第1話 レディ

 ――お嬢さんレディ。幸せになりなさい。


 四月十二日、レディの十八歳の誕生日に、季節外れの雪が降った。

 異常気象とも言えるその雪は、しんしんと降り積もり、窓の外を白く覆った。

 レディはそれを視界の端に入れて、目の前の老人が目を覚ましてくれるのをじっと待った。

 老人は、レディの唯一の肉親で、祖父に当たる人だ。優しい彼は、目を覚ましたら、"レディ、誕生日おめでとう"と祝ってくれるはずだった。

 誕生日プレゼントは何を用意してくれていただろう。いやこの際何でも良い。欲しくなかったものでも、大嫌いな人参の温野菜でも我慢しよう。――目を覚ましてさえくれれば、何だって良い。

 そんなレディの願いは虚しく、老人は目を覚まさなかった。時計の針が十二を指して、レディの誕生日が終わっても、老人は目を覚まさなかった。


 老人は過ぎ去った時代の価値観を引きずった、外国かぶれの人だった。好みのものは大概英国のアンティーク。貧しいのに、平屋は狭いのに、どんどん物だけが増えていくので、片付けるレディは、一苦労だった。

 使うことのない大きなアートフレーム。装飾のきれいなスタンドランプ。ブリキのおもちゃ。英国産の食器類。溢れる無機物、溢れる愛情。本当に、片づけるレディは、一苦労だった。

 葬儀はキリスト教式で火葬だけを行った。まともに会葬を行っても参列者はたかが知れているし、そもそも費用の問題もあった。最低限牧師に神への祈りを捧げてもらい、火葬場で最後の顔合わせをした。つい先日の異常気象が嘘なほど、晴れやかな春の陽気がいっそ忌々しかった。レディは老人の棺の中に、ありったけのアンティーク小物を入れた。燃えにくいのはよろしくないと言われたので、木製のものばかりを。木彫りの人形や、木製の地球儀など、老人が愛したものをなるべくたくさん。

 「――やっと片付いたわ」

 酷く冷静な少女の声に、葬儀屋がぞっとして、寒気を覚えた。たった一人の身内を失った少女なら、もっと泣き叫んだりしても良いものを、レディは火葬中も、その後も表情の一切を崩さなかった。

 

 レディに、悲しいや寂しいを口にしている余裕はなかった。唯一の身寄りである祖父が亡くなってしまったレディは、これから一人で生きていかなくてはならない。

 やらなくてはいけない書類手続きもある。死亡に関する手続きや、遺産相続に関する手続きだ。相続する遺産などほとんどないが、"ない"と言う手続きもしなければならないのだ。

 行政の手続きを一通り終えると、市の職員から呼び出しを受けた。児童委員を名乗る男性は穏やかな物腰で、眉を八の字にしてレディを見つめた。

「この度は……」

「彼はキリスト教徒なので、お悔やみは言わないであげてください」

 児童委員の言葉を遮り、レディは語気を強めた。日本人は当たり前にお悔やみを述べるが、それは仏教の価値観だ。

 レディも不真面目な信徒で、宗派による違いなど詳しいことはわからないが、キリスト教の場合、仏教のように死は悲しみではないのだ。神に召されることは、ある種の喜びでもある。こういう場合通常魂を迎え入れてくれた神に感謝するか、何か述べても"安らかにお眠りくださるようお祈りします"程度なのだ。

「失礼しました。今回は彼の件ではなく、貴女の今後の件で来ていただきました」

 冷静な児童委員の言葉に、レディは静かに頷いた。ある程度予見していたことではあったが、思わず息を呑む。法律に詳しいわけではないので、自分にどれ位の選択肢があるのか知らなくてはいけないと思っていた。

 児童委員はバインダー手に持って、ペンのノックを親指で押した。静かな室内に、カチカチ、という音が響いた。

 そして柔らかな笑顔で、取り調べじみた質問攻めを開始する。

「両親は幼い頃に事故で他界、法定代理人で後見人だった祖父が老衰で死亡……相続する財産はなし。他に生活の面倒を見てくれそうな親類縁者はいますか?」

「いえ、親戚とは縁が切れていて」

「ではお祖父さんの遺書等はありますか?」

「何も……ありませんでした」

 レディも一応、何か言い残してはくれていないかと書斎をあちこち探し回ったが、見慣れた書物と嗅ぎ慣れた紙の香りだけが部屋に充満していた。いっそ、祖父は死んでないのではないかと疑ってしまうほどに、部屋の中が生きていた。

「――今後の生活について、貴女自身に何か希望はありますか?」

「希望というと?」

「貴女は高校生なので、働けます。自分で働いて生計を立てたいと言う希望があれば、僕達行政はそのために出来る限り支援します。ですが現実的に勉学と就労の両立は難しいので、天涯孤独になった勉学を希望する子供の場合、施設から学校に通うという選択肢もあります」

「施設には行きたくありません!」

「どうして?」

「……あの、自立すればあの家に住み続けても良いんですか?」

 レディは児童委員の質問に答えず、失礼と分かっていながらも質問を返した。児童委員は肩を竦めたが、すぐにバインダーを見遣った。

「貴女が住んでいるのは、戸建ての賃貸でしたね。もちろん自分で働いて、家賃や生活費を払い続けることができるのなら、誰も貴女を止めません。ですが、学校の方に伺ったところ、貴女は大学進学を希望していたそうですね?」

「はい……」

「生活保護を受給して、学費は奨学金や減免制度を使うという手段はあります。しかしその場合、貴女が今お住いの賃貸に住み続けられるかはわかりません。ひとり暮らしには少し贅沢な家ですから。ケースワーカーの判断になるとは思いますが……」

 レディは沈んだ。分かっていたことだが、何もかも思い通りにとは行かない。国は最低限の世話をしてくれても、わがままを聞いてくれるわけではないのだ。当然のことだ、と自分を戒める。

 児童委員との話ではっきりしたのは、あと二年とはいえレディはまだ未成年、基本は勉学に励むことを中心に考えられているということ。そのために施設に入所する手段はある。どうしてもあの家に住み続けたいのなら、自立して働いて食べていかなくてはいけないということ。現実的に、学校に行きながら生活費を稼ぐのは難しいということだ。


 役所を出て、慣れ親しんだ地元の道を歩いた。葬儀や手続きに追われて学校を休みすぎているので、すっかり授業には置いていかれたかも知れないと些末な心配事を抱いた。

 自宅のすぐ近くに大きな緑地公園がある。この時期は桜が見頃で賑やかだが、平日の変な時間なのでいつもよりは人がまばらだった。

 レディはベンチに腰掛けて、桜の木を見上げた。満開の桜が、これみよがしに揺れて美しさを自慢する。

 花のように幸せだった頃を思い出して、目を瞑った。

 ――レディ。目を瞑ってご覧、花のいい香りがするよ。

 目を瞑れば、同じ景色を共有できる。春の花々が匂い立つ。

「……あの人の持っていたお金はあの人のもの。通帳に残ってたお金で火葬は出来たけど……来月の家賃は……」

 これから先の生活は自分一人のものだ。我を通すなら働かなくてはならない。置いていかれたかも知れない授業の心配なんてやめたほうが良いのかも知れない。学生は勉強が本分だから、とバイトを許さなかった祖父には申し訳ない気持ちもあるが、そうも言ってはいられない。

「とにかく、大家さんに謝って、少し待ってもらおう。事情を説明すれば……おばさん優しいもの」

 いつの間にかつらつらと独り言を述べていたレディは、慌てて首を振った。周りに人影は見えなかったが、外聞の良い呟きではなかったはずだ。

 善は急げだろう、大家さんに早く言っておいたほうが良いはずだ。レディは沈みそうになる身体を無理やり立ち上がらせて、大家さんが住んでいる家へと向かった。


 不動産をいくつも所有する大家さんは、立派な家に住んでいる。

 高級住宅街で、大家さんの屋敷の斜め向かいにも、それはそれは大きな屋敷がある。塀が何処まで続いているのか幼心になぞったこともあるが、あまりの広さに途中で諦めた。一辺を歩くのに三十分は掛かりそうな大きな屋敷だ。そんな大邸宅の斜め向かいに、大家さんは住んでいる。

 チャイムを押して名前を告げると、大家さんは笑顔で招き入れてくれた。祖父が亡くなったことは勿論知っていて、外国の宗教に理解があるのか火葬のときもお悔やみを言わなかった数少ないうちの一人。

「レディ、紅茶が好きだったわね?」

 カチャカチャとカウンターキッチンの奥で大家さんがお茶を用意してくれている気配がする。

「あ、お構いなく」

 これから家賃の相談をするのにもてなしをされては気まずいが、大家さんは上機嫌でお茶菓子のスコーンまで用意してくれた。

「どうぞどうぞ。召し上がっていって。うちは男所帯だから、可愛い女の子が来ておばさん嬉しいの」

 そう言ってリビングの大きなテーブルにティーセットの一式を準備し終わると、期待を込めた目でニコニコこちらを見てくるので、レディは慌てて紅茶に口をつけた。

「……とても美味しいです。アールグレイ」

「そう! 流石ね、嬉しいわ!」

 大家さんは自分もソファに腰掛けて紅茶を一口のんだ。

「それで? 今度は貴女が何のお話かしら?」

「家賃のことで」

「ああ! 突然でびっくりしたわ。私も昔からちょくちょくお目にかかってはいたけれど、素敵な方よねぇ」

 手を叩きながら上機嫌で笑う大家さんに、レディは拍子抜けする。突然で何に驚いたのか、はたまた素敵な人とは誰のことなのか、レディには何一つ理解できなかった。

「え?」

「入れ違いだったのかしら? ついさっきお見えになって、払っていかれたわよ」

 何を、と問うのは野暮だ。家賃の話を切り出したのはレディの方なのだから。けれど支払った記憶はない。誰が来て払っていったというのだろう、まさか死んだ祖父がレディを心配して――いやなんて非現実的な。

「あの……話が何も見えないんですけど」

「ん? だから、さっき貴女の婚約者が来たのよ」

「こん、やくしゃ?」

 呂律がうまく回らず、変なイントネーションになった。こんやくしゃ、婚約者。

 何一つ身に覚えがなかった。祖父からもそんな話は聞いていない。

「ええ、身寄りのなくなった婚約者の生活の世話をすることにしたから、家賃を払いたいって。先払いで半年分」

「は、半年分っ?」

 驚いて声が裏返った。半年分。単純計算でも四十万を超える金額のやり取りが、自分の知らない間に行われた。

 高校生のレディが持ったことのある最大のお金は、一万円札を数枚程度だ。それもお年玉をもらったときだけ。

「あらぁ、聞いてなかったの? それは驚くわよねぇ。しかもキャッシュよキャッシュ。まあ貴女のところの家賃なんてたかが知れてるんだけど……」

「……ちょ、ちょっと待ってください。私の婚約者? 何かの間違いじゃないですか?」

「間違いないわよ。このあたりで身寄りのなくなった"レディ"は貴女しかいないもの。でもその様子じゃ、貴女何も知らないのね? お祖父さんが勝手に決めたのかしら? ……ちょっときて」

 大家さんはそういうとソファから立ち上がって窓辺に向かって歩いた。レディもそれに追従する。

 白いレースのカーテンを少しだけ開けて、その隙間から窓の外を覗くと、斜め向かいの大きな屋敷の庭が目に飛び込んでくる。

「うちからみて右斜め向かいに門があるお屋敷あるでしょう、あそこの一人息子が、貴女の婚約者みたいよ」

 それは、塀の一辺を歩くのに三十分はかかる屋敷だ。このあたりの高級住宅街で一番大きな家。小さい頃はお城のようだと思ったこともある。

 大家さんは愕然としているレディの肩を叩いて耳元に囁く。

「今年二十三歳のイケメン御曹司。玉の輿よ?」

「と、とにかく、話をしてきます。私、本当は家賃を待ってほしいっていうご相談だったんです」

「あらぁ、うちは待たない主義よ。ま、支払ってもらってるから待つ必要もない。どうしてもお金について誠実でいたいって言うなら、彼に直接返して差し上げて?」

 ビジネスに関しては情け容赦のない大家さんの冷めた物言いに、レディは心臓が跳ねる思いで、

「……そうします」

 と神妙に頷いた。

 そして慌ててオレンジベージュのピーコートを羽織り、バッグを持って大家さんに向き直ると、頭を下げた。

 大家さんはきょとん、と目を丸めて残念そうにテーブルの上のスコーンを見つめる。

「スコーン食べていかないの?」

「ごめんなさい。今度必ずごちそうになりますから」

「じゃあ将来の旦那さまと一緒に遊びに来て。きっとよ」

 身に覚えのない婚約者のことを期待しているのだと大家さんは目でレディに伝えた。レディは曖昧に笑って、その場をあとにした。


 大家さんの家を飛び出し、住宅街の狭い道路を渡ると、斜め向かいの大きな門のインターフォンを押した。

 暫くすると、

『はい』

 と女性の声。レディは御曹司の名前を聞き忘れたことに気づき、どう用件を伝えるべきかとその場で戸惑った。

 しかしすぐさまその不安はかき消される。

『お待ちしておりました、レディ』

 インターフォンのモニターで顔を見ていたのか、女性の声と共に門が自動で開いた。

 少しおっかなびっくりになりながら、レディは門の中に入る。屋敷の玄関はすぐには見えず、目の前には緑のトンネルが広がっていた。

 計算され尽くした木漏れ日の中通路を歩いていくと、案内役なのか、ダークスーツを着込んだ男性が出てきて恭しく頭を下げてきた。

「あの、私は――」

「お待ちしておりました、レディ。主人が待っております」

 あまりの迫力に気圧されつつ、レディは促されるまま歩み進める。

 暫くすると景色が開け、噴水が目に飛び込んできた。その向こうに玄関が見える。

 中に入って改めて感じる大邸宅ぶりだ。これを建てるのにいくらかかったのか、レディには全く想像ができなかった。

 

 通された部屋は応接間だろうか。高そうなソファや家具。祖父が見たら喜びそうなアンティークの小物が棚に飾られていた。

 レディは見慣れたそれらを眺めて心を落ち着かせた。そして男性に促されるままソファに座ると、メイド姿をした給仕の女性がティーセットを用意し始めた。

 透明なティーポットの中で、葉がジャンピングしている。適温で淹れられている証だ。

 タイマー代わりの赤い砂時計は、もう暫く掛かることを示していた。ティーカップにも熱いお湯が注がれ、カップそのものが暖められる。

 紅茶は温度が命だ。緑茶は沸騰したお湯で冷めた茶碗に淹れると丁度八十度くらいで適温だが、紅茶はなるべく温度を下げないように気を使う。

 レディがじっと給仕の女性の手元を見つめていると、部屋の入口が開いた。

 出てきたのは、少し明るめの茶色い髪。ジーンズに、寒色系で薄手のニットを袖まくりして、手首に高そうな時計をちらつかせる若い男性だった。黒縁メガネを掛けているが、洒落て見えるので伊達メガネかも知れない。かなりカジュアルな装いだが、彼が噂の御曹司だろうか。女性的に見えなくもない端正な顔立ち。けれどどことなく体格はいい。痩躯と言うよりはそれなりの筋肉がついているように見える。

 男性はレディを見ると、にっこり微笑んで、向かいのソファに座った。そのままじっと見つめられて、レディは居心地が悪い。

 なにか、と言葉を模索していると、レディより先に男性の方が口を開いた。

「初めまして"レディ"。僕と結婚してくれませんか?」

「は?」

 臆面もなく伝えられた言葉にレディが呆然とすると、男性は口元を手の甲で抑えて笑い始めた。

「ははっ、面食らってる」

 どうやら初対面でからかわれたようだ。レディが咳払いを一つつく。そして遠慮がちに本題から入った。

「あなたが御曹司ですね? 婚約者って?」

「ああ、あれは方便」

 男性はしれっと嘘だったことを告げると、足を組んだ。重なった上の膝に手をかける。その仕草がまた様になる。

 レディは悪態の一つでもつきたい心地になったが、家賃を払ってくれて助かったことも事実なので、少し我慢する。

「じゃあ、祖父があなたとなにか約束をしていたわけじゃないんですね?」

「うん、ああそうそう敬語はいいよ。キャラじゃないだろ?」

 男性はレディの外行きの態度を指摘し、レディは呆気にとられた。何処まで事情に精通しているのかわからないが、大人しい素振りが素ではないことは見抜かれていたようだ。 

「……そうする」

「僕は少し前に君を見かけて、君の知らない間に惚れて、君のために何ができるかを考えた、無駄に金が余ってる残念な男。気持ち悪い?」

 男性の自嘲気味な言葉に、レディは首を振った。不思議ではあるが、気持ち悪いとまでは感じなかった。

「少し前って、いつ?」

「三年前かな?」

「どこかであった?」

「ちょうど今くらいの時期、緑地公園で」

「……」

 全く覚えがなかった。これだけ目立つ容貌の男性と出会っていれば、いくらなんでも忘れないと思うのだが、ちっとも思い出せなかった。

 黙り込むレディに対して、男性はふわりと妖艶に笑い、

「紅茶はいかが?」

 と首を傾げた。直後、レディは芳しい香りを嗅いだ。先程から紅茶を用意していた給仕の女性が、ティーポットを傾けたからだ。

 それはレディが最も愛するアッサムの香りだった。中摘みのほうがゴールデンチップは多く入るが、レディは早摘みのフレッシュさが好きだった。

「アッサムのブロークンオレンジペコー、ファーストフラッシュ」

「一番の好物」

「だと思った」

 男性は屈託の無い笑顔でレディを射抜いた。

 レディは背中に悪寒のようなものが走った心地がした。背筋を伸ばし、ゴクリと唾を呑んだ。


 

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