第12話

 欧州での深刻な戦況、それに注目するばかりで太平洋での軍備に欠けていた米国、そして有色人種が白人に戦いを挑むことなどあり得ないという偏見から出た独りよがりが、真珠湾に想定をはるかに超える損害をもたらした。驚いた米国政府は真珠湾の惨状を目にした国民からの批判をかわす口実が必要だった。ふたりが到達した結論であった。

 野村大使の国務省到着が小一時間遅れたことは、そのような事実を覆い隠して米国民の目を日本への糾弾に導く格好の隠れ蓑を提供したのだ。

 だから、その日のハル国務長官の声明にはinfamyなどという過激な語が使用され、それは翌日の議会で日本に対する宣戦布告の議決を要請したルーズベルト大統領の演説にも現われている。

 その後の歴史は米国指導者層の狙いが的中したことを語っている。欧州偏重によって日本への対応が貧弱だったことなど、米国の歴史教科書には記載がない。戦後七十余年になっても、infamyを振りかざすルーズベルト大統領の議会演説が相変わらず十二月七日になると米国内ではテレビの画面に流れるのだ。

 そればかりでなく、日本でも、当時の欧州と太平洋を合わせて振り返った歴史書が見当たらない史観を創り出してしまったのだ。そして、発電時刻の繰り下げが軍部の介入であったことを隠蔽するために、大使館の手落ちだったという苦し紛れの釈明で済ませようとした政府は、より大きな過失であった、日本による致命的な戦略上の過失をも覆い隠す効果をもたらしたのであった。

 山本五十六が日米戦争は短期間には有利に進めることができる、と進言し、その後に、長期になると危ないと示唆したとされる。しかし山本が世界地図を念頭に描いていたならば、短期決戦で停戦に持ち込むことが日本にとって唯一の生き残る道であると進言し、シンガポール陥落時点で事態を収拾する戦略を採用できたはずだ。その頃の米国と英国にとっては欧州への軍備を太平洋に割く余裕はなかった。

 初戦の勝利に目が眩み長期の戦争継続に走ったことが、米国に軍備充足の時間的余裕を与え、その結果は日本に三百五十万人を超える犠牲者を生む不幸をもたらしてしまったのだ。一方の米国が太平洋で失った人命は十万人にも満たなかった。欧州での損害と比べれば、まさに”かすり傷”であった。


 そして、米国が宣戦布告の遅れを前面に押し出したことは、あの日本政府の回答文書が宣戦布告の要件を満たさない単なる外交文書であったという、日本政府のもうひとつの過ちをも有耶無耶にする副産物をもたらしてしまったのだ。

 国際法では宣戦布告は相手国にその意図が伝わる文書と規定されている。十四通目を手にしても日本の開戦の意図を認識した者が米国政府内に皆無だったのは、あの文書が要件を満たしていなかったからだ。ハル国務長官は後の回顧録で、野村大使から受取った文書には宣戦布告はなく、外交関係の断絶も示唆していなかったと書き残している。

 仮に野村大使が予定通りに一時に国務省に到着し、ハル国務長官に手渡していたとしよう。長く議員を務め、民主党委員長を歴任した老獪なハルのことだ、傍受の事実を覆い隠すためにも、すでに内容を承知していながら、一字一句を野村大使に問い質したはずだ。その最中にハワイから奇襲の報が届くことになる。

 野村大使も前月の十一月から野村を補佐するために派遣されていた来栖三郎特命大使も、後に、文書を手渡した半時間後に日本が真珠湾を攻撃することは知らなかったと語っている。国を代表する全権大使たちがハル国務長官の詰問に答えられない、という外交官としては他に例がない醜態を演じることが必至であった。一時に間に合っていたならば、日本政府は世界史に記憶される汚点を残したことになる。東郷外相の手記はそれをも回避したことになる。

 

 「十三通目と十四通目に半日の時間差が出た理由が分かったよ。日本の友人からメールがあった」

 邦文のメールをテーブルに置いて塚堀が翻訳しながら説明を始めた。

 そのメールは、この間の事情を克明に解明したことで知られる井口武夫著“開戦神話”を引用していた。この書の著者の父は真珠湾攻撃があったあの日にワシントンの日本大使館で参事官を務めていた井口貞夫で、戦後に外務次官、駐米大使を歴任している。著者も他の大使館員家族と共にあの日に敵国人としてFBIに身柄を拘束される体験をした。著者は後に外務省に入省してニュージーランド大使を務めた。元外務官僚だけに外務省内部や政府連絡会議の記録を精査している。

 この書によると、日本時間十二月六日に開かれた政府の第七十六回連絡会議は、対米最後通牒(第十四分割分)の発電時刻を日本時間の七日午前四時に設定し、八日午前三時に米国側に手渡すと決定していた。それぞれワシントン時刻では六日午後二時、七日午後一時に当る。

 この決定にしたがって六日午後六時三十分に、分割した長文の外交電を発電すると予告した。米国がパイロット・メッセージと呼んだ九〇一号である。ワシントン時刻では五日の午前四時三十分だった。そして二時間後の午後八時三十分から長文の九〇二号電を外務省電信課から中継局の東京中央電信局に送信を始め、七日午前零時二〇分までに十三分割した電文の送信を終えている。ワシントンの日本大使館では現地時間の六日正午から午後三時の間に受信し、深夜の零時には解読を終えていた。

 最後の第十四分割分は日本時間では七日の午前四時に打電し、八時には日本大使館が受信を終えるはずだった。現地時間では六日午後六時に相当する。外務省では外務省電信課が打電を始めてから日本大使館に到着するまでの所要時間を四時間と想定していた、と著者は記している。

 このように当初は日本大使館がすべての暗号電報文を前日に受け取り解読してタイプ打ちする十分な時間が設けられていた。ところが、著者の井口によれば、連絡会議の決裁文には“第十四部は日曜(七日)午後四時まで発電留保”と後に追加された注記があった。  

 著者はこの注記が本来は午前四時だった発電時刻が後に午後に変更された証拠と指摘している。これは、日本の真珠湾攻撃の意図が洩れることを危惧した軍部が、大使館の受電時刻をワシントン時間の六日から攻撃当日の七日に遅らせる工作をした結果であるとして、関与した著者はふたりの陸軍参謀の名を記している。軍部には元々宣戦布告無しの奇襲を主張する動きがあり、通告の遅れを意に介さなかったことが発電時刻の変更を生んだとしている。


 「リズ、この“開戦神話”は、発電が遅れたもうひとつの理由にルーズベルト大統領がワシントン時間の六日午後に発電した天皇宛の親電があったことを指摘している」

 この大統領による親電は元々日本大使館関係者が米国側に意見具申したもので、戦争回避のための最後の手段と考えられた。ハル国務長官ほか米政府中枢は、ハル・ノートの後に大統領が天皇に和平を訴えるのは米国に弱みあるからと誤解されると否定的だったが、大統領が決断して六日午後九時に発電され、東京の中央電信局は日本時間の七日正午に受電している。この親電は和平追及を訴えていたが、大使館関係者が期待したようなハル・ノートから米国が譲歩したものではなかった。

 この親電は駐日大使のジョセフ・グルー宛に先ず打電され、それを大使が天皇に直接奉呈するように大統領が指示していた。発電に先立って国務省は親電が発電されることを公表している。そのためグルー大使はこの親電の存在をサンフランシスコからのラジオ放送のニュースで知った。しかし、大使が親電本文を手にしたのは午後十時三十分で、それから東郷外相、東条首相の手を経てグルー大使が参内したのは翌日の八日午前二時半だった。この事実は戦後に出版されたグルー大使の回顧録にも収録されている。

 大統領の親電は中央電信局で十時間以上も差し押さえられていたのだ。このルーズベルト親電を中央電信局が外務省に転送するのを遅らせたのは軍部の働きかけだったことが戦後に知られている。

 著者の井口は、差し押さえた大統領親電の内容を知った外務省が親電に対応すべく、政府回答文の結論部である第十四分割文に修正を施した上で午後四時に発電したのも発電が遅延した理由のひとつとしている。


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