第10話 完全なる絶望

 事件から一週間後の日曜日、事件に巻き込まれた母親を慰労すると言う名目で私は二人の男女と共に一時間ほどかけて実家に帰った。

「まったく、私も相当に怖い思いをしたけど、あんたの顔を見ているとねえ……」

「本当にお前の悔しさと悲しさが伝わって来るよ、その顔から……」

 あんな事があったのに母も父も私の事を気遣ってくれている。久しぶりに生で見た母の顔は皺こそ若干増えたがそれ以外はまるで変わっておらず、去年還暦になった人間の顔にはどうしても見えて来ない。

「おばあちゃんのかおママよりきれーい」

「こらお前ママに失礼だろ」

 娘の言う事は全くその通りだ。実際出がけに自分の顔を鏡で見て頬がこけ顔色が生気に乏しく挙句目の上にうっすらクマができているのに気付いた時は開いた口が塞がらなくなった。慌てて化粧を濃くしごまかしたつもりだったが付け焼き刃もいい所であり、そう言われるのもお説ごもっともと言う他ない。

「今日は妻や母親じゃなく娘に戻っていいんだよ、ささゆっくりお休み」

 私は警官隊が突入した居間に向けて顔を下に向けながら重たい足を引きずった。一週間前、いや十年前に見たのと変わらない風景がそこにあった。懐かしさが胸から込み上げて弾け飛び、何もかも吐き出せる気分になった。怒鳴られ謗られ詰られ蹴られ殴られようが知った事か、もうここで全てぶちまけてやる事に決めた。これでついにあの男から解放されるのだと思うと、何故だか感動して涙があふれて来た。

「どうしたんだいそんなに泣いちゃって……あの人を殴っちゃった事がそんなに悔しいのかい?」

 母の優しげな言葉に首を横に振ると、私はこの十年間の鬱屈を全て吐き出した。ずっとずっとあの男に蔑ろにされ続け、人間扱いされずに過ごして来た暗黒の十年間を私全ての力を込めて双親に叩き付けた。流石に捏造をすれば説得力を失う事は解っていたので真実のみを口から吐き出したが、それでも一人娘が理想の家庭の中で幸せに暮らしていたと言う思い込みをぶち壊すには十二分なはずだろう。




「………そう………お父さん、あれ持って来て」

 私の精魂込めた訴えが終わったと判断した母は父に向けて極めて静かに何かを取って来るように言った。私の思いの丈の言葉をこうも真剣に聞いてくれるなんて、親って言うのは何てありがたいんだろう。私の目からは悲しみではなく感動の涙が溢れていた。

「お父さん、この子も誘ったらどう?」

「ああそうだな、お父さん退職したらこれやってみようと思うんだ。お前もどうだ?」

 私の前に置かれたのは一枚の綺麗な紙だった…………何これ、芸能事務所!?

「私もなってみたかったのよね、女優とか」

「そう言えば聞いた事があるな、でもこれ最初に見つけたの俺だからな。もちろんお前がやりたいって言うのは一向に構わないんだが」

「そうそう、あなたもやりましょうよ、エキストラ」

 エキストラ。その五文字を聞いた途端、私の絶望はピラミッドの底辺からひし形の底辺へと落ち込んだ。そしてその絶望が水分となって、涸れていたはずの涙が再び湧き出して来た。

 実の娘があんなに真剣に訴えたって言うのに、欠片も信じていないって言うの!人の必死の演説を演技とでも思い込み、そんないい演技ができるならば役者でもやってみたらどうとでも言いたいの!それとも単にストレスが溜まっているのかならばこれでストレス発散でもしてみたらどうだと言うだけなの!こんな鈍感で、こんな無理解な親に育てられて来たのかと思うと私は前世に何をやらかしたのかと思いたくなる。無念の涙が流れ終わると私の頭に全ての血が上り、テーブルに広げられていたエキストラ募集のチラシを丸めて父に投げ付けた。

「おいどうしたんだ一体……!?」

 全く、人がせっかく真剣に訴えたって言うのにいいかげんにしてよ!それとも何?二度とそんな事なんか考えるなって遠回しに言ってる訳!?もう嫌、もう駄目、私はもうとっくに限界を越えちゃってるの!それがわかんないなんて、父さんも母さんもみんなバカよ!私はもう何もかも嫌になって実家から飛び出し、そしてすぐ誰かにぶつかった。

「気を付けろ……あっあのバカドケチ女!」

 馬鹿って何よ、私の苦しさが分からないなんてあんたって本当にバカね!そんな奴だからこそあんたとは同じ屋根の下で同じ空気を吸いたくないのよ!それに何がドケチよ!まだ十五年も残ってるローンを返すために一円単位で切り詰めている事なんかあんたには一生わかんないんでしょうね!

「俺だってお前みたいなドケチ女と一つ屋根の下暮らすつもりなんぞねえよ!」

 おうおう言ってくれたわね、その言葉を待ってたわよ!

「てめえはこれが見えてねえのか!?こいつが動けばどうなるかわかってねえのか!?」

 包丁!?やれる物ならやってみなさいよこのDV亭主!

「誰が亭主だ!と言うかここがどこかわかってねえのか!?呆れた女だな」

 ここがどこって……ここは一体どこ?

「あんなつまんねえ紙っぺら一枚後生大事に持ちやがって、勝手に期待させておいて勝手に落としてっつーのはさぞ面白いんだろうな!その挙句に亭主がとかローンがとか、独身アパート暮らしの俺に対する嫌味までぶつけやがってよ…こうなりゃその全てを俺がもらってやるよ!……っておい、何だよその顔?今の今まで本当に気付いてなかったっつーのかよ……とにかくだ、騒いだら殺すぜ!」

 聞き覚えがある声だったはずだ、この前出くわした強盗だった。私は絶望と怒りの余り家からただ真っ直ぐに走り出し、この強盗とぶつかったのだ。

「そうだ、それでいい、うへへへへ……!おっ?おい、おい、ちょっと待て!」

 確かに二度も強盗を働くなんて最低クラスの人間だろう、でも最低クラスは最低ではない、あの男よりは数段ましだ。そう考えると手が勝手に動き出し、目の前のこの男に文字通り全てを捧げたい気分になった。

「強姦だー!」

「お、俺は強盗だ!強姦じゃねえ!いいか、こいつを返して欲しくば、えーと……おいこら何をする、うわーっ!」

 私は全体重をかけて強盗の唇にキスを行い、欲情にまみれた肢体を強盗にもたれ掛けさせた。それと同時に叫び声が鳴り響いたが、私は強盗を押さえ込み唇を吸い続けるのに必死で何も覚えてなどいなかった。

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