第8話

 翌日、ふたりは米国が傍受した電文をそのまま転載した調査書のページを前にしてテーブルに座った。

 それぞれ電文の要旨は次のようになっていた。


第一分割 

 四月以降日本政府は太平洋に於ける和平の実現のために米国政府との交渉を重ねてきた。この八ヶ月の間、米国と英国の対日姿勢に対する率直な見解を表明してきた。東アジアの安定と世界平和の実現は日本政府が最も望むことである。日本政府の真意を理解しない中国によって引き起こされた中国に於ける紛争が戦争状態に発展することを避けるための努力を続けてきた。昨年の九月にドイツとイタリアとの間に三国同盟を締結したのもその目的を貫徹するためであった。


第二分割 

 しかしながら米国と英国は日本政府の目的を阻害する中国への支援を止めず、東アジアの安定化を目指すための蘭領東アジアや仏領インドシナへの日本の働きかけを阻害し続けてきた。仏領インドシナを防衛する日仏間の取決めに対しても、米国と英国は自らの権益が犯されるというその意図を故意に曲げた理解を広めて彼らをして資産の凍結をなさしめている。このような明らかに敵対する行為によって日本を包囲する軍備体制が出現した。


第三分割 

 そのような状況にもかかわらず日本国首相は重大な事項に関して迅速な解決を目指そうとこの八月に米国大統領との会談を提案した。しかし米国は基本合意の後に(その後に続く七十五字が解読不可、とある)会談を持つことに固執した。日本政府は米国政府が提示した様式に沿って、それまでになされた米国政府の抗議に対する日本政府の見解を盛った提案を示した。しかし度重なる会談でも成果がなかった。そのため現政権は改定案を提示した。しかし米国政府はそれ以前の提案に固執して妥協の精神に欠けたままで交渉には進展が見られなかった。


第四分割 

 そのため両国の危機を回避するために日本政府は十一月二十日にそれ以前の提案を簡素化した下記の点を考慮した案を提示した。(一)両国は仏領インドシナを除く東南アジア、南太平洋に軍を進めない (二)両国はそれぞれが必要とする蘭領東インドからの物資の調達で協力する (三)両国は相互に資産凍結以前の通商を回復する(四)米国は日中間の和平回復努力を阻害しない(五)日本政府は日中間の和平が実現する、あるいは太平洋に於ける和平が出現次第に南部仏領インドシナから軍隊を北部に引き揚げる。

 

第五分割 

 中国に関しては以前に合意した通り米国大統領による中国の紹介の労は受け入れるが、米国は日中両国が直接交渉を始めた後には干渉すべきではない。米国政府はこれらの新たな提案を拒否するだけでなく蒋介石への支援を止めず、大統領による紹介を撤回した。そして十一月二十六日にはそれまでの日本政府の提案をすべて無視する新たな提案があった。


第六分割 

 日本政府は当初より公正と適切な姿勢で交渉に臨んできた。重要な交渉対象である中国問題に関しては日本政府は柔軟性に富んだ姿勢を維持してきた。米国政府が推進する差別のない国際通商の原則に関しても日本政府は中国を含む太平洋地域への適用を望むことを表明してきた。仏領インドシナからの撤兵に関しても先に述べたように自ら進んで南部からの撤兵を提案した。


第七分割 

 これまでの日本政府の打開を目指す精神は米国政府によって高く評価されるべきものである。他方、現実に目をつぶり原理原則に固執し一インチもの譲歩を拒否する米国政府は交渉の進展を妨げてきた。それは日本政府の理解を越えることで、次の点を注目して欲しい。世界平和は現実を直視し相手の立場を考慮することによって相互に受け入れ可能な処方を見出すことによって実現する。現実に目を背け、一方的な見方を他者に押し付けるのでは交渉の妥結は期待できない。


第八分割 

 米国政府の提案に盛られたいくつもの原則の内には日本政府が受け入れ可能なものも存在する。しかし世界の現状を考えれば米国政府の提案は理想に走ったものである。日本、米国、英国、中国、ソ連、オランダ、タイを含めた不可侵条約は旧態の多国間安全保障の考えに則ったものでアジアの現状から大きく乖離している。米国の提案には他国と締結した協定は太平洋に於ける平和の実現と維持を目的にする相互間の協定に反しないものとある。これは米国が欧州で参戦した際に日本が三国同盟の下で日本が負う責務の遂行を制限することを意図している。


第九分割 

 米国は欧州での戦争の継続を目論んでいる。太平洋での安定を求めるとしながら、他方で米国は、欧州での新たな秩序を実現すべく努めるドイツやイタリアと対戦する英国の支援と参戦の準備をしている。そのような政策は平和手段を通じて太平洋に平和を実現するという主張と相反するものである。軍事行動による世界の紛争の解決を目指すとする米国が英国や他の諸国と結託して経済力による圧迫を加えている。そのような圧迫は軍事以上に非人道的な手段である。


第十分割 

 米国が英国と共謀して中国や東アジアの他地域で強大な地位を獲得するという願望が実現するとは考えられない。英米による帝国主義植民地政策が他国に犠牲を強いることによって現状維持や繫栄を狙っていることは歴史が示す通りである(四十五字判読不可あるいは欠字)。各国が世界に然るべき地位を占めることを目指す日本はそのような政策を受け入れることはできない。


第十一分割 

 仏領インドシナに対する米国政府の提案は上記を端的に語っている。フランスを除く日本、米国、英国、オランダ、中国、タイの六カ国による仏領インドシナの国土と主権の尊重、通商の平等は、フランスの地位を無視し、従来の東アジア体制から抜け出しておらず日本政府は受け入れできない(五十字脱字)。


第十二分割 

 中国からの全面的な撤兵や無差別な通商の原則の適用に示される米国政府の要求は中国の現状を無視したもので、東アジアでの安定を目指す日本の立場を破壊するものである。南京政府の存在を無視し蒋介石政府以外の政府に対する軍事、政治、経済上の支援を禁ずる米国政府の姿勢は、日米交渉の基盤を損ない、日中間の正常化や東アジアの平和を損なうことになる。


第十三分割 

 米国の提案には受け入れ可能な事項も含まれるが、中国での四年間に渡る日本の犠牲を無視し、帝国の存続や、名誉と権威に脅威をもたらすものである。従って、遺憾ながら日本政府は交渉を継続するベースとして今回の提案を受け入れることはできない。

 日本政府は日米間の合意と同時に英国や他国との協定に署名する用意があるが、十一月二十六日に提出された提案は英国、豪州、オランダ、蒋介石政府など親米諸国との共謀によるもので日本の立場を無視している。


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