第11話 絡まる首輪

 レディが両親を失って、引っ越さなければいけなくなった時、小学校の友達は必ず連絡する、離れても変わらないと言ってくれた。

 けれど実際は虚しく、少しの間は連絡が続いたものの、すぐに飽きたように関係を失った。レディは中学に上がって蘭と出会うまでの間友達を作れなかった。

 どうせ失うだけの関係なら無くていいとさえ思っていた。

 レディの冷めた心に、唯一の肉親である祖父は宗教という拠り所をくれた。

 レディはいつのまにか、それなしでは生きていけなくなっていた。

「教会の手伝い、代わりに行ってきたよ」

「ありがとう。子供たちはどうだった?」

 子供たちとは、教会に併設してある幼稚園の子供たちのことである。教会のイベントの折には必ず参加してくれるが、何はともあれ元気で喧しい。

「いつ行ったってそうだけど、みんな喧しい」

「――レディ」

 覚束ない足取りで一人がけのサイドチェアから歩み寄ってくる老人は何かに縋るように手を伸ばす。

「どこにいるんだい、レディ」

「私はここよ」

 皺くちゃの手をレディが握り、障害物にぶつからないように、丁寧に書斎へ導く。

 老人は手で確認しながら書斎の椅子に腰掛けると、紙とペンを取り出し、サラサラと何も見えないはずなのに綺麗な文字で英文を書き出す。

【There shall no evil happen to the just.】

 そう綴られたのを確認して、レディは確か、と記憶を辿る。知恵文学、箴言の一節に見た記憶がある。

「神に従う人はどんな災難にもあわない」

 思い出してレディが和訳を答えると、老人は満足気に頷く。

「そうだ。施しを行い身を尽くしていれば、君自身が幸せになれる」

「わかってる。……煩かったのは、まあ、事実だけど」

「君の正直さは美徳だ。そのままでいなさい」

 老人はいつでも個人の感情に惑わされず、正しいことはもっと伸ばして、悪いことはきちんと正してくれる。神に従い、レディが道から外れないように、間違わないように導いてくれる。

 でも今思えば、レディと老人は出会った時から間違えていた。だから、奇跡はもう起きない。


 ピンポーン、ピンポーン。

 レディは怠惰な眠りから、インターホンのなる音で目を覚ました。

 最近のレディは学校に行くこともせず、教会と家の往復を繰り返していた。

 斗真に裏切られて仕事を失ったことを思ったより引きずっているようで、新しいバイトも探せずにいる。

 それにレディのせいで仕事を辞めることになってしまった蘭に顔向けができない。あまりに気まずいので学校も無断欠席気味だ。

 斗真に借りている家賃や水道代といったお金も返さなきゃいけないのに、いや流石に裏切られた相手に律儀すぎるだろうか、いやでも。

 とにかくこのままじゃいけないことはわかっていても、レディには頑張ってどうにかしようという力を沸かせる原動力が足りていなかった。

 スマホの電源を切って家に閉じこもっていれば、レディは本当に一人ぼっちだ。

 唯一信仰と教会の存在だけが、レディを世間に繋ぎとめている。

「……うーん……誰だろう、思い当たる節しかないわ」

 無断欠席気味の学校の先生か、友人の誰かか、もしくは斗真。一番会いたくないのは斗真だ。彼に会ったら怒るべきなのだろうが、今のレディにそんな力はない。

 レディは気力を振り絞ってベッドから起き上がり、部屋着のまま大きめのパーカーだけを羽織った。

 玄関に向かって覗き穴から外を見ると、スーツを着込んで髪をきっちりセットした眼鏡の男性と、見覚えのある児童委員を名乗っていた市の職員の二人組が立っていた。

 


「どうぞ」

 レディは二人をリビングに通して二人がけのソファに座らせた。紅茶を三人分用意して、レディは一人がけのサイドチェアの方に腰掛ける。

 出された紅茶に口をつけ、二人が社交辞令程度に紅茶の味を褒めた後、切り出したのは見知らぬスーツの男性の方だった。

「私は白鳥斗真さんの会社で顧問弁護士をしているものです」

 そう言って男性は名刺を差し出す。レディはこういう時の受け取り方を知らないので、ぎこちなく名刺を受け取ると、自己紹介通り肩書きが弁護士になっていた。

 そして、名前は大きく【石井 学】と書かれていた。【ガク】と読むのか【マナブ】と読むのかわからないので、レディは【石井さん】と頭にインプットした。

 斗真の会社の弁護士が一体何の用なのかと訝し気に見ると、石井は咳払いをしてから眼鏡を直した。

「今回白鳥さんは法人としてあなたの後見人を買って出ました」

「後見人、ですか? あれ、えっとそういうのって、もっと小さい子だったり、財産がある人につくもんなんじゃ――」

「まあ大概は」

「です、よね……」

 最初は婚約者と嘯いて家賃を立て替え、結婚して下さいと言ってきたかと思えば、結婚しなくてもいいから支援を受け入れて欲しいと言ってレディに優しく言い寄って、次に裏切って、今度は後見人。

 レディは目眩を引き起こしていた。一体斗真はどれだけ私の人生をかき回したら気がすむのだろうと、もうたくさんだと言いたくなる。いっそ放っておいてくれたらいいのに。

「それでも白鳥さんはこの手段を選びました。貴女の生活を守るために」

「申し立ては、貴女の利害関係者である児童相談所長です」

 石井を補足するように、児童委員の男が言葉を続ける。どういう流れでそうなったのかはわからないが、普通に考えれば、斗真から児童相談所に対してアクションがあったはずだ。児童相談所側が気を利かせて斗真を選ぶとは思えない。

 レディは斗真が法人格を使ってレディの生活を支援することに何の意味があるのか懸命に考える。レディに財産があるならそれ目当てとも考えられなくはないが、勿論そんなものはない。わざわざこんな面倒な手続きを踏んでまでレディから得たいものがあるとすれば、それはくだらない、"愛"とやらだろう。

「後見人は、保護者と同じ権限を貴女に対して持ちます。具体的には住むところを指定したり、教育や、懲罰を加えることもできます。身上監護と言います。難しい言い方をしましたが、つまり親代わりという事です。ただし貴女の利益に反する事を後見人はできません」

 石井は後見人の権限について説明し、封書を一つ差し出す。送り元が家庭裁判所になっていて、宛先がレディになっている。

「家庭裁判所の手続きとして、申し立ての次は調査です。現在、申立人の調査と後見人候補者の調査は済んでいる状態です。あとは貴女の面接だけなのですが、これを後見人候補者、つまり白鳥さんと行っていただくことになります」

 冷たい石井の声色に、レディが何も声を発せなくなっていると、石井の隣に座る児童委員がレディに笑顔を向ける。

「勿論貴女には権利がありますよ。前にもお話しした通り。正当な理由があるなら後見人を断ることも」

「せいとうな……理由って」

「例えば、後見人になる人に暴力を振るわれたことがあるとか、関係が悪く貴女の利益に反するとかでしょうかね」

 児童委員の言葉にレディは首をふることしかできなかった。調査という言葉に恐怖心を抱いてもいた。下手に調べられて、レディが水商売をしていたことがバレてしまったり、蘭やマミママに迷惑をかけてしまうことが怖かった。

 関係が悪いなどと言って、その背景を調べられたりしたら。少なくとも社会的に、信頼性が高いのは斗真で、レディは底辺だ。

 レディは震えながら封書を受け取った。中には面接の日付が記された紙が入っている。

「……斗真も、面接したんですよね?」

「はい。まあ、白鳥さん側はスムーズだったんじゃないかと、僕の想像ですけど」

「当たり前です。白鳥財閥の御曹司ですよ」

 石井は鼻息を漏らさんばかりの勢いで居丈高だ。余程自分の雇い主が誇らしいと見える。

「はは、そうですよね。それで、貴女の気持ちは?」

「……手続きを進めて下さい。斗真と一緒に家庭裁判所に行きます」

「そうですか。では白鳥さんにそうお伝えしますね」

 レディはぎゅっと握り拳を作って俯いた。歯を食いしばる顔を二人に見せてはいけないと思ったからだ。斗真のことを悪人だと思いたくはない。けれど今、やはりほんの少しだけ恨まずにはいられなかった。

「あんなに……」

「何か?」

「いえ、なんでもないです」

 あんなに優しく触れた手で、首輪をはめようとしているのだ。レディは下唇に立てた歯が、柔らかい粘膜を食い破ったのを感じた。じんわりと血の味が滲む。この家で、祖父の思い出を守ろうとする気持ちを知りながら、踏みにじろうとする彼を、許したくない。





「やっぱりここにいた」

 その日の夜、教会にいるレディに声を掛けたのは、白鳥斗真その人だった。

 レディは祭壇に一番近い席に腰掛け、膝の上に小さな聖書を置いて、祈りを捧げていた。

 斗真は聖堂の扉を閉めるとゆっくりレディに向かって歩き出す。

 レディは膝の上の聖書を己の隣に置いて立ち上がり、斗真を振り返った。瞳には、静かな怒りを宿している。

「教会に何の用? あなたが神を信じてるとは思えない」

 レディの言葉の端々には棘がある。そのきつい声色を物ともせずに斗真はにっこり微笑む。

「まあね。でもここは神に誓いをたてるところだろ?」

「誰との誓いをたてる気よ」

「その言い草はあんまりじゃないかと思うんだけどな? レディ?」

 斗真はレディの前で立ち止まるとその手を握ろうと手を伸ばす。優しく伸ばされたそれを、レディはパシッと音を立てて振り払った。

「理解できないわ」

 斗真は肩を軽く竦め、レディの前を横切るとピエタ像の前に立った。レディの目線は斗真を追う。

「婚約者の次はお客さんで、今度は後見人? 一体私の何が――」

 そんなにいいの?と言いかけたレディの声は、マリア像の近くの長椅子に行儀悪く腰掛けた斗真によって遮られた。

「美しかったんだろうね聖母マリア様ってのは」

 あまりに脈略がなく頓珍漢なことを言うので、レディは拍子抜けしてため息をつく。

「知らないわ。お会いしたことないもの」

 冷たく言い放ったレディを振り返った斗真は、息を漏らすように笑う。

「それはまた随分リアリストな発言だね。こんなにたくさんの彫刻が残っているのに」

「……」

 レディは沈黙を作った。入り口にあるマリア像、聖堂の中にもマリア像が一基、それにピエタもある。ピエタはキリストの亡骸をマリアが抱いている姿を模したものだが、当時の実年齢より若く掘られているマリアはその悲しみに暮れる表情も相まって、非常に美しい。

 処女受胎のイコンには、原罪を免れた奇跡の乙女の姿が表情豊かに描かれている。

 確かにそれらが本当に聖母マリアをモデルにした作品群ならば、まさにそうなのだろう。

 けれどレディは肯定することをせずに沈黙して俯くだけだった。

「朝も夜も、飲まず食わずで祈ってるらしいじゃないか」

 飲まず食わずなのは、仕事を辞めたせいでもあり、それは少なからず斗真のせいなのだがそれは言わない。あの時給料を受け取ってさえいれば良かったと思う気持ちよりも、マミママに申し訳ないと思う気持ちがレディの中で勝ってしまったのだから。

「あなたに関係ないことよ」

「君は何をそんなに焦って祈ってるの?」

「死者の魂の安寧を」

「それだけ?」

「そして神に懺悔を。……かの人が亡くなる前から」

 かの人、それは亡くなった祖父のことだろうと推し量った斗真は、レディがここまで素直に答えていることに驚きを隠せずにいた。

 端から隠す気がなかったのか。いやそんなはずはない。斗真はレディがわからないくらい僅かに目を細めた。

「隠すものかと思ってた」

「神の御前で嘘は通じないわ。全てを見通しておられるもの」

 そう言って十字架を仰いだレディは胸の前に手を合わせて祈りを捧げる。――さすが神の御前だ、と斗真は舌を巻く。

「君は本当に信心深いね。終いには神と結婚するとか言い出すんじゃない?」

「言うわけ無いでしょ。あなた神や聖人の名を汚しにきたの?」

「いや、僕は神にも聖人にも用はないよ。用があるのは君のことだけ。なにせこれから後見人になるんだからね」

 レディは石井の言葉を思い出した。後見人の権限には身上監護があって、親代わりにあれやこれやと面倒を見て叱ったりすることもできる。斗真は後見人として親のようにレディを心配しようとしているのだろう。

「人は過ちを犯すこともある。救われたい?」

 自分の過ちを述べて、救いを求めるのは、信者として当たり前の姿だ。だがレディは少し困った顔をした後、諦念を表情に浮かべて首を横に振った。


「……私は心にだけは正直に、ずっと周囲を偽ってきた。私の中の悪魔に耳を貸したその瞬間から、救いも奇跡もないの」

「それが"私はもう悪くたっていい"、に繋がるのか」

「私はたくさん罪を犯したわ。悪所通いもしたし、法を犯してお酒を飲んだ。遅い時間に帰って家族を困らせて……でも、私なんかよりずっと正しく生きてきたはずの彼にさえ、奇跡は起きてくれなかった」

 神に従い、正しく生きてきたはずのレディが、神による救いを諦めなければならないほどの絶望。いや、本来なら絶望しているからこそ縋るはずの宗教にさえ、もう希望を抱けなくなるくらい彼女の心は追い落とされた。これ以上ない闇に包まれながら、彼女は決してそれを表に出さないように勤めていた。"彼"――彼女の祖父が死んでから、今のこの一瞬まで。

 斗真は今すぐレディを抱きしめたい気持ちに駆られながら椅子から立ち上がり、ゆっくりレディに近づいた。レディはもう手を振り払わなかった。斗真が握ったレディの手は骨ばっていた。以前触れたときよりずっと。

「――すごく……痩せたね、レディ」

「私もそう思う」

 痩せた身体にはほとんど力が入っていない。断食を一体何日続ければこうなれるのか、斗真は考えるのが怖くなった。思わず抱きしめて、呼吸と体温を確かめる。生きている心地がほとんどしなかった。

「どうして、こんな……君は……死にたいの?」

「さあ……」

 斗真が二日間レディのいる店に通ってお金を使ったのは、レディに夜の仕事をやめさせ、後見人の話がまとまるまでの少しの間、困らずに生きて行ってもらうためだった。直接渡したお金を使ってくれるような素直さがレディにあればよかったが、それは望み薄だとわかっていたから、給料としてならば受け取ってくれるのではないかと思ったからだ。そんな思惑すら、レディは拒絶した。まるで死んでも構わないとでも言いたげに。

「自覚はないかもしれないけど、君はまだ子供なんだ。それにあまりにも不安定でいつ社会のレールから外れてしまうかわからない。すごく危ない状態なんだよ。心も、勿論身体も」

 宗教だけがレディを世間につなぎとめている。その宗教にさえ絶望しているレディが、何もかもを投げ出してしまったら、起こり得るのは、彼女が守りたいと願うあの家での孤独死だ。斗真はそれだけは嫌だった。それが防げるのなら例えレディに恨まれても、嫌われてもいい。

 強引でも、無理矢理でも、死なせたくない。だから裏切ることになってもレディの生活を守ることを選んだ。

「だから卑怯な手を使って、自分が安心できるように首輪をはめるの? ……仕事辞めなくちゃいけなくなった」

 レディは斗真の胸を両腕で押してみたが、自分でも驚く程が入っていなかった。鍛えられた身体はびくともしない。抱きしめられた格好のまま、嫌味を言うのが精一杯だ。

「僕を恨むのは構わない。でもあのまま続けてていいわけないだろ。どうしても続けたいなら、学校を卒業してからいくらでもどうぞ」

「いいの? 後見人様」

 レディは皮肉交じりに笑った。ささやかな抵抗にしかならないな、と自分で自分が情けなくなる。

「僕に君の人生を強制する権利はないからね。でも今は違う、君はまだ勤めていい歳じゃない。家でお酒を飲んだって友達と遅くまで遊んでいたって、何も言うつもりはないけど、仕事に関しては違う。社会的に色んな人に迷惑をかける事になる。君はまだぴんと来ないかもしれないけど――」

「そんな事言われなくったってわかってるわ。ねぇ、離して頂戴」

 斗真の言葉は段々説教じみてくる。自分で斗真を押しのける力がないレディは、斗真の胸の上で首を振って言葉だけで抵抗するしかなかった。覇気のないその声に、斗真はレディの腰を掴む手に力を入れた。

「いやわかってない。わかってないからここに来た。君の大好きな神様も、いや、神様よりもっと大切な誰かも、きっと同じことを言うよ」

 レディが本当に理解しているなら最初からその仕事を選んでない。自分を大切にしてくれる大人たちに、迷惑をかける事になると本当に理解しているのなら。意地を通すことが本当は少しも簡単じゃないとわかっているのなら。

「……っ」

「まあ騙し討ちをしたのは事実だからね。恨み言ならいくらでも聞く。とりあえず食事だね……このままじゃレディ、君が死んでしまう」

 そう言うと斗真はやっとレディを解放した。右手をつないだまま長椅子に置かれた聖書を持って、聖堂を出ようと手を引く。今すぐにでも連れて帰って食事を与えなくてはならない。レディのあまりに痩せた身体に、斗真は少し焦っていた。

 しかしレディは立ち止まったまま動こうとしなかった。斗真が強い力で腕を引くと、その場に座り込んでしまう。

「強引よ……」

「レディ!」

 珍しい斗真の大きな声に、レディは肩を震わせて、目に涙を浮かべた。それでも、言う通りにはしない。

「斗真には理解、できないでしょう? 身寄りもないし、これ以上失うものがないのに、どうして厚意を受け入れないのかって。斗真が置いてったお金でご飯食べたって、斗真が返せって言わないことも、無理矢理結婚させられるわけじゃないってことも、ちゃんと、ちゃんとわかってるわよ」

 レディの的外れな"わかってる"の言葉に、斗真は顔を顰めた。

「私、もう、いいの」

「何がもういいって?」

 斗真の声は苛立ちを含んでいた。あからさまなそれに、流石のレディも気づき、怯える。しゃがみ込んだまま斗真に目を合わせられない。

「お願いだから放っておいて。斗真が頑張って私を生かしたって何にもならない」

「……君が、深く傷ついていることはわかってる」

「わかってない」

 何も、斗真は何もわかってない。分かってほしいだなんて思わない。ずっと隠してきたことだから。お願いだから一人で背負わせて。お願いだから一人で向き合わせて。このまま、何もしないで。救わないで。レディは心の中で斗真に祈る。

「お願いだから、お願いだから……」

 ――にして。

 レディはそれを言えずに唇を噤んだ。

 斗真はレディに合わせて傅き、目に涙を浮かべるレディの頬に右手を添えた。左手には聖書を握ったまま。

「なら、こっちもお願いの権利を使う。これが最後のお願いだ。食事をとってくれ」

「……そういえば、権利が残ってたわね。最後の一回。でも残念ね、ミサの時に御聖体なら食べてるわ」

 御聖体は、イエスの肉体を模したパンだ。一口分しかないが、多少の炭水化物にはなっているはずだった。

「食べた内に入らないように見えたけどね?」

「ミサに来たの?」

 レディは"神を信じてないくせに"という言葉を飲み込んだ。

「一度だけね。君のお祖父さんの話を聞きに」

 斗真は声を低くした。その声と言葉にレディはかすかに息を呑んだ。斗真が何を知ってどう思ったのか、考えたくなかった。

「どうして君がここで、命を懸けて祈り続けているのか当ててあげようか」

「……やめて」

 レディは身体の震えが止まらなかった。最後だけ、間違いたくなかった気持ちさえ剥がされる。

「愛しいお祖父さんの骨がここにあるから、だろ?」

 震えたレディが零した涙を、斗真は見逃さなかった。

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