってしまったら、これは本末転倒というべきだろう。


 平和が、永続とは言わないまでも、長期にわたって続くような講和。それが俺の究極目標である。


 史上、永続した平和は無いが、長期に渡って続いた平和状態なら多くの例がある。その平和状態には幾つかの共通点があるが、もっとも大きなポイントは、その世界に圧倒的な強国が存在したということだろう。


 圧倒的な強国と、対抗する劣勢な国家。こういう世界情勢になった時、平和状態が長続きする傾向があるのである。


 これはどういうことかというと、強国は圧倒的存在なので、対抗国では太刀打ちできず、しかし強国の方も、もろもろの事情で対抗国を滅ぼす事が出来ない。そのような状況下で締結される講和条約は、強国の優位を認めつつ、対抗国の自主性も尊重するという形で結ばれる事が多い。つまり、力関係が固定されるわけだ。この場合対抗国が現状に納得しさえすれば、強国の方も無用な戦を起こす必要が無くなり、平和が長続きするというわけである。


 ちなみにこの場合、平和が破られるのは、急速に台頭する第三勢力によってそれまで維持してきたバランスが崩れた時である事が多い。


 つまり、アーム王朝との講和を成立させ、それによって生まれた平和を長続きさせたいのであれば、それ以前にどちらかがもう一方を圧倒する位の力関係にならなければならないのだ。もちろん、俺はロスアフィスト王朝を劣勢な側に立たせる気は毛頭なかった。


「でも、それって結局、戦争の勝敗をはっきりつけるということですわよね?それならばいっそ、完全に敵を覆滅した方が、平和が長続きするのではないですか?」


 ホリデー中将の誤解は、往々にして一般的に持たれ易い誤解である。


 例えば、ロスアフィスト王朝がアーム王朝を完全にやっつけて、滅ぼしたとしよう。宇宙統一は確かに平和を呼び込むだろう。しかしながら、それはアーム王朝を内部に取り込むという意味でもある。長年培ってきたお互いの憎悪は簡単に消し去れるものではない。余程上手くやらなければ内戦やテロの火種を抱え込むことになるだろう。更に、現時点で勢力が拮抗しているアーム王朝を完全に滅ぼすためには、やはり膨大な国力の損耗と時間の消費を覚悟せねばならない。史上、宿敵を滅ぼしようやく併呑したと思ったら、勝った方も程なく内部崩壊してしまったという例は枚挙に暇が無いのである。


 ならば、戦争の白黒をはっきりつけた上で、それを明確にした講和条約を結び、アーム王朝自体は存続させるというのがもっとも現実的な選択肢となるのだ。


「しかし、もしもアーム王朝が敗北を認めず、あくまでも抗戦したらどうしますか?」


「それも考えられなくは無いな。カンバー中将」


 それゆえ、俺はアーム王朝に対して軍事的攻勢を掛ける前に、講和の打診を行うのだ。敵に敗北の屈辱を与える前に、講和による平和をちらつかせる事で、抗戦以外の選択肢があるということを初めからアピールしておくのである。そうすれば少なくとも世論は分裂を余儀なくされ、国民全てが結束して抗戦に立ち上がる、という事態は防げるはずだ。


「なるほど。では段階として、


1、アーム王朝に講和を打診する。


2、アーム王朝が講和を断ったら、それを口実に大攻勢を掛ける。


3、アーム王朝に致命的な打撃を与える。


4、あらためて講和を持ち掛ける。


5、講和する


 ということになりましょうか」


 分かり易く整理してくれてありがとうカンバー中将。つまりはそういうことだ。


「う~む・・・、では、今回持ち掛ける講和は、締結する気が無い講和ということですから・・・」


「あまり景気良くアーム王朝に迎合する内容ではなくてもいいということさ。強気に行こう。強気に」


 カンバー中将、ホリデー中将、そしてウェラン男爵(もう少し後、帝国右大臣に任命されることになる)と皇帝府の大臣たちなどと協議を重ねて決められた講和条約案の内容はこうである。




・両国は、それぞれ正式名称を「銀河帝国」から「アーム王朝」「ロスアフィスト王朝」に変える。しかし、便宜上「帝国」の名の使用はそれぞれ認める。


・両国の国境は220年に結ばれた非公式国境協定に順じて確定する。


・同じく非公式通商協約に準じて貿易条約を別に制定する。


・両国は互いに戦闘艦艇数を三割削減し、新たな艦艇建造を十年間禁止する。


・両国はそれぞれ互いの首都に大使館を置く。


・その他、航路保全や宇宙探索などについては別に条約を定める。




 平和な時代の人々が見れば、あまりにも当たり前の事しか挙げられていないことに驚くであろう。どの条項も、どちらかが利益を得、不利益を被るというような内容ではない。


 しかしながら、これを発表すると、講和自体には賛成多数であったロスアフィスト王朝国民の間からでさえ不満の声が上がったのである。


 理由は簡単だ。ロスアフィスト王朝国民はこれまで、アーム王朝との戦いに多大な犠牲を払ってきた。家族親戚が死んでしまった者も多かった。そこまで行かなくても、物資が優先的に軍需に回されるために、日々忍従を強いられてきたのである。


 その挙句が、アーム王朝との「対等な」講和条約だというのは、国民感情からして納得がいきかねることだったのだ。


 俺はそんな国民感情は百も承知だった。しかしここはあえて、俺は国民感情を無視した。


 ここで生まれる反発は、アーム王朝がこの条件での講和を断った場合に、倍加してアーム王朝への敵意に変わることが確実だったからである。俺たちが百歩譲ってやった講和条件であるのに、それを断るとは何事か!ということになるはずだ。そうすれば、その後俺が予定しているアーム王朝への大規模軍事行動が大変やり易くなるはずだった。


 俺は正式に使者を立ててアーム王朝に対しこの条件での講和交渉を求めた。あのアーム王朝がこんな条約案を呑むはずが無い。俺は正直に言って高をくくっていた。


 ところが、あにはからんや使者は、アーム王朝が交渉に応ずる旨を記した文書を持ち帰ったのである。




 敵も然る者である。まぁ、当たり前だが。


 俺の目論みは見抜かれたと考えるべきであろう。アーム王朝が交渉に応じてしまえば、その後に交渉が決裂しても、それを口実に攻勢を掛ける訳にはいかないのである。ロスアフィスト王朝を正式には外交相手として認めていないアーム王朝が、正式に外交交渉に応じること自体が既にしてあちらからの譲歩の姿勢を示しているからだ。


 もう少し講和条約案に強気の条項を盛り込んでおけばよかったかもしれない。後悔しても後の祭りである。


 さてさてどうしたものか。向こうが交渉に応ずると言ってきた以上、こちらだって交渉に応じないわけにはいかないのである。しかしながら前にも述べた通り、この段階で講和が成立する可能性は非常に低いし、よしんば成立したとしても、それによって生ずる平和は長続きしまい。要するにこの時点で、本気で講和交渉をやっても意味は無いのである。


 しかしながら、こちらから相手を挑発して怒らせるようなことも出来ない。アーム王朝世論が硬化してしまう可能性があるからだ。ここは講和交渉を平和裏に決裂させ、その後でまた何らかの方策を考えるしかないだろう。俺は自分の謀略が計画倒れに終わったことに苦笑した。


 何度か使者が往復し、講和交渉が具体化する。閣僚級協議を行い、条約内容の検討を行うということになった。ここまで、アーム王朝側からは何の要求も出されていない。これも不可思議なことであった。もしかしてアーム王朝は本気で講和を望んでいるのか?俺は考え込んだ。俺が居なくなってから何か事情が変わったのかもしれない。もしくはこれを機会に何らかの謀略を企んでいる可能性もあるだろう。


 ここは、相手の腹の内を探っておく必要があるな。俺は決断した。




「講和交渉に自分で出席するですって?」


 エトナは椅子から飛び上がった。


「ちょっと待って?確か講和交渉を行う場所は、アーム王朝のラシオじゃなかった?」


 そう。今回、講和のための協議が行われる場所は、アーム王朝領内にあるラシオ星系ということになっていた。これはこちらからアーム王朝領内で協議を行うことを持ちかけたのである。


「偵察だよ。アーム王朝の状態がどうなのか、見ておきたい」


「そんなの、他の者に任せればいいじゃない!あなたが行くことは無いわ!」


「俺じゃないと意味が無い。元アーム王朝軍人だった俺なら、ほんの少しの違和感にも気がつける」


「でも!危険よ!」


 危険は承知の上だ。アーム王朝の意図が読めないのであれば、こちらから飛び込んで探るしかないのだ。しかしエトナは大きく首を振った。


「だめよ、だめ!行かせないわ!」


「エトナ・・・」


 エトナが何を恐れているのかが良く分からなかった。単純に身の危険を案じているのとはどうも違うようだった。


「俺があっちに行ったら、里心がついて帰ってこなくなると思っているの?」


 エトナは青い顔で顔を上げ、俺の顔を正面から見詰めた。


「大丈夫だよ。俺は、ちゃんと帰ってくる」


「違うの」


 エトナの唇は震えていた。


「あなたが、どんどん遠くに行ってしまう様で、怖いの・・・」


 今度は俺が絶句する番だった。


 エトナの怖れは、俺が考えたことも無いような怖れであったからだ。俺はむしろ、エトナのことを愛するようになってから、彼女の傍にいるために努力してきたという想いがあったのである。彼女のいる高みにたどり着き、共にあるために。


「あたしは、あなたが傍にいてくれればそれでいいの。ただ、それだけで」


「エトナ・・・」


「あなたは政治家や軍人でなくてもいいのよ?あたしにとって、あなたはあなたなのだから」


 俺はエトナの肩を掴んだ。


「ありがとう。エトナ」


 薄く華奢な肩。宇宙と銀河帝国国民を負っているその小さな身体を俺は抱き寄せた。柔らかな花の香が届く。


「大丈夫。無事に、必ず帰って来るよ。僕の場所は君の横にしかないのだから」


 そして、彼女を助けて世界を支えて行こう。




 アーム王朝ラシオ星系。国境オルージュ星系から長距離ワープ圏内ぎりぎりに位置する、アーム王朝では辺境に位置する星系であったが、俺はアーム王朝士官の時代に何度か来た事があった。この近くに演習場があり、軍の大規模基地が置かれていたのである。


 この星系を交渉の場に選んだアーム王朝の考えは透けて見えた。辺境の、軍事基地以外に特に重要性も無い星系であるから、交渉は秘匿し易いだろう。これまでロスアフィスト王朝に対して強硬な態度をとり続けてきたアーム王朝としては、あまりこの交渉を国民や対しておおっぴらにしたくないのだ。同時に軍事基地に近い星系を選ぶことによって、交渉相手(俺だ)を威圧する意味があるのだろう。まぁ、俺としては偵察の意味合いがあるのだから、軍事基地に近い星系であるのは大歓迎だったのだが。


 俺とロスアフィスト王朝交渉団を乗せた戦艦アクロポリスはアーム王朝の艦船数十隻に囲まれて、ラシオ星系第四惑星軌道上にある、アーム王朝軍基地に接近した。


「おお・・・」


 懐かしい。俺はその言葉を密かに飲み込んだ。


「パンダだ」


「パンダ?」


 今回、俺の副使兼護衛のためについて来たのはホリデー中将だった。本当は、軍の再編作業でくそ忙しいはずの彼女を連れてくる気は無かったのだが「提督を一人で行かせる訳には行きませんわ!」と叫んで、無理やりくっ付いて来てしまったのだった。


「ああいうタイプの、アーム王朝の軌道基地のあだ名さ。遠くから見ると白黒だろ?」


「・・・安直ですわね」


「ちなみに、イクラシオンやゴラにある、人口惑星タイプの要塞は、真っ黒だからクマって言うんだ」


「・・・」


 『パンダ』は人口惑星タイプに比べれば遥かに小型だとはいえ、数百隻単位の艦船を収容できる巨大な施設である。俺たちはこの基地から軌道エレベーターを使って惑星地上に降り、そこで交渉を行う予定になっていた。


 基地港湾部入り口前にアーム王朝の艦船が数百隻、見事な方陣を組んで停泊していた。そして、アクロポリスが接近すると、その中央部にトンネルを作るように整然と艦列を動かす。滑らかな艦隊機動であった。


「見事ですね」


 ホリデー中将は感嘆したが、交渉副使であるエルボリック・ウイアー外務大臣は腰を抜かしかけていた。


「だ、大丈夫でしょうか?ここで、一斉に攻撃されたら」


「安心しろウイアー。それなら一瞬で蒸発するから苦痛はまったく感じないよ」


 ウイアー外務大臣は真っ青な顔をしながら全天スクリーンをおろおろと見上げている。ホリデー中将は鼻で笑った。


 もちろん、アーム王朝がそんなことをしでかすはずも無い。わざわざ招き寄せた外交団を惨殺するなど野蛮人のやることだ。ただし、最新鋭の艦船を並べ、錬度の高さを見せ付けるような艦隊の動きで威圧するくらいのことはやるわけだ。それに見事に引っ掛かっているようではな。俺は溜息を押し殺した。本当は、交渉副使にはウェラン右大臣を連れて来たかったのだが、彼には俺の留守中、元老院を掌握していてもらわなければならなかったのだ。俺の首席秘書官であるエスレーナ・フィバンとコロネーム・ホルプも艦橋にいるのだが、彼女たちはただただ口を半開きにして艦隊に圧倒されているようだった。彼女たちもアーム王朝のペースに巻き込まれている。


 仕方が無い。やはり、俺とホリデー中将でやるしかないか。もっとも、戦争相手の領地に乗り込んで交渉事を敢行するなど、やはり軍人くらい腹の座った者でなければ無理なのかもしれない。


 基地に入港し、俺たちがエアロックから出ると、扉の向こうには懐かしい軍服姿が整列して俺を迎えた。ブルーのジャケットとベージュのスラックス。彼等が一斉に捧げ筒をする。俺はロスアフィスト王朝式の敬礼で応じた。


「少佐・・・」


 俺は思わず振り向いた。


「オリオン!」


 なんとまぁ、懐かしい。俺がアーム王朝駆逐艦ホープの艦長だった時に、副長を務めていたマイセン・オリオンだ。階級章に目をやると、大佐になっていた。


「・・・いえ、失礼ルクス太政大臣閣下。この度、滞在中の護衛隊長を命ぜられました」


 俺は微笑した。


「分かった。大佐が守ってくれれば安心だ。頼む」


 オリオンも微笑した。ホリデー中将が耳打ちする。


「知り合いですか?」


「ああ。元部下だ」


「男性ですのね」


 とりあえずこの基地に一泊し、翌日早朝、俺たちは軌道エレベーターで惑星ラシオの地上へ向かった。メンバーは正使である俺、アルマージュ・ルクス太政大臣。副使エルボリック・ウイアー外務大臣。副使コロー・ホリデー中将・宇宙艦隊副司令。秘書官及び書記としてエスレーナ・フィバンとコロネウム・ホルプ。他に護衛武官十名である。非常に少人数であるが、これはアーム王朝側から20人以内という人数指定があったからだ。もちろん、交渉が具体化すれば官僚含めた本格的な外交団で交渉する必要があるだろうが。


 ただし、この交渉にあたってロスアフィスト王朝側は太政大臣にして軍の最高司令官である俺という最高のカードを切ったのである。これはアーム王朝にとっては予想外の大物であったことだろう。これに対してアーム王朝がどのような人物を交渉のテーブルに送り込んでくるか。それによって、アーム王朝の、この講和交渉に対する本気度が伺えるはずだった。


 惑星ラシオは水気がほとんど無い惑星で、地表は常に砂嵐が荒れ狂っている。そのため、都市は巨大なドームで包まれ、守られていた。情緒もなにもあったものではないが、それでも休暇で宇宙から地上に降りると、地面の感触にほっとしたものだ。何よりもドーム都市内には意外と緑が多い。


 講和交渉が行われる場所はとあるホテルあった。はっきり言って両国の命運を話し合う会議を行う場所としては相応しくないような、みすぼらしいホテルである。まぁ、この星には旅行者などほとんど来ないのだから無理も無い。


 車から降りると、赤絨毯がホテルの玄関へ伸び、その左右に銃を捧げ持った兵士が並んでいる。その先に一人の初老の人物が立っていた。


 あれは・・・。


「ようこそ、アルマージュ・ルクス殿」


 そう言って無難な微笑を浮かべたのは、俺の記憶が確かならばルイス・オイルゲン国務尚書である。アーム王朝政界の皇帝に継ぐナンバー2だ。あの特徴的な口ひげは、間違いない。


 俺はかなり驚いた。アーム王朝の方も惜しみ無く最高のカードを提示してきたのだ。これはアーム王朝がこの講和交渉に本腰を入れている証拠と見てよかった。俺はオイルゲン氏と握手をしながら頭をフル回転で働かせていた。


 アーム王朝がこの時期に講和を望む理由とはなんだろう。ほんの3年前に、十万隻単位の大侵攻を行ったアーム王朝が。


 交渉は、ホテルの広間に大テーブルを置いて行われた。アーム王朝側も5人程度の少人数である。まるで秘密会議だ。アーム王朝はどうしてもこの交渉を秘密裏に行いたいのだろう。これは、アーム王朝が講和の成立を望んでいることと矛盾しない。アーム王朝は軍事色の強い国家である。当然、講和など論外だと叫ぶ連中も多いはずだ。そういえば宇宙港からこっち、マスコミは一切いない。俺たちは軍に厚く護衛され、一般人と接触する機会も無かった。交渉をなるべく秘密裏に行うということには、講和成立前になるべく講和反対派の妨害を受けたくないという意図が働いているのだろう。


 交渉の叩き台になるのは、ロスアフィスト王朝側が提示した講和条約案である。しかし、これがそのまま条約として成立する筈は無いのであった。アーム王朝側は、基本ラインとしてはこの条約案に賛成だとした上で、


・銀河帝国の国名は本来アーム王朝が保持すべきものである。


・戦闘艦艇削減は一割に抑えたい。


 という点の修正を求めてきた。これに対して俺は異を唱える。


「銀河帝国という国号には、全宇宙を支配する帝国という意味があり、その使用を許諾すれば貴国に宇宙統一の正当性を与えるという誤解を、両国国民に与えかねない」


「領内警備に役割が限定されるのであれば、戦闘艦艇は現状の半数以下でも良いはずだ」


 逆に俺の方は条約案に一つ付け加えることを提案した。


「イクラシオン要塞の人口惑星要塞を二つ削減してもらいたい。イクラシオンは我が国に喉元に突き付けられた匕首のようなもの。講和を望まれるのであれば、これの脅威を取り除くことは当然だと思うが」


 もちろんオイルゲン氏は反論してきた。


「イクラシオンは我が国防衛の要である。これの弱体化など到底受け入れられん」


「我が国と講和すれば、防衛そのものが必要なくなるのではないか?」


「いや、貴国が存在する以上、貴国を仮想敵国として防衛計画を立てることはこの講和と矛盾せぬ」


 初日はこんな感じで論議は平行線の域を脱しなかった。しかし、アーム王朝が本気で講和を結びたがっていることは随所に伝わってくる。このまま交渉を続け、各点において妥協点が見出せれば、講和が成立する可能性は十分にあった。例えば、銀河帝国という国号の使用を認めることとイクラシオン弱体化を引き換えにすれば、おそらくアーム王朝はそれを呑むだろうという感触もあったのである。


 初日の交渉が終わった後、俺たちロスアフィスト王朝交渉団は交渉会場のホテルに宿泊することになった。俺たちは一室に集まり、その日の交渉を踏まえた上で翌日以降の交渉の作戦を練ることにした。


「驚きました。アーム王朝はこの講和に対して本気ですわね」


 ホリデー中将は唇に指を当て、考え込むような表情を見せた。


「なぜでしょう。このタイミングで講和を結ぶことに、アーム王朝はどんなメリットを見出したのでしょうか」


 ウイアー外務大臣も不思議がる。彼は外交家としてアーム王朝と長年関わってきている。その彼から見ても今度のアーム王朝の態度には違和感を覚えるようだった。確かに、少し前のアーム王朝であれば、こちらから講和など持ち掛けても無視されてしまったはずなのだ。


 アーム王朝がこの講和条約に対して本気だとすれば、アーム王朝はこの講和を結ぶことによってなにか積極的なメリットを見出したのだということになる。俺は講和条約案提示の際に、アーム王朝は(も)この時期の講和に応じはすまいという風に考えていた。両陣営の力関係が拮抗している状態で講和を結んでも、それによって生ずる平和は絶対に長続きしない。そんな講和は結ぶ意味が無いと、アーム王朝も考えるに違いないと考えたのだ。


 しかるに、アーム王朝は渡りに船とばかりに講和交渉に応じてきた。


 つまり、アーム王朝は講和を結んで、短期間であることを承知で戦争の無い期間を欲しているということになるのである。それはどういうことなのか?


「判断材料になる事実が少なすぎるな。軽率な判断はしない方がいい」


「どうするおつもりです、提督?提督はこの講和を成立させる気はあるのですか?」


 ホリデー中将が言った。


「・・・あるといえばある。当初の予定とは違うが、講和の成立を前提とした戦略も立てられなくは無い」


 講和を結んでおいて、その隙に先の反乱で混乱気味の国内情勢を完全に沈静化させるという手もある。その方が腰を据えて対アーム王朝戦略を検討できる。


「では、明日以降の交渉では、講和が成立しても構わない、というスタンスで交渉を進めていいのですね?」


 俺はホリデー中将に頷いた。


「ああ。それであれば交渉の主導権はこっちが握れることになる。ただし、簡単に講和を成立させる必要は無い。せいぜい高く売りつけることにしよう」




 その夜のことである。


 俺は高いベルの音で目を覚ました。


「なんだ!」


 軍人の習性である。一瞬で覚醒し、飛び起きた。部屋のドアを開けると、護衛武官が敬礼する。


「何事だ!」


「は!分かりません。確認中です!」


 俺は部屋の中に戻り、急いで軍服に着替えた。そして戸口に戻る。丁度、アーム王朝の付けた護衛隊長であるオリオンが来たところであった。


「何事だ、オリオン」


「は!火事です。しかし、ご安心下さい。そう大きなものではありません。ただ、念のため避難していただきます」


「不手際だな」


「面目ありません」


「他の者は」


「ご安心下さい。すぐにお連れ致します」


 廊下に出ると、確かに煙が充満している。俺はハンカチを出して口に当てた。


「こちらです」


 オリオンの先導に任せて廊下を進み、階段に達する。この時点で俺は不思議には思っていた。ホリデー中将がいなかったからである。彼女の性格からして、こういう時に俺と別行動をとることは考え難かったからだ。


 その階段を下りている途中。


「失礼」


 オリオンの言葉が聞こえるが早いか、俺は背中に軽い痛みを覚え、そのまま意識を失った・・・。




 目が覚めた時には違う場所にいた。


 頭が重い。俺はまだ霞む意識のまま状況を把握しようと努めた。


 そして思わず失笑した。


 自分の格好にである。俺は下着一枚のあられもない姿で、椅子に座らされていたのだ。足と腕は縛られ、更に体全体を椅子に縛られ、固定されている。縛り方はかなり乱暴で、体中が痛い。


 そこはごく小さな部屋だった。ドアが一つ。窓は無い。おそらくは地下室だろう。何人かの人間が立っていることが認識できる。


 どうやら、誘拐されたらしい。と気がつく。見事な手際だった。油断していたわけではないが、避けようも無かったのである。


「起きたようね」


 と、上のほうから言葉が降って来た。俺は悪寒を覚える。聞き覚えのある声だったからだ。士官学校時代、何度もこの声で怒鳴りつけられた。ああ…、こいつか…。


「気分はどうかしら?アルマージュ・ランドー」


 ビュリーシュ・ワエラネオであった。俺の士官学校時代のライバル。と言っても、あっちの方が一方的に俺のことを目の敵にしていただけだったのだが・・・。


 腰まで届く長いウェーブの掛かった金髪。猛々しく挑戦的なブルーアイが眼鏡の向こうに輝いている。彼女は腰に手を当て、そっくり返った姿勢で俺のことを見下ろしていた。俺は溜息を吐いた。


「お前か」


「ふん!相変わらず可愛げの無い男」


 お前に可愛げを云々されることほど屈辱的な事は無いね。一体何の用だ。旧交を温めるにしてはずいぶんな歓迎じゃないか。


「ホーホホホホ!なんでわたくしがあんたを歓迎しなければならないの?」


 そして彼女は俺のあごをつまんで起こし、至近距離から俺に視線を注ぎ込んだ。


「あんたはここで死ぬのよ、アルマージュ・ランドー」


「俺の名前はアルマージュ・ルクスだ。人違いだよお嬢さん」


「それくらい知っているわよ!」


 彼女は俺の顎を投げ捨てるようにすると、唇をゆがめた。


「敵国に亡命した挙句、我が軍の機密を利用して栄達した卑劣者。知らぬ者があるものですか!」


 なるほど、それが俺に対してのアーム王朝国民の評価らしい。まぁ、否定も肯定も出来ないね。


「それで?どうして俺が殺されなければならんのだ」


 ワエラネオはむしろ驚いたようだった。


「裏切り者をどうして許してやらなければならないのよ!制裁よ、制裁!」


「かつてはどうあれ、俺は今、ロスアフィスト王朝の太政大臣だぞ?こんなことをしてタダで済むと思うのか?」


「ふん!何を企んでいるのか知らないけど、講和ですって?そんなことは認められないわ!国務尚書が認めても、我が軍の誰もが認めない!私はその軍の意思を代行しているだけよ!」


 ふーん。俺は思わず苦笑した。


「ようやく分かったよ」


「観念したの?」


「いや、アーム王朝政府が、どうしてあんなに講和を急いでいたのか、がだよ」


 ワエラネオは目に見えて動揺したようだった。


「ど、どういう意味よ!」


「おまえは相変わらず単純な軍人だよ。戦う相手は敵だけだと思っていやがる。だけどな、政治家にとっては、敵はしばしば味方の内にも生ずるものなんだよ」


「わたくしにも分かるように言いなさい!」


 正直な奴だ。


 はっきり言えば、アーム王朝の内部には軍と、政治家連中との間に亀裂が生じているということである。


 おそらく、きっかけは三年前の大侵攻であろう。あれは、数年がかりの周到な準備と入念な計画の末の侵攻作戦であったはずだ。それが失敗に終わった。その時、軍に対する責任を問う声が政治家から上がったのであろう。それが逆に、軍の反発と態度の硬化を生み、それが今まで尾を引いている。そんなところだろう。


 故に、アーム王朝にとって今回の講和は渡りに船だったわけだ。講和が成立すれば後顧の憂い無く内政に、軍の再編と掌握に集中する時間を得る事が出来るからである。故にアーム王朝政府はあれほど講和に対して積極的だったのだろう。


 そして、軍内部の急進派の意向をワエラネオが代表しているとすれば、軍とアーム王朝政府との対立はこれほどまでに深いということである。


「いや、よく分かった。おまえのおかげだよ。ありがとう」


 ワエラネオは憤然と叫んだ。


「く・・・!我が国の内情を知られた以上!貴様を生かして返すわけには行かないわね!」


「さっき、とっくに殺すと言っていたわけだが」


 ワエラネオは横にいた兵士から何かを受け取った。・・・鞭だ。


「おまえって本当にイメージ通りな」


「うるさい!」


 彼女は鞭を一回宙に振るった。風切り音のあと、鋭い音が俺の右の壁で響いた。


「楽には死なせないわ!これで体中の皮を剥いでやる」


「どうせなら女王様スタイルに着替えたらよかったんだ。よく似合うと思うぜ」


 ワエラネオは答えず、唇を陰惨な形に歪めた。そして、鞭を鋭く振り上げ、振り下ろした。


 右肩から背中に掛けて、背後から袈裟懸けに斬られたかと錯覚するような痛みが炸裂した。目の前が真っ赤に眩む。


 続けて二撃、三撃。俺は苦痛に呻いた。肩の皮膚は吹き飛び、血が流れ始めている。


「気分はいかがしら?アルマージュ・ランドー?」


 ワエラネオが鞭の柄で俯く俺の顎を上げさせた。


「最悪だね」


「あら、まだ元気そうね」


 サディスティックに笑うワエラネオ。実に嬉しそうだ。どうも、俺を生かしておく気はさらさら無いというような顔だな。


 まいったな。俺は、講和交渉のためにアーム王朝に乗り込むにあたって、交渉団の誰かが誘拐、監禁される事態があるかもしれないことを想定はしていた。当然対策は考え、交渉団全員に施してはいたのである。しかしながら、俺自らが捕まり、しかもこのように生命の危機が性急に迫ってくるというのは、想定した中でも最悪の事態と言っても良かった。はたして間に合うだろうか・・・。


 再び鞭が唸り、腕から背中に灼熱感を巻き付けた。もはや苦痛というよりは一撃ごとに生命力を削り取られるような感触だ。


 俺はここで死ぬかもしれない。


 初めてそう考える。俺は失笑した。もしもここで終わるとすれば、いかにも俺に似合いの最期と言うべきだった。亡命先の国で位人臣を極め、祖国で惨めに殺される。こんな死に方が、俺には身分相応なのだろう。


 しかし、俺は思い浮かべる。エトナの顔を。


 婚約者。愛する人。それ以上に、自分を待っている女性。


 俺はまた別の感慨を持って笑った。


 なさけない。諦めが早すぎるだろう、俺にしては。こんなところであっさりと諦めるわけにはいかない。俺は顔を上げた。


「もう止めてくれ・・・」


「あら?命乞い?ロスアフィスト王朝の太政大臣ともあろうものが」


 ワエラネオとその他何人かの兵士が低い声で嘲笑した。


「何が聞きたい、何でも話す。だから、止めてくれ」


「ふん!別に何も望まないわよ。あなたが私の前でのた打ち回って死ぬこと。それだけが私の望みよ!」


「待ってくださいワエラネオ中将」


 一人が声を上げる。


「もしもこいつから敵の秘密情報を入手出来れば、戦略上多大な利益になります」


「だから殺すなと言うの?馬鹿なこと言わないで、もしこいつをわたくしたちが捕らえていることを知られたら、国務尚書が黙っていないわ」


「殺してしまったことにすればよいのです。殺して、死体は処分したと。そうしておいてこいつを尋問し、その情報を入手、それを中将だけが利用すればきっと大戦果を挙げることが出来ます。そうすれば・・・」


「なるほど・・・」


 ワエラネオは考え込んだ。うまいぞ、俺はワエラネオに声を掛けた士官に感謝した。しかし、


「だめね」


 ワエラネオは吊り目を剥いて俺をせせら笑った。


「わたくしはこいつのことが嫌いなの!」


 そして鞭を大きく振り上げた。


「さぁ、遊びはお終い。死になさいアルマージュ・ランドー!」


 俺は思わず目を閉じた。


 その時、地面が大きく揺れた。次の瞬間、爆裂音と閃光が同時に炸裂する。瞼の向こうからでも分かる太陽のような輝き。目を開けていたなら目が眩んでいただろう。運が良かった。


 顔を上げる。最初に目に入ったのは倒れているワエラネオだった。他数人いたアーム王朝軍兵士が倒れているのも目に入った。そしてその向こう。


 ドアは開け放たれていた。そしてそこからサブマシンガンを構えて飛び込んでくる一人の人物。


「提督!」


 ああ、来てくれた。俺は息を細く吐いた。


 いつもは高く結い上げている長い髪は、この時は乱暴に後ろで縛っただけであった。戦闘服に身を包み、顔は埃と煤で真っ黒である。平時いかにも貴族然とした麗貌からは想像もつかないような勇ましい姿。


 コロー・ホリデー中将は俺の前まで駆けて来ると、そこで立ち竦んだ。


「提督!生きていますか!」


 いきなり頬を張り飛ばされた。おいおい。


「・・・今のが一番きつかったよ」


 苦笑する。それを見てホリデー中将は見るからに安堵した表情を浮かべた。


「・・・よかった・・・」


 一瞬目の端が潤んだ気がする。


「ありがとう」


 俺は立ち上がろうとした。俺を縛めていたロープはワエラネオの鞭によってとっくに切れていたのだった。しかし、力が入らない。


「無理をなさらないで下さい、提督」


 ホリデー中将が肩を貸してくれる。俺はそれに甘えることにした。


「意外に早かったな」


「嫌味ですか?」


「いや、おかげで助かった」


 ホリデー中将は俺を発信機によって探り当てたのだった。


 ワエラネオたちは当然その事を想定して、俺から服を剥いだのだろうが、発信機は俺の上腕に外科手術によって埋め込まれていたのだ。これは俺だけではなく、交渉団メンバー全員に施された処置であった。


 問題は、アーム王朝領内で誘拐された俺を、ホリデー中将自らが救出することは難しかっただろうということだが・・・。


「オイルゲン国務尚書を脅しましたの」


 このまま俺が死ぬようなことがあれば、講和どころか明日にでもロスアフィスト王朝軍による全面侵攻が始まることであろう、と。おそらくはその内容よりもホリデー中将の剣幕に押されて、オイルゲン国務尚書はホリデー中将の救出行動を許可した。彼女は配下の兵を使い、発信機を辿って俺を探り当てる事が出来たのである。


そもそもこの誘拐は、ワエラネオが私欲を満たすために行った側面が強かったらしい。アーム王朝軍全体がぐるになって俺を攫ったのならば、精鋭とはいえ少数であるホリデー中将の部隊だけ救出することは難しかっただろうが、誘拐の実行にはワエラネオの部下の数十名が関わっただけだったのである。


「本当に・・・、よかった・・・」


 ホリデー中将が呟く。俺はその横顔に思わず微笑みかけた。


「心配してくれてありがとう」


 彼女が頬を染めつつ目を剥く。


「勘違いしないで下さい!わたくしは陛下に提督のことをくれぐれもよろしくと頼まれたのです!そういう意味ですわ!」


「ああ、君が必ず来てくれると信じていた」


 ホリデー中将は一瞬俯き、ゆっくり顔を俺の方に向けた。


 微笑に細くなった瞳が潤む。誇らしげな唇。上気した頬。


「提督・・・。私は・・・」


 何かを言おうとして・・・。


 ホリデー中将の表情が空白になった。同時に、


 銃声。


 俺は反射的に振り向いた。そこに、倒れたまま拳銃を構えているワエラネオの姿があった。銃口からは煙がたなびいている。


「ち!」


 失神から覚めた直後であったために、俺を狙った筈の弾丸が逸れたのだ。慌てて銃を構え直している。しかし、それより早く銃声が響き、ワエラネオの手から銃を弾き飛ばした。ホリデー中将は俺を突き飛ばすと、そのままあらためてサブマシンガンを構え直す。


「あなたが首謀者ですの?」


 ワエラネオは答えない。


「光栄に思いなさい。あなたはコロー・ホリデーが最後に殺した敵になるのだから」


 言葉の最後には口の端に血がにじみ始めていた。僅かに咳き込む。


 ワエラネオはその隙にとホリデー中将に飛び掛った。しかし、ホリデー中将の冷静さには傷一つ付ける事が出来ない。


 ホリデー中将の手の上でサブマシンガンが踊り、ワエラネオは跳ね返されるように吹き飛んだ。それが地面の上に転がっても、ホリデー中将は射撃を止めなかった。いや、止める事が出来なかったのであろう。ワエラネオだった物体は弾丸が命中するたびに痙攣するように跳ねた。


 やがて、射撃が止む。弾丸が尽きたのである。


 静かに銃口が下がった。金属音を立ててそれが床に当り、転がる。


「提督・・・」


 赤茶色の髪が舞い上がる。いや、そうではない。髪を残して、彼女の顔の位置が下がったのだ。螺旋を描くように崩れ落ちるホリデー中将。俺は痛みも忘れて駆け寄り、その頭が床に叩きつけられる前に何とか受け止めた。


「ホリデー中将!」


 彼女の胸の中央に真紅の花が咲いていた。それは一秒ごとに広がりつつあり、その一瞬ごとに彼女の顔色は白くなって行く。


「ふ、ん。下らないミスを致しました。あなたのせいですわよ。提督」


 苦痛に耐えているとは思えないほど平静な声。しかし、声を発するごとに唇の端から流れ落ちる血の量は増えてゆく。俺は気休めの言葉も発することが出来ないまま、彼女の傷口を押さえるしかなかった。


「まぁ、いいです。こういう死に方も、乙女の夢の一つの精華でありましょう」


 彼女は彼女自身の血に染まる俺の手を握った。


「好きな男を守り、それに殉じ、その腕の中で死ぬ」


 最後に微笑んで見せた。どうやったら死の瞬間、笑うなどということが出来るのだろうか。


「さようなら・・・。提督・・・」


 最期まで口調がしっかりしていたので、俺は彼女がもうしゃべる事が出来なくなったのだということに、しばらく気が付かなかった。




 戦うということは、失うということだ。


 何も失わない戦いなど無い。そんなことは分かっていた。そのつもりだ。


 しかし俺はその瞬間本当に悲しかった。だから、本当は分かっていなかったのかもしれない。


何かを得るために戦うということには、それ以外のものは失っても構わないという覚悟がいるのである。何もかもを求めることは出来ない。


 俺はエトナと、エトナを失わないための平和を望んだ。


 そのために、俺は戦った。その結果、ルクスを失い、今ホリデー中将を失った。それは当然の結果なのだ。俺が大きな目的のために戦うなら、その結果捨てて行くものは増えざるを得ないのである。敵も、味方も踏みつけにして初めて届く頂。


 覚悟が足りないのかもしれなかった。大事なものを失うのがこれに最後になるという保証もどこにも無い。これほどの悲しみをあと幾つ抱えなければならないのか。しかし、そうしなければ得られないのだ。自分の望むものは。


 俺は戦い始めてしまった。大事なものをそれに殉じさせてしまった以上、俺は何があっても最後まで戦い続けなければならないのであろう。


 コロー・ホリデー中将。俺は自らがもっとも信頼していた部下の一人をここで置き去りにした。




 講和交渉は決裂した。


 俺は俺に対する誘拐とホリデー中将の殺害という大不始末を理由に、交渉で徹底的に強気に出た。アーム王朝が譲歩すると、更に押した。容赦なく押した。そして、ついにアーム王朝は下がることができなくなったのである。


 この時、すでにロスアフィスト王朝では一足先に帰還したホリデー元帥(二階級特進)の棺を囲んで、軍、議会、そして世論が沸騰していたのである。無念の死を与えられたホリデー元帥の復讐を!と。これは、俺の命を受けた政府による世論操作のせいもあったが、そもそもホリデー元帥の国民人気が高かったことにも理由がある。もともと不満足な内容であった講和の交渉中に、よりにもよって自国の太政大臣が誘拐され、人気者であった宇宙艦隊副司令が殺害されたのである。国民が怒りに震えるのも当然だった。


 全ては、当初の狙い通りになった。アーム王朝内部の不協和音も確認したことであるし、こうなればこちらに講和を成立させるメリットなど無いのである。俺は心置きなく交渉を打ち切った。


 後は戦うだけだった。




 迷路のようだった。


 彫像や、尖塔、ピラミッドと思しきものもある。先夜の雨でどれもがしっとりと湿っていた。石畳をゆっくりと歩く。恐ろしく静かだった。俺も意識せず足音を忍ばせていた。ここは死者の眠る場所だったからだ。


 貴族の墓が集められた一角。俺は一人歩いていた。軍の礼服を身に纏い、手に花束を持っている。何の花であるのかは良く分からない。湿った空気に花の香が立ち上り、俺はそこが花畑であるかのような錯覚を覚えた。


 どこの誰やも分からない、いかにも由緒ありげな墓の前で思わず足を止める。故人を模したのであろうばかでかい彫像が俺を見下ろしている。その台座に曰く「後悔の無い人生を送れ」。


俺は肩を軽く竦めてしまった。


 ホリデー元帥の墓はどこだろうか。


 場所は聞いてきたのだったが、迷ってしまったらしい。俺がラシオで講和交渉を続行している間に、ホリデー元帥の葬儀は終わり、埋葬も終わっていたのだった。


 俺は墓参りなどする気は無かったのだが、昨日カンバー中将から強く薦められたのだった。


「いい気分転換になりますよ。いいところ、ですから」


 帰国以来、傷を十分癒す暇も無いくらい俺は多忙だった。どうもそれを見かねた様である。墓地はレオンの中でも自然豊かな山間にあり、小旅行にはうってつけだったのだ。俺は自分が疲れているという自覚はあったので、カンバー中将の薦めに従うことにしたのだった。


 通路の左右には立派な広葉樹が葉を茂らせている。俺は時折その下で立ち止まっては左右を見渡した。


 別に、急ぎはしない。今日中に墓参りを済ませ、明日中に王宮に戻ればいい。本当に久しぶりの休暇だった。


 確かにいいところだな。俺も死んだらここに墓を建ててもらおうか、などと冗談で考える。宇宙時代の軍人は、死ぬ時は宇宙のプラズマになってしまうことのほうが多い。そうなってしまえば墓など不要だ。そういう思いでいたから、俺は墓などに執着した事が無かった。俺がいままで墓参りなどした事が無かったのもそのせいだ。オルカ大佐の墓にも、一度も行った事が無い。


 またしばらく歩くと、その先に一人の人物が立っていた。


 赤毛の、女性にしてはがっちりした体格に見える人物だった。軍服を身に纏っていた。振り返ったその頬に一筋の傷跡が見える。


 エラン・ブロックン大将だった。


「遅かったじゃないか。提督」


 あたかも待ち合わせに遅れた相手を咎めるかのような口調。そして、顔を正面に戻す。その視線の先に、びっくりするほど簡素な墓標が立っていた。白い大理石で出来た、腰の高さくらいの円柱。


 名前と生年、没年。それと一言「彼女は後悔の無い人生を送った」と書かれていた。


「あたしが選んだ墓碑銘だ。どう思う?」


 俺は少し迷って答えた。


「良く分からない」


「そうか」


 彼女はふんと鼻息を吐いた。そのまま長いこと沈黙していた。俺はとりあえず持参した花束を墓標の前に供え、瞑目した。


「俺が来ることは、カンバー中将に聞いたのか?」


「ああ、というより、あたしが提督をここに寄越すように頼んだんだ」


 何のために?とは聞かない。なんとなく彼女の表情から読み取れるような気がしたからだ。


 また沈黙が続く。僅かな風音と鳥の囀りだけが静かな墓地に流れる。


「・・・コロはどうやって死んだ?」


 ようやく、ブロックン大将が呟いた。


 俺は、覚悟はしていたが、口を開くのにかなりの努力が必要だった。


 ・・・なんとか、ホリデー元帥の死の様子を語り始める。確かに、彼女の死の様子を詳細に見ていたのは俺だけだったから、それを彼女の近しい人に語るのは俺の義務であろう。ブロックン大将と、ホリデー中将は親友だった。ブルネイでブロックン中将が決死の作戦から帰還した時、ホリデー元帥が我がことの様に喜んでいたことを思い出す。


 語り終えると、ブロックン大将は天を見上げた。


「そうか・・・、コロは自分の望みを叶えたんだな・・・」


 その瞳から涙が零れ落ちるのを見て、俺は動揺する。彼女は弱い笑顔のまま涙を流し続けた。


「あいつ、不器用だったからな。最期まで、自分の思いを伝えられなかったんじゃあないかと、それだけが心配だったんだ。あたしのせっかく選んでやった墓碑銘が嘘になっちまうからな」


 俺は痛々しさに耐え切れずにブロックン中将から視線を逸らしてしまった。ホリデー元帥の墓標が目に入る。簡素な、貴族的な華美な装いを好んだ彼女には相応しくないような墓標。しかし、彼女は同時に軍人だったのだ。彼女も生前に豪奢な墓を用意しておくような趣味とは無縁だったのだろう。


 不意に、俺の瞳からも涙がこぼれた。ホリデー元帥が死んだ時も、その棺を見送った時にも流れなかった涙が、一滴だけ地に落ちた。


 それは悼みであったのだろうか。それともブロックン大将の涙がうつっただけなのだろうか。それとも、それ以外の何か違った感情が涙腺に作用したのだろうか。分からない。


 ふと、ブロックン大将の方を見る。彼女は既に俺から遠ざかって行くところだった。その肩が小さく見える。


「すまん」


 そう声を掛けようとして思いとどまった。俺にそんな資格は無い。


 俺はブロックン大将がいなくなった後も、長い間ホリデー元帥の墓の前に立ち尽くしていた。花束から立ち上り続ける強すぎる香りが、ずいぶん長いこと俺の髪に残るくらいに。





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