第6話 魔法のランプ

 クラッチバッグに、ライターとハンカチタオル、スマートフォンを入れて手に持つと、スタッフルームの入り口で待っていたマミママと共にVIPルームへと向かった。防音が施されているので、外がどんなにうるさくとも中はしんと静まり返る。

 先にマミママが入っていって、客に挨拶を述べた。そして振り返ってレディに目配せして、入ってくるように促す。

 レディは緊張感を抱いたまま、室内に立ち入ると、嗅ぎ覚えのある香水の香りがつん、と鼻に抜けた。

 まさか、と客の顔をしっかり確認すると、そこには見覚えどころか、色々と曰く付きの美しい青年の顔があった。思わずレディは面食らう。

「……白鳥、さまって……とうまのこと……」

 確かに彼はVIPに入れるような太い客だろうし、顔立ちだけで言えばイケメンだ。すっかりレディは失念していたが。

「レディ、うちの表札は見なかったの? 僕のフルネームは白鳥斗真だよ」

「あら、やっぱり二人は知り合いなんですか? 安心しました。白鳥様、この子まだ出勤二日目の新人だから、優しくしてあげてくださいね」

 二人のやり取りに知己であることを察したマミママが、にっこり微笑んで立ち上がると、レディの耳元でひっそりと業務連絡をする。

「白鳥様は、ボトルのロック。お連れの方は運転するらしくてウーロン茶よ。白鳥様のご希望でヘルプもボーイも呼ばれない限りは入らないから、レディ、しっかりよろしくね」

「はい」

 レディも小声で頷き、マミママが出ていくのを確認してから、

「失礼します」

 と一言断って斗真たちが座るソファの向かい側のヘルプ席に腰掛けた。

「ふふ、レディ、なんで向かい側なの?隣に座って欲しいんだけど」

 分かっている。そうするのが正しいことも知っているが、どうにも緊張してしまって、隣に座れなかった。適当な言い訳を口が勝手に述べる。

「お酒が作りにくいんです」

「なら、俺が作りますよ」

 斗真の連れだとかいうスーツを着た男性がアイスペールを持とうとするので、慌ててレディがそれを制する。

「それはダメです!……あ、えっと、お連れ様、お名前は……」

「佐々木です。いや、俺のことはどうでも良いんで、社長の……社長?」

 社長、と呼ばれた斗真は何がそんなに面白いのかお腹を抱えて笑いながら上半身を曲げている。

「ふっ…ふふ、いや、はは、ごめん。二人共違和感が……敬語のレディに、社長呼びの佐々木……ここはプライベートだよ?ははっ」

 どうやら、遠慮し合う二人の雰囲気が、斗真には面白くて仕方がないらしい。

「……斗真さん」

 呼び方を変えた佐々木に、斗真は満足げに頷くと、レディを優しく見つめた。

「レディは? 僕の隣が嫌?」

「嫌とかじゃ……ないわ」

 レディは目を背けつつも、クラッチバッグを持って立ち上がり、奥のソファへと歩み寄った。

「うん、それでいい」

 ぴったりと斗真に寄り添うように座ったレディの腰をさり気なく斗真が抱く。どこまで受け入れるべきか、相手が斗真なだけにレディはその判断基準がわからなくなってしまう。動悸が激しい。レディが動けずにいると、佐々木のスーツのポケットから着信音らしき音が流れた。

「あ、斗真さん、ちょっと電話してきます」

「うん、いってらっしゃい」

 佐々木が席を立ったことで、個室の中はレディと斗真の二人っきりになった。いや、二晩も二人で過ごしておいて今更何を恥じらうこともないのだが、店のもつ雰囲気のせいか、斗真の前に置かれたブランデーの芳醇な香りのせいか、レディは不思議といっぱいいぱいになっていた。

「レディは何飲む? ドリンクを頼んでもいいし、一緒にボトルを飲むのもいい。好きなお酒は?」

 わざわざこうして聞いてくれているのだから、少しくらい高いお酒をねだったほうがいいのかもしれないが、高鳴る心臓がうるさくて、まともな思考回路ではなくなってしまった。慌てて、とにかくよく言葉にする酒の名前が口をついた。

「テキーラ」

「ぷっ、いいよ、テキーラでも」

 耐えきれない、と言った様子で斗真が笑うので、レディは途端に恥ずかしくなった。

「嘘、冗談! 冗談よ! えっと、ごめんなさい。わからないの、こういう時――」

 蘭ならうまいこと立ち回って、自分が飲みやすい酒を頼みながら売上を伸ばそうとするだろうが、レディにとってはどれも大して変わりはなかった。酒という飲み物は、レディにとっては流し込むもので、味を区別するものではないからだ。

「レディは新人さんだったね。じゃあ、シャンパン頼もうか。せっかく初めて指名した夜だし、お祝いに」

 斗真はメニュー表をひっくり返して、シャンパンの銘柄を確認した。まだレディにはどれがどんな味だか判断できないが、斗真にはわかるのだろう、少し考えている様子だった。

「……あの、指名してくれてありがとう。でも、私慣れてないから、斗真を不愉快にさせるかも――」

「なんで僕に対してそういう遠慮をするかな。僕がレディと一緒に時間を過ごして、嫌そうな顔したことある?」

 斗真は優しい瞳でレディを見下ろす。その愛情のこもった言い方に、レディはくすぐったい気持ちになった。徐々に絆されていっている気がしてよろしくない。斗真は赤の他人で、レディは孤独だ。それをきちんと認識しておかなくては。

 レディは目を逸らして、少しばかり唇を尖らせた。

「そんなにたくさん過ごしたわけじゃないけど、あなたは優しいわ」

「あれで少ないなら一緒に住んだほうがいいかもね。僕の家に住まない?」

「やめて、そういう冗談言うの。言ったでしょ……」

 あの家を守りたいと、祖父の記憶を失いたくないと。

 レディの悲痛めいた声に、斗真は力なく笑った。

「確かに聞いた。でも僕は本気だよ。半年を必ず待つ必要はない。君が僕のレディになってくれるなら――」

「ならない」

 絶対にならない。強い意志のようなものをレディは瞳に宿していた。斗真は肩を竦めただけで、それ以上は言い募らなかった。

「そう? あ、面白い遊びあるらしいね、なんだっけ――"レディチャレンジ"? あれをしよう。まずはシャンパン一本ずつ。えっと――」

「同じお酒を同じ量、早く飲みきったほうが勝ち。私が勝ったら、私の分の会計をチャレンジャーが払うっていうのが元のルールなんだけど、ここでは同じものをもう一セット注文するのがルール。飲む飲まないはどっちでもいい。私が負けたら――あなたのほっぺにキスをするわ」

 饒舌なレディの言葉にも、最後に少し絶妙な間があった。その違和感を斗真は決して見逃さなかった。

「そのルール、どこまで本当?」

「……ごめんなさい。私が負けたらの方は今決めた。正直言うと決まってなかったの。元のルールだと、私が自腹でチャレンジャーが求めるお酒を求める量飲む、っていうルールになってるんだけど、この店じゃそれは出来ないから、"レディから特別なサービスがあります"って言ってはぐらかしてるの。まぁ負けたことなかったし、ショーでは私が絶対負けないように仕組まれてる。売上を上げる為の方便よ」

「なるほど。水商売の裏側だね。……ほっぺにキスはとても可愛らしいけど、もう少し過激なご褒美がほしいかな」

 子供っぽい、と斗真は言いたいのかも知れない。レディは目を伏せて、かぶりを振った。

「勝ってから言って」

「それじゃ、不公平だろ?負けた条件は決まってるのに」

 確かに斗真の言うとおりだ。レディは暫し考えて、一つのアイディアを捻り出す。

「――特別ルールにしてあげるわ、斗真が勝ったら私が何でも一つ、言うことを聞く」

「僕にだけ、特別のルール?」

「好きでしょ、そういうの」

 レディは負ける気がしなかった。挑発的な言葉の中にこのゲームへの自信が満ちていた。斗真は優しい笑顔を崩さないまま、口の端をそり上げていた。





「斗真さんの三戦三勝です。ミスレディ」

 佐々木の言葉に愕然と青ざめるレディ。テーブルにはブーブが六本ずらりと並んでいる。

 レディが震えながら目に涙をためて斗真を見ると、斗真はシニカルに笑ってレディの髪をなでた。

「ふふ、僕ね、実は元ホストで――喉を開けて飲むのには、多分レディより慣れてる」

「いや、ほんの短期間助っ人に入っただけでしょ。人が足りなくて、顔がいいからって頼みこまれて……その言い方じゃ誤解を生みます。で、ミスレディ、勝ったご褒美は何なんですか?」

 佐々木は斗真の過去を見てきたかのように述べて、やり取りの現場に居合わせなかった、佐々木が知らない勝者の景品について、レディに訊ねた。

 レディはすぐには答えず、斗真をじろりと横目で睨む。

「僕の言うことを何でも一つ聞くんだよね? でも三回勝ったからには、三つ聞いてくれるよね?」

 確信めいた言葉でレディを抱き寄せる斗真。レディは抵抗しようと斗真の胸を押す。斗真が入店してから、もう三時間は経っているので、レディはすっかり客とホステスだという立場を忘れ、当然のようにぞんざいな対応をとっていた。

「まるで魔法のランプみたいね! あなたはアラジンで、私はジニー?」

「ふふ、ジャスミンの間違いだね」

 斗真のさりげない口説き文句に、レディは目を背けた。

「……そうだな、一つ目のお願いは――お店の営業終わってからも、一緒にいること」

「あふたーって、こと?」

「はは、子供みたいなイントネーションだね、酔った?」

 レディはごくりと唾を飲み込んで、何度か深呼吸をした。確かに自分が少し火照っているような気がする。

「少しだけよ。顔に出ないの」

「それで飲み過ぎて、後で全部吐いちゃうんだ? 難儀だなぁ」

 自分が斗真に酷い醜態をさらしたことを思い出したレディは、途端に恥ずかしくなって、誤魔化すように咳ばらいを一つついた。

「二つ目と三つ目のお願いはなに?」

「かなえて欲しい時に言うよ」

「え、こわい……」

 レディはテーブルの上を綺麗にしながら、素直に恐怖心を口にした。ボトル達を綺麗に並べ、使ったおしぼりを三角に折る。

「大丈夫。レディが嫌がること、怖がることはお願いしない。断る権利もある」

「なら、アフターも」

「ん?僕がお願いを使わなくても、きっと店からアフターを強要されるよ。"太客"だからね」

「……でしょうね……いいよもう……」

 ないじゃないか、断る権利なんて。レディは息をはいて、ソファに深く体を預けた。モデル座りをするのに疲れてしまった。

 自分の耳元にレディの顔が来たことで斗真は、逆にソファの背もたれから背中を離し、レディをのぞき込むような体勢をとる。そうでないと、レディの表情が分からないからだ。

「レディ? 疲れた?」

「座ってる姿勢にちょっとね。モデル座り? が、慣れなくて」

 優しく頬に触れてくる斗真の行動を受け入れて、レディは浅く呼吸を繰り返す。受容や許容のようなものが見え隠れする息遣いは、酔いが半分、絆されているのが半分と言ったところだ。

「一度自分の膝に肘をつくような姿勢になると楽ですよ。多用すると下品に見えますが、一瞬なら色気があります」

 何故かソファではなくヘルプ席に座る佐々木は、何度レディが席に戻ってほしいと言っても聞かなかった。押し問答が十分間繰り返されたあたりで折れたのはレディの方だ。ただ最低限、斗真のドリンクを作る仕事だけはレディが死守している。他の雑用はレディが一瞬でも反応を遅らせると佐々木が片付けてしまう。まるで出来るボーイのような素早さだ。

 そしてやたら詳しい座り方の指導までしてくるので、レディの疑念はほとんど確信のようなものになっていた。

「……変なことご存知ですね、佐々木さん」

「俺、元ボーイなので」

 やっぱり、とレディは得心した。道理で動きがいいはずだ。

「ああ、あの胸強調してるのかってやつ、姿勢を楽にするためにやってるのか。……ねぇレディ、やってみてよ」

 斗真は悪戯心で人差し指をレディの唇の上に置いた。柔らかく潤った唇の感触をそのまま少し楽しんでいると、レディは主人の手を噛む犬かのようにかぷり、と斗真の指に歯を立てた。

「っ痛った……レディ、これは粗相だよ」

 レディの赤い口紅が指の先を染めたそれを、斗真は痛がりながら舐めた。噛まれた患部を慰めるためと分かっていても、自分の口紅が斗真の舌に拭い取られたのをやたら倒錯的に感じて、レディは誤魔化すように目を伏せた。

「あなたにかかると誘ってるって誤解しそう」

「誘ってるって? 何を? 佐々木の前で言ってみて?」

「俺も知りたいです。それ」

「絶対いや!」

 大人の男二人掛かりで、こんな小娘をからかうものではない。レディは大きくかぶりを振ってそっぽを向いた。しかもからかい方が、まるで中学生男子のようなそれなのである。

 男は何歳になっても子供だとどこかで聞いたことがあるが、こうやって直に接してみると確かにそうなのかもしれない。確か、小学生の時もこんなことが――。

 ――まじめに答えてるよ、こいつ!

 ――おこさまのくせに!

 掘り起こされた記憶が、最低最悪なシーンだった。今思えば、あの少し年上のお兄さん達は、レディのことを好きだったんじゃなかろうか。男は好きな女ほどいじめたくなる生き物と聞くし。

「……やだ、ぜんっぜん顔が出てこない」

 レディが自分の頭を押さえて唸っていると、そっぽを向かれた斗真が、レディを後ろから抱きしめた。

「ねぇ、僕のレディ? 何を思い出そうとしてるのか知らないけど、その歳で物忘れはちょっと」

「あなたのレディじゃないわよ、失礼ね。昔私にうんと意地悪してた男の子達がいたはずなんだけど、どの子の顔ももう全然思い出せないのよ……っていうか、離れて下さらない?」

 レディが振り返りつつ冷たく吐き捨てると、斗真は渋々といった様子で、レディの腰を抱いていた腕を離した。

「いくつの時の話ですかそれ」

「小学校、低学年とか……? 確か二、三人いて、ここら辺が地元の子供だった気がするわ。よく緑地公園で走り回ったの……。ああでもダメ、顔全く出てこない」

「かなり前ですね、覚えてなくても無理はない」

 レディは少し酔った頭でぼんやりとした記憶をたどったが、全く顔は浮かばなかった。覚えているのは、そのうち一人がいつもバイオリンを持っていたことくらいだ。

「まあでも」

 当時のことについて、語れることは多くはないが、バイオリンの少年の後ろ姿を思い出した時、自分の感情だけは、きちんと理解できた。

「あれが私の初恋かな……」

「……それは意外」

 斗真が目を丸くする。それは、昔話を聞くそぶりにしては少々大げさな反応だった。

「何よ、初恋くらい経験済みだってば。斗真、私を凄く子供だと思ってるでしょう」

「いやそうじゃないけど。君は……」

 斗真の意味深な視線が、レディに突き刺さる。深い悲しみと、痛みのようなものを感じ取った。

「君の、初恋は……いや、なんでもない」

 斗真が何に言い淀んだのか、レディにはおろか佐々木にさえ分からなかった。


 

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