第4話 キャバクラも空振りして

「いや本当、どういう風の吹き回しだよ。本気で訳分からないぞ」


 寛容とか気前がいいと言うより贅沢、と言うかひどい自惚れ。私の言葉を最後まで聞いて出て来る言葉はそんな所だろう。あの男が驚くのも当然だ。


 この男が何を趣味にしていたのかなど忘れた。結婚後その趣味でうんぬんと言う事など一度もなかった事を思うとその程度の物なのだろう。一応小説の本は何冊かあったがその時話題になった物をとりあえず手に取っているだけでこれと言って文学について興味がある訳ではない、でなければ去年買った文庫本にホコリが積もっているはずはない。私はと言うと第一にホコリまみれの本にわざわざ手を付けたくないし、第二に家事や資格の勉強でそんな暇はないし、何より小説に興味がない。


 一体何を楽しみにして生きていると言うのだろうか、正直わからない。仕事だと言うのならばもう少し早く出世してしかるべきだろうし、まさか私や娘とでも言うのだろうか。娘だと言うならば結婚してから娘が生まれるまでの間は何を糧にしていたのかわからないし、私だと言うならばそれこそ思い上がりも甚だしい。そんな自惚れ屋極まる男にキャバクラで日頃の欲求不満を吹っ飛ばしたらなんて言いながら五万円もの金を渡すなど、相手の自分に対する愛情を妄信しているかよほど金が余っているかのどちらかでなければ取れない行為だろう、普通は。


(初恋だって抜かしてたのが嘘じゃなければ面白くなりそうね)


 キャバクラ嬢ってのはセックスアピールと話術を武器として稼ぐ職業、訪れた客の心をとろかし酔わせるのがうまい者ほど出世する。そんな中に恋愛経験が少ないまま三十代半ばになったそれなりに社会的地位のある男が入ったらどうなるか。おそらくはいいカモとばかりに徹底的に良質なサービスを施しお金を落とさせにかかるだろう、あくまでも店の為自分の為に。多少経費や手間がかかってもまたこの店に来たいと思わせ何度も利用してもらい多くのお金を落とさせると言うのは商売人でもない私でもわかるぐらいの理屈だ。


 商売とわかっていて受けていたはずが、いつの間にか本気になってしまうのが風俗の恐ろしさであると自分では解釈している。この五万円は、その深みにはまり込ませる為の片道切符だ。色欲と言う泥沼にはまり込み自分を見捨てるような男には娘も従うまい、その時こそ堂々と別れられるのだ。


 だがその夜、あの男は午後七時に帰って来た。今日はそんな気にはならなかったとこぼしていたが、まあいずれ自分からはまり込むだろう。そうやって泥沼に入り込んで抜けられなくなる有様を想像すると楽しくて仕方がない。そんな事を考えているとは及びもついていないであろうあの男は脳天気にいい事でもあったのかいと吐き出して来た。全くこの前武道の達人のようにこちらの罠を潜り抜けて来た男とは思えない間の抜けた反応で、まるでこんにゃくに殴り掛かっている気分になって来る。ったく、何で夕飯におでんなんか作ったのか。九月半ばだってのに暑い思いをしてそんな物を作ろうと考えた自分が正直恨めしい。


 あの男がキャバクラに行ったのは結局その十日後だった。夜十時半に酒臭さを振りまきながら帰って来たのは面倒だったがさほど嫌ではない。


「こんなに美味い酒はなかったな」


 だが帰り際の第一声がそれだったのには少し失望し、第二声が


「ったくいいよな景気のいい会社は、接待とは言え俺なんかの為にただでキャバクラに連れてってくれるなんてさぁ、いやー悪いけどただの酒ってのは本当に美味いよな、はっはっは」


 だったのには完全に失望した。金を注ぎ込んでいないし、女性に目もくれていない。ホステスたちはと聞いてもおごってくれた向こうの専務さんたちばかり見ていたんでと言う有様だ。この様子では金を注ぎ込んで通いそうにない。折角やった五万円を一体何に使おうと言うのか。もしかしてこの男の趣味は蓄財じゃないのかとも思ったが、だったらもう少し家の財政状況に気を配ってもらいたいと思う。あるいは自分が私的に金を使わない事がその蓄財の一環だと思っているのかもしれないが、それは蓄財とか寡欲とか言うよりただの怠慢だと思う。





 向こうに女遊びをする気がないのならば、こっちは男遊びをしてやろうと思った。後先の事など考えていない無駄遣いだが、正直鬱屈しきった気分を晴らさないと私の心が参ってしまう。


「ママだってたまには騒ぎたい時があるんだ、でお前いつ帰って来るんだ?ぼったくりバーには気を付けろよ」


 保護者会でも着なかったような一張羅を身にまとい精一杯の化粧を施し、娘をあの男に押し付けて私は夜の街に出た。今日中には帰る気はない。今夜は一晩吞み明かし、こんな男とは違うイケメンたちに目一杯の熱い視線を浴びて来るつもりだ。その為ならば五万円を突っ込んだ財布の中身を空にしても全く惜しくない。こんな男にはもったいない位立派な女にならねばならない。


 …………そう思って乗り込んだと言うのに、たかがと思っていた十年と言う時間の重さをいきなり思い知らされた気分になって来た。独身時代に足を運んだプレイスポットの大半は残っていないか大幅に規模を縮小されていた。今回目当ての場所ではないとは言え、正直浦島太郎にでもなった気分だ。


 過ぎ去った年月を思い歳月を潰させたあの男を恨みつつ、私は目的の場所へやって来た。そう、この界隈で一番だと言うホストクラブ。どんないい男がいるのか正直ワクワクして来る。さあ入るぞ、と思ったがどうも門の前に立っている男の顔色が良くない。今日は秋の到来を伝えそうな夜風が吹いていて外でずっと立っているのは辛いのかもしれないが、どうも何か不服がありそうな表情だ。


「お客様…大変失礼ですが当店は店の性格上未成年の方は…」


「私は二十三歳です!」


 隣を見ると、私と似たような服を着た百四十五センチぐらいしかない女性が頬を膨らませていた。確かに未成年に見えなくもない低身長で童顔な女性だったが、女性をおもてなしする店としては正直配慮が不足している言葉だと思った。


「えーそれでは何らかの証明ができる物を…」


「ったくもう…あれっどこにしまったっけ免許証」


「年齢確認ができる物がないとちょっと…」


 他人事として話を聞いていた私はその言葉を聞かされた瞬間あっしまったと声を出してしまった。酒を出す店である以上、飲酒運転に対しての注意と年齢確認は欠かせないのだろう。そういう類の物を一個も持っていなかった事に気付き慌てて踵を返そうとするともう一人別の男が私に声をかけて来た。


「すみませんお母さん、この子連れて帰ってくれますか…?」


「私は二十三歳だっての!」


 誰がお母さんだ。確かに私は百六十センチ以上あるし服は似ているが、まだ三十代半ばでありこんな大きな娘を持った覚えはない。確かに老けているとは思うが年相応のそれに過ぎないはずで五十代に間違われるほどではないはずだ。


「ほらこれ、これでも偽造だって言うの!」


「あーはい、大変申し訳ありませんでした…ではどうぞ」


「もういいわよ!ったくどいつもこいつも…!」


 私が身の上を嘆いていると先ほどの小柄の女性が大股で歩き去って行った。あんな言い方をされれば気分を害するのもお説ごもっともと言う物だろう。一般的な道理と世の決まりに則って判断した事を悪いとは言わないが、あの二人の男は二十三歳にして子ども呼ばわりされた彼女と、三十代半ばにしてこんな所に来るような女性の母親と言われた私の心持ちを慮る事が出来ないのだろうか。こっちだってこんな店願い下げだ。











 数日後、やっぱりキャバクラなどに寄らずにとっとと帰って来たあの男に娘を押し付けてまた外出した私は居酒屋に入った。サラリーマンたちが陽気そうに騒ぐ中、私は何故か空いていたカウンターで料理も頼まず陰鬱に酒を啜った。ったく、どうしてこうやる事成す事うまく行かないのか、本気で嫌になって来る。それでも一人きりで酒を啜っていると日々の苦難を忘れられる。仕事の憂さを晴らし酔い潰れて帰って来る男たちの気持ちがわかった気分だ。まああの男には女の苦労なんてわかりゃしないだろう、これだけでも優位に立った気分になれた。


「あっもしかして……!」


 そんな僅かな満足をぶち壊すかのように太い声が飛んで来た。酔って騒いでいる以上大きくて太くて浮かれ上がっている声が飛んでくるのは仕方がない事だが、何もこっちに向かって飛ばす事はないだろう、いくら女性客が私一人しかいないからって…ってもしかしてって何だ?


「もしかして課長の奥様ですか?」


 あの男のいる会社の人間たちだったのか。こんな陰気な顔を抱えて酒をあおっている姿を見られるのは情けないが、同時にしてやったりと思わない訳ではない。外ではいい上司を気取っているあの男が家庭では如何に駄目な人間であり私に負担を強いているか見せ付ける好機…………一瞬でもそう思った自分が馬鹿だった。


「そちらの旦那さんにはたびたびお世話になってるんですよー」


「今日のお酒が飲めるのも、うちの課長のおかげです!あっそれと奥様の内助の功のおかげです、にしても奥様はどうして今日ここに?」


「課長はまっすぐ帰るって言ってましたけど」


「そうですよー、あんなに奥様の事を愛してるのになー」


 こんな人間たちの前であの男の非道を訴えた所で聞く耳を持つはずがない。一体何をしたのか知らないが、どうやってこの連中の心をここまで掴んでしまったのだろうか。まだ十月の頭でしかも建物の中だって言うのに、秋風が耳障りな程の音を立てて私の心の中で吹き荒んでいる。その秋風の音を聞いてくれる人間はいない。


「ってか課長さん何かいい事でもあったんすかねえ、金銭的に?確かに出世はしましたたけど」


「そうですよ、僕らにタダ酒を飲ませるなんて」


 部下たちにタダで酒をおごっていると言うのか。いくら部下の心を掴むためとは言え一体いくら投資したのか。自分で稼いだお金とは言えよくもまあこんな使い方をできる物だ。どこにそんなお金が……まさか!


 間違いない、あの男私がキャバクラにでも行ったらと言って渡した五万円をここに注ぎ込んだのだ。そうやって金を使って社内の人間を抱き込み、自分の立場を優位にする心づもりだ。ったく、そんなに別れたくないの!これまでの自分の怠惰を棚に上げて真摯に振る舞っているつもりなの!だったら何であの時私の方を向いてくれなかったのよ!いや、あの時だって!


 …………………とか叫べればどんなにいい事か。ここでそれを叫んだ所で酔っ払いが何を騒いでんだかと言われるのならばまだましで、風俗にも通わず自分一筋でかつ部下に対してもあんなに懐の深い亭主の何が悪いのか贅沢な女だと言われるのが落ちと言う物であり、私の一方的な損じゃないか。全く、どこまでもたちの悪い男だ。


 結局、適当極まりない言葉を吐き出して店から逃げるしかなかった。もちろん酔いなど醒めてしまっている。詰まる所、私は酒を喉に流し込みながら欠片も酔う事が出来ないでただ不愉快な気分になっただけだ。ここまで滑稽極まる真似をやらかすと我ながら笑えて来る。











「だってさ、正直つまんなかったんだよ、この前誘われた時さ。どうしてもこれは商取引の一環って言うのが頭にあってさ、何せホステスたちがお前より不細工なのしかいなくてな、それで酒ばかり飲んでて……実はああいうとこ、今まで生きて来て本当に初めてだったんだよ、でそんな調子じゃもう行く気起きないっての。で、あいつらは何て言ってたんだ?何、今日のお酒が飲めるのもお前のお陰だって言ってたって?あっはっはっは、いやさ、結局の所最後に頼りになるのは人脈だよな。お前も近所の奥さんたちと交流を深めておいた方がいいぞ、遠くの親戚より近くの他人だ、一人でできる事なんて高が知れてるんだから」


 絆。あの時以来しょっちゅう聞いている三文字だが、都会と言う所はそういう類の代物を排除している所だ。便利とか不便とか関係なく、肩を寄せ合って生きて行く事が是とされているのが田舎であり、他者に干渉しない事が是とされるのが都会なのだ。先祖代々東京と言う大都会に住んでいる私には田舎の密着度の高い暮らしはおそらく馴染めないだろう。実際、私はこれまで近所付き合いに対して執心はしていなかったし、これからもさほどこだわるつもりはなかった。


 しかし実際問題、味方を増やしておかねば心細い。今の状態で離婚を言い出した所で近所の奥様達は良くて中立、おそらくこの男の側に付くだろう。プラスマイナスゼロならばともかくマイナスだらけの中で一人で生きて行ける自信は全くない、それでも娘が一緒にいてくれればとは思うが、今の私は娘の心さえも掴めていない。

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